氷月姫つきりんと遅刻魔のホワイトデー縦書き表示RDF


 現実世界リアルワールドでは完全無関係な話でも、小説のネタとしては扱いやすいホワイトデー……(悲
 …あれ? 前にも同じような事言った記憶が……
氷月姫つきりんと遅刻魔のホワイトデー
作:夷 神酒







 …まだ、太陽さえ顔を見せていないが、街に光が灯り始め、夜とも朝とも言えない風景。
 現在時刻は、日本時刻で3/14‐6:29'00"00ジャスト。
 …あと一分後、『氷月姫』の名を持つ月代つきしろ りんの一日が始まる。















 ピピピ、ピピピ、ピピピ…


 単純極まりない電子音によって、私の意識は目覚める。
 意識が朦朧としてる中、私は手探りでその音の音源…目覚まし時計を探り当て、スイッチを切る。

「…………………すぅ…」


 部屋に静寂が戻ることで、私の意識は再び夢と眠りの世界へ…


 ピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピ…
 ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリ…
 ピッピーッ、ピッピーッ、ピピピピピ、ピピピピピ、ピーッ
 ブーッ、ブーッ、ブーッ、ブーッ、ブーッ、ブーッ、ブーッ
 Good morning!! Good morning!! Good morning!!


「…………むぅ…」


 布団を被り直してすぐに、周囲に設置した五機の目覚ましが、けたたましいほどの大合唱を始める。
 その音に反応した私の手が、私自身の意志とは関係なく、自動オートで音源を次々と黙沈させていく。
 そして、また戻ってきた早朝の静寂。


「…………ふぅ…」


 私の意識は、その静けさに溶け込み、深く浸透するように私の元を離れて……












『…先輩…好きだ』


 その一言で、意識が一気に覚醒する。
 冷えきった脳内は一瞬で沸点を超え、暴れ回る心臓の鼓動が全身に広がる。
 私は被っていた布団を吹き飛ばして跳ね起きる。
 そして、その声のした方向を見て…



「……ハァ、何故毎朝の事なのに、私は反応してしまうのだ?」


 春とはいえ、まだ早朝の肌寒い外気に触れたおかげで、熱くなった体と意識が冷やされ、自分の愚行に私はため息を吐く。
 そして、広がっている自分の髪をガシガシとかきながら、私に恥をかかせた原因を見てやる。
 それは……合計七機設置された目覚ましの中で、私を確実に起こす最終兵器リーサルウエポン


『先輩…好きだ。先輩…好きだ。先輩…好きだ……』


 それは、私の通う高校の一年後輩で、一ヵ月前……私の恋人となった、狭衣さごろも千鶴ちづるの声が録音された目覚まし時計だった。

 この時計は四捨五入して五年間…中学二年の頃から私の手にある。
 すなわち、私この五年間いつもこのような起床をしているということだ。


「…まったく、阿呆らしいものだ」


 私は一人愚痴を零しながら、スイッチを切って録音された声を停止させる。

 …これは私の友人が作ったものでだ。
 彼女曰く、狭衣千鶴の発言である『先輩…よく飽きないですね』の『先輩』という言葉と『確かに俺は乳製品は好きだ。……けどな、チーズと呼ぶな! このボツがッ!!』の『好きだ』の部分切って繋げた音声らしい。
 その音声をどう録音できたのか聞いたところ、友人は企業秘密と言っていた。
 この時計を手に入れるために、様々な取引をした逸話もあるのだが…


「……そんなこと振り返っている暇はないな」


 この時間に起きても、私には時間がない。
 『風紀委員長』として、身だしなみはしっかりとしなければならない。
 私は寝巻から制服へ早々と着替え、リビングへと向かった。

















 日が上り始め、もやが消えかかった通学路を徒歩で通り、私は学校に到着した。
 この時間にはまだ、真面目な教師や部活動の早朝練習の生徒達しかいない。
 ………はずなのだけれど。


