月を抱きて
明月が子を身ごもったのは、それから数ヶ月の後であった。
ここ数ヶ月、八雲と明月の関係は後退するばかり。遠のいていく距離をどうしたら埋めることが出来るのか、八雲はその術が分からないままでいる。
いつからか、八雲は明月と話すことが苦痛になっていった。
手に入らないことを楽しんでいたはずなのに、今は手に入らないことがもどかしくてたまらない。
自然と明月を訪ねる回数も減っていた。
そんな時に明月が妊娠したというのだから、子のできる時機というのは不可解なものだ。
何はともあれ、そのことを知った八雲は喜んだ。否、負けの確定した勝負に希望を見出したと言った方が正しいかもしれない。
これで、明月との関係がいい方向に変化するのではないか。そんな期待を抱く。
母親とは子に情が湧くもの。子を愛しく思いながら、その父親を敢えて拒絶するようなこともしないだろう。
流石にあからさまにはしゃぐような真似はしなかったが、八雲は確かに浮かれていたのである。
だが、その感情に迷いが生じるまで、そう長くはかからなかった。
明月は寝台の上に腰掛けて窓の外を眺めていた。
八雲が部屋に入ってきても、振り返りはしない。気付いてすらいないのだから、当然である。
「明月」
声をかけると、ようやく明月が振り返り、八雲を見上げた。
薄氷色の瞳に八雲の姿を映すと、明月は緩く首をかしげる。
「少し様子を見に来ただけだ」
隣に座り、明月の細い肩を引き寄せる。
ここ暫くで、明月は見ただけで分かる程に痩せてしまっている。
通常は子供ができればふくよかになるものだというのに、明月はその反対に細く、小さくなっていく。
元から細身ではあったものの、今では壊れてしまいそうなほどに華奢になっていた。
「食事はしっかり摂っているのか」
「はい」
明月の返答は短い。
「……十分な睡眠をとっているか」
「ええ。……どうしたんですか、いきなり」
突然の質問に、明月は不審に思ったようだ。八雲らしくないとおかしそうに笑う。
その瞳にはかつてのような力強さはなく、霧に覆われたかのように光は弱々しかった。
「八雲様に心配されるのは、気味が悪いです」
「私が心配しているのは、子供のほうだ」
そう八雲が応じた途端、明月から笑みが消えた。
困ったように目を伏せ、黙り込んでしまう。膝の上で固く拳が握られていた。
「明月?」
瞳を覗き込むように視線を合わせようとすると、明月の唇が微かに動いた。
しかし、その唇が何か言葉を紡ぎだすことはなく、すぐに結ばれてしまう。
これ以上は、何かを言っても無駄なのだろう。八雲は溜息をつき、明月から離れた。
「私は仕事に戻るが、中庭にでも行ったらどうだ。気分転換にはなるだろう」
明月の様子がおかしいというのは分かっていた。
以前にはなかった不安定さが色濃くなってくれば、誰でも分かる。
だが八雲はそれを、子を産むのにも不安があるのだろうと片付けていた。そうでも考えなければ納得できなかったのだ。
八雲が部屋を出る直前、明月が何かを呟いたが、それが八雲の耳に入ることはなかった。
それは、許しを請う一つの言葉。
だが聞こえていたとして、八雲は気付くことが出来ただろうか。
明月の言葉の真意に。
そして、今後待ち受ける出来事に。
明月の子供が生まれたのは、長い冬がようやく終わりを告げる頃であった。
夕方から急に冷え込み、雪の舞う夜に2つの生命が誕生した。
男女の双子である。
明月も子供も健康そのもの、その報告を聞き八雲は一先ずほっと胸を撫で下ろした。
「お会いになられますか?」
立ち合った医者の問いは歯切れが悪い。そのことを疑問に思いながらも、八雲は待望の子供と対面を果たした。
先に視界に入ったのは、男の方。こちらが弟なのだという。
まだふわふわとして生え揃っていない髪の毛は、明月と同じく月光に晒されたような青白色。うっすらと開かれた瞼の隙間から見える瞳も、明月と同じ色をしていた。
生まれたばかりな為まだ分からないが、明月に似ているように思われた。
そして、もう一人姉の方は。
「……」
その姿を見た途端、八雲の時は確かに止まった。
明月と似ている。それは恐らく、間違いない。
だが、問題があるのはその髪の色。
金に輝く産毛は、まだ色が薄く柔らかいから、などという問題ではない。
明月と八雲から、そのような色の髪の子供が生まれるはずがないのだ。
明月の青みの強い銀髪、八雲の闇を溶かしたような黒髪、どちらとも全く傾向の違う色なのだから。
「どういうことだ、これは!」
我に返った八雲は、側に控えていた医者に怒鳴りつける。
しかし、聞かずとも理解は出来ていた。
生まれた子供は、八雲の子ではないのだ。
明月の態度が不自然になったのも、心当たりがあったからだろう。
八雲の脳裏に一人の男が浮かぶ。
以前に明月が中庭で話していた男。薄汚れてはいたものの、あの髪は日に透けるような金色ではなかったか。
考えるよりも先に、八雲は歩き出していた。
目指す先は奴隷の宿舎。怒気を振り撒いて歩く八雲に、誰も声をかけることができずにいる。
ただ一人、配下の青年が八雲がやってきた方へと歩を進めただけだった。
中庭の横を通りがかった時、八雲は一人の男が立ち尽くしているのを見つけた。
宵闇に紛れても色を失わない金の髪。
骨の浮き出た腕や足を、寒空の下に晒すことも厭わず、ただ立っている。
その視線の先にある場所は、明月の部屋。
