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青い翼
作:勝 ひろし


光雄が空港に着いた時、ラッシュアワーは避けた積りだったが、カウンター近くのロビーは搭乗手続きを待つ人でごった返していた。
場内アナウンスと電光掲示板から、どうも滑走路が閉鎖されているらしい。
閉鎖が解かれる目処はまだ立っていない様だ。何が有ったのか光雄には皆目見当が付かなかったが、遅くても二時迄には熊本に着かなくてはならない。
十分時間の余裕は見た積りだったが気持に焦りが出て来た。
一方のたえ子は明日の弟の結婚式に出席する為に熊本の実家へ帰るところで、事故は彼女が空港に着いた直後に発生した。
光雄が原因を知ったのは、頭を抱えて困り切っている様子を見て、隣に立っていたOL風の女性が教えてくれたからだ。
その女性がたえ子だった。
「少し前に出発寸前の飛行機のタイヤがパンクしたらしいんです、それも全部」
「全部のタイヤがですか」
「ええ、でも走行中だったらしく怪我をした人はいなかった様です」
光雄は事の重大さを知るとロビーの混雑状況は理解出来たが逆に不安が募った。
不安と焦りの中で時間だけが過ぎて行った。
光雄が空港に着いてからかれこれ二時間以上経って、既に時計は十一時を廻っていた。
正常であれば熊本行きの飛行機の中で間もなく四国が見えて来ようかという時間だ。
三時に大学での会議に出席する為に熊本へ向かうところで、たえ子は前日に行く訳だから別段焦ってはいないが、光雄は段々心配になって来た。
突然アナウンスが流れた。
「大変ご迷惑をお掛け致しました。間も無く搭乗手続きを再開致します」
ロビーに「うわー」と歓声が上がった。
光雄もたえ子も思わず顔を見合わせて喜んだ。
搭乗手続きが始まりカウンター前に長い行列が出来た。
やっとの思いで搭乗手続きを済ませた光雄とたえ子は、同じ熊本行きの飛行機なので、搭乗ゲート迄一緒に歩いた。
だがまだ完全に復旧した訳ではないので、搭乗には三十分位掛かるとのことだ。
二人は搭乗ゲート前の椅子に腰掛けてアナウンスを待った。
この調子で行けば何とか間に合いそうだ。
光雄の顔にも安堵の色が指し始めていた。
そんな光雄の様子を見てたえ子が言った。
「良かったですね。間に合いそうで」
「有難う御座います。気を使って頂いて」
と光雄は礼を言った。
アナウンスが搭乗バスの案内を始めている。
二人は立ち上がりゲートを通ってバスへと向かった。
機内での座席は近くではなかった。
機内は思った通り満席で座席を探して通路を進んでいる内に光雄はたえ子の姿を見失っていたが、熊本空港で又会えると思いながら座席に着いた。
窓際の座席に座って小さな窓からぼんやり外を見ていると、彼女の顔が浮かんで来た。
時間ばかりが気になり、彼女のことはぼんやりとしか見ていなかったが、彼女がどんなに心を落ち着かせてくれたかと思うと、しきりに側にいて欲しい気持ちが湧いて来た。
たえ子も空港でのことを考えていた。
時間的な焦りは無かったが、一人でただ時間だけが過ぎて行く空しさを感じていた時に、ハンサムな光雄が隣で困っている様子だったから、つい話し掛けていたのだが、たえ子自身も光雄に事故について話したことで、長い時間待たされていることが納得出来た様に思えた。
同時にその事が切っ掛けで、一時では有ったが、話し相手が出来たことが嬉しかったし、時間が経つのを忘れさせてもくれた。出来れば今も隣にいてくれたらと思ったりした。
そして空港に着いたら又会おうと思った。

羽田を飛び立ってからの飛行は順調だった。
空港に到着し光雄が飛行機を降りて渡り廊下に出ると、前の方の座席だったたえ子は、既に出ていて光雄を待っていた。
「座席を探している内に分からなくなってしまって」と光雄は頭をかきながら照れ笑いした。並んで話しながら歩き空港を出た。
たえ子の行き先も市内なので途中まで一緒にバスで行くことにした。
時間は二時近くなっていたが何とか間に合いそうだ。
光雄はバスに乗る前に熊本空港に着いたことを大学へ連絡すると、到着を心配していた相手の担当者も安心した様だった。
二人はバスに乗り並んで座った。
光雄が先に自己紹介をした。
「井上光雄です。二八才独身です。NCCコンピューターに勤めています。会社の柏寮から通っています」
たえ子が続けた。
「吉田たえ子と申します。二七才で独身です。東京商事に勤めていて世田谷のマンションで一人暮しです」
「あなたの会社は確か八重洲ですよね」
「ええそうです。そう言えばNCCコンピューターは丸の内ですよね。すぐお近くではないですか」
そうこう話している内にたえ子の下車するバス停に近着いていた。
「近い内に又お会いしたいですね」
と光雄が立ち上がろうとしていた、たえ子に言うと
「ええ、きっと」
とたえ子は笑顔で答えてバスを降りて行った。
バスが動き出して、はっとして、たえ子はバスを追ったが遠ざかって行くバスを見送るしかなかった。
光雄もその時お互いの連絡先を言わずじまいだったことに気付き、立ち上がって後方を見たが既に彼女の姿は無かった。
勤務先と名前だけは手帳に書き留めていた。
それはたえ子も同じだった。

光雄は何とか三時前に大学に着くことが出来たがこんな思いをしたのは始めてだった。
大学の関係者も労を労い暖かく迎えてくれた。
無事会議を終えて大学を出た時は五時半を廻っていた。

時間が有れば熊本市内の電話帖で吉田と言う名前の電話番号に片っ端から掛けてみたかったが、明朝一番の社内会議に出なくてはならない光雄は重要なプロジェクトを任されていて重い責任が有り、どうしても今日中に東京に帰らなければならない。
明日の会議が終われば午後は多少時間が有るはずだから、東京商事は近くだし、行ってみようと光雄は考えながら、ひとまず気を落ち着けて空港へ向った。

一方のたえ子も光雄と同じ考えで、光雄のことは東京までお預けにした。

二人にとって僅かな時間の中での接触に過ぎなかったが、強い印象をお互いに与え合っていた。
空港に着くと、出発ロビーは程々に混雑していたが、フライトに変更は無く、予定通りに帰れそうだ。
帰りの座席も窓際で、外はもうすっかり暗くなっていた。
間も無く離陸の様だ。
光雄はただぼんやりと窓の外の大きな翼を眺めていた。
離陸後間も無くして、機体は空高く水平飛行に移り、シートベルトのサインも消え、機内にはリラックスした気分が漂い出していた。
大画面に映像も映し出されている。
光雄が相変わらず翼を見詰めていると、突然翼の色が真っ青に染まり暗闇の中に浮かび上がった。あまりの美しさに「あれっ」と驚きの声を上げた。
大画面に映し出された海の色が映って、光雄の目にはいかにも幻想的な光景に見えた。
光雄はその光景を見ながら、今日出会ったばかりのたえ子と海辺で遠くの海を眺めている様な気分にしたっていた。
「お飲み物は如何ですか」
フライトアデダントの女性の声で我に帰った時、ちょうど映像が切り替わろうとしていた。
ホットコーヒーを貰い、ゆったりとした気分を過ごしていると、緊張から解かれた後の程好い疲労感が光雄を襲って来た。
シートベルトを締めて光雄は目を閉じた。
「座席を起こして下さい」
と言うフライトアテンダントの女性の声で目を覚ますと、飛行機はもう羽田に近着いていた。
空港を出て寮に戻ったのは十一時近かった。
光雄は朝ベッドの上で目を覚ます迄泥の様に眠った。
たえ子も一度も夢の中に現れることも無く、光雄を静かに寝かせてくれた。

