第十四話 哀しみの予感 ※挿絵
自室に戻った覇夜斗は、胡座を組み、眉間に皺を寄せて、もう長い時間考え込んでいた。
先ほど、祈祷の間で目にした夕月のせつな気な視線が、頭にこびり付いて離れない。
『まさか……』
故郷にいた頃、彼は通りすがりの女と幾度か関係を持った。
彼の容姿に惹かれた女達の多くは、少し甘い言葉をささやけば、誘われるままに体を開いた。
その時の彼女らの高揚した顔と、夕月が祈祷の間で見せた表情が重なった。
『夕月が……俺を……?』
彼自身は、もう随分前から彼女に惹かれている事を自覚している。
彼女が自分のことを憎んでいるとしても、人知れずこの想いをあたためていくつもりでいたのだ。
だが、予想もしていなかった夕月の反応に、彼の心は激しく動揺していた。
自分に向けられた熱い視線から、彼女の気持ちを悟った瞬間、思わず理性を失いそうになった。
あのまま押し倒し、彼女の全てを自分だけのものにしたかった。
表面上は異母兄妹ということになっているが、父王の弟を父に持つ夕月と自分は正確には従兄妹同士だ。
いずれにせよ、宇志男と紫乃のように、夫婦になることを咎められる関係ではない。
問題があるとすれば、彼女が巫女であるということだ。
今後は自分が政の判断を下すと心に決めた彼だったが、いきなり巫女の存在を失えば、民達は戸惑い、国も大きく乱れるだろう。
それでも、一瞬は父王がかつてそうしたように、彼女に巫女を続けさせながら妃にすることも可能かとも思われた。
『……しかし』
彼は両手で頭を抱え、大きくうなだれた。
父は、神の声が聞こえなくなった紫乃を巫女であり続けさせるために、偽りの神託を彼女に語らせた。
民達にとって、巫女とは神聖な存在だ。
いくら霊力を失っていないと説明したとしても、既婚者となった彼女が語る神託に対し、不信感を抱く者も少なからずあっただろう。
結局彼女は、自分に向けられた世間からの冷ややかな視線と、神を偽る罪悪感に耐えきれず、自ら命を絶ったのだ。
覇夜斗には、夕月に母と同じ苦しみを背負わせることはできなかった。
『私にはもう、巫女としてできることはありませんから……』
夕月は、そう言って涙を流していた。
己の体に流れる血を忌み、霊力さえも失い、自分の存在を否定しつつある彼女に、この上偽りの巫女を演じさせることなどできない。
「こんなことなら、憎まれていた方が気が楽だったな」
彼は目元を手のひらで覆い、そうつぶやいて苦笑した。
翌日、覇夜斗は再び亜玖利を呼び出した。
「これをお前に預ける。希望する患者に与えてやってくれ」
そう言って彼は、麻沸散の入った木箱を少年の前に差し出した。
「だがこれは、依存性が高い薬らしい。くれぐれも与え過ぎぬよう、管理を徹底してくれ」
「御意」
結局、覇夜斗は患者達の意志により、薬を与えることにした。
痛みと戦いながらも、最後まで自分らしく生きるか。
意識は遠退いていったとしても、安らかにその時を迎えるか。
薬の効果と副作用を説明した上で、患者達自身にいずれかを選択させることにしたのだ。
そして、その管理を、審神者として医学の知識がある亜玖利に任せることにしたのだった。
亜玖利は、受け取った箱を丁寧に傍らに置くと、改めて覇夜斗の方へ向き直り、小さく首を傾げた。
「昨日、夕月様と何かありましたか?」
「……」
思わず目を見開いた覇夜斗の顔を見て、亜玖利は「やはり」と小さくつぶやき、ため息をついた。
「今朝、夕月様にお会いした時、いつもと様子が違うように感じたものですから」
「……」
口元を手で覆い、目線をずらした覇夜斗を、亜玖利はしばらくじっと見つめていた。
「お気付きなのでしょう? あの方は、あなた様を愛していらっしゃいます」
亜玖利の言葉に、覇夜斗の心臓は大きく胸板を叩き始めた。
他人の口から改めて言われると、それまで推測に過ぎなかったものが、真実となって彼の心に突き刺さってきた。