「あっ!! つきり〜ん♪ おっはよ〜♪」
「あぁ、おはよう」


 夜の冷えが拭い切れてない教室に入った私に、早朝のから元気な挨拶をしてくる少女。

 落窪おちくぼ ひより…それが彼女の名前だ。

 140弱の身長に、肩の辺りで切り揃えられた黒髪、完璧なる童顔……高校の教室にいるべきではないほどの外見だ。
 行動も子供のようなため、小学校高学年程度の教室なら、難なくとけ込めるだろう。
 ……しかし、それは表の顔。


「なぜ落窪が早朝からここにいる? 常日頃は平均的時間に来るはずだろう? そして擦り寄ってくるな」
「いや〜。今日ってホワイトデーでしょ? ボク、義理チョコいっぱい渡したから、お返したっぷりもらえると思うと楽しみなの♪ …つきりん手袋してないの? 手が冷たいよ」


 いつの間にか接近し、猫の如く私の体に擦り寄ってきた落窪。
 …そう、この少女は腹に暗黒物質ダークマターを所持しているのだ。

 落窪が渡した義理チョコは、可愛い容姿の落窪が女子に大量に貰ったチョコレートの中で、食べきれない余り物をそのまま渡したものだ。
 つまり、落窪は無負担ノーリスク高収入ハイリターンを得る。

 この事実は小学校からの友である、私ぐらいしか知らない事実だろう。


「ちゃんとしようよ。せっかくキレーな手してるんだからさぁ……で、つきりんはお返しくれるの?」
「前者後者共にノーコメントだ。そして、私から離れろ」
「むー! ひどーい! ……そうだよねぇ、つきりんにはちーくんがいるもんね」
「ッ!?」


 落窪の口から出た名前に、体が無意識に反応する。
 落窪は小学校からの友…即ち、私がちーく…狭衣千鶴を…好いていたことを昔から知っている。

 …朝の最終兵器も落窪が作ったものであり、その対価に私は中学時代に風紀委員長の権力を使い、『風紀委員で接収したため公欠』という名目で、落窪の欠席数を改竄かいざんした経歴がある。

 そのことが教師方の信用を裏切る事で、世間的にも間違った事だと分かっている。
 しかし…私も欲望に勝てない愚者なのだ。


「い〜な〜。ちーくん、こんなキレーで可愛い女の子が彼女で」
「ヒッ…!? や、やめろ!」


 落窪の冷えた腕が私の制服の内部に侵入してきた瞬間、その冷たさに体が即座に反応し、落窪から遠ざかる。


「つきりんカワイィ声出しちゃってぇ♪ それにお肌スベスベ〜。…もっとさわらせてぇ〜♪」
「わ、私は風紀の仕事に行ってくる!!」


 色欲魔になり始めた落窪から逃げるため、私は人気ひとけの出てきた廊下を駆けて教室を後にした。













 この高校は遅刻に関して特殊なルールがある。
 一つは『朝のHR開始(8:45)までに教室に入室しなければ遅刻とみなす』。
 もう一つが『学校の校門は登校時刻終了(8:30)から、下校時刻開始(15:45)まで締め切る』。
 この二つの文章から分かる事は、『HR開始』と『登校時刻終了』の時間にラグが生じているということ。

 私達風紀委員は、HRへの遅刻を権利で容認されており、その時間差タイムラグの十五分間に、校門を締め切ってから入校する生徒を五、六人態勢でチェックし、注意・指導している。
 二、三度はチェックのみで、それ以上の者は昼休みに呼び出しで注意・刑罰の執行を行っている。


 そして、この十五分間に多く登校し、入学一週間で風紀委員の取締対象者帳ブラックリストに名を列ねた者がいる。
 その者が風紀委員の取り締まりを、幾度となく掻い潜っている事実は確認できても、現行犯でしか取り締まれない風紀委員を、その者は何度も翻弄してきた。