熊本のたえ子は実家で家族と親戚を交えて、弟の紀夫の独身生活最後の一時を飲めや歌えで楽しく過ごした。
やはりそれなりに忙しく、たえ子の頭の中に光雄が現れる暇は無かった。
実家で遅くまで起きていたたえ子は、光雄と同じく朝迄ぐっすり眠った。
目を覚ました時、母の節子はもう仕度を始めていた。
今日は水曜日だが、たえ子は休みの様な気分になっていた。
デパート勤めの紀夫には、店の休業日以外に式を挙げるは無理だった様で、たえ子は逆に休まなくてはならなかったが、弟の晴れの結婚式でもあり、二日の休みを取って来ていた。

光雄は午前の会議が終わると少し時間の余裕が有ったので、東京商事へ行ってたえ子の連絡先を調べて来ようと会社を出た。
東京商事は光雄の会社とは東京駅を挟んで反対側で歩いても十分と掛からない。
東京商事はさすが大商社で受付はかなり混んでいた。
光雄は順番を待って、
「吉田たえ子さんにお会いしたいのですが、NCCコンピューターの井上と申します」と受付に名刺を出して尋ねると、受付嬢は画面で検索し電話で連絡を取ってくれた。
彼女はたえ子の部署の人と話し終わると、
「申し訳有りません。吉田はきのう今日の二日間休ませて頂いておりますが、明日は出社する予定です」と確認してくれた。
「連絡部署と電話番号をお教え頂けますか」と光雄が聞くと、
「国内第三営業部です」と併せて電話番号を教えてくれた。
明朝一番で電話をすればたえ子が光雄を探す手間が省ける、そう思いながら光雄は名刺を受取り東京商事を後にした。

その頃たえ子は熊本市内のホテルで、結婚式が始まるのを両親と控え室で待っていた。
母の節子がたえ子の顔を見ながら
「たえ子、あーたはどぎゃんなっとっとな」
と突然言い出した。
「そのうち、おーちもらうけんね」
と言ってしまってからたえ子ははっとしたが、それも頭の中にきのう出会ったばかりの光雄のことが有ったからだ。
事実、たえ子には現在交際中の男性はいなかった。
側で父の泰三が
「たえ子にもよか人んでけたっね」
と安心した様に言った。
東京で一人暮しのたえ子が両親には心配でたまらないらしい。
特に、母の節子はたえ子が東京暮らしを続けたいのなら、早く結婚して安心させて欲しいと思っている。
いよいよ式が始まる様だ。
たえ子は一先ず母の追求から解放された。
屋号の吉田屋は歴史が古く、競争の中で徐々に規模は小さくなって来てはいたが、それでも老舗酒屋の後継ぎになる息子の結婚式は盛大に行われた。
地元に深く根を張った吉田屋を絶やしてはならないと、大勢の人達が式を盛り上げてくれたことに、たえ子は実家の偉大さをしみじみと味わった。
無事式が済んで一通り挨拶を済ませると、たえ子は父の泰三と母の節子に
「暮にまた帰って来ます」
と畏まった様子で言うと、ホテルを出て空港へ向かった。
きのう光雄が取った足取りと殆ど同じだった。
空港の出発ロビーはそれなりに混んでいたがフライトに変更は無さそうだ。
きのうの様なことも有り、確認出来る迄は多少の不安が有ったがたえ子はほっとした。
機内は程々に混んでいたが来る時程ではなかった。だが座席は後方だった。
窓際の座席に座ったたえ子は、やっと一仕事終えた時と同じ様な心持ちになっていた。
出発の時間も飛行機もそれに座席の位置迄夕べの光雄と全く同じだが、たえ子はそのことを知る由も無かった。
シートベルトをしてただぼーっとしていた。
空港を飛び立って少し経った頃、きのう光雄が幻想的な光景を見た例の映像が大画面に映し出された。
たえ子の目は画面に集中していて、窓の外の青い翼を見ることは無かった。
たえ子も又映像を見ながらうとうとと眠りに着いて行った。
フライトアテンダントの女性の「座席を起こして下さい」と言う声で目を覚ましたのも光雄と同じだった。
マンションに戻ったのも光雄と同じ十一時近くだった。
シャワーを浴びて直ぐにベッドに転がり込んだ時は、たえ子も全身が重く疲れ切っていた。
朝迄泥の様に眠った。
光雄を思い出す合間も無かった。
しかし朝は快く目を覚ました。
たえ子は出社したら直ぐにNCCコンピューターへ電話をしてみようと考えていた。
同じ頃寮で目を覚ました光雄も同じことを考えていた。
だが光雄には既にたえ子の連絡先の電話番号が分かっていた。

二人は時間的にほとんど同時に寮とマンションを飛び出した。
二人が降りる駅は同じ東京駅だが、住まいは光雄が千葉の柏で、たえ子は東京の世田谷で、まるっきり正反対だが時間的にはほとんど変わりは無い。
時刻は八時三十二分、山手線の内回り、外回りの電車は隣合わせのホームにほぼ同時に着いた。
毎日二人は電車の中央の車両から降りて南よりの中央階段を下りていた。
光雄は階段を下りて右に曲がり丸の内方面へ、たえ子は左に曲がって八重洲方面へ向って歩いていた。
光雄とたえ子は人の流れの中で擦れ違っていた。多分今日もそうであったに違い無い。
二人がそれぞれ会社に着いたのも九時ちょっと前だった。
今日は幸い二人共朝から会議などの予定は無かった。
光雄は時計を見ながら机の上の手帳を覗いていた。
同僚からは得意先に電話を掛ける準備をしている様に見えた。
光雄は深呼吸してから受話器を取ると「おはよう御座います。NCCコンピューターの井上と申しますが吉田様をお願い致します」と電話口の女性に丁寧に伝えた。
通話は保留になった。
「吉田さんお電話です」
「ハーイ」とたえ子は受話器を取って
「もしもし吉田ですが」
間違いない、彼女の声だ。
「井上です、先日空港でお会いした」
余りの速さにたえ子は唖然として声が出なかった。
たえ子はこれから光雄の会社の電話番号を調べ様としていたところだった。
光雄はたえ子の言葉を待ったが、無言のままでは周りに変に思われると思い口を切った。
「お会い出来ますか」
「ええ」
やっとたえ子から返事が返って来た。
再開の目処が着いた二人だった。
二人共忙しい一日だったが残業はしなくても済みそうだ。
五時ちょっと前
「井上さん、吉田さんからお電話です」
光雄は平静を装いながら電話に飛び付いた。
「私の方は終われそうですが、そちらは如何ですか」とたえ子が都合を聞いて来た。
「幸いこちらもひと段落致しました」
と光雄は周りを気にしながら答えた。

