第二十一話 恋敵 ※挿絵
翌朝、朝議の直後、退出する大臣達と入れ替わるように、月読は謁見の間へやってきた。
突然、戸口に現れた美しい青年に、大臣達は思わず足を止め、室内は彼らが息を呑む静かなどよめきに包まれた。
早く出て行けと言わんばかりに覇夜斗が睨みをきかせると、大臣達は名残惜しそうに何度も振り返り、皇子の顔を横目で愛でながら、渋々部屋を後にして行った。
そんな男達の興味の対象が己である事など気にもとめていない様子で、邪馬台国の皇子は上座に座る覇夜斗と向かい合う位置まで進み出てくると、静かにその場に腰を下ろした。
この日は、用心棒であるあの大男の姿は、彼の傍になかった。
『無防備に見せて、気を緩めさせるつもりか』
そう思った覇夜斗は、忌々しげな表情を浮かべて美貌の皇子を迎えた。
昨日月読は、邪馬台に隣接する河内国へ、鉄の原料となる鋼を売って欲しいと言ってきた。
それに関しては、覇夜斗も交渉に応じるとし、話がまとまるまで彼らが出雲に留まることを許したのだ。
河内国は最近、新羅から鍛冶を大量に呼び寄せ、鉄器の製造に力を入れていると噂に聞いている。
しかし、鋼の元となる砂鉄は、今のところ倭国内では出雲でしか発見されていないため、おそらく現状は大陸や半島から仕入れているのだろう。
したたかで交渉ごとに慣れた大国を相手に、価格や納入時期等、彼らが不利な条件を強いられていることは想像に難くない。
そのためか、農具はもちろん武器においても、東側諸国では未だ鉄の普及率が高くなかった。
だが、鋼を国内で安く調達できるようになれば、鉄器は一気に庶民の手にも行き渡るようになる。
「河内でも製鉄が盛んになれば、いずれ出雲と競合するのではないか」
話を聞いた大臣の中には、そう言って懸念を抱く者もいた。
それでも覇夜斗は、鉄の農具が普及することによって作物の収穫高が増えれば、冬場食料の大半を仕入れに頼っている出雲とその連合国にとっても利があると判断したのだ。
いずれにせよ、出雲が鋼を納入しなければ、河内国も鉄器を作ることはままならない。
主導権がこちらにあるのなら悪い話ではないと、この件に関しては昨日大筋で合意したのだった。
「鋼の件については、既に話が済んだはずだが? 詳細は担当大臣と協議してくれればよい」
もう話すことは無いと、覇夜斗はあしらうような素振りを見せた。
そんな彼の態度さえ、月読は気にとめていない様子で、相変わらず静かに座り続けていた。
覇夜斗は、この男が苦手だった。
脅しにも皮肉にも動じない、澄んだ瞳で見つめられると、腹の中を全て見透かされているような、なんともいえない居心地の悪さを感じてしまうのだ。
「その件に関しては、前向きに検討してもらい感謝している」
そう言って、月読は口元だけで小さく笑った。
だが、その瞳は鋭く輝き、視界から覇夜斗を一時も逃さなかった。
『義父にいい土産ができて良かったな』
再び口から出かかった皮肉を、覇夜斗はぐっと呑み込んだ。
この男が河内国の媛を妻にしていることは、大臣からの報告で知っている。
今回の交渉事をうまく取り付けることができれば、彼は義理の父である王へ恩を売ることができるだろう。
そしてこれにより、河内国はこれまで以上に彼に忠義を尽くすことになるのだ。
こうしてこの男は、これまで各国と結束を固めてきたに違いない。
だが彼が、妻の元を訪れることは、この先どれだけあるのだろう。
男の自分でも、これほどまでに魅了される容姿と佇まいをしているのだ。
彼の妻となった女たちは、いずれも夫を恋しく待ちわびているに違いない。
しかし、国固めのため多くの妻を持つ彼が、再び彼女らの前に現れることは数ヶ月に一度か、もしくはそれ以下か。
そうして彼女らは、覇夜斗の母のように、袖を涙で濡らす日々を過ごすことになるのだ。
そこまで考えて、覇夜斗は奥歯を強く噛み締めた。
聖人のような顔をしていても、この男の影では多くの女たちが涙を流している。
そう思うと、言いようの無い怒りが込み上げてきた。
「今日ここを訪ねて来たのは、別件についてそなたと話し合いたいからだ」
そんな覇夜斗の心中を知ってか知らずか、月読は淡々とした口調でそう切り出してきた。
「狗奴国を倒し、共に新しい国造りをしないか」
「新しい国造り?」
邪馬台国と手を結び、狗奴国と戦うことは、昨日きっぱりと断った。
だがその先に、この皇子がどのような未来を見据えているのか、覇夜斗も少し興味を持った。
「巫女の占いに頼らない、人が動かしていく国造りだ。魏では朝廷と呼ばれている」
「朝廷……」
大陸の政については、彼も渡来人から聞いてある程度は知っている。
全ての政治的判断が巫女の占いによって決められる倭国と違い、大陸では各省に分かれた役人たちによって国が動かされており、その仕組みは朝廷と呼ばれているという。
夕月が霊力を失った今、覇夜斗が今行っている政も、それに近いものなのかもしれない。
だが、神という絶対的な存在を失い、人が国を動かすようになれば、そこには我欲が生じる。
実際、大陸ではその時代、最も武力に勝る者が頂点に立ち、国を治めていると聞く。
