第十六話 弟 ※挿絵
縦糸に横糸が織り込まれてゆくように、太鼓の音に、高い笛の音が絡みつく。
奏楽に合わせて、燃え盛る炎を背にした夕月の舞いも激しさを増してゆく。
弓なりに反らされた肢体が宙を舞い、純白の衣が空気を孕む様は、まるで闇夜を乱舞する蝶のようだった。
息もつかせぬほどに連打されていた太鼓の音が、最後に大きく打ち鳴らされて突然止まった。
その瞬間、夕月は地面に膝を付き、首をうなだれて身を小さく屈めた。
病人達の手を打つ音も消え、再び静寂に包まれた広場に、夕月が激しく呼吸する音だけが聞こえていた。
そのまま、しばらく静かな時間がそこにはあった。
やがて、どこからともなく、手を叩く音が響き始めた。
それは、先ほどまでの奏楽に合わせた軽快なものではなく、彼女の舞に向けられた拍手だった。
いつしかそこに歓声も加わり始め、夕月は肩で息をしながらも、ゆっくりと顔を上げた。
そこには、病人であることを忘れさせる程、眩しい笑顔を浮かべて手を叩く人々の姿があった。
「素晴らしい!」
「媛巫女様、ありがとうございます!」
驚きに呆然とする彼女に、次々と賞賛と感謝の言葉が投げかけられた。
人々の意外な反応に戸惑い、傍らに滑らせた彼女の視界に亜玖利の姿が入った。
彼も胡座を組んだ状態で、満面の笑みを浮かべながら手を叩き、彼女と目が合うと、満足そうに頷いて見せた。
亜玖利に頷き返し、視線を再び患者達の顔に向けると、夕月の中にじわじわと喜びの感情が湧き出てきた。
霊力を失った自分の舞に、これほどまでに人々を喜ばせ、笑顔を輝かせる力があるなど、思ってもいなかった。
だが、この場を訪れた時目にした姿とは別人のように、背を伸ばして幸せそうに手を叩く人々の姿を見ていると、彼女の中に失いかけていた巫女としての誇りも徐々に甦ってきた。
『また、こうして人々の前で舞いたい』
そのような思いも、彼女の胸の奥で熱を放ちながら膨らみ始めていた。
「亜玖利?!」
覇夜斗が叫ぶように発した声に、夕月は振り返った。
見るとそこには、胡座を組んで首をうなだれる亜玖利の姿があり、王がその肩を激しく揺さぶっていた。
嫌な予感がして夕月は思わず立ち上がり、少年のそばへ近づいて行った。
「袖で口と鼻を覆え!」
覇夜斗に強い口調でそう言われ、夕月は慌てて袖で鼻から下を覆った。
そうして改めて彼らに近付いた彼女は、不安気な表情を浮かべて覆面した王の横顔を見つめた。
周囲を取り囲む患者達も、ただ事ではない雰囲気を感じ、互いに顔を見合わせて彼らの様子を伺い始めた。
「……死んでる」
やせ細った肩を握る手を震わせ、少年を見つめたまま覇夜斗は絞り出すようにつぶやいた。
「死……?!」
袖で口元を覆ったまま、夕月は大きく目を見開いた。
その瞳からは、一気に涙が溢れ出した。
「最後まで審神者として、お前の舞いを見届けたんだ」
そう言って、覇夜斗は、亜玖利の体をゆっくりと地面に横たえさせた。
血の気が抜け、表情を失った少年の顔は、無機質で神々しく美しかった。
「亜玖利!!」
夕月は何度も少年の名を叫びながら、細い体にすがりついた。
病人達も遠目に事態を把握したのか、多くの者が顔を伏せ、あちこちからすすり泣く声が漏れ始めた。
そんな中、覇夜斗はその場に立ち上がり、むせび泣く夕月の姿を、黙って見下ろしていた。
夜間に都へ向けて船を出す訳にもいかず、一行は村の長の屋敷で一夜を過ごすことになった。
村の資産を独占していた以前の長は、その後退任され、現在は覇夜斗が派遣した役人が屋敷に駐在して長の代理を勤めていた。
その夜は覇夜斗の命により、この地に滞在している役人達を労うため、屋敷でささやかな宴が催された。
宴とはいえ、広間に並べられた料理は、この地で穫れた海の幸と木の実や野菜が簡単に調理された質素なものばかりだった。
酒の入った役人達が久々に骨を休めて談笑する中、夕月はそれらの料理を口にすることもなく、ただ深いため息をつき続けていた。
そんな彼女の様子を、覇夜斗は盃を口元に運びながら、横目でじっと見守っていた。
「先に休みます」
やがて、夕月は覇夜斗にそう告げて立ち上がり、広間を後にした。
「あとを頼む」
しばらくその後ろ姿を見送っていた覇夜斗であったが、そばに居た役人にそう言い残し、彼女の後を追った。