普段の帰り道とは正反対の夜の銀座は光雄にとっては久しぶりだが、たえ子にとっては会社帰りに同僚や友人と良く銀ぶらを楽しんでいたのでそう珍しくも無かった。
待ち合わせ場所はマリオンのカラクリ時計の前で、六時に時計が踊っている間に会うことになった。
今から出ても早すぎる距離だが光雄は五時ちょうどに会社を飛び出した。
たえ子が約束の場所に着いた時には、既に光雄はガードレールに腰掛けて待っていた。
少し離れていた方がたえ子を探し易いと思ってのことだったが、たえ子は素早く光雄を見つけて足早に近付いた。
逆に前を見ていた光雄は横から来たたえ子に気付かなかった。
「先日はどうも」とたえ子が光雄の横に立って声を掛けた。
声の方向を見て慌てて立ち上がった光雄は「どどどうも」と返事らしい返事で無い返事をした。
六時の時報と共にカラクリ時計が動き出したので大勢の人に混じって二人も上を見上げ、その動きに目を凝らした。
たえ子は、今日の、にこやかな光雄が、始めて会った時と大分感じが違っている様に思えたが、一層心を引かれていた。
二人は静かなレストランを探して歩いた。
みゆき通りに格好の小さなレストランを見付け、始めてのデートにふさわしい店に思えた二人は目で確認し合って中に入った。
店内には人目を遮る様に観葉植物が置かれていて、二人だけの世界が作れそうな小さなテーブルに二人は案内された。
光雄は奮発しょうと誘った時から決めていた。
「僕のおごりです、好きな物を注文して下さい」そして続けて
「この間のお礼です」とたえ子を気使って言った。
たえ子は折角の光雄の好意にやぼは言わずに「ご馳走になります」と素直に従った。
二人はステーキとワインを注文した。
「この間は大変でしたね」とたえ子が口を切った。
「あなたのお陰で気持ちも落ち着き、時間にも間に合い、無事仕事を終えることが出来ました」と光雄はたえ子を笑顔で見詰めながら礼を言った。
「バスを降りてから連絡先を伺うのを忘れて、バスの後を追ったのですが行かれてしまいました」とたえ子が言うと
「僕もはっと気が付いて、うしろを見たのですがあなたの姿が見えませんでした。時間に追われ降りるに降りられず、それでも一瞬迷ったのですがあなたのお名前と勤め先を伺っていたので直ぐ会えると思って、そのまま仕事に向かってしまったんです」とたえ子の後を追わなかったことを詫びる様に光雄は言った。
ワインとステーキが運ばれて来た。
二人は再開を祝して乾杯した。
互いにこうして正面から見合うのは始めてだった。
「吉田さんはお綺麗ですね」と光雄が満足そうに言うと
「井上さんこそすてきですわ」とたえ子が言い、お互いに初対面の時の印象に間違い無かったことを確認し合った。
食事が済んでも二人は居心地の良いその場を立とうとはせずコーヒーを飲みながら次のデートの約束をした。

既に二人の心はこのままお付き合いしていきたいと思う様になっていた。

「青い海を見たいのですが海はお嫌いですか」と光雄が言うと
「飛行機の中で綺麗な海を見ました」とたえ子が言った。
「同じ飛行機だったんですね。窓際の座席で外の翼を見ていたら突然翼が真っ青に染まったんですよ。「あれっ」と思ったらあなたが見た画面の映像の青い海が映ってたんですよ。それは幻想的で美しかったです」と光雄がいかにも素晴らしかった様に言うと
「そうだったんですか、私は翼の方は見てませんでした。惜しい事をしたんですね」といかにも残念そうにたえ子は言った。
「それにしてもあの海の青さは格別でしたね」
「ほんとに綺麗でしたね」
二人はすっかり意気投合していた。
「今度の日曜日に車で湘南海岸にでもドライブしてみませんか」と光雄が誘うと
「うわーすてき、是非行きたいわ」
話しは早かった。
レストランを出た二人は暫く夜の銀座を寄り添って歩いた。
二人共大学時代から東京に住んで十年近く経っているが、こうして夜の銀座を歩くのは始めてだった。
JRの有楽町駅で硬い握手を交わした二人はそれぞれ反対方向のホームの階段を上がり家路に着いた。

光雄の実家は山形で両親と兄夫婦の四人でそば屋を営んでいる。
歳の離れた妹は山形市内の国立大学に通っている。光雄自身は東京の私立の工業大学を卒業後SEとしてNCCコンピューターに就職し、銀行業務や大学の業務を担当している。
一方たえ子の実家は熊本市内で古くから酒屋を営んでいるが、弟が結婚するのを機に酒類も扱うコンビニエンスストアーに改築し、その弟夫婦も両親と同居することになっている。弟は結婚後デパートを退職して夫婦で両親と一緒に店で働くことになっている。
たえ子の実家も光雄の実家と同様に後継者が決まっている。
光雄もたえ子も現在のところ実家のことを心配しなくても済み、盆暮の忙しい時期に帰り、
手伝ったりする程度であるが、それでも実家にとっては有難い助っ人でもある。
たえ子の両親はたえ子が一人暮しなのが心配なのであって、東京で暮らすことに反対している訳ではない。
早く結婚して安心させて欲しいと願っている。
弟が結婚したこともあり、結婚に対するたえ子への風当たりがより一層強まって来ていた。
「そのうち おーちもらうけんね」
とたえ子が見栄を張ったのも無理からぬ状況だった。
光雄の方はと言えば、三十前の男はまだその点では大した圧力を感じたことは無かった。
たえ子は東京の女子大の英文科に在学中にテニスで知り合った一級下の男性と付き合ったことも有るが、東京商事に就職した後は会うことも無くなっていた。
そんな光雄とたえ子の出会いは必然的にセットされたかの様で、余りにも似合いのカップルでしかも美男、美女である。