そのため、その地位を巡って常に争いごとが絶えず、今も魏、呉、蜀という三国がせめぎあいを続けているのだ。
もしも渡来人が多く定住する出雲が信仰を失えば、優れた武器と学問を有する彼らにこの国を奪われることになりかねない。
過去、父王もそのような事態を恐れ、反逆してきた渡来人の村を壊滅させたのだ。
「我が国は、神を捨てるつもりはない。ゆえに、そなたが目指す朝廷には賛同しかねる」
答えが決まった覇夜斗は、早々に話を打ち切ろうと腰を持ち上げた。
「神を捨てろとは言っておらぬ。信仰と政を切り離せぬかと申しておるのだ」
そんな彼を、珍しく熱のこもった月読の声が引き止めた。
覇夜斗は大きなため息をついて再び腰を下ろすと、腹を据えたようにまっすぐ皇子の顔を見据えた。
内陸部にある邪馬台国は、四方を深い山に囲まれている。
いわば自然の砦に守られた国なのだ。
そんな国で生まれ育ったこの男は、出雲のように常に大陸からの脅威にさらされている国の実情など、理解できぬのだろう。
「ここは邪馬台とは違うのだ。信仰がなければ、渡来人にこの地を奪われる恐れがある」
何も知らずにわかったような口をきく月読に無性に腹が立ち、覇夜斗は思わず感情的な口調になった。
そんな彼の前で、案の定、皇子は驚きの表情を浮かべ、言葉を失っていた。
「ここは半島に近い。物も人も無限に流れ込んで来る。我々は、それを逆手に取り、渡来人の製鉄技術を発展させ、彼らと共存することで繁栄して来たのだ。しかし、信仰心だけは、我々だけのものなのだ。それを失くせば、この地は倭の一部でなくなるかもしれぬ」
「……」
一度口火を切ってしまうと、決壊した河川のように、秘めていた想いと言葉が口から次々と溢れ出した。
政と信仰を切り離すなど、理想論者が語る戯言だ。
覇夜斗も夕月を政から遠ざけ、いつかは彼女を巫女から解放したいと熱望し、手を尽くしてきた。
その結果、学問や医療によって合理的な判断が下せるようにはなったが、民の信仰心は薄れるどころか、巫女の存在を心の拠り所として一層欲するようになってしまった。
長年、神を崇めることで心の平安を保ってきた倭人にとって、政と信仰心を切り離すなど、所詮無理な話なのだ。
それは、彼自身がこの数年で身をもって実感し、不本意ながら導き出した結論だった。
「私の姉である卑弥呼は、国の責任を一身に背負い、巫女であることを貫き、無惨な死を遂げた」
しばらく、覇夜斗の話に黙って耳を傾けていた月読だったが、ふと低い声色でそう語り始めた。
その声に目をやると、彼の大きな瞳は充血し、噛み締められた唇は小さく震えていた。
彼の姉であり、邪馬台国の大王であった卑弥呼が、いかにして命を落としたのかは聞き及んでいない。
女王を偽っていたという事実から、この男が暗殺したのではとの噂もあったが、彼の表情を見る限りそのようなことはありえないと思われた。
彼の言葉から察するに、卑弥呼は国を守る為、その身を神に差し出したということなのか。
そう思うと、それまで敵意しかなかった目の前の男に対し、同情に近い新たな感情が湧きあがってきた。
だが、ようやく溶け始めたかと思われた覇夜斗の心は、皇子が次の言葉を発した瞬間、再び硬く凍りついた。
「あの巫女にはそのような悲劇を背負わせたくない」
「あの巫女……? まさか夕月と会ったのか?」
次の瞬間、覇夜斗は月読の肩に手を当て、力一杯床に押し倒していた。
そうして仰向けに倒れた皇子の上に跨がると、素早く腰の剣を抜き取り、白く細い首筋に刃を当てた。
「貴様には、絶対に夕月はやらぬ」
垂れた前髪の隙間から、覇夜斗は血走った目で皇子を睨みつけた。
彼は月読の表情と声色から、夕月へ対する特別な感情を読み取ったのだ。
刹那、覇夜斗の頭から相手が大国の皇子であることなど消え失せ、ただ愛する者を奪われたくないという想いだけが体を支配していた。
このような状況下であっても月読は怯えた様子もなく、相変わらず涼しげな瞳で怒りに狂う王を見上げていた。
しかし、その平然と見える振る舞いが、覇夜斗をさらに逆上させた。
「各地で妻を娶り、いつ訪れるかもわからぬような男に、妹はやらぬ。不幸になるだけだ」
それは皮肉などではなく、彼の生い立ちと夕月への想いから湧き上がる心からの叫びだった。
だが、その言葉を耳にした瞬間、月読の顔に憂いが漂い、微かに眉がひそめられた。
「王! 何を!」
その時、主の身を案じて様子を見に来た大男が、血相を変えて部屋に飛び込んできた。
我を取り戻した覇夜斗は、身を起こしてもう一度横たわる男の顔を睨みつけると、小さく舌打ちをした。
そうして立ち上がった彼は、月読に背を向けて剣を鞘に収めた。
背後では、大男が皇子を抱き起こし、主の無事を確認する様子が感じられた。
主に怪我がないと知り、一度は安堵のため息を漏らした大男だったが、直後、覇夜斗の方へ向き直り、彼の背中に殺気立った視線を投げつけてきた。
そんな大男をなだめるように、皇子が男の腕にそっと手をかける様子が視界の端に映った。
「鋼の手配はなんとかする。そのかわり、一刻も早くこの地を去ってくれ」
今にも斬りかかってきそうな大男の視線を背中に感じながら、覇夜斗はそう言って謁見の間を後にした。