第十九話 月と狼 ※挿絵
「邪馬台国の皇子様が?」
思わず夕月は、驚きの声を上げてしとねから身を起こした。
「ああ、早ければ明日にでも出雲へ着く」
堅い表情を浮かべて天井を見つめながら、覇夜斗は吐き捨てるように言った。
「狗奴国との決戦に向けて、協力を仰ぎに来るのであろう」
「……」
夕月は不安気に眉を寄せて、仰向けに横たわる覇夜斗を見下ろしていた。
そんな彼女の頬に触れて、覇夜斗は潤む瞳をじっと見つめた。
そして、頬から髪に手を滑らせ、感触を愛しむように優しく撫で下ろした。
「……どうなさるおつもりなの?」
その問いに答える代わりに、覇夜斗は夕月の体を引き寄せて強く抱きしめた。
『皇子はこれまでに河内、明石、吉備のそれぞれの王の媛君を妻にされている。忠誠の証に、夕月様を妻にと所望されることも考えられる』
彼の頭の中では、討議の間で大臣が口にした言葉が、繰り返し響いていた。
見知らぬ男がこの髪に触れ、柔い肌を思いのままにする。
そう考えただけで怒りで気が狂いそうだった。
次の瞬間、覇夜斗は夕月を床に押し倒し、その上に覆い被さった。
そして戸惑う夕月の両手を押さえつけると、震える唇に激しくかぶりついた。
『他の男にくれてやるために、守ってきたのではない』
これまで覇夜斗は、夕月を神聖な巫女であり続けさせるために、己の欲望を押し殺してきた。
『なのにそれを、みすみす他の男に奪われるなど……!』
思い余った彼は、唇を重ねたまま夕月の着物の裾に荒々しく体をねじ込んだ。
だがその時、夕月の手が、何かを訴えるように彼の背中を強く叩いた。
はっと我に返った覇夜斗は、慌てて彼女の体を解放した。
自由を取り戻した夕月は、横向きに身を丸めて苦し気に肩で息をした。
冷静さを失っていた彼は、彼女から呼吸をする暇さえ奪っていたのだ。
大きく上下する肩に額を押し付け、覇夜斗は悔し気に唇をきつく噛み締めた。
「皇子が滞在している間、お前は神殿に身を隠し、絶対に姿を見せるな」
絞り出すようにそう言う覇夜斗を、夕月は荒い息を吐きながら見つめていた。
翌日、討議の間には昨日と同じ面々が膝を並べ、王が決断を下す瞬間を固唾を呑んで見守っていた。
「出雲の姿勢はこれまでと変わらぬ。邪馬台国と狗奴国のいずれにも加担せず、交易のみで両国と関わる」
覇夜斗が下した判断に、ある者は安堵のため息をつき、またある者は表情を曇らせた。
「従わないことで、邪馬台が武力行使してくることはないのでしょうか」
一人の大臣が、青い顔をして問いかけてきた。
その瞬間、室内の者達の視線が一気に上座に向けられた。
「狗奴国との大戦を控えているのだ。向こうも出雲で兵力を消耗したくはなかろう」
王の答えを耳にした大臣達は、顔を見合わせてぼそぼそと互いの意見を確認し合った。
確かに通常であれば中立を宣言している国を、邪馬台も戦力を削ってまで従わせようとはしないだろう。
だが、倭国内で唯一鋼を生成でき、高い製鉄技術を持ったこの国を、大戦を控えているからこそ、多少の犠牲を払ってでも手に入れたいと思うことは十分考えられる。
覇夜斗にとっても、この判断は賭けであった。
いくら出雲が鉄製の武器で固めた兵を有しているとはいえ、相手は三十もの国々を従える大国なのだ。
兵力では到底かなうはずがない。
だが、彼なりに必死に守ってきたこの国と夕月を、見知らぬ男にあっさり明け渡すことはできなかった。
「すぐに密偵を送り、こちらへ向かっている邪馬台軍の規模を確認せよ。それにより、また対応を考える」