 そのため、その者は学校内で『遅刻を知らぬ遅刻魔』と呼ばれている。
 そして……



「先輩……一回ぐらい見逃してくれたっていいじゃないッスか」


 その者……狭衣千鶴は、私の目の前で文句を言いながら、箒で地面を擦っていた。

 悪いが今日は私の勝ちだ。
 正門に人を集めておき、裏門を通すように引きつけ……るように見せ掛け、あらかじめ調査しておいた隠し通路を通っていた彼を、見張っていた私が確保した。
 そして今、彼には遅刻の罰として、昼休みに学校の清掃活動をさせている。


「駄目だ。風紀委員長として、貴様をここで許す訳にはいかない」
「じゃあ、先輩個人としたら?」
「同意見だ」
「はぁ…相変わらず堅いなぁ」


 愚痴を零す彼だが、箒の扱いは日に日に上手くなっている。
 寝癖のせいで所々跳ねた黒髪と、しっかりすれば精悍だろう顔は眠気を帯びた半開きの瞳せいで、全ての事柄にやる気が無いように見える。


「それに私が居なければ、貴様は取り締まりや刑罰から逃げる」
「取り締まりは捕まえられない奴らがダメなだけし、罰は逃げられる奴らがバカなんでしょ」
「悪いのは全て遅刻する貴様だ!」
「イタッ!」


 私は、ぶつぶつと屁理屈を言う彼の脛を蹴った。

 …彼は私が高校に入学してから、彼が中学を卒業するまでの一年間、この高校と同じ時間差タイムラグがある中学で、私の直々の後輩である風紀委員達さえも、私が居なくなってから、一度しか彼を取り締まる事が出来なかった…と落窪から聞いている。
 そして、私以外が刑罰の見張りをすると、必ずと言っていいほどの高確率で彼は逃亡する。

 その為、唯一彼に態様出来る私は、ほとんど『狭衣千鶴担当』になっている。
 ………違和感なく想い人と近づけて、密かに喜びを感じていたという事は、私が一人で墓まで持っていく秘密だ。


「…ふぁ〜」
「これで五回目…大丈夫か? 最近体調が優れてないようだが?」


 ここ一週間ほど、私が彼を捕まえる確率が異常に上がっている。
 欠伸あくびの回数や目を擦る回数、頭を掻く回数も確実に増えている。
 …嫌な予感がするのだが……


「そうですか?。いつも俺はこんな感だし、先輩の気のせいですよ」
「…ならいいのだが」
「先輩こそ、三年になって…進路とかどうしてんッスか?」
「……まだ吟味ぎんみ中だ。しかし、貴様に心配される事ではない」



 そうですけど…、と言いながらも、彼は本日六度目となる欠伸をする。
 私の進路を聞くなど…やはり大丈夫か?
 しかし、その点以外いつもと何ら変わらない彼の様子に、私は少し苛立っていた。
 まったく……


「…貴様、今日が何の日か分かっているのか?」
「ん? ……日本では数学の日と国際結婚の日」
「おい…」
「出来事だったら、イリオモテヤマネコの頭骨と毛皮が初めて発見された日。大阪で万国博覧会開催日。のぞみが東京駅〜新大阪間の運行を開始した日。2ちゃん〇るのスレで『電車男』が最初の書き込みをした日」
「ちょっ…」
「そして、外国ではアルベルト・アインシュタインの、国内では五木ひ〇しの、漫画ならワ〇ピースのスモーカー准将の誕生日…だったはず」
「おいッ!!」


 私の問いに、彼はやる気のなさそうに無駄な知識を並べる。
 …しかし、私が聞きたいのはそんなものではない!


「貴様! 私を愚弄して…」
「…そしてホワイトデーで、先輩と俺が付き合い始めて、ちょうど一ヶ月」
「ッ!?」
「…間違ってませんよね?」


 目の前の彼は、半開きだった目を線のように細くし、私を無垢な笑顔で見る。
 その笑顔は、私の心搏数などの数値を一瞬で限界突破させ、胸の奥をキツく締めつける。



「…先輩? 大丈夫か? ボーッとして…熱でもあるのか?」


 その声に気づいた時には…視界一面に彼の顔、顔、顔……



 …顔!?


