エーデルワイスを胸に抱いて
短編です。
「知ってる? エーデルワイスの花言葉」
絵里は顔を少しこちらに向けて、横目で玲斗を見ながら言った。
「知らない」
玲斗は短く答えた。
花言葉に興味を持ったことはなかった。これから興味を持つ予定もない。だから、この質問には答えられなかった。
二人は夕焼けに染まった公園のベンチに、少し間隔を開けて座っていた。
「エーデルワイスにはね、たくさん花言葉があるんだ。あたしが最も気に入っている花言葉が、大切な思い出」
絵里は少し顔を曇らせていった。空はまだ明るいのに、彼女の顔は明るくない。
「……なんで、お気に入りの花言葉を、そんなに暗い顔で言うの?」
彼女の、絵里の暗い顔はあまり見たくなかった。
絵里とは幼稚園からの付き合いで、中学三年生の今になっても仲良くやっている。彼女の暗い顔は幾度と無く見て来たが、やはり見ていて気持ちの良いものではなかった。
絵里には笑っていて欲しい。それが彼女に抱く、玲斗の思いだった。
「……そんなに暗い顔してる?」
「うん」
「……たぶん、気のせいよ。高校受験も終わったし、疲れがどっと出ただけかもしれないわ」
そうならいいけど。……玲斗はその言葉を口には出さず、飲み込んだ。
たしかに玲斗たちはつい一週間ほど前、高校受験を終えたばかりだ。受験会場ではすごく緊張するし、不安にもなる。それが終わり、張り詰めた緊張の糸がほぐれて、疲れとなって体に現れたのかもしれない。
それなら、まだいいほうかもしれない。疲れは、身体をしっかり休めればとれるものだ。
「そろそろ日が暮れるわね」
絵里がおもむろに空を見上げ、呟いた。
玲斗は空を見上げた。やはりまだ明るい。
夕日が玲斗たちを赤く照らす。太陽は西に沈みかけ、月が空を照らす時が迫っていた。
電信柱にとまったカラスが、ガアガアと鳴いている。
「……ひっ……うっ……」
玲斗のとなりで嗚咽がもれた。
それはカラスの鳴き声より、玲斗の耳に響く。
「なんで泣いてるの?」
絵里は涙を流しながら、夕日を見ていた。涙が頬をつたい、彼女の服を濡らす。
「……エーデルワイスが美しいからよ」
それは絵里の、精一杯のメッセージだったのかもしれない。
でも、玲斗にはまったく意味がわからなかった。
「……そろそろ、帰りましょ」
隣に座っていた絵里が立ち上がり、玲斗に手を差し伸べた。玲斗はそれをやさしく握り、立ち上がる。
絵里はもう、泣いていなかった。
「家に帰ったら、エーデルワイスの花言葉を勉強しておくよ」
「えぇ。いつか、あなたのお気に入りの花言葉を教えてね」
「……うん」
花言葉なんて、勉強する気もなければ興味を持つなんて思ってもいなかった。
でも、彼女の涙を見てしまったら、なぜか知らなければいけないと思った。エーデルワイスの花言葉を。玲斗が花言葉を勉強して、エーデルワイスの話が二人で出来るようになれば、絵里はきっと泣かない。そう思ったからかもしれない。
「それじゃぁね、玲斗」
「うん、またね、絵里」
二人は笑って手を振った。そして、それぞれの帰路に着く。
「……なんだよ、『いつか』って……」
玲斗の頭の中は、絵里が残したわけのわからない言葉と、終止暗い表情の彼女が支配していた。
翌日、玲斗は絵里を、中学校の屋上に呼び出した。
この中学校は玲斗たちが卒業した中学校なので、職員室に一言断りを入れれば、教室以外になら入ることができた。もちろん、授業がある昼間に学校内に入ることは出来ないので、授業が終わった放課後、夕方に時間を設定した。
ちょうど昨日、玲斗と絵里が話をした時間帯だ。
昨日と同じように、夕日は玲斗を赤く照らす。それは校舎も例外ではなく、夕日で赤く染まった校舎は美しいとさえ言えた。
玲斗が屋上に到着してしばらく経ち、絵里は現れた。
「どうしたの? 玲斗。わたしたちはもう、ここを卒業したのよ?」
「わかってるよ。今はもう、春休みだ」
「じゃあどうして?」
「それはぼくが聞きたいよ、絵里」
玲斗は一旦言葉を止め、絵里の目を見つめる。彼女の目は、やはり夕日で赤く照らされていた。
おもむろに、玲斗は訊ねた。
「きみが引越しすること……なんで黙ってたの?」
「……」
玲斗の問いに絵里は押し黙る。玲斗の視線から目をそらし、屋上の床を見つめた。
昨日、絵里と別れた後、家でエーデルワイスの花言葉を調べていると、携帯電話に着信があった。それは特に仲がよかったクラスメイトからだった。
そのクラスメイトの口から、信じがたいことが伝えられたのだ。
絵里が、引っ越す。
クラスメイトからは、今年の春から絵里が通う高校に近い土地に引っ越すらしいと聞いた。確かに、絵里が通う高校は今住んでいる場所から、一時間以上かけて行かなければならない。帰りも夜遅くになってしまうから、親としては心配だろう。
そういう理屈は、玲斗にも分かった。それが分からないほど、子どもではないつもりだ。
でも、信じたくなかった。絵里が、何処か遠くへ行ってしまうことを。
「なんで、言ってくれなかったの?」
「……言ってしまったら、きっと玲斗もわたしも傷つくもの」