瞬間、八雲の心に浮かび上がったのは明確な殺意。
暴れ狂う感情とは別に、八雲の表情は急速に色を失っていく。
次いで浮かぶのは狂気。
「子供が気になるか」
中庭に出て、静かな声で問いかける。
男の薄い肩が、びくりと揺れた。
振り返る男の顔は、前髪に隠されて判別できない。
だが、それは確かに先日明月と話していたあの奴隷なのだと分かった。
細い肩を掴み、木の幹に押し付ける。男の口から小さく呻き声が漏れた。
「貴様の子のようだ。嬉しいか」
男が弾かれたように顔を上げたことにより、八雲は初めて男の顔立ちを知った。
痩せて頬がこけているものの、釣り目がちの、身形さえ整えていれば美男子と言っていい部類の顔である。
「俺、の?」
掠れた声から感情は読み取れない。
喜色とも、戸惑いともつかない。
「心当たりはあるのだろう?」
言葉として外に出すたび、狂気に八雲の口が歪んだ。
そして、男が答えるよりも先に。
「八雲様……!」
明月の声が聞こえた。
男を押さえつけたまま振り返ると、明月が走ってくる。長襦袢だけを身に付けた格好から、どれだけ彼女が急いでいたのかが窺い知れる。
八雲が男の下へ向かったことを、何者かから聞きつけたのだろう。
二人の間に割り込んだ明月は、そのまま崩れ落ちるように座り込む。
暗がりでもそうと分かる、血の気の引いた青白い顔。
命を産み落としたばかりの、まだ整わない体調で走ってくれば無理もない。
「明月!」
慌てて抱き起こそうとしたのは、八雲ではなく男の方であった。
「日高……」
弱弱しい声で、明月が男の名を呼ぶ。八雲が聞いたこともない、愛おしそうな声で。
これで確定だ。
言い訳のしようなどない。明月の相手はこんな奴隷の男なのだ。
突きつけられた真実に、八雲は歯軋りをした。
「八雲様、お願いします。彼を……彼を、殺さないでください。全て、私が悪いんです」
明月の声は、涙で不明瞭になっていた。
だというのに、八雲にはその言葉が大きく頭の中で響いたように感じられた。
お願いします、と何度も明月は繰り返す。
氷色の瞳は溶けてしまっているのではないかと思うほどに、涙を溢れさせている。
八雲はずっと望み続けていた。
明月が己に縋ることを。
それが彼女が八雲に気を許した証になると信じて、願っていた。
だというのに、ようやく叶った念願は、八雲に絶望しか与えなかった。
目の前が真っ暗になる。
訪れた激昂は、八雲の理性を奪い去っていた。
明月の前髪を掴み上げ、顔を近づける。
「とんだ娼婦だな、貴様は」
八雲の意に反して、せせら笑うような声が響いた。
「私に抱かれながら、他の男にも体を許していたとはな」
思ってもいない言葉が出てくる。
そのようなことが言いたいわけではないにのに、詰るのを止められない。
「考えてもみれば当然か。気を許してもいない男に、その身を全て自由にさせられるような女なのだからな」
明月は、ただ黙って聞いている。
弁解もしない。
「気付かなかった私が間抜けだったということか」
自嘲的に八雲は笑う。
「罰ならば、私がどんなことでも受けます。ですから……」
「明月、いいんだ、罰なら俺が……!」
明月を止めようとする男の言葉など、既に八雲の意識には入ってこない。
涙を流しながらも、真っ直ぐに八雲を見据える明月に目を奪われていた。
以前のような、八雲が惹かれた強い眼差しに。
「私の罪です。どのようにでも、八雲様のお気の済むままに」
八雲は強く拳を握る。己の掌に食い込む爪の痛みさえ感じないほどに、感情が昂ぶっていた。
「ならば、私のものになるか」
できもしないくせに、と。八雲は続けられなかった。
「承知いたしました」
明月は、意外なほどにあっさりと了承したのだ。
「馬鹿を言うな、できるわけ……」
「そう、確かに私の心は貴方様のものになることはできない」
冷えて赤くなった指先が、手近にある木の枝を拾った。
「私の命も、私だけのもの」
「おい、何を……」
「ならば、貴方様のものにならない部分が消えてしまえば、私の全ては貴方様のものに」
八雲や男が止める間もなく、明月は枝の鋭い切っ先を、迷うことなく己の喉に突き立てた。
「 」
意味を成さない叫び声がこだまする。
それは一体誰のものであったのか。それすらも分からないままに、絶叫は雪に飲み込まれていく。
明月が崩れるようにして倒れこむ。
うっすらと積もった雪に、喉からとめどなく溢れる血液が染み込んでいく。
八雲も、男も。呆然と明月を見下ろしていた。
明月の行動が信じられず、ただ赤く染まっていく雪を眺める。
「なんだ、これは……」
自失の体で、八雲が呟く。
違う、こんなものは違う。
「はは、は……はははははは!」
こんなものは、手に入れたうちには入らない。
乾いた笑い声が空気を切り裂いた。
赤く染まった雪は、穏やかに降り続ける雫と相まって花弁の絨毯のようだった。
その上に眠る明月は、憎らしいほどに美しい。
「逃げるのか……私のものにならないまま」
闇夜でようやく見つけた月は、隠れてしまった。
これから先、どうすればいい。
月を失っては、真の闇が待っているだけではないか。
――否、まだだ。まだ、なくしてはいない。
八雲の口が、歪んだ笑みの形を作る。
確かに、八雲は愛しい月を失った。
しかし明月は、また新たな月を遺していってくれたではないか。
そう、まだ終わりではない。
「逃がすものか」
今度こそ、手に入れてみせる。
宵闇に王の笑い声が響いた。 |