「あなた様への想いが、あの方から霊力を奪ったのです」
その瞬間、思わず覇夜斗は顔を上げ、亜玖利を凝視した。
夕月の霊力は、実の父である宇志男を失った哀しみにより失われたと思っていたのだ。
「ですからあの方は、あなた様に力を失ったことも打ち明けられず、一人で苦しんでいらしたのです」
そう言って、亜玖利は本心を探るように、覇夜斗の目を強く見つめ返した。
「あなた様も……?」
亜玖利の視線から逃れ、顔をそむけた覇夜斗は、下唇を噛み締めて髪を掻きむしった。
そんな王の様子をしばらく見ていた亜玖利は、ふと、遠い目をしてぼそりと小さな声で言った。
「大切な人と過ごせる時間は、永遠ではありませんよ」
「そうですか。薬を使うかどうかは、患者自身の意志に委ねられましたか」
覇夜斗の話を聞いた董丹はそう言い、声をあげて笑った。
「何ともあなた様らしい」
なかなか笑いが納まらない様子の老人は、茶を載せた盆を手に、肩を揺らして座卓へ近付いてきた。
「しかし、倭人とは面白い習性をしておりますな。薬に頼らず、あえて苦しむ道を選び、なおかつ明日への希望を見いだすとは」
患者達が作物の成長を見守る事で、生きる希望を得ているとの話に、老人は細い目を目一杯丸くして驚きの表情を見せた。
麻沸散を西の村へ持ち帰った亜玖利からの報告によると、患者達の多くは薬に頼ることを望まなかったという。
殆どの者は、耐え得る内は痛みと向き合い、己を保ち続けたいと希望したようだ。
とはいえ亜玖利は、夜も眠れないほどの苦痛を抱える患者には、やや効き目を抑えた薬を、段階的に勧めるようにしているという。
それは、睡眠不足や気力の減退によって心身が衰弱し、死期が早まることを防ぐためだ。
そうやって患者達は、苦しみを最小限に抑えながらも、最後まで自分らしく生きようとしているらしい。
その点、症状に応じて効き目を調整できる麻沸散は、現地で重宝がられているそうだ。
覇夜斗はこの日、事態の経過を報告し、謝辞を伝えるために董丹のもとを訪れていたのだ。
「我が師である華陀があの薬を発明した時、魏ではあらゆる病を抱えた者達が殺到してきたそうですよ。やがては体が健康な者達まで、現実逃避をするために薬を欲したそうです。そうして当時、町のあちこちでは、廃人となった者達が寝そべったり、のたれ死んだ姿が見られたそうです」
「だから、華陀は故郷へ帰ったのか?」
主人である曹操のもとから、無断で故郷へ帰った華陀は、その後引き戻され、拷問の末に命を落としたとされている。
いきなり確信に触れてきた覇夜斗の問いに、董丹の顔から一瞬で笑みが消えた。
そして、いったん茶を啜った老人は、器を卓に置くと、少し遠くに視線を漂わせた。
「それもあります。しかし、最大の原因は、曹操が麻沸散を暗殺の道具に使おうとしたことにあります」
「暗殺?」
董丹の返答に血なまぐさいものを感じ、覇夜斗は喉をごくりと鳴らせた。
「麻沸散の特徴は、効き目を調整できるところにあります。師はそれによって、患者の体への負担を最小限に抑えて治療を施そうとしたのです」
「……」
「しかしそれは、裏を返せば人を徐々に弱らせ、命を奪う道具にもなる。曹操はそうやって、邪魔者を消したり、捕虜の自白剤として使おうとしたのです。そのことを知った師は、生成方法の書かれた書物を持って故郷へ帰ったのです。そしてそれを弟子に預けた後、追手に捕えられ、都へ連れ戻されました。曹操は師を拷問にかけて書物のありかを聞き出そうとしましたが、彼はそれを拒み続けた末に命を落としたのです」
「……」
「薬は人の命を救う事も、奪う事もできる。けれど、あなた様なら、きっと間違った使い方はなさらない。そう信じてお渡ししてよかった」
そう言って、老人は再び声をあげて笑った。
「ところで、媛巫女様はお元気にされておられますかな」
突然、董丹が投げかけてきた話題に、覇夜斗の動きが止まった。
そのまま、顔を伏せ、唇を噛み締める彼の様子を、老人は上目遣いにじっと見つめていた。
「巫女が霊力を失うということは、人が人でいられなくなることにも等しい苦しみのようですな。父上も、徐々に心を閉ざしていかれるお妃のご様子に、心を痛めていらっしゃいました」
驚いて顔を上げた覇夜斗の前に、せつな気に微笑む老人の顔があった。
「父上は本当にお優しい方でした。しかし、大切に守られているばかりでは、人は誇りを持って生きていくことはできないのですよ」
「……」
「あなた様の媛巫女様への想いが、同情ではなく愛情であるなら、おのずとお救いする方法もおわかりになられるでしょう」
その後、数ヶ月が経ち、新たな発症者が殆ど見られなくなり、ひとまず例の病の件も収束に向かっていると思われた。
その後も覇夜斗は、定期的に西の村から亜玖利を呼び出し、保養所で過ごす患者達の様子を報告させていた。
だがこの日、覇夜斗からの呼び出しに応じて謁見の間に現れたのは、見慣れない若い役人だった。
「亜玖利はどうした?」
胸騒ぎを覚えた覇夜斗が、眉間に皺を寄せてそう問い掛けると、役人の男は言いにくそうに口ごもった。
「亜玖利様は……」
役人の答えを耳にした瞬間、覇夜斗は顔色を失くし、その場に立ち上がった。
その日の内に西の村を訪れた覇夜斗は、村のはずれにある保養所へ向かった。
以前訪れた時、小屋の周りを覆い尽くしていた草木は伐採され、そこに造成された畑には、青々とした季節の野菜が育っていた。
「出雲国王様」
畑を耕す患者と思われる複数の男女が、彼の姿を目にして手を止め、笑顔で手を振った。
だが、この日の覇夜斗には、彼らに笑顔を返す余裕はなかった。
戸口まで辿りついた彼は、改めて建物を見上げた。
隙間だらけであった戸や窓は新しいものに取り替えられ、処々穴があき、雨漏りをしていた藁葺き屋根も綺麗に補修されていた。
いったん息をついた彼は取手に指先を掛け、勢い良く引き戸を開け放った。
突然、眩しい陽の光が室内に差し込み、病人や彼らの世話をする者達の視線が、一斉に戸口に立つ青年に向けられた。
中の様子も以前と大きく異なり、患者達は整然と並べられた清潔な褥に寝かされていた。
「亜玖利……」
小さく少年の名を呼び、覇夜斗は室内を見渡した。
すると、そばで患者に寄り添っていた医官が立ち上がり、彼に布を差し出してきた。
「出雲国王様、これで……」
うなずいた覇夜斗が布で鼻と口を覆うと、医官は手を広げて彼を部屋の奥へ誘った。
奥に向かって歩き始めた医官の後を、覇夜斗も神妙な面持ちで追っていった。
突然現れた王の姿に驚きつつ、室内の者達は皆、彼に向かってその場にひれ伏した。
「亜玖利……?」
部屋の奥に横たわる線の細い少年の傍らに膝を付き、覇夜斗が声を掛けると、以前より黒目勝ちになった瞳がゆっくりと開かれた。
その体は、前回会った時に比べて随分やせ細り、もともと色白であった肌は、蒼白を極めていた。
「……出雲国王様?」
慌てて身を起こしかけた亜玖利だったが、次の瞬間、大きく咳き込み、その口から真っ赤な血が吐き出された。
「亜玖利!!」
覇夜斗が細い背中を抱えると、少年は布で口を押さえながら、何度も深く頭を下げた。
「申し訳ありませぬ。申し訳ありませぬ。最後までお役に立つ事ができず……」
涙を流して謝罪し続ける少年を、覇夜斗は強く抱きしめた。
「私の方こそすまぬ。お前をここへ派遣する前に、人の息から感染することがわかっていれば……!」
覇夜斗が董丹から、病の特徴を聞く前にここへ派遣されていた亜玖利は、無防備に患者達と接していたため、予防を心がけ始めた頃には既に感染していたようなのだ。
体が健康な間は、体内で静かに眠っていた病魔が、先日、冷たい雨に当たって風邪をひいたことをきっかけに一気に牙をむき始めたらしい。
「すまない。すまない。亜玖利」
覇夜斗の腕の中で、再び亜玖利は激しく咳き込み、吐き出された血によって、王の白い衣は赤く染まった。