屋敷から庭に出ると、そこには夜空の月を見上げる夕月の姿があった。
月明かりに照らされた白い巫女服が闇夜に輝き、その姿は息を呑む程に美しかった。
月を見上げる彼女の頬には、一筋の涙が光を放っていた。
ふと、自分を見つめる視線に気が付き、振り向いた彼女は慌てて涙を袖で拭い、覇夜斗に笑顔を作って見せた。
「可哀想だが、亜玖利の亡骸を都に連れ帰ってやることはできない」
流行病に侵され、命を落とした亜玖利の遺体は、直ちに保養所の敷地内に埋められた。
人の息から伝染るとされる今回の病であったが、朽ちゆく血肉からも拡散する恐れがあるため、病人の屍はこの地から運び出せない決まりになっていたのだ。
そのことは、夕月も理解しているようで、何度も頷きながら涙をこぼした。
「愛する者のそばで眠れることが、せめてもの慰めでしょう」
覇夜斗の命により、亜玖利は、先にこの世を去った少女と並ぶように埋葬された。
それは、この世で添い遂げられなかった幼い恋人達へ対する、彼のささやかな心配りであった。
「お前にとってあの者は、弟のような大切な存在であったのであろうな。私が非力であったばかりに、すまない」
彼が、董丹から息を介して伝染る病と知らされる前に、この地に派遣された亜玖利は、予防をすることができず、病に侵され命を落とした。
そのことに覇夜斗は、責任を感じていたのだ。
唇を噛み締めて頭を下げる王を、夕月は潤んだ瞳で静かに見つめていた。
「いえ、宮廷に一生閉じ込められているより、短い間でもここで人間らしい時間を過ごすことができて、あの子も喜んでいると思います」
意外な夕月の言葉を耳にして、覇夜斗は思わず顔を上げた。
そこには、せつな気に微笑む夕月の顔があった。
「私も、こうして宮殿以外の場所から月を見上げたのは、生まれて初めてです」
そう言って、夕月は再び空の月を見上げた。
彼女は巫女として、殆どの時間を神殿で過ごしている。
御田植祭や収穫祭で、王都内の田へ赴くことはあっても、夜を外で過ごすことはこれまでなかったのだ。
「あなたの生まれ故郷でも、月は同じように見えますか?」
不意に夕月の視線が、月から覇夜斗の方へ滑るように流れてきた。
その視線に捕えられた覇夜斗は体の自由を奪われ、その場に立ち尽くした。
「いつか、あなたの生まれ育った国を見てみたい……」
次の瞬間、覇夜斗の手が、夕月の体を強く引き寄せていた。
そのまま彼は細い腰に腕を回し、彼女の体を強く抱きしめた。
「王……」
ため息混じりに小さくささやく夕月の唇を、覇夜斗のそれが塞いだ。
やがて柔らかな草の上に静かに崩れ落ちた二人は、お互いを求め合うように激しく唇を絡め合わせた。
「夕月……」
甘い香りが立ち上る着物の襟元を広げ、白い肌を唇でなぞりながら、覇夜斗は愛しい女の名を何度も呼んだ。
これまで何人もの女達と肌を重ねてきた彼であったが、これほどまでに心の底から抱きたいと欲したのは初めてだった。
そんな彼の熱のこもった声と繊細な指先に、夕月も震える体を反らして反応した。
「……覇夜斗……」
熱い吐息と共に、夕月の口元から彼の名を呼ぶ声がこぼれ落ちた。
見上げると、先ほどよりやや高い位置に月が輝いていた。
衣がはだけ、剥き出しになった覇夜斗の胸元には、夕月が眠るように目を閉じて寄り添っていた。
露になった白い肩に衣を被せると、夕月は一瞬顔を上げ、再び幸せそうな笑みを浮かべて彼の胸に顔を埋めた。
はじめは感情のままに夕月と肌を合わせた覇夜斗だったが、彼女の中で果てることは思いとどまった。
「情けない男だな。俺は」
覇夜斗が苦笑しながらそうつぶやくと、夕月は顔を伏せたまま、無言で左右に首を振った。
「今の俺には、この国を一人で治めることはできない。巫女としてのお前の力が必要なんだ」
続いて吐き出された彼の言葉に、夕月は今度は大きく頷いた。
「これから国を動かす判断は、神に代わって俺が下す。だが、俺には人々の心を救い、民の心をひとつにまとめることはできない」
今回の件で、覇夜斗は政の判断を下すだけでは、国を動かせないことを実感していた。
死を目前に控えた病人達は、誰に頼る事なく、畑を耕すことで明日へのささやかな希望を見い出していた。