そう言い残すと覇夜斗は立ち上がり、早々に部屋をあとにした。
王が立ち去った後も、室内は不安を口にし合う大臣達の声でざわめいていた。
夕月は、回廊の欄干に手をかけ、神殿を取り囲む緑を見つめていた。
昨夜覇夜斗が見せた苦し気な表情が、頭にこびりついて離れなかった。
ふと彼女は、広場を挟んだ向こうに建つ宮殿へ目を向けた。
彼は今、あそこにある討議の間で、邪馬台国への対応について大臣達と議論している頃だろう。
即位して以来、あらゆる難問に挑んできた彼であったが、その中でも今回の件は最も重いものに違いない。
これまでどこにも属さず、独自に発展してきた出雲が、これからどのような道を歩んでいくのか。
要請を断れば、邪馬台国軍が武力に物を言わせて征圧しに来ることもあり得る。
かといって、彼らの翼下に入れば、この国の技術も信仰も自分達のものではなくなるだろう。
彼が背負っているあまりに大きな責任に、夕月は胸が締め付けられるような思いがした。
「媛巫女様」
その時、背後から年配の男のものと思われる声が彼女を呼んだ。
夕月が振り返ると、そこには白髪混じりの男が、頭を下げて立っていた。
「王は、邪馬台国からの協力要請を断られるおつもりです」
「……」
祈祷の間で向かい合って座った男は、そう言って夕月の目をまっすぐ見つめた。
この男は、先日覇夜斗に妃を迎えるよう訴えかけてきた大臣だった。
「これまで通り、中立な立場を貫かれると。しかし、そうなれば我が国は邪馬台軍と一戦を交えることになるやもしれませぬ」
夕月は、苦悩と納得の入り交じった深いため息をついた。
覇夜斗なら、そのような決断を下すような気がしていたのだ。
「王がこの国らしさを失わぬよう、悩みぬかれた上で導き出されたご判断です。勿論、我々もそれに従うつもりでおります。しかし、戦になれば我々に勝ち目はありません。敗北すれば、最悪な条件で邪馬台に服従することになるでしょう」
「……」
「そのため我々は、なんとしても戦を避けたいのです。ですから話し合いが決裂した場合、あなた様にこの国を守っていただきたいのです」
そう言って大臣は上半身を深く折り曲げ、床に額を付けた。
「私が……? どうやって……?」
夕月には、霊力も腕力もない女の自分に、国を救う術があるとは思えなかった。
しばらくの間があって、大臣は床に顔を伏せたまま話を続けた。
「……あなた様に、皇子様の妻になっていただき、なるべく出雲にとって条件の良い形での同盟を結んでいただきたいのです……」
「……え……」
男が苦し気に発した言葉に、夕月の頭の中は一瞬で真っ白になった。
ようやく顔を上げた大臣は、すがるような目でうろたえる彼女を見つめた。
「我々も、あなた様と王とのご関係は存じております。しかし、あなた様が巫女である限り、お二人が夫婦になられることは難しいでしょう。あなた様が人の妻になれば、王も妃を迎えるお気持ちになられるはずです」
「……」
「この国の民と王家の存続のために、どうぞ賢明なご判断を……」
その日の午後、邪馬台国の皇子が、出雲の町へ足を踏み入れたとの知らせが入った。
密偵からの報告によると、彼が率いる兵の数は多く見積もっても三十人たらずだという。
それは、大国の皇子を護衛するには、かなり手薄に思われた。
「我々を油断させるため、わざと少なく見せているのかもしれぬ。すぐ近くに援軍が控えている可能性もある。気を抜くな」
相手が少数と聞き、にわかに安堵の表情を浮かべる大臣達を、覇夜斗は強い口調でたしなめた。