「き、貴様ッ!! 近すぎだ!! 離れろ!!」
「イタッ! 同じ所ばっか蹴らないでください!」


 ……一瞬、彼の顔に違和感を感じたが…再び同じ距離で彼の顔を見るなんて…私には出来ない。

 私は、羞恥心で顔が赤く染まっているのを感じながら、昼休み終了の予鈴が鳴るまで、騒がしくも……小さな幸せを感じていた。













「で、つきりんは幸せすぎて、ちーくんからホワイトデーのプレゼントをもらえなかったんだぁ…」
「…私は期待などしていない」
「へぇ〜、そんなこと言ってるってことは、やっぱり期待したんだぁ♪」
「グッ…」



 昼休みが終わり、一人別れを惜しみながら教室に戻った瞬間私は落窪に捕まった。
 いつもなら授業を理由に逃げ切るのだが、今日は担当教師来るのが遅く、教室全体が休み時間のようにざわついていた。
 そして今現在、窓際の最前列である私は、その後ろである落窪に尋問をされている。


「…それにしても、つきりんは罪な女だねぇ」
「私から見れば、落窪の方が罪な女だ」
「ふぇ?」


 私はため息を吐きながら、落窪の机の脇に置かれた大きな二つの紙袋を見る。
 中身は焼き菓子やキャンディ、装飾品や香水など…所謂いわゆる、プレゼントの集合体だ。
 その中には、告白の恋文も何枚か入っているらしい。


「だって、ボクは義理チョコ渡しただけだよ? 告白される筋合いなんてないじゃん♪」
「……だから罪だというのだ」


 悪意を見せない落窪の笑顔を尻目に、私は窓の外に目線を移す。
 そこでは、一年生らしき集団が、必要最低限の種目を終えたために暇な体育の授業で、グラウンドを走らされているようだった。

 距離があるため個人は認識できないが、遅い者や早い者、手を抜いている者や話に没頭している者の差がはっきりと分かる。


「…ん?」


 ……そしてその中に一人、様子がおかしい生徒の姿があった。
 その生徒は上半身を不自然に激しく揺らし、足取りも遠くからでも目に見えてふらついていた。
 あの様子では、まともに走ることなど…


「…あっ」
「えっ? なにがあったの?」


 私の予想通り、その生徒は倒れた。
 倒れ方も前方に倒れこむ形で、その後も意識を失ったように動かない。
 それに気づいた周囲の生徒や教師が、その生徒に駆け寄る。






 …その生徒が倒れた瞬間、私の中で狭衣千鶴の笑顔が浮かび…弾けて消えた。



「…あちゃー、あの子大丈夫かな? 危ない倒れ方したけど」
「……」


 なぜ彼の顔が浮かんだ…?
 昼休みに感じた嫌な予感が、私の心に充満し始める。
 胸の奥を締めつけられる……それは彼の笑顔を見た時とは違い、幸せも喜びもない、不安と苦しみだけの感覚……


「つきりん…?」
「……」
「つきりん!」
「あっ…落窪…」


 落窪に体を揺さ振られ、混乱していた私の意識が元に戻る。
 それと同時に、自分がしなければならない事を鮮明に理解する。

 倒れた生徒は……保健室に運ばれるようだ。


「落窪。教師が来たら、私は保健室に行ったと伝言してくれ」
「ちょっ! つきりん! まってよぉ〜!」


 私は落窪の制止を聞かずに、教室を出て保健室に向かった。
 私の予感が正しければ……彼のために私は走った。


















 私の予感は的中していた。
 あの時倒れたのは狭衣千鶴で、授業中に意識を失ったらしい。


「…すぅ………すぅ………すぅ…」
「全く……呑気なものだ」


 倒れた本人は、放課後になった今でも、夕日に照らされながら保健室のベットの中で、幸せそうに眠っていた。
 私はその脇の簡易椅子に座り、彼の片手を両手で握っている。


 彼は、先ほど職員会議のため職員室に向かった校医に、『重度の睡眠不足と軽度の過労』との診断された。
 下手をすれば、五日以上睡眠を取っていない可能性もあるらしい。

 私が、あどけない寝顔を見せる彼の目元を指でなぞると、指先に肌色の粉末がつき、彼の隠したいものがあらわとなる。


「クマを隠すためにとはいえ、男がファンデーションを使うなど……よく考えたものだ」


 昼休み、彼の顔を間近で見た時感じた違和感は、このためだったらしい。
 確かに、彼はいつも眠そうにしているため、この真っ黒なクマさえなければ彼の寝不足を気づく者は少ないだろう。

 さっき、狭衣千鶴の荷物を持ってきた落窪の弟……確かに狭衣千鶴にボツと呼ばれていた者は、気づいていたらしい。



『ったく、チーズも無理しやがって。月代先輩に迷惑かけるなって言ってたんですけどね……コイツ、もともと苦手だった数学と科学の先公に目ェつけられて、三日後に追試受ける羽目になっちまったんです……落とすわけにはいかねぇって言って、追試って言われた七日前から一睡もせず、勉強してたッぽいんです。…去年の入試前にも同じ事やって、珍しく風紀に捕まってましたよ、このバカは』



 その者は私には笑顔で話していたが、彼を見る目は心から彼を心配している目だった。
 そして、その者が荷物を置いて去った後、落窪がやってきて私の知らない事実を教えてくれた。



『実はボク、弟にちーくんのこと聞いてたんだ。その事ちーくんに言ったら、逆につきりんの事相談されて…口止めされてたんだ。つきりんに心配かけたくないからって……。こんなことになるなら、もっと早く言えばよかった…』



 この時の落窪は、珍しく目に見えて落ち込んでいた。
 そんな友人を責めることは私には出来ず、気落ちしないように言って帰宅させた。


「…この阿呆が。貴様が馬鹿をするから、皆を心配させるではないか」


 すべて、狭衣千鶴が一人で抱え込むから悪いのだ。
 いつもは怠け者なのに、いざという時無理をするから。
 そう、誰にも頼らず……


「……少しは…私を頼ってくれてもいいではないか…狭衣千鶴」


 私の口から勝手に零れてしまう心の声と共に、彼の手を握る力が無意識に強くなる。

 何も語らなかった彼が怨めしい。
 彼に頼られなかったのが悔しい。

 無理を隠していた彼が怨めしい。
 気づけなかった自分が悔しい。

 そして今、何も出来ない自分が怨めしくて悔しくて苦しくて惨めで…


「……私では駄目なのか? 私はそれほど…頼りないのか…?」


 心が焦げつくように痛い。
 まるで彼に見放されたような気がして……その悲しみに耐えきれない自分が居た。
 目頭が熱を帯び、視界が汚く滲む。


「…一ヶ月前…私は…貴様にとって、大切な存在に…なれたと思っていた」


 しかし今回、彼は私を頼ってくれなかった。
 それどころか、私を差し置いて落窪に相談事を…


「その思いは…私の自惚うぬぼれだったのか? ………貴様にとって…私はなんなのだッ!!」


 荒れた心の傷から流れだした、嫉妬や絶望を含んだ汚い血を、私は言葉に変えて吐血する。
 その言葉を一つ吐くたび、自分自身があまりに小さく、汚い存在であることを実感する。
 私は……













「……なにバカなこと言ってんですか?」



 彼の手を握っていた手に、私以外の力がほんの少し加わる。
 それと同時に、絶望に満ちていた私の横から、やる気のない気の抜けた…それでいて心地好い声が聞こえる。
 その声の方を向くと…



「先輩は俺の大切な彼女だ……この一ヵ月で、口が酸っぱくなるほど言ったでしょ?」



 …そこには、私が求める彼の笑顔があった。
 沈む寸前の真っ赤な夕日に照らされながら、いつものように目を線のように細くするのは、彼独特の笑い方。
 目元に分厚いクマがあっても、その笑顔に影が差すことはない。