「言わなくても、傷つくよ」
昨日、絵里が泣いていた理由。『エーデルワイスが美しいからよ』という言葉の意味。エーデルワイスの花言葉を勉強した中で、すべてがわかった。
絵里が最も好きなエーデルワイスの花言葉、大切な思い出。
それを絵里の言葉に当てはめればよかったんだ。
エーデルワイスの花言葉を当てれば、『大切な思い出が美しいからよ』という言葉になる。
「絵里のメッセージは分かりにくいよ」
必死で涙を堪えた。
「……だって、ナイショにするつもりだったから」
「それに、絵里は昨日言ったよね。ぼくのお気に入りの花言葉を『いつか』教えてって」
「……えぇ」
絵里が引っ越してしまう。おそらく、そう簡単に会うことは出来ない。
それはもう、覆しようのない事実で、玲斗にはどうすることも出来ない。だからといって、玲斗の中ですべて割り切れているわけではなくて。覆らない事実だとわかっていても、まだどこかに可能性を探している状態で。
だから、今日ここに絵里を呼び出したのは、玲斗自身が踏ん切りをつけるためだ。伝えたいことを伝えて、踏ん切りをつけるため。
「ぼくのお気に入りの、エーデルワイスの花言葉。それはね……」
――エーデルワイスにはたくさん花言葉があった。
気高く毅然とした勇気、高貴、尊い思い出、大切な思い出、初恋の感動、など。
たくさんの花言葉の中で、玲斗が選らんだものは――。
「……純潔と不死。だよ」
「純潔と不死……」
玲斗の言葉を絵里が復唱した。
正直、涙を堪えるのはもう限界だった。
でも、最後に。泣かずに言いたい言葉がある。
「なぜ、ぼくが純潔と不死を選んだかって言うと……ちょっと話は逸れるけど、絵里はぼくの初恋の人なんだ」
「えっ……」
絵里の頬が紅潮していく。
玲斗はかまわず続けた。この際、全部言ってしまおう。
「だから、ぼくのお気に入りは初恋の感動でもよかったんだ。でも、ぼくは純潔と不死を選んだ。それはね、絵里はぼくの中で、どこまでも純潔な人なんだ。これはぼくの勝手な想像かもしれない。でも、きみにはいつも、笑っていてほしい。きみの泣き顔は見たくないよ。
だからいつまで、清らかな心で、笑っていて欲しい」
玲斗は思いの丈をすべてぶつけようと思っていた。ここで言わないと、必ず後悔する。そんな気がしてならなかった。
絵里は、笑っていて欲しいと伝えたばかりなのに、目にいっぱいの涙を溜めていた。それが、時折溢れて頬を伝う。
「きみが引っ越してしまったら、きっと、ぼくらの記憶は薄れていく。きみとぼくの大切な思い出は、薄れていってしまう。それは嫌だ。
だからぼくの中では、きみとぼくとの思い出は薄れない。薄れて欲しくない。絶対に、死なない。
そんな思いを込めて、この言葉を選んだんだよ」
喋り終えると、二人とも、大粒の涙を流していた。
生まれて初めて体験する、別れ。べつに今じゃなくてもいいじゃないか。もう少し未来でもよかったじゃないか。別れる相手が、絵里じゃなくてもいいじゃないか。
そんな玲斗の思いは、茜色の空に儚く消え、二人の顔を赤く照らす。
しばらく、二人の嗚咽だけが、辺りに響いては消えた。
先に口を開いたのは、絵里だった。
「……そんなに泣かないでよ、玲斗。男の子なのに、かっこわるいよ」
「う、うるさいよ……」
泣きながら、玲斗は答えた。
今更涙を止めるなんて、もう、出来ない。
「……そろそろ、日が暮れるわね……」
昨日と、まったく同じセリフ。
今日は、カラスは鳴いていない。
そして、嗚咽をもらしているのは、自分だった。
「ねぇ、玲斗。わたしたち、もう逢えないのかな?」
夕日を見つめながら、絵里は呟く。絵里はもう、泣いていなかった。真っ赤になった目は、夕日に照らされたものではなく、涙を拭ったあと。
「きっと……きっと、また逢えるよ。絵里が、エーデルワイスを忘れない限り」
「忘れるわけないわ。だって……初恋の人との思い出だもの」
「えっ……?」
一瞬、涙が止まった。絵里の一言に、あまりにも驚愕を受けて。
絵里は玲斗に背を向けて、屋上から降りる階段へ向かって歩いた。玲斗はそれを追いかけなかった。
もう、気持ちは伝わっていた。
階段へのドアを開けるまえ、絵里はもう一度玲斗に振り返り、言った。
「さよならは言わないわ。きっとまた、逢えるからね」
「……そうだね。次逢うときは、エーデルワイスを持っていくよ」
「それは素敵。はやく逢いたいわ」
「ぼくも」
しばらく遠くから見つめあい、互いにうなずきあう。
別れの言葉は必要なかった。必要なのは、再開するための言葉。
「それじゃ、また今度ね、玲斗」
「うん、また今度、絵里」
絵里がドアノブに手をかけ、ゆっくりとそれをまわす。
ドアが開かれて、その中に絵里は消えていった。
涙で滲んだ目で、絵里がドアの中に消えるまで、玲斗はしっかりと見届けた。
また、いつか、再開するために。
「きっと、また逢おう。絵里」
赤すぎる夕日に向けて呟いて、玲斗の頬を涙が伝う。
[THE END]
花言葉がちょっと強引過ぎたかなと思います。
読んでくださった方、ありがとうございました。