日曜日、光雄は朝早く寮を出た。
帰りの混雑を考えて車はたえ子のマンションになるべく近い所で借り様としていた。
渋谷駅近くでレンタカーを借りた光雄はカーナビをたえ子のマンション近くにセットしてシートベルトを締めた。
運転は久しぶりだが学生時代は自動車部にいたこともあり、自身が有る。
携帯電話でマンションの近くにいることをたえ子に告げ、光雄は車を降りて待っていた。
既に仕度が出来ていたのだろう、たえ子は大きなバッグをぶら下げて、ジーパン姿でマンションの玄関前に現れ、左右を見渡して光雄を探した。
光雄が「ここ」
と手を振ると、たえ子も笑顔で手を振りながら小走りで車に駆け寄って来た。
「おはようございます」
互いに挨拶を交わすと、光雄はたえ子からバッグを受取り後部席に乗せてから助手席のドアを開けて、たえ子に乗るように促した。
光雄は運転席に座るとカーナビを茅ヶ崎の海岸近くにセットして
「では行きましょうか」と元気に言った。
「行きましょう」とたえ子も笑顔で答えた。
環八通りに出ると既に車が繋がっていたが、混むのは覚悟の上だった。
第三京浜を真直ぐ走ればいい。
熊本行きと違って急ぐ旅ではないし、光雄は茅ヶ崎近くで海岸線に沿って適当な場所を探す積りでいる。
たえ子もそんな光雄の余裕の有る態度に気持ちが落ち着けた。
カーラジオの静かなBGMが一層心地良さを誘っていた。
二人は実家のことや仕事のことなどお互いの全てに付いて語り合った。
第三京浜は思った程混んではいない様だ。
光雄の運転する車は快適に走っている。
光雄が「たえ子さんと呼ばせてもらいます」
と言うと
「じゃあ私は光雄さんと呼ばせて頂きます」二人は照れ笑いしてお互いの名前を二度、三度と呼び合った。
茅ヶ崎に近付いた頃には、
「たえ子さんもう少しで海ですね」
との光雄の言葉に
「その様ですね光雄さん」
とすっかり板に付いていた。
時間は十二時を廻っていた。
二人の仲はすっかり打ち解けた雰囲気になっていた。
目の前の海の青さは飛行機の中の映像とは大きな違いが有ったが、二人の目にはあの時の青さが焼き付いていた。
広い砂浜には結構多くのカップルが点々と腰を降ろしていた。
二人は適当な場所を探して砂の上に敷物を敷いた。
たえ子の準備は完璧だった。
大きなバッグの重さから一体何が入ってのかと光雄は思っていたのだが、二枚の膝掛けの内一枚を敷物の上に敷いて、もう一枚は座ってから二人の膝の上に掛ける積りらしい。光雄はたえ子の女性らしい配慮と、てきぱきとした仕種にすっかり虜になっていた。
二人が腰を降ろすと、たえ子は優しい仕種で光雄の膝の方から膝掛けを乗せて自分の膝の上にも素早く乗せると満足そうに
「冷えるといけないから」
とにっこり笑って言った。
今度は脇のバッグから今朝作った手作りのサンドイッチと、卵焼きやら色々綺麗に入った容器を光雄の膝に乗せた。
光雄は途中で買ってきたペットボトル入りのミルクティーを一本たえ子に手渡した。
光雄は口に入れる度に「旨い旨い」を繰り返した。
たえ子も「美味しいでしょ」と自信有りげだが不安そうに光雄の顔を覗き込んで言った。
食べ終わった二人は空のペットボトルを枕に寝転んだ。
雲一つ無い空の青さはあの映像の海の青さに近かった。
「綺麗な空」
とたえ子が声を上げた。
「海より青いね」
と光雄も返した。
暫く二人はじっと空を見つめていた。
どちらかとも無く伸びた手が硬く握られていた。
肌寒くなって来た。
波の音が一層大きく耳に届いていた。
二人は背を起こした。
「そろそろ車に戻りましょうか」
と光雄は立ち上がりながらたえ子の手を引いた。
車に乗ると外の寒さが際立って感じられた。
二時を廻っていた。
光雄は車を海沿いの道を江ノ島方面へ走らせた。
たえ子も運転はするがすっかり助手席が気にいっていた。
海は進行方向の右側に広がっている。
助手席のたえ子が海を見るには光男の方を見ることになる。
たえ子は海を見る振りをして光雄の横顔をじっと見詰めていた。
暫く光雄は黙って前を見てハンドルを握っていたが、段々顔の左側にたえ子の視線を感じて、ちらっと左に目を向けたらたえ子の視線と激しくぶつかり合った。
江ノ島の目の前に来ていた。
二人は海岸沿いに車を止めて真正面から島を眺めた。
又いつしか硬く手が握られていた。
「たえ子さん僕は楽しくてたまらないのですが」と光雄が言うと
「私は光雄さんの倍位楽しいわ」とたえ子が言った。
「それじゃあ僕はたえ子さんの十倍」
「私は光雄さんの更に十倍」
二人は繰り返される度に一層硬く手を握り合った。
光雄は車を動かしたかったが、手を離したくなかったので、シートを半分倒して寝そべるとたえ子も同じ様に寝そべった。
二人は身体を横にして見詰め合った。
光雄が顔を近付けるとたえ子も近付けて来た。
たえ子は目を閉じた。
たえ子の唇が微かに震えている。
両手を強く握り締めながら光雄はそっと唇を重ねた。
たえ子は目を開けて満足そうに微笑んでいる。光雄もにっこり微笑み返した。
二人共歳は二七、八だが恋らしい恋はまだしたことが無かったし、口づけしたのも無論始めてだった。
もう四時を廻っていた。
帰りはもっと混むだろう。二人は座席を起こしシートベルトをしっかりと止めた。
車内を一気に緊張感が走った。
光雄はたえ子のマンション近くをカーナビにセットして
「たえ子さんは少し動きの早い曲も好きですか」と聞くと
「ええ音楽なら何でも」とたえ子は答えた。
光雄はFM放送を選局して車を走らせた。
車内はがらりと雰囲気が変わって光雄がリズムに合わせて身体を動かし口ずさむとたえ子も合わせて身体を揺すった。
道路は思った通りの混み様だったが二人は反って嬉しかった。
暫く騒いだ二人は曲が静かなバラード調に変わったのをきっかけにシートに背を沈めた。
光雄の運転には荒っぽさが無く、たえ子は安心して助手席に座っていた。
身体を硬くする場面も無く自分の方がむしろ荒っぽい運転をすると思ったりした。
七時近くなってようやく環八通りにたどり着いた。
たえ子のマンションに着いた時は既に八時近かった。
車を止めサイドブレーキを引いてシートベルトを外すと、光雄はたえ子の方へ身を向けた。たえ子も光雄と向き合った。
「凄く楽しかった」
「私も凄く幸せな一日でした。有難うご座いました」
二人は手を握り締めて礼を言い合った。
そしてそっとさよならの口づけを交わした。
光雄はたえ子にバッグを渡しながら
「又連絡します」とだけ言った。
たえ子も「お待ちしてます」とだけ言って歩いて行った。
光雄はたえ子がマンションに入るのを見届けると車に乗って走り出した。
たえ子はまだ玄関前で手を振っていたので光雄も手を振ってたえ子の前を走り去った。

それぞれに部屋に戻った光雄もたえ子も、全身がふらついて地に足が着かない様な心地だった。

二人にとって既にお互いがかけがいの無い人になっていた。

金曜日の夜、たえ子の携帯電話にメールが届いた。光雄からだった。
「土、日の何れかに会いたかったのですが、今、のぞみ銀行のコンピューター室に缶詰になっています。合併して統合したコンピューターのソフトに今日の午後不具合が発生して、チームで全力で取り組んでいるところです。
たえ子さんとお会いする前にも大きなトラブルが発生して大問題になったことが有ったのですが、その時も何日か徹夜でがんばりました。
又連絡します。光雄」
たえ子はメールを返した。
「がんばって下さい。光雄さんの力が何倍にもなります様に私も応援しています」
その先をたえ子は迷った。
書こうか書くまいか。
「光雄さんを愛しています。たえ子」
迷いを吹っ切りたえ子は送信ボタンを押した。

土曜日の夜たえ子に光雄からメールが届いた。
「有難う。がんばっています。何とか見通しが付きました。たえ子さんが僕を愛してくれている十倍僕はたえ子さんを愛しています。光雄」
たえ子は一本やられたと思いながらも心の中は嬉しさで一杯だった。

火曜日の昼近くになって勤務中のたえ子に光雄から電話が掛かって来た。
「たえ子さん昼食一緒にしませんか」
と言っている。
普段は二人共会社にいる時は社員食堂で食べている。
二人の会社は東京駅を挟んで正反対であり、急げば五分も有れば会うことが出来る。
「ええ、そうしましょう」
とたえ子はすかさず答えた。
昼のチャイムが鳴ると直ぐに二人は会社を飛び出した。
只一目散に東京駅の地下通路を走った。
光雄はいち早く前の方から人の間を駆け抜けて来るたえ子を見付けていた。たえ子も人の間をすり抜ける様に駆けて来る光雄の姿を見付けていた。息を切って走って来た二人は両手を取り合って荒々しく息をした。
まだ収まってはいないが、手を繋いで歩きながら収まるのを待った。
何処の店も一杯で行列が出来ていたが何処でも、何でも食べられればよかったので短めの列に二人は並ん待った。
昼休みは一時間しか無いがそれでもまだ四、五十分は有る。
光雄は仕事柄比較的自由が利くが、内勤のたえ子はそうもいかない。
十分程立ち話をしていると二人が座れる席が空いて中に案内された。
定食を食べながら時には見詰め会い、時には話す内容で笑った。
食事が済んで店を出た時にはあと十分が残されているだけだった。
たえ子の会社に向かって二人は話しながら歩いた。
話したいことは山ほど有るがあと五分で一時になる。
光雄をじっと見詰めたたえ子は向きを変えて駆けて行った
後姿を見送って光雄も大急ぎで会社に戻った。

巷にはジングルベルの曲が流れクリスマスが近付いていた。
光雄はたえ子にメールを送った。
「クリスマスイブをお台場で過ごしませんか。
あなたを無限大に愛している光雄」
メールを受取ったたえ子は返す言葉を探した。
「楽しみにしています。あなたを宇宙一愛しているたえ子」

イブの前日光雄からたえ子にメールが届いた。
「あしたの夜六時に新橋のゆりかもめの改札口で待っています。あなたを一杯愛している光雄」
メールを受取ったたえ子はもう光雄も言葉が見当たらないのだろうと思った。
そう言うたえ子自身も限界に来ていた。
たえ子はメールを返した。
「あなたより私の方が沢山愛していますから先に行って待っています。たえ子」
イブの晩ゆりかもめの改札口に着いた光雄は、自分の方が早かったことにほっとした。
一方待つ間も無くやって来たたえ子は先を越されたかと言った素振りをして悔しがった。