「ここは……保健室? …なるほど、走ってたらぶっ倒れたんッスね。…あ〜ぁ。先輩、折角の綺麗な顔がぐちゃぐちゃですよ?」


 そう言いながら、彼は私の握っていない方の手を伸ばし、私の頬に流れる雫を拭ってくれる。
 …何故……


「…何故…貴様が起きている?」


 校医も、下手すれば一日起きないかもしれないと言っていた。
 そんな人間が四時間程度の睡眠で起きるわけ……


「なぜって…そりゃ、先輩が骨を折るような力で俺の手を握ったり、大声で叫んだりするからでしょうが」


 彼に言われて自分の手を見ると、私の手の中には血が回らずに真っ白になっている彼の手があった。
 私が急いで解放しようとすると、その上から彼がもう片方の手を重ね、それを止める。


「そのまま握っててください。…そうしないと、言いたい事言えないまま眠りそう…」


 彼は苦笑いをしながら、私の手を優しく包み込むように握ってくれる。
 …荒れた心の隙間から入り込む彼の優しさが、消毒液のように心にしみてチクチク痛む。


「…いつから…起きていた?」
「ん〜。…確か先輩が『一ヵ月前』とか、『自惚れ』とか言ってたぐらいからですね。」
「…話のほとんどではないか」
「そうなんですか? てか、それ俺のカバン……なるほど、ボツめ口止め破りやがったな」
「…その者の姉も話してくれた」
「落窪先輩まで……んじゃ、ほとんどネタバレしてるわけか」


 彼はそう言うと大きな欠伸をし、その後真剣な眼差しで私を射抜く。
 いざという時、彼が見せるこの顔は…


「なんか、ムダに心配かけて本当にすいません。俺は大丈夫ですから。絶対、追試なんとかしますから……先輩はちゃんと進路を考えてください」



 ……ズルい。
 私の心を夢中にさせる。
 私の心を独占する。
 そして、私に気づかせる
 私が彼を盲目的に愛していることを…


「追試に引っ掛かるほど俺なんかより、先輩は将来有望なんですから……俺、落窪先輩に『先輩の足手纏いにならないために、どうすればいいか?』って、相談したんです。そしたら、先輩に心配かけないように、俺が追試受けることを先輩の耳に入らないようにしてくれるって…」


 …落窪、悪意は無くとも、随分と余計なことをしてくれた。
 そんなことを言ったら、彼は余計無理をする。
 しかし、落窪よりも問題児が私の目の前に居る。


「…阿呆」
「先輩?」


 私は彼の手を握ったまま立ち上がり、彼の顔に自分の顔を近づける。
 私の髪が垂れ下がり、彼の顔を差し込み夕日の光から遮断する。
 彼の顔を間近で見ることで、頬に熱が帯びるのを感じながら、私は口を開く。


「――この阿呆がッ!! 貴様は一人前に人の心配していられる身分では無いだろうが!!」
「!?」


 私は心のままに声を荒げ、彼に言葉をぶつける。


「貴様は貴様自身の心配をすればいい!! 頼るなら、誰よりも先に私を頼れ!! よいなッ!!」
「…は、はぃ」


 なかなか見る機会のない、唖然とした彼の顔。
 …その顔を見ると、さっきまでの涙と打って変わり、私の頬が緩む。
 それと同時に、怒鳴り口調になっていた私の口が、自然に本心を語りだす。


「…前にも言ったはずだ。私は嫉妬深い。そんな私が、貴様が私以外に頼ることなど許せるはずもないのだ」


 私自身、客観的に見て恐ろしい執着心だ。 しかし、それが私自身であり、一生変わらないであろう本心なのだ。
 『一生』な……


「…それに、私の進路など既に決まっている」
「えっ、でもまだ進学先決まってないって…」
「阿呆」


 …彼は何も分かっていない。

 進路というのは『これから自らが進んで行く道』であり、進学先や就職先などは、その道筋の通り道の一つでしかない。
 その道筋など決まっていなくても、目的地さえ決まればそれは立派な『進路』だ。



