第一部
真夏特有のむっと湿った風が、和葉の頬を浮気になでて通り過ぎる。
風自体より涼しげな、風鈴の音を聞きながら、和葉は縁側から突き出した足をばたつかせる。
夜になってようやく蝉もその盛大な演奏をやめ、密度の高い空気をかすかに伝わってくるのは居間のテレビの音だけ。
こんな時間が、ひそやかな和葉のお楽しみだった。
「ちょっと和葉」
不意の父親の声に楽しみを中断させて、どうかしたん、と和葉は訊ね返す。
「お客さんや」
彼はそれだけ言うとニッと笑い、居間へ戻っていった。
玄関から庭を回り、闇夜に白い歯を浮かび上がらせて平次が縁側へ現れたのはそのすぐ後。
「花火でも、やらへんか?」
ぶら下げていた白いビニール袋を軽く持ち上げ、平次は言った。
和葉が振り返ると、気を利かせたつもりか居間にはもう父の姿はなかった。
***
「珍しいやん、平次のほうからこんなこと言い出すなんて」
たまにはええやろ、と誤魔化しながら平次はマッチを擦り、ロウソクへと火を移す。
和葉の持ってきたバケツに平次がマッチの燃えさしを投げ入れる。ジュッと湿った音がして、あたりに燐の燃えた匂いが広がる。
「さて、そろそろ始めよか」
居間の電気も消え、平次の顔を照らしているのは手に持ったロウソクだけ。
ちらちらと炎が揺れるたびに、前髪の影が大きさを変えて顔を覆う。
「何人の顔じろじろ見とんねん、はよ始めるで」
ジト目でそう平次に指摘され、はっと我に返った和葉は、別に平次の顔見とったわけとちゃうし、と弁解してからビニールの中へ手を突っ込む。
「ほんならアタシは線香花火から」
「せやったらオレも同じのにしよか」
真似せんどいてや、そんな和葉の抗議を笑って受け流して、平次は紫と黄色に彩られた紙縒りに火をつける。
そのまま和葉のほうにもロウソクを押しやる。
軽くうなずいて、和葉も紙縒りに火をつける。
真夏の夜の庭に二人。
湿った風が風鈴を揺らすついでにロウソクの火を消して立ち去っていった。
「あっ、火、消えてもうた」
一瞬真っ暗になり、和葉には平次の、平次には和葉の顔が見えなくなる。
すぐに平次と和葉の線香花火がオレンジ色の火花を撒き散らし、淡い照り返しに二人の顔が染まる。
パチリパチリと頼りない音と火花を上げ、二人の顔を照らし出す線香花火。
あたりに甘ったるい火薬の匂いが立ち込める。
和葉は自分の持つ線香花火から目を離し、ちらりと横目で平次の顔を見る。
何も読み取れない、無表情な目をしたまま、自分の顔を浮かび上がらせる火花を見つめる平次。
そんな平次の姿を見ながら、どうして平次は今日、急に「花火をしよう」なんて言い出したのだろう、と和葉は思った。
ロウソクよりも、もっとぼんやりとした灯りに浮かぶ平次。
火花が一つ消えるたびに、その姿が闇に消えそうになる。
思わず和葉は、自分の線香花火を平次へと近づける。
自分の線香花火でも、平次を消えないように、照らし出そうとする。
「どうかしたんか?」
急に増した光に、平次が顔を挙げて訊く。
「えっ、ああ…、花火、きれいやねって」
「せやな。たまにはこういうのも悪くないな」
そう平次が答えた途端、ふっと火花が止み、二人の手の先から丸い光の粒がぽとりと地面に落ちた。
オレンジの火球が真っ暗な地面に吸い込まれる。同時に平次の顔も闇に吸い込まれ、和葉には見えなくなる。
あっと思わず声を出しそうになる。
「消えてもうたな」
参ったな、と付け加えて、平次はポケットからマッチを取り出し、擦った。
再びともったぼんやりとした灯りの先に、平次は見つけた。
小鳥のように震える影を、隠しきれなかった和葉の姿を。
ゆっくりと和葉の肩に手を回し、心配すんなや、と伝える。
心の中が見透かされたようで、少し驚いた表情をしながらも、和葉はこくりとうなずいた。
「もうこんな時間か」
ロウソクに炎を移した平次が、腕時計を覗き込みながら言う。
「せやったら、玄関まで送っていくわ」
そう言って和葉は、二人分の花火をバケツの水に漬ける。
ジッという音と白煙と一緒に、甘ったるい匂いが強くなる。
「また花火、持ってきてな」
和葉が微笑みながら言う。
「また花火、持ってきたるわ」
ユラリユラリと揺らめく灯りの中で鸚鵡返しに言い、平次も微笑んだ。
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