二人は若いカップルで一杯のゆりかもめに乗ってお台場へ向かった。
光雄はホテルのディナーショーを予約していたのだが、不景気なせいか高級ホテルの方が値段は高いが取り易かった。
最上階の展望レストランに上がって、予約をしていない大勢の人の中を二人は棲まなそうに通って中に入った。
案内されたテーブルはデズニーランドの夜景が良く見える海側の最高の場所で、ウエーターに促されて二人は椅子に腰を降ろした。
今日のディナーはフルコースで有名歌手の歌謡ショーも予定されている。
テーブルの真中で手を握り合っていると軽いドリンクが運ばれて来た。
二人はグラスを合わせて
「メリークリスマス」と声を合わせた。
光雄は手提げ袋から紙包みを取り出してたえ子に手渡した。
「我が最愛のたえ子さんへのプレゼントです」
今度はたえ子が光雄に手渡した。
「私の最愛の人光雄さんへのプレゼントです」
プレゼントの交換が終わるのを待っていたかの様に料理が運ばれて来た。
二人はフォークを口に運ぶ度に見詰め合った。
あちこちで花火が上がっている。
光雄もたえ子もこんなすてきなイブを過ごしたこが無かった。
でも今年はいつもと違っていた。
ましてや恋人と呼べる人とこうして一時を過ごせるとは思いもよらなかった。

光雄もたえ子も程好く酔いが廻って来た。
たえ子の実家は酒屋だがたえ子は決して酒が強い方ではない。光雄も程々だ。
歌声が聞こえて来た。
良く知った歌手だが目の辺りで見たり聞いたりするのは無論二人は始めてだった。
周りの雰囲気と胸に染み込む様な歌声に二人は陶酔しきって幸福の絶頂にいた。
歌声が途切れた時、光雄はたえ子にプレゼントを開けて見て欲しいと小声で言った。
膝の上で箱の紐を解き、蓋を開いたたえ子は「すてき」と声を上げた。
ダイヤを中心にしたプラチナのペンダントが入っていた。
たえ子は早速首に着けてみた。
「良く似合いますよ、たえ子さん」
今度は光雄が箱の蓋を開けた。
箱の中には長めの毛糸の襟巻きが入っていた。
「山形に行く時お寒いでしょうから」
光雄はたえ子の心配りが嬉しかった。

夢の様な一時を過ごしたホテルを出たのは九時過ぎだった。
二人は少し歩きたかった。二人共身体が火照っているがホテルの外は寒く、光雄はたえ子からのプレゼントの襟巻きを取り出して二人の首に巻いた。暖かくなった。
光雄の手がたえ子の肩を抱き、たえ子は光雄の肩に顔を寄せ目を閉じて光雄を頼ってゆっくり歩いた。
公園のベンチはカップルで塞がっていた。
大きな木の陰で光雄が足を止めるとたえ子も足を止めた。二人は激しく抱き合い唇を重ね合った。
長い合間だった。
やがて光雄は襟巻きを巻き直し、たえ子の肩を抱いて歩き出した。たえ子は全身の力が抜け切って光雄に寄りかかって歩いた。
タクシーを拾い、たえ子を送った光雄はそのままシートに深く沈だ。
光雄の頭の中をたえ子がワルツに乗って踊っている様な酔心地だった。

就職してからこれ迄光雄にとって年に二回実家に帰ることが最大の出費になっていたが、それでも多少の預金は有る。
たえ子の為なら全てを使い果たしてもいいと思っている。

正月休みを今年もそれぞれの実家で過ごすことになっている二人は、今年最後の愛の交換をメールで交わすことにした。
光雄が休み前にしておかなくてはならない仕事が山ほど有り、多忙な毎日を送っていたからだ。たえ子も事情は同じ様だった。

年の瀬も押し迫った二十八日の夜、光雄はたえ子にメールを送った。
「明日から休みですね、行ってらっしゃい。
僕も予定通り休めそうでなので、明日から山形へ行きます。元旦にメールを送ります。
僕にとって最高の年になりました。たえ子さんのお陰です。たえ子さんは僕の全てです。光雄」
実は最後の部分に「来年はたえ子さんと結婚したいです」と書きたかったが元旦迄お預けにした。

熊本に向かう飛行機は満席の様だ。
出発ゲートで搭乗のアナウンスを椅子に座って待っていたたえ子は、光雄からのメールを読むと直ぐに返信を書いた。
「お忙しい一年、ご苦労様でした」その後たえ子は思い切って書いた。これ以上の表現は今のたえ子には無理の様だった。
「来年は二人で過ごしたいですね」続けて最後に「光雄さんを一人占めしたい。たえ子」と書いた。
アナウンスが搭乗を促している。
たえ子は慌てて送信ボタンを押した。

それぞれの実家の忙しさは例年と変わりが無い様だ。
だが、店舗を新築したことと、弟夫婦が加わったことでたえ子の実家は大きく変わっていた。今年は弟の紀夫の結婚式が有ったので、たえ子が実家に帰えるのは三度目だった。
新しい店舗での営業は開店してまだ日が浅いが、旧店舗からの信用も有り繁盛している様だ。紀夫夫婦もすっかり板に付いていた。
たえ子はいつもと違って母の手伝いをした。
今年から紀夫夫婦がいるので、たえ子は頭の中で光雄との生活を描いて、内心「来年からは私が手伝わなくてもいいみたい」と思った。

一方山形の光雄はいつもと変わりなく働いた。
しかしこちらでも、大学に入って受験勉強が終わった妹が大分戦力になって来ていたので、光雄も「来年からは来なくても済みそうだ」とたえ子と同じ思いを抱いていた。

たえ子の実家はコンビニになってからは二十四時間年中無休になった。
光雄の実家はその点変わりは無く、大晦日は終日営業し、三が日のうち元旦だけは休業することになっている。
大晦日は光雄もたえ子も床に着いたのは例年と変わりなく明け方になっていた。
光雄は午後の三時過ぎになってようやく目を覚ました。徹夜は慣れているが、この所の忙しさで疲れが溜まっていた様だ。家族もゆっくりさせてやろうとの気配りで、そっと寝かせておいてくれた。
光雄は風呂に入り大きな湯船につかって、ゆったりと正月の気分を味わった。
風呂から出ると家族は正月料理を囲んで光雄を待っていた。
正月の挨拶が夕方近くになっていた。
酒が光雄を心地よく酔わせた。
例年この日だけは家族全員で過ごすのが常で、飲んだり食べたりした後は、適当にコタツの中で横になったり、テレビを見たりしていた。
光雄は酔った頭でメールを書いた。
「新年おめでとうございます。今、頭がたえ子さんの周りを廻っています。やっと止まりました。今年はたえ子さんをたえ子と呼びたい」光雄は酒の力を借りて一気に書いた。
「結婚して欲しい。僕のたえ子へ光雄」
光雄はすかさず送信ボタンを押した。
本当はたえ子の目をじっと見ながらプロポーズしたかったのだが東京で会うまではまだ数日ある、気持ちが焦って待てなかった。

熊本の実家で新年を迎えたたえ子も起きたのは午後の二時過ぎだった。
誰かしら店にいなくてはならないし、たえ子も交代で店に出たりしていたので一家揃っての挨拶は出来なかった。
弟の紀夫も酒好きだが店があるのでひかえていた。
両親と三人で料理を食べながら少し酒を飲んだたえ子は、又母の節子から結婚の催促を受けていた。
話をしながら手の中でもてあそんでいたたえ子の携帯電話に光雄からメールが入った。
そのメールを読みながら
「父さん、母さん私も今年は結婚します」
と両親に言った。
母の節子はびっくりして
「たえ子、そらほんなこつな」と声を上げた。
「紀ちゃんの結婚式の時、「そのうち、おーちもらうけんね」って言ったでしょ」
とたえ子は何気ない口調で言った。
実はあの時は全く想像もつかないたわごとだったがそれが現実のものになろうとしていた。
「どこん どぎゃんひとな」「なんばしとるひとな」「いつかるつきあっとっとな」母節子の矢継ぎ早の問い掛けにたえ子は自信を持って答えた。
節子はその都度うなずき、すっかりその気になっていた。
「あーた、今年も二年続きでせわしゅうなりますばいな」と節子が嬉しそうにかなり酔いが廻っていた泰三に話し掛けると
「たえ子はおるが子だけん、そのうちよか人ば連れてくっと思ーち、母さんと違ごち今まじゃいっちょん言わんだったばい」
と酔ってつむった目を細く開けて、ろれつの怪しくなった口調で、泰三がたえ子を見ながら言った。
両親に話してしまった以上もう待てない。
たえ子は光雄にメールを返した。
「光雄さん、明けましておめでとうございます」在り来たりだと思ったがまずそう書いた。
続けて全身に力を込めて
「光雄さんにたえ子と呼んで頂けることを両親も喜んでくれました。私は光雄さんをあなたと呼びます。たえ子」と書いた。
光雄のプロポーズを全身で受け止めたたえ子は送信ボタンを押すと「うわー」と歓声を上げながら両手を挙げて飛び上がった。
たえ子の様子に両親の頭の中は既に準備に取り掛かっていた。

光雄もたえ子も休暇は四日迄なので三日中には東京に戻ることにしていた。

三が日を実家で過ごした光雄は、帰り掛けに玄関に送りに出た家族に向かって言った。
「俺、今年結婚するから」
家族は突然の光雄の言葉に唖然とした。
「何で帰る間際に言うんだ」
と兄の光一が不満そうに言った。
「ご免、はっきりしたら連れて来るから」
と光雄は頭を下げて謝った。
「楽しみにしったば光雄さん」
と兄嫁の好子が言ってくれた。
母の幸子も慌てた様子で
「前以て言ってよ」と言った。
「うん、約束する。相手の都合も有るし勝手には出来ないから。婚約や式のことは必ず相談するから。その時は宜しくね。一、二月は新しいプロジェクトで忙しいから三月に入ったら連れて来るから。前以て連絡するから」と光雄は言った。
皆、納得した様子で笑顔で見送ってくれた。
兄の光一に車で駅迄送って貰った。
車の中で
「光雄、お前は店の事はもう心配してくれなくてもやんべんだがら」
光一の一言が寂しくも有ったが、兄としての心遣いが光雄は嬉しかった。

超満員の列車に揺られ光雄は東京へ向かった。

同じ頃たえ子も「彼の都合で来て貰いますから、又連絡します」と玄関で見送る両親に挨拶して実家を出ようとしていた。
空港は座る場所も無い程の大混雑だった。
だがフライトには変更はなさそうだ。
たえ子は柱に寄りかかり出発を待つ間に、携帯電話を取り出しメールを読んだ。
元旦に光雄から届いたメールを何度と無く読み返した。
「今年はたえ子さんをたえ子と呼びたい。結婚して欲しい。僕のたえ子へ光雄」
胸がはちきれそうになって、肩を縮めた。
光雄から新しいメールが入っていた。
「四日に明治神宮へ初詣に行ってみませんか、良ければ十二時に渋谷のハチ公の前で待っています。たえ子さんへ光雄」
出発迄はまだ時間が有る。
たえ子は光雄にメールを返した。
「光雄さんのお誘いは全てOKです。あなたのたえ子」
メールを送信したたえ子はテレビに目を遣った。たまたま明治神宮の初詣の様子が映っていた。それを見て「私も着物で行ってみよう」とたえ子は呟いた。
たえ子は大学時代に日米交流の催しでホステス役をした経験が有る。その時に着物の着付けを習得していた。
出発の案内と同時に乗客は機内にどっと流れ込んだ。
たえ子の座席は幸い窓際で多少前回よりうしろの方だがむしろ大きな翼が良く見えた。
翼は空港の光を受けて白く輝いていた。
座席に腰を降ろしたたえ子は「まだあの映像はやっているのかしら」頭の中をあの海の光景が過って行った。
間も無くして出発を告げるアナウンスが機内に流れるとたえ子はシートベルトを締めて、じっと翼に目を向けた。
離陸してから暫くすると「あっ」と声を上げた。光雄が言っていたあの幻想的な光景が目の前に現れていた。じっと見入っていたたえ子は「まだ続いていたんだ、良かった」と独り言を言った。
光雄と同じ体験をしたことで又一歩光雄に近付けた様な気がして嬉しかった。

マンションに戻るともう半分以上の部屋に明りが灯っていた。
たえ子の部屋の両隣も戻っている様だ。
その頃光雄はまだ新幹線の中で大宮を通過した辺りだった。
たえ子は取る物も取り敢えず、着物を取り出して明日の準備を整えた。

四日の朝が来た、幸いお天気は良さそうだ。
八時に目を覚ましたたえ子はシャワーを浴びると、きのう実家から貰って来た餅を一ツ焼いて口に入れた。
しっとりした素肌に薄化粧を済ませた後、光雄との口づけを意識して薄い色の口紅を塗った。
着物を着るのは弟の結婚式以来だが、その時も人の手を借りずに自分で着付けていた。
着物の襟元に髪を短くカットしたたえ子のうなじが一層女らしさを漂わせていた。
装いを整えたたえ子は、隣近所に挨拶に出向いた。玄関での簡単な挨拶だが正月に実家から帰ると必ずそうしていた。
母の女としての躾はたえ子が大学に入った頃から厳しくなった。

ハチ公の前は大勢の待ち人で溢れていた。
たえ子がきりっとした背広姿の光雄を見付けるにはさほど時間を必要としなかったが、予想外の身なりのたえ子を探すのに光雄の方は手間取った様だ。
着物を見事に着こなしたたえ子に光雄は感嘆した。クリスマスイブ以来のデートで、その間僅か十日程しか立っていないのだが、二人にはとてつもなく長く思えた。それでもメールの遣り取りで何時も会っている様な気にもなっていた。
頻繁なメールの遣り取りで事も順調に運んでいた。
既に二人は結婚の約束をしたのだが、
光雄は今日、きちんとたえ子にプロポーズする積りでいる。
光雄はプロポーズをしてから昼食を取り、その上で新たな気持ちで神宮へおまえりしたいと考えていた。
光雄は着物の似合いそうな店を探した。
道玄坂を少し上がった所にのれんの下がった小さな小料理屋を見付けて中に入った。
光雄は女将にそれとなく彼女にプロポーズすることを伝えると、女将は二人を庭に面した静かな部屋に通してくれた。
二人は座布団の上に正座して女将を待った。
「失礼致します」
女将が桜茶を用意してくれた。
光雄が女将に
「お忙しい中申し訳有りません。これから彼女に結婚の申し込みをしたいのですが立ち会って頂けないでしょうか」
と頼むと女将は
「新年早々おめでたいことでございます」
と言いながら畳の上に座り直し
「お引き受け致します」
と両手を膝において頭を下げた。
光雄は口を切った。
「たえ子さん、たえ子と呼でもいいですか」たえ子はにっこりと笑顔で
「はい、あなた」
とはっきりと答えた。
余りの粋なプロポーズに女将は唸った。
「すてきでした。確かにお二人のお言葉お聞きしました」そして「末永くお幸せに」と言って二人の前に桜茶を差し出し、二人が飲むのを見届けると部屋を出て行った。
女将が下がると、光雄は改めてたえ子に向かって言った
「きっと幸せにするからね」
と、たえ子も
「私もいい奥さんになりますから宜しくお願いします」と答えた。
特別の料理が運ばれて来た。
尾頭付きの大きな鯛がお膳の真中に置かれて二人はびっくりした。
料理が揃うと女将は二人を見ながら
「これは私からのお祝いです」と言った。
それから二人に杯を渡し「ご婚約おめでとうございます」とお酌をしてくれた。
女将は「ごゆっくりお召し上がり下さい」と丁寧に挨拶して部屋を出て行った。
二人はビールで乾杯して将来を誓い合った。   
二人は幾分リラツクスして料理を味わった。
たえ子が青く染まった翼の話しを持ち出すと、
光雄は思い出した様に
「ねえ、綺麗だったでしょう」と言うと
「ええ、あって声を出してしまったの」と二人は青い翼の話しで大いに盛り上がった。
それから、実家での事を話し合った。
出来るだけ早く、両家に挨拶に行き、その上で両親に東京へ出て来て貰って正式に婚約をする等を話し合った。婚約指輪もそれまでに準備することになった。
光雄の手際の良さにたえ子は感心し、自分達のことをこれ程真剣に考えてくれていることに感謝すると共に嬉しさが込み上げて来た。
食事を終えて、忙しく店内を動き回っていた女将に礼を言い、実家の両親が出て来たら改めて婚約の席をこちらで用意して欲しいこと、それに二人の相談相手にもなって欲しいことを手短に話して二人は店を出た。