「…私はある程度の大学に進学し、ある程度の職場に就職する。貴様が一人前…いや、最低二人を養えるようになるのを待つのだから、その程度で十分だ」
「…それって」


 彼も私の進路を理解したようだ。
 私の視界を満たす彼は、珍しく顔を赤らめていた。


「……将来私に頼られるのだから、今は私に頼っていろ。分かったか?」
「えっ…はい…分かりました」
「素直で宜しい……んっ」
「ッ!?」


 私は顔を更に近づけ………彼に素直に頷いた褒美として口づけをする。
 しかし、それは彼の唇ではなく額に対しての口づけ。
 ……それでも今の私の顔は、彼に口づけされた時よりも朱色に染まっているだろう。


「……なんで、おでこ?」
「文句を言うな!! …続きは追試が終わってからだ。今はゆっくり眠れ」


 私は彼から顔を適度に離し、 その代わりに片手で彼の目をおおう。


「あ、先輩…」
「どうした」
「俺のバッグ…の中…かみぶく…あけ…」


 私に何かを伝えようとした彼は、目の前を暗闇にされて数秒後には意識を手放していた。
 すでに限界を越えていた彼は、きっと明日になるまで起きることはないだろう。


「…それにしても、何を伝えようとしていたのだ? 取り合えず彼のバッグと、かみぶく…多分紙袋か」


 私はそっと彼の手を離し、彼のバッグを開ける。
 中には確かに、茶色い紙袋が入っていた。
 私は迷い無くその袋を開ける。


「…あっ」


 その袋に入っていたのは、すっきりとした純白の手袋と一枚の紙。
 私は最初に手袋を手に取りじっくり観察した後、一枚の紙を紙袋から取り出す。
 その白い紙には、彼独特の癖がある文字が書かれていた。


『Dear綺麗な手している先輩へ
ホワイトデーのプレゼントです。
クッキーとかマカロンもいいけど、形に残るものの方がいいと思ってこの手袋を送ります。
喜んでくれるといいのですが…
byその手も含めて先輩が好きな後輩より』





 冬も終わる三月に手袋を送るなど、季節外れもいい所。
 …普段の私なら、『ふざけた文章』と判断するだろう手紙。
 しかし、今の私は……



「…まったく、貴様は私をどこまで狂わせる気だ?」


 彼の贈り物ののせいで、私の精神も崩壊寸前らしい。
 心音は乱れ、全身が熱を帯び、彼以外が見えなくなる。

 私の手の届く所に、麻薬的な依存性を持つ彼の綺麗な寝顔がある。
 そして、ついつい目線が行ってしまうのは、彼のすっきりとした唇……


「…確か、バレンタインの時、貴様は私の許可無しに……く、口づけをしたな」


 私は一旦携帯電話を仕舞い、自分勝手な理由を並べながら、ゆっくりと彼の寝顔に近づく。


「も、元々、貴様がわ、悪いのだぞ……貴様が私を占領するから…私が貴様無しでは生きられなくなるのだ……お、襲わない私の理性に感謝しろ」


 そして私は自ら約束を破り、欲望のままに彼に口づけをする。
 それは私の心身を跡形もなく溶かすような、世界一甘美な口づけだった。












〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

後日談(次の日)



「先輩…今日は休日なのに、何で俺ん家に先輩が来るんですか?」
「貴様の追試科目を教えてやる。感謝しろ」
「……私を頼れって事か…分かりました、お願いします」
「素直で宜しい」
「留年したら、先輩が卒業した学校に二年間もいなきゃならないし……先輩のキスも欲しいですから」
「ッ!? きき貴様!! ふざけた事を言うなッ!!」
「ふざけてないッスよ。俺は本気です」
「うっ………」



 氷と評される心も、遅刻魔の前では簡単に溶けてしまう氷月姫でした。



―END―














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