「音、起きなさい、朝ですよ」
他者に起こされた経験なんて初めてだ。黒髪小僧は、布団の足元に猫の姿で丸まって寝ていたはずだが、いつの間にか人間の姿になっている。
「夢野先生が起きる前にしなければならないことが沢山有ります」
眠い眼をこすりこすり身を起こすと、隣には夢野が静かに寝息を立てていた。寝ているときは、普段の不気味さは姿を消していて、素直に美しい青年だと思える。本当は幾つなのか解らない。もしかしたら、仙人のように生きていたりするのだろうか。
もう一度大きな欠伸をして、私は寝室を出る。
この家は、表が店で、奥が住居スペースになっている。店と住居空間には連絡通路と扉があって、商売と生活とにはキッチリとしたけじめがあるようだ。全体的に縦長の構造で、奥には庭や裏口がある。庭があるから縁側もある。猫にとってはなんとも心地いい空間だ。契約でどんなマイナスがあろうとも、これて帳消しになると思っている。
ただし、住宅街の一角だから、庭に出ようとも、塀の向こうは近代的な家がそびえている。古くて低くて木造の夢野の家は、見下ろされる形になる。それにしても、清潔に保たれているし、広すぎないし、最近の家のように化学薬品臭くもない。店を除けばモノも多くない。世間でどんなにモダンや機能主義が流行ろうとも、こういう家のほうが心地いいものだ。
「掃除はもう済ませました。今は朝食を作っています」
よい臭いに誘われて台所に姿を現した私に、黒髪小僧はそう告げた。
「今日は甘く見ましたが、明日からはもっと早く起きて掃除をなさい」
彼はたっぷりとしたフリルの白いエプロンを身に着けている。それは「可愛らしい」を通り越して滑稽ですらある。その奇妙な出で立ちで、炊事に精を出している。
彼は台所にある器具の扱い方や仕舞い方、そいう細々したことをすらすらと話す。彼に従って頷いているうちに、台所を一周してしまった。今日一日で全てを覚えられるわけはないが。
「このボタンが、早炊きしたい時。でも、なるべく使わないでください。先生は米に五月蝿いのです」
「判った。全く、この古臭い台所には電化製品が合わないな」
コンセントの差し口が悪目立ちする。
「先生は、こんなもの買わなくても日常生活は差し支えないのに、ヒトと同じような生活をするんです。変わり者なんです」
どういうことだ。という私の表情を読み取ったらしい彼は、再び薄く口を開いた。
「……夢野先生はヒトじゃありませんよ」
もう一度、どういうことだと聞こうとしたときには、彼は味噌汁と煮しめに夢中だった。お玉で少し出汁を掬って口に含み、ふわりと微笑んで「いいです」と言った。同じようにして私にも一口寄越す。脱力しそうなほど優しい味だった。
料理は美味しいとは思うのだが。まったく、人間という生き物は面倒くさい。どぶ水なんかを飲んだら腹を壊すのだろうか。鼠を食べたりはしないのだろうな。どういうわけか、人間の姿の時は、猫の時の習慣がごっそり抜け落ちている気がする。
「お前が『先生』と呼ぶのも意味が解らないな」
「先生だから、先生なのです。先生は、物書きをしています。ヒトでないのにヒトを書くのです。可笑しな話です」
既に出来上がっている煮しめの火を止めた。もう温まったのだろうか。コンロに目線をあてたまま、私に向かって言葉を紡ぐ。
「貴女も黒猫ですから、僕に言われなくても、人間の生活は本能で判っている筈です。しばらくしたら思い出しましょう」
「黒髪小僧、お前は一体いつから、」
彼は私の言葉を遮る。
「黒でいいです。『黒髪小僧』も『音』も、夢野先生にしか意味の無い、呪文のようなものです」
「じゃあ、黒。黒は何時からあの男と居るんだ?」
「何時からでしょうか……。随分昔から居る様な気がします」
「お前たちは、話し方まで似ている。本当に長年連れ添ったのだな」