明治神宮の境内は人の波が続いていた。
二人は砂利を踏みしめ流れに乗って歩いた。
本殿の前で賽銭を放って手を合わせ、
光雄は「たえ子と無事結婚出来ます様に」
たえ子も「光雄さんと無事結婚出来ます様に」と精一杯祈った。
おみくじを引いたら揃って吉と出て喜び合った。
境内を手を繋いでゆっくり歩いた。
たえ子は実家の両親の前でした様な飛び上がりたい程の衝動にかられ涙が溢れてきた。
ハンカチで拭いても拭いても嬉しくて止まらない。
横を向いて暫く光雄の顔が見られなかった。光雄にも嬉し涙だとは分かっている。
優しくたえ子の肩を抱いた。
たえ子は振りかえり光雄の目をじっと見て唇を噛み締めて決意を表明するかの様に言った。
「きっといい奥さんになりますから」
光雄の目にも涙が光った。
辺りは薄暗くなり掛けていた。
夕食の時間が近付いていたが胸が一杯で通りそうも無い、たえ子は光雄の誘いを始めて断った。
代わりにお茶を飲むことにして原宿の小奇麗な喫茶店に入った。
レモンティーを二つ注文した。
たえ子はティーバッグを揺すりながら言った。
「光雄さん、私は幸せで一杯です」と
光雄が答えた「早くたえ子と呼びたい」と

外はすっかり暗くなっていた。
光雄はたえ子をマンション迄送った。
マンションの近く迄来た時二人は足を止めた。
マンションに近付くに連れて、胸の高まりを押さえ切れなくなった二人はきつく抱き合い、熱い唇を重ねた。
「おやすみなさい」「おやすみ」さよならの挨拶を交わすと光雄は足早に帰って行った。

部屋に戻ったたえ子は帯を解きながら、じっと鏡を見て「薄い口紅で良かった」と独り言を言った。

会社が始まると暫く二人は会う機会を持てなかった。
光雄は新しいプロジェクトの立ち上げに参加することになり一、二月は休みが取れそうに無い。

光雄はたえ子にメールを送った。
「二月末頃からは休みが取れそうなので、三月に入ったら山形と熊本に挨拶に行きましょう。山形にはその旨僕が連絡するので、たえ子さんも熊本のご両親に連絡だけしておいて下さい」

たえ子は光雄からのメールを受けて、熊本の実家に電話を掛けた。
「母さん、正式に結婚を申し込まれたの、
三月になったら彼と行きますから、その上でなるべく早く東京で彼のご両親に会って欲しいの、その時正式に婚約して、婚約指輪もその時に」
電話の向こうで節子が泰三を呼んでいる。
「あーた、たえ子が」
「たえ子がどぎゃんした」節子の大きな声に嫁の千恵子が飛んで来たらしい「たえ子しゃんがどぎゃんかしなはったですか」と聞いている。
「正式に結婚の申し込みば受けち、三月ち入ったら、婿どんば連れち来られすてたい」
泰三が受話器を取り「もしもし、たえ子か、良かったな、待っとるばい」二人共泣いているらしい。たえ子も涙ぐんでしまった。
受話器を手に持ったまま黙って涙を拭いている泰三から受話器を取った美智子が
「お姉さん、おめでとうございます、おいずっとば楽しみまっとりますけん」と言っている。
たえ子は「宜しくね」とだけしか言葉が詰まって出なかった。

光雄は忙しい合間を縫って、山形の実家の店が忙しい時間を避けて電話を掛けた。
兄嫁の好子が電話に出た。
「姉さん、光雄です」
「光雄さん、いろいろお世話様だっけ」
と好子は礼を言った。
「父さんか母さんいますか」
「ええ、ちょと待ってね」と母の幸子に受話器を渡した。
「もしもし、光雄かい」
「母さん、彼女に結婚申し込んで、返事もらったから、今は、ちよっと忙しいから三月に入ったら彼女を連れて行くから会って下さい」と光雄が言うと
「わかったよ」
と返事をして父の光太郎に受話器を渡した。光太郎も幸子の様子から光雄の結婚話しであることは想像が付いた。
「もしもし、光雄、決めたのか」
と光太郎は電話に出るなり言った。
「うん、それで母さんにも言ったけど三月に入ったら一緒に行くから会って下さい。それから熊本の彼女の両親に僕が会って来ます。
その後東京に来て貰って婚約しようと思うんだ。婚約指輪もその時渡そうと思ってる」
と丁寧に今後の予定を伝えると、光太郎も
「わかったよ」
と幸子と同じ様に返事をした。
光雄が帰る時に「必ず相談するから」と言っていた言葉を光太郎も幸子も信じていた。
光雄は相手の返事を貰った後は両方の親と相談しながら事を進め様としている。
二人はそれが嬉しかった。

三月始めの日曜日の朝、光雄は東京駅でたえ子を待っていた。
家族にたえ子を合わせる為に新幹線で山形へ日帰りで行く手はずになっている。
光雄は先月までは土日も無く出社していたが
その間もたえ子とはメールの遣り取りが続いていた。
たえ子は素顔を見て貰おうと薄化粧で口紅も控え目に塗っていた。
「おはようございます」
久しぶりに会ったたえ子は一層美しく愛らしかった。
「いよいよ第二ステップに入ったね」
と光雄が嬉しそうに言うと、たえ子もにっこり微笑んで頷いた。
たえ子は山形へ行くのは始めてで山形新幹線に乗るのも始めてだった。東北の景色に子供の様にはしゃいだ。

