男が言うように、「私」は猫だ。少年の学生服と同じの、黒い毛の猫だ。
男は深い湖のような瞳をぎぃと細くすると「見えていたのでしょう、」と、冷たい響きをもって言葉を落とす。細い指先が、タタン、と椅子の手すりでリズムを打つ。
焦っているのでもない。苛立っているのでもない。ただただ、余興を楽しみにする君主のようだ。
「出てこないのなら。……引きずり出してしまいましょうか」
億劫そうに椅子から立ち上がると、おはしょりもしない着物をずるずると引きずらせて、古い水屋箪笥の脇に隠れた自分のもとへやってくる。先ほど血を流した口元を着物の袖で拭いながら。その仕草は、人間にあるはずの「年齢」を一瞬でも忘れさせる効果をもたらした。
生き血を吸う不老の吸血鬼のよう。無邪気な少年のよう。遊郭で時を忘れて「遊ぶ」壮年のよう。
「乱暴なことはしませんよ。貴女の望みを叶えて差し上げるだけです」
ありったけの声を上げ威嚇してもひるむ様子も無く、かえって落ち着き払ってしまった。悟る。「この男は、私の何もかもを承知している」。
美しい指が私の前に差し出される。いや。単に美しい、というのも語弊がある。青くて、白くて、細い。命の確認のため、血が付吹き出るのを欲しているかのような寒々しい美しさだ。
指の誘うがままに引っ掻くも、男は、傷つけた私を怒らなかった。
「ねえ、鳴き声が、聞こえませんか」
それを合図にしたように、私の頭の中、言葉の反響でわんわんと鳴った。「ダシテクダサイ」「ゴメンナサイ」と、何度も何度も。頭を振る。声が震える。低くて、湿った女の声。恨みがましく、そして悔いるような「ダシテクダサイ」。割れる様に痛い。内側から小人が頭蓋骨を突き破って出てきてしまいそうだ。
自然、涙がぼろりと零れ落ちた。痛いからではない。内側から喚かれて、外に出て行くものは今のところ涙しかなかったのだろう。そんな様子だ。
その私の頭の中を知ってかしらずか。夢野は薄く笑った。
「……ほら、聞こえたでしょう。貴方の中に入っている、罪人の魂ですよ。さ、血をