第二十話 出会い ※挿絵
「狗奴国との戦いにあたって、協力を願いたい」
覇夜斗の挑発を無視して、邪馬台国の皇子はいきなり確信に触れてきた。
次の瞬間、覇夜斗は上座から立ち上がり、長剣を腰から抜き放つと、月読の眼前にその切っ先を差し向けた。
直後、皇子の後方で控えていた大男が剣の柄に手を掛け、腰を上げて主の危険に備えて身構えた。
だが、そんな大男の動きを、月読が片手を後ろ手に掲げて制した。
掌を大男の方へ向けながらも、月読は落ち着いた目線で覇夜斗を見つめ続けていた。
『なんだ、こいつ』
覇夜斗の喉がごくりと鳴った。
その風貌から、少し脅せば尻尾を巻いて逃げ出すかと思っていたが、どうやらこの男は一筋縄ではいかないようだった。
「ふん。見た目より性根は座っているようだな」
覇夜斗は鼻で軽く笑うと、剣を鞘に納めてもとの位置に座り直した。
それを見て大男もやや緊張を緩め、柄から手を離して再び腰を据えた。
大男から滑らせた視線の先には、相変わらず落ち着いた様子で静かに胡座を組む皇子がいた。
見た目には大きな変化はなかったが、先ほどまでより、わずかに表情が和らいでいるように見えた。
一瞬、その顔に見とれている自分に気付き、焦る心を悟られぬよう、覇夜斗は再び皮肉を込めて言い放った。
「女王を偽っていたというから、どのような容姿かと思えば、なるほど、これなら誰もが騙されような」
主を侮辱されて、大男の顔が悔し気に歪み、ぎりりと歯が鳴る音が聞こえた。
それでも美貌の皇子は、相変わらず澄ました顔でその場に座り続けていた。
全く動じる様子のない男に向かって、覇夜斗は心の中で小さく舌打ちをした。
彼にとって、これほどまでに心の読めない相手に出会ったのは初めてのことだった。
大抵の者は少し威嚇すれば怖じ気づき、彼が望む通りの結果を導き出すことができた。
だがこの一見華奢な印象の男を前にして、覇夜斗の心はいつになく動揺していた。
「協力願えるか?」
度重ねて浴びせられた皮肉をあっさりと聞き流し、月読は改めて詰め寄ってきた。
彼を取り囲む空気は再び張り詰めたものとなり、漆黒の瞳は相手に有無を言わさぬかのごとく鋭く光を放っていた。
心の奥底まで見透かされそうな双眸から思わず目を逸らし、覇夜斗は憮然とした表情を浮かべて頬杖をついた。
「断る。我が国は邪馬台国の翼下に入るつもりはない」
これ以上言葉を交わせば、完全に相手に呑み込まれる。
そう悟った覇夜斗は、一方的に面談を打ち切った。
夕月は、宮殿の一角に設けられた祈祷の間で神に祈りを捧げていた。
覇夜斗からは、邪馬台の皇子が滞在している間は神殿で身を潜めているようにと言われていたが、少しでも近くに身を置いて彼を見守りたかったのだ。
だが、彼女の覚悟は他のところにもあった。
『あなた様に、皇子様の妻になっていただき、なるべく出雲にとって条件の良い形での同盟を結んでいただきたいのです』
今朝方、老いた大臣が言っていたように、邪馬台国との話し合いが決裂した場合、身を呈してでもこの国を守る事が、媛巫女である自分の役目であると彼女は思っていた。
偽りの王女である自分に残された、この国を守る唯一の手段であるならば、己の身を捧げることも厭わない覚悟でいた。
『あなた様が巫女である限り、お二人が夫婦になられることは難しいでしょう』
あえてこれまでは目を逸らしてきたが、彼女自身もそのことはよくわかっていた。
覇夜斗は政から占いを排除することで、いずれは夕月を巫女から解放し、妻に迎えたいと思っている。
だが、彼がその夢を実現させようとすればするほど、皮肉にも人々は心の安泰を神に求めるようになっていくのだ。