そんな彼らが、夕月の舞を見てこれまでになく狂喜乱舞していた。
霊力は失っていても、王家の血をひく巫女の舞と彼女の美しさは、人々に大きな希望を与えたのだ。
そしてあの瞬間、広場を包み込んだ一体感は、どんなに手を尽くしても、今の彼には生み出せないものであると痛感していた。
「だからお前は、巫女として俺のそばで生きてくれ」
胸元で顔を上げた夕月の瞳が、涙で潤んでいた。
「いつか俺は、お前の力に頼らずにこの国を治める王になる。その日までは……」
言いかけた覇夜斗の言葉を、夕月の唇が甘く遮った。
これまで神の言葉を絶対としてきたこの国の人々が、信仰のない政を受け入れられるまでには、長い年月を要するだろう。
渡来人の手から国を守るためにも、例え表面上だけであっても、信仰による政を続ける必要があるのだ。
だから彼女には、彼が言うその日が、命のある内に訪れるとは思えなかった。
だが、例え霊力を失っても、自分の舞により表情を輝かせる人々を見て、彼女も自分の役割を見つけた気がしていた。
そして、こんな自分でも彼の役に立てるのだと思うと、胸の中に喜びが満ちた。
妻としてはそばにいられなくても、巫女として王を支えられるなら、それでもいいと思えた。
「霊力を失って、わかるようになったこともあるの」
唇を離し、夕月は覇夜斗の目をじっと見つめた。
「許されない人を愛してはいけない。母が言っていた許されない人とは、宇志男の事ではなかったのよ」
驚きに目を見開く覇夜斗に、夕月は小さく微笑んだ。
「あなたの父上、前王のことだったの」
「……」
「あなたの父上は、偽りの妻である母を本当に大切にしてくださった。王にとっては、妹へ対する哀れみだったのかもしれない。でも、いつしか母はそんな王に惹かれていったのよ」
草間に身を起こした覇夜斗に背をもたれかけ、夕月は月を見上げた。
「でも、宇志男を裏切る己の気持ちを許せず、母は苦しんだんだわ」
ぱたぱたと涙をこぼし始めた夕月を慰めるように、覇夜斗は背後から細い首筋に頬を摺り寄せた。
「亜玖利はね、前王と母との間に生まれた子どもだったの」
思わず息を呑んだ覇夜斗の方へ身を捩り、夕月は悲し気に微笑んだ。
「そう、私達の弟よ」
「……」
「父上が亡くなる前に教えて下さったの」
そう言って夕月は、覇夜斗の胸にしがみつき、再び嗚咽を漏らし始めた。
覇夜斗は、夕月が話す内容がにわかには信じられず、戸惑いの表情を浮かべたまま、震える肩を見下ろしていた。
今朝、亜玖利は物心がつく前から神殿に預けられ、審神者になるための修行を受けていたと語っていた。
そのため、両親や家族の顔も記憶にはないと。
「あの子自身もその事実は知らなかった。そのことがあまりに可哀想で……」
「なぜ、そのようなことに……」
泣きじゃくる夕月の両肩を掴み、覇夜斗は彼女の瞳を凝視した。
そんな彼の瞳を、夕月もまっすぐ見つめ返した。
「私も、父からその事実を知らされた時には理由が理解できなかった。でも、今ならわかる。母は王との愛の証であり、同時に宇志男への裏切りの象徴である亜玖利の存在を、受け止めることができなかったのよ。だから父も、あの子が実の子であることを世間に伏せた」
「……」
「その後、亜玖利を生み落した母は心を病むようになり、その果てに自ら命を絶ったの」
胸に顔を埋めて泣く夕月の体を、覇夜斗は強く抱きしめた。
『許されない人を愛してはいけない』
それは妃にとって、宇志男への愛を裏切り、父王へ惹かれていく自分へ対する戒めの言葉だったのだ。
「亜玖利……」
歯を食いしばり、覇夜斗は絞り出すように亡き弟の名を呼んだ。
父も、妃も、出口の見つからない愛に苦しんだかもしれない。
だが、そばにいながら、親や兄弟の存在を知らされることなくこの世を去った亜玖利のことが、誰より不憫でならなかった。
「俺は、父のような偽りだらけの生き方はしない」
そう口に出してはみたものの、彼にもこの先、夕月を幸せにできる自信はなかった。
それでも今、ただひとつ言える偽りのない言葉を、彼女に伝えようと思った。
「夕月、俺はお前を愛している」
一瞬、動きが止まった夕月の両手が、覇夜斗の背中を強く抱きしめた。
そのまま二人は、月明かりの中でいつまでも抱き合い続けていた。