自信作
父方の祖父が大好きだった。
祖母は若くして亡くなったらしく、父は祖父に男手一つで育てられたという。父には厳しい人だったというが、初孫である私には甘かった。欲しいものは何でも(内緒で)買ってくれたし、家に行けば(子どもだった私が少し引くほど)お菓子をくれた。いつもニコニコしていて、遊びにも付き合ってくれる優しい祖父だった。
自動車技師をしていたという祖父は退職後、若い頃から趣味だったという“絵”に没頭していた。孫である私の相手をするか、絵を描いているか。そんな生活だったらしい。
ある日――私が小学一年生くらいの時の事だった。
祖父の家に遊びに行くと、祖父は庭で絵を描いていた。使い古しのイーゼルにキャンバスを立てかけ、たわわに果実を実らせた柿の木を描いていた。――今であれば、それが油絵だったということがわかる。
祖父は私に気がつくと、「やあ」と言って笑顔を向けた。私は駆け寄って、背伸びをして絵を見ようとする。すると、祖父が私の両脇を抱えるようにして持ち上げ、絵を見せてくれた。「きれいだね」。幼い私が素直に感想を言うと、
「ふふふ。ありがとう」
表情は見えなかったが、嬉しそうに言った。
私は、祖父の描く絵が好きだった。暖色を好んだ祖父の描く絵は暖かみがあり、子どもながらに見ていて心地が良かった。その柿の木の絵も“秋の風景”を描いたものだったが、寒々しい印象は受けなかった。まるで、炬燵の中で暖まりながら眺めているような。そんな気持ちになったのを、覚えている。
その後は、縁側でお菓子を食べながら、祖父とお話をしていた。「おじいちゃんは“え”がじょうずだね」「そうかい?」「うん」――そんな会話をしていると、祖父が言った。
「……じゃあ特別に、おじいちゃんの一番の自信作を見せてあげよう」
「ほんとうに?」「ああ」――祖父は立ち上がると私を手招きして、廊下の奥へと歩いて行った。私は、その後について行く。
祖父の家は広い敷地面積を持った平屋建てだった。長い廊下の壁には美術館のそれのように、一面に大小の絵が飾られていた。風景を描いたものから、人を描いたもの――私の父や私、祖父自身を描いた自画像もあった。
――ある絵の前で、祖父が足を止めた。
「これだよ」
祖父の指差した絵を、見る。
それは、一人の若い女性を正面から描いたものだった。
見たことのない、人だった。
「私の妻さ」
祖父は、そう言った。つまり私の祖母。子どもの私にも、それがわかった。
「おばあちゃん?」
「そう」
絵の中の人物を見つめる。――確かに、その女性の目は父にそっくりだった。そして、私は父似だった。私にも似た、目だった。
背景は、祖父の好きな暖色――濃い、赤で塗られている。
「きれい」
素直にそう言った。
祖父は私を見つめ、ニコリと微笑む。
「これはね、私が始めて描いた絵なんだよ」
そう言って、絵の中の女性の頬に触れる。
「……これが私にとって自信作で、気に入ってる理由はね。もう一つある」
そう言って、人差し指を立てる祖父。
私と目を合わせると、祖父は絵の額縁を持ち――
壁から、絵を外した。
――。
絵が掛けてあった壁には――
赤黒い染みが、あった。
完熟したトマトを投げて、壁にぶつけたような――そんな、飛沫の跡があった。
「これはね、妻の血の跡なんだ」
身を固まらせる私に、そう説明した。
「妻は、ここで死んだんだ……。悲しい、出来事だった」
懐かしそうに――愛おしそうに、染みを撫でる。
「……でも、その上にこの絵を掛けるとね」
祖父は、絵を元の場所に戻す。
――生きている気がするんだ。
一瞬、絵の中の女性が、写真のように生々しく見えた。
――。
「誰にも言ってないんだ。内緒だよ」
祖父はそう言って、子どものように微笑み、人差し指を口の前に持っていった。
私はなんとも言えない気持ちになりながらも、ウン、と頷いた。
――五年後。祖父に末期ガンが見つかる。
最後は自宅で過ごしたいと言って、祖父は家に戻った。――そして、何日か経った後――。
祖父の家は、火事で全て燃えた。
焼け跡からは、祖父の遺体が見つかった。
警察は火の不始末が原因だとしてこの一件を片付けたが、多分違う。そう、私は今だに思っている。
祖父は、誰にも知られたくなかったんだ。そう、思った。
――祖母の死の原因については、まだ父に聞けずにいる。