「邪馬台国の皇子を出迎えぬ訳にはいかぬ。そろそろ使者を送れ」
「は!」
王に指示された若い大臣が立ち上がり、急いで部屋を出て行った。
そんな男の背中を、室内に残された者達は不安気に見送っていた。
「いよいよ来たか」
上座で胡座を組み直した覇夜斗は、あごを摩りながらにやりと笑った。
そして、おもむろに腰に挿していた剣を鞘から引き抜くと、青白く輝く鉄製の刀身を眺めた。
「ふん。女王に化けていたというくらいだ。どうせ線の細い女々しい男に違いない。少し脅して追い返してやる」
覇夜斗は再び剣を鞘に納めて立ち上がると、皇子を迎えるため謁見の間へ向かって歩き始めた。
覇夜斗は上座に腰を下ろし、邪馬台の皇子を待ち構えていた。
しばらくすると、前方の戸口に若い大臣が姿を現し、彼に向かって深々と頭を下げた。
「邪馬台国の皇子様をお連れしました」
覇夜斗が無言でうなずくと、大臣は後方に向かって頭を下げ、そこにいる者を室内へ導くような動きを見せた。
間もなく、髪を美豆良に結った人影が奥から進み出てきた。
逆光で顔は良く見えなかったが、その者が姿を現した瞬間、まわりの景色が輝きを増したような気がした。
少しずつ近付いてくる人影に、覇夜斗は徐々に目を奪われていった。
光に縁取られた細い首筋に、金色に輝く後れ毛が風になびき、宙を舞う。
小柄ではあるが、背筋を伸ばして胸を張った立ち姿からは、神々しいまでの品格と威厳が滲み出ていた。
覇夜斗の正面で足を止めた男は、その場にふわりと腰を下ろすと、両手を前について軽く頭を下げた。
その流れるような所作は、衣擦れの音と相まって、艶かしさをも感じさせた。
礼を終え、静かに持ち上げられた男の顔を目にした瞬間、覇夜斗の喉はごくりと大きな音を立てた。
『こいつは本当に人なのか……?』
噂には聞いていたが、いや、噂以上に邪馬台国の皇子月読は美しい男だった。
長い睫毛に縁取られた大きな瞳は、黒曜石のように黒く澄んだ輝きを放ち、その中には慈愛と冷酷さが同時に宿っているように思われた。
頬から顎にかけての輪郭には一片の無駄もなく、肌は白磁のように白く艶やかだった。
軽く閉じられた口元は、一見笑みをたたえているようでありながら、何事にも揺るがぬ意思の強さをも暗示していた。
姿形の美しさは言うまでもなかったが、様々な印象が混在する人間離れした雰囲気が、覇夜斗の心を魅了して離さなかった。
ふと、皇子の背後に目をやると、長剣を腰に挿した大男が戸口に立っていた。
無精髭を生やした中年の男は、獣のような鋭い視線を周囲に巡らせながら室内に入ってきた。
覇夜斗は、ひと目見ただけでこの男が只者ではないことを悟った。
(ふん。兵の数は少なくとも、腕利きの用心棒を常にそばに侍らせているというわけか)
王の視線に気が付いた大男は、深く頭を下げると、主の後方に静かに腰を下ろした。
大男から再び視線を手前に戻した覇夜斗は、改めて美貌の皇子を見つめた。
「随分きれいな皇子様だな」
いきなり浴びせられた不躾な言葉にも、月読は微動だにしなかった。
相変わらず吸い込まれそうな黒く澄んだ瞳で、真っすぐ見つめてくるだけだ。
『澄ました顔しやがって』
全く動じる様子のない相手に、覇夜斗は内心、焦りと苛立ちを覚えていた。
「さぞかしここまで、各国の媛君を泣かせて来られたことであろうな」
あからさまに悪意を込めてそう言うと、弓なりの美しい眉が微かに反応したような気がした。
そのまましばらく、二人の男は無言で鋭い視線を絡め合った。