光雄の実家は旧家のそば屋で、店構えやのれんにも歴史を感じさせる重々しさが有った。
店の入り口にはのれんが下がり、戸には「貸切」の張り紙がしてあった。
二人は戸を開けてのれんをくぐった。
中から一斉に
「いらっしゃいませ」
と声が掛かった。
奥では両親と兄が二人だけのそばをゆでる為に、大きな釜に湯を沸かし、今か今かと待っていた。
店では兄嫁と妹が半被姿で待っていた。
二人はがらんとした静かな店の真中のテーブルに向かい合って座った。
兄嫁と妹が出来立てのそばを運んで来た。
たえ子に店を見て欲しい、そして自慢のそばを食べて貰いたいとの父光太郎の希望だった。
「そば屋に来て、店でそばを食って貰わなくては意味が無い」
光太郎はそう思った。家族も同感だった。
二人は腰の強いそばを噛み締め味わった。
たえ子は自分の実家に帰った時の様な安らぎを感じ取ると同時に十分に光雄の家族の気持ちを汲み取っていた。
二人は店を出て住まいの門を通り玄関に廻った。既に家族は住まいに移っていた。
座敷に入った二人は庭が見える、大きなお膳の真中に並んで座った。
父の光太郎、母の幸子そして兄の光一、兄嫁の好子、それに妹のひかりの井上家全員がにこやかに二人を迎えた。
一旦好子に言われるまま座布団に座ったたえ子は、立ち上がると両親の前で畳の上に正座して背筋を伸ばし、
「吉田たえ子と申します。どうぞ末永く宜しくお願い致します」
と言って畳に両手を着いて挨拶した。
次は兄と兄嫁そして妹の順に挨拶して行った。
一通り挨拶が済むとたえ子は光雄の隣に戻って正座した。
皆、たえ子の毅然としつつもどこか優しいしぐさに好感を持った。
光雄が口を開いた。
「ねえ、いい人でしょう」
「うん、お前にはもってねな」
と光太郎は笑った。
内心大いに満足している様だった。
座は一気に和らいで、たえ子もほっとして茶を口元に運んだ。
そのしぐさも又皆の目を奪った。
光雄は得意気だった。
女三人が料理を運んでいる。
たえ子は立ち上がると「お手伝いします」と好子の手から料理の載った盆を受取った。
もう客扱いはしないで下さい。私も家族の一員に加えて下さいとの思いからだった。
好子も嫁に来る時そう思った。たえ子の気持ちが直ぐに理解出来た。
井上家にとって自慢の嫁になりそうだ。
光雄は改めて東京での婚約の件を両親に伝えた。たえ子はきちっと正座して背筋を伸ばし、光雄の一言一言に首を縦に振って頷いていた。
すっかり打ち解けて座は大いに盛り上がり、皆大喜びだった。
そろそろ帰ろうかと言う時、
幸子は立ち上がるとたえ子の傍に寄って畳に腰を降ろすと、たえ子の手を取って、
「ご両親様にくれぐれも宜しくお伝え下さいね」
幸子はたえ子の振る舞いから両親の躾の良さを感じ取っていた。そして続けて言った。
「光雄のこと宜しく頼みます」
と母親らしい心使いだった。
玄関で光一が一言言った。
「堅苦しい挨拶はもうお終い」
皆立ったままいつも光雄が帰る時の様に送り出した。
光一がいつもの様に車で駅まで送ってくれた。
ひかりも付いて来た。
車の中で「光雄にいちゃん、隅におけねえわね」とひかりが言うと
「真中に座ってたじゃねえか」と光一が言った。車の中を笑い声が広がった。
二人は兄と妹に手を振って、山形を後にした。

次の日曜日二人は始めて出会った空港のカウンター前で待ち合わせた。
今日も日帰りで午前中には熊本に着きたいと思っている。
今日のフライトに変更は無く順調の様だ。
今日もたえ子が先に来ていた。
椅子に腰掛けて電光掲示板を見ていたたえ子の前に光雄がやって来た。
たえ子が言った「今日は何も無さそうよ」
「そんなにしょっちゅう何か有ったら大変だよ」と光雄が言って二人は笑った。
熊本まではすこぶる順調で昼前には実家に着いていた。
実家に着いてコンビニを覗くと客が大勢いたが家族の姿が見え無かった。
吉田屋にとって今年はたえ子のことで色々有りそうだ。かと言って二十四時間年中無休の店を休む訳には行かないと、弟の紀夫の提案でアルバイトを雇う様になっていた。
開店の時からそうすれば良かったのにと皆で思ったそうだ。
二人は家の方へ廻り玄関を入った。
両親と弟は既に座敷で二人を待っていた。
弟の嫁の千恵子が飛んで来て
「たえ子しゃんばい」
と奥に聞こえる様に言った。
今日は四人揃って出迎えてくれた。
奥に通された光雄は言われるまま座布団に座ったが深呼吸すると立ち上がり両親の傍で畳の上に正座して背筋を伸ばした。
「井上光雄と申します。どうぞ末永く宜しくお願い致します」と両手をついて挨拶した。
次いで同じ様に弟とその嫁に挨拶した。
たえ子の両親も弟夫婦も唖然としたが、つられて挨拶した。
光雄は一通り挨拶を済ませるとたえ子と並んで座った。
たえ子が光雄の実家でした挨拶と同じ仕方に、たえ子は必死におかしさを堪えた。
母の節子と嫁の千恵子が食事の用意を始めていた。たえ子も立ち上がり手伝った。
光雄も立ち上がろうとしたが
「光雄さんは座ってて」とたえ子に止められて座り直し
「まあまあ一杯」と差し出す泰三の酌を受けた。
吉田屋も旧家の酒屋で酒蔵が有り、特に美味しい酒を紀夫が選んで持って来ていた。
正月は一緒に過ごせなかった紀夫夫婦も今日はゆっくり出来そうだ。
一杯始まる前に光雄がたえ子の両親に東京に来て欲しいこと、そしてその時両家の親の前で正式に婚約したい旨を伝えた。
その時もたえ子は光雄と並んで座り、光雄の一言一言に首を縦に振って頷いていた。
「承知したばいた」と泰三が言うとやはり側で節子が頷いていた。
酒が酌み交わされた。
泰三も紀夫も弱い方では無い。男三人盛り上がった。
三人の様子を見ていた節子はたえ子に言った。
「たえ子、よかったな、母さんな、こつで安心たい」と。
「いやあ、楽しか人ばい」と紀夫が酔った口調で言うと、泰三が「アッハハハ」と大声で笑った。
光雄もすっかり溶け込んで、たえ子の家族も揃って光雄びいきになっていた。
千恵子が口を開いた。
「お姉さん、私んごつ幸せになってはいよ」
たえ子は酔った紀夫の顔を覗き込んで
「なるけんね」と言うと、紀夫は千恵子の顔を見ながらにやっと笑った。
その仕種に皆、大笑いだった。
光雄とたえ子は四人の盛大な見送りで実家を後にした。

空港では出発ロビーで椅子に座って待つことにした。
二人は青い翼のことを思い出して
「まだやってるかしら」とたえ子が言うと
「そうだといいんだけど」と光雄も期待している様だった。
一緒にあの光景を見られたらどんなに心に残るだろうと二人は思った。
搭乗を告げるアナウンスが流れた。
二人は列に並んで飛行機に乗り込んだ。
たえ子が正月の帰りに座った窓際の同じ座席に座り、光雄は中央に座って、シートベルトを締めて出発を待った。
たえ子は祈った。
「どうか青い翼が見られます様に」
光雄はじっと中央の画面を見詰めている。
たえ子は窓の外の翼を見ている。
飛行機がいつ飛び立ったのかたえ子は気付かなかった。
突然光雄の目にあの青い海が映ったと同時に、たえ子が声を上げて光雄の身体を揺すった。
「あなた、見て」たえ子の顔に光雄は顔を寄せ窓の外を見て「これこれ」と感慨深かけに言った。
たえ子は咄嗟に光雄を「あなた」と呼んでいた。暫く二人はそのまま見入っていた。
二人はついにあの青い翼を同じ飛行機の同じ場所で見たのだった。
両方の家族にも会い、同意も得られた二人は今、ほっとした気分で満たされていた。
座席を倒しゆったりとくつろいで座った。
機内の照明が消えていた。
湘南での車の中を思い出して二人は手を硬く握り合いじっと見詰め合った。
目を閉じたたえ子の口元から「あなた」と小さな声がした。
光雄はたえ子の耳元で「たえ子」とささやいた。
そっと唇が重なり合った。
エンジンの音が心地よく二人を包んだ。


                 終














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