おそらくこの先自分は、巫女として民からますます必要とされていくだろう。
そして、夕月が神に身を捧げる巫女である限り、二人に共に歩める未来はないのだ。
『あなた様が人の妻になれば、王も妃を迎えるお気持ちになられるはずです』
世継ぎをもうけることも、王の使命のひとつだ。
だが、自分のことを諦めない限り、覇夜斗は別の女を妻に迎えようとはしないだろう。
『この国の民と王家の存続のために、どうぞ賢明なご判断を……』
彼女が彼のそばに居続けることが、王家の存続とひいてはこの国の未来をも脅かしている。
そのように懸念しているのは、あの男だけではないはずだ。
『ただ、そばにいたいだけなのに……』
祈りを捧げるために閉じた瞳から、涙がこぼれ落ちた。
その瞬間、彼女は何者かの気配を感じて背後を振り返った。
振り向くと、戸口のそばに見たことがない人物が立っていた。
あまりに美しい姿に一瞬判断を迷ったが、美豆良に結った髪や、身に着けている物から察するに男性なのだろう。
軽装ではあるが仕立ての良い衣を纏った青年は、過去の記憶に想いを馳せているのか、どこか遠い目で室内を見回していた。
そんな男の背後には、家臣とおぼしき大男が控えているのが見えた。
「どなた?」
戸口に近付き、夕月がそう声をかけると、我に返った男の瞳に光が宿った。
そうして目が合った瞬間、夕月は改めて男の美しさに目を奪われた。
『なんて美しい方なの……』
男の方も大きな瞳を一層見開き、彼女の顔をまばたきもせずにじっと見つめていた。
そのまま二人は、言葉を交わすことさえ忘れて、長い間見つめ合い続けた。
「驚かせて申し訳ありませぬ。以前私も審神者を務めていたもので、香木の香りや祈りの声が懐かしく、思わず足をとめてしまいました」
夕月よりもまだ少し年若そうな青年は、そう言って頭を掻いた。
すると、無機質に感じられるほど整っていた顔が、柔らかく崩れて屈託のない笑顔になった。
だがその顔もまた、月明かりのように優しく輝き、美しかった。
「審神者を?」
透明感のある男の雰囲気に、亡き弟、亜玖利の姿を重ねて、夕月は懐かしさに目を細めた。
しかし、異国の審神者であったという男がなぜここに居るのか。
にわかに疑問を抱いた彼女は軽く首を傾げて、自分よりも少し背の高い青年を見上げた。
「あなた様は……?」
問いかける彼女に、青年は姿勢を正し直すと、みぞおちに片手を添えて軽く頭を下げた。
「申し遅れました。私は邪馬台国の皇子で、月読と申します」
「邪馬台国の皇子様……?」
ゆっくりと頭を持ち上げながら青年が口にした名に、夕月は思わず目を見開いて息を呑んだ。
そうして改めて向き合った男の顔に、彼女はもう一度見入ってしまった。
『この方が……』
噂には聞いていたが、これほどまでに美しい男がこの世に存在するとは想像もできなかった。
人は潜在的に美しいものを求め、愛する。
おそらくたいていの人間は、彼の姿を目にしただけで喜びを覚え、幸福感に満たされるだろう。
それは、他の者には決して得ることができない、神に選ばれた者のみが有する資質なのだ。
彼の人間離れした容貌と、生まれながらに身に纏う神聖な空気に、夕月は見えない神の姿を目にした気がしていた。
言葉を失い、立ち尽くす彼女の前で、月読は再び柔らかい笑みを浮かべた。
「あなたは、この国の媛巫女様ですか?」
「は、はい。夕月と申します」
ようやく、大国の皇子に先に名乗らせてしまった失態に気付き、夕月は慌てて頭を下げた。
「夕月殿……」
頭上で、嚙みしめるように彼女の名を反復する皇子の声が聞こえた。
その声色から、これまでに覚えのない念を感じて顔を上げると、皇子は目線を彼女から宙に滑らせた。
そんな彼の様子を見て、背後に控える大男も違和感を覚えたのか、不思議そうに首を傾げていた。
「先程、王と会ってきました」
少し間が空いた後、月読は目を逸らしたまま別の話題を持ち出してきた。
その瞬間、夕月の意識は皇子の語る内容に集中した。
二人の間にどのような会話が交わされたのか。
早くそれが知りたくて、彼女は無意識のうちに身を乗り出していた。
そんな彼女の様子に、月読は一瞬驚いたような表情を浮かべたが、再び目を逸らして苦笑した。
「どうやら私は、王にとって招かれざる客のようですね」
彼の言葉から話が決裂したことを悟り、夕月の心は一気に不安に覆われた。
大臣が語っていたように、覇夜斗は、彼の要求を突き返したのだろう。
恐れを知らない彼のことだ。
たとえ相手が邪馬台国の皇子であろうとも、遠慮のない物言いをし、不躾な態度をとったに違いないと思ったのだ。
「兄があなた様に失礼をはたらいたのなら、どうぞお許しください」
夕月はその場にひれ伏し、両手をついて頭を下げた。
「どうぞ、お許しを……」
夕月は額を床に押し付け、涙声で何度も謝罪の言葉を口にした。
皇子の怒りをかい、邪馬台国との間に戦が起きれば、兵の数で劣る出雲に勝ち目はない。
戦敗国になれば、王である覇夜斗は首を斬られ、民は邪馬台の奴隷として扱われるだろう。
自分が謝罪することで少しでも皇子の怒りを鎮めることができるなら、一晩中でも頭を下げ続けるつもりでいた。
だが、しばらくして、そんな彼女の肩にあたたかな手が触れてきた。
「どうぞ、顔を上げてください」
涙に濡れた顔を上げると、そこには穏やかな微笑みがあった。
月読は片膝を立てて腰を下ろし、優しい眼差しを彼女に向けていた。
その眼差しに救いを求めるように、夕月は皇子の腕にすがった。
「私の命でよろしければいくらでも差し上げます。ですから、どうか、どうか……兄とこの国を……」
涙ながらに必死に訴え続ける彼女を前に、月読は戸惑いの表情を浮かべていた。
「夕月殿、あなたは……」
ふと何かを言いかけて、月読が口をつぐんだ。
それから大きなため息をひとつついた彼は、彼女の上半身をゆっくりと抱き起こし、再び柔らかな笑顔を見せた。
「私のような立場の者が突然訪ねてくれば、警戒されても無理はありませぬ」
それは全てを包み込むような、慈悲深い微笑みだった。
「このような美しい妹君がいらっしゃれば、なおさらでしょう」
そう言って、月読は夕月の顔にかかる髪を指先で整え、頬を伝う涙をそっとすくった。
意外な言葉と態度に驚き、呆然と彼を見つめる彼女の手をとると、月読はその上に自分の手を重ねて力を込めた。
「信じていただけないかもしれませぬが、私はあなた方を無理矢理従わせるつもりはありませぬ。兄上と共に、新しい国造りを実現させたいと思っているのです」
「新しい国造り?」
問い返す彼女に、彼は大きくうなづいて見せた。
「幸いこの地にしばらく留まることは、許してもらえました。ここに居る間、王に何度でも私の想いを訴え続けるつもりです」
「……」
彼の言葉をどこまで信じていいのかと思いあぐね、夕月の頭の中は激しく混乱していた。
月読はそんな彼女から手を離すと、もう一度優しく笑ってその場に立ち上がった。
「それではまた。失礼します」
そう言い残して軽く頭を下げると、美しい青年は大男の背中を軽く叩いて、共に祈祷の間から出て行った。
残された夕月は、力が抜けたようにその場に腰を落とし、彼らが消えて行った戸口をいつまでも見つめていた。