「嫌な事言いますね」
私は空気を漏らすようにして、少し笑った。私は、彼らが親子のようだと思った。
「……音、貴女、初めて笑いましたね」
「そうか? 筋肉がやっと慣れてきたんだろう」
「でも、僕は貴女の無表情なところも、素っ気ない声も好きですよ」
そういえば、夢野は昨日、自分の声を誉めた。
「黒はどうしようもなく醒めた顔している。でも、その猫みたいな目が好きだ」
「僕も目ばっかりは気に入ってます。ああ、瞳でなくて、かたちが」
彼は、多分笑みと取れる表情をしながら、卵を三個割って箸で溶いていく。鮮やかな手さばきでフライパンに投入し、ふわふわと形作る。
「そろそろ、夢野先生を起こして来てください。……ああ、それと。寝起きの彼に口付けされても大丈夫です。戻るには血が必要ですからね」
◇
「「「……いただきます」」」
まだ眠いんだ、と駄々をこねる夢野に散々梃子摺って、最終的には、黒の手を借りて居間まで連れて来たのだった。まさに「猫の手も借りたい」だ。
酷く我々を疲弊させた当の本人は、今は麻の涼しそうな着物を着て静かにちゃぶ台についている。対照的に、黒の格好ときたら目も当てられないものだ。フリルのエプロンを剥ぎ取られた上に、白いカッターシャツのボタンが二個外れて喉元が覗いている。眉間には不機嫌そうな縦ジワが刻まれており、かれこれ数分はそのままだ。
「卵焼き、……甘くないですね」
夢野は箸の動きをピタリと止めた。まるで、卵焼きの中に殻が入っていた時のように。
「あ、……確かに。音と話してたもんだから、うっかり砂糖入れ忘れました」
「おやおや、駄目ですねぇ、音に見惚れてお仕事を疎かにしてはいけません」
夢野は、頬を膨らませてぷすぷすと笑った。……気色悪いうえに、不愉快だ。
「……別に見とれちゃいません」
冷め切った声とは対照的に、黒の瞳孔は爛々と輝いている。不穏だ。二人の妙な掛け合いを見ているうちに、疑問がわいてきた。
「ところで、どうして、夢野は私と契約した? 黒が一人で全部出来ているように見えるが。それに、私の短い寿命奪ってまでそんなに長生きしたいのか」
何かまずいことを聞いたのだろうか。二人の動きが、固くなった餅のように停止している。黒の口が二・三回開閉し、言葉を探しているのがわかる。
「知りたいのですか? 自分のことは、どうでもいいのでしょう? 気になるのですか?」
なんだか脅しのような言いようだ。でも、ああ、たしかにどうでも良い。私は再び飯を口に運び始めた。
黒の仕込んだ朝食は驚くほど美味しかった。それだけで全てがよくなる。基本的に、食べて寝る。それが私を構成する全てだ。他の事はどうでもいい。そして思う。人間の味覚も悪くない。
食器を洗っていると、夢野は冷凍庫から赤黒い小さなカップを取り出し、立ったまま食べる。冷凍庫の中身をちらりと見ると、それと同じカップがごまんと並んでいた。思わずぎょっとする光景だ。しかも、どれも木苺味。
「音も食べたいですか?」スプーンを口に咥えたまま、器用に言う。
「いや、いい。冷たいのは」
「その桃色の唇には木苺のアイスが良く似合いますよ」
背後から顎に手を回されて、くいっと脇に向けさせられる。簡単に口を開かされて、彼の暖かい舌がほとばしると共に、甘酸っぱい木苺の香りが広がる。唇を離すと、夢野の熱を帯びた黒い瞳に捕らわれた。
「……まずい」
私は、木苺で赤くなった唾液を床に吐き捨てた。ああ、昨日もこんなことしたはずだ。こころなしか、夢野の笑顔が固まった気がする。
おほん、小さな咳払い。相変わらず醒めている黒が、台所の入り口に寄りかかって我々の注意を喚起した。
「お客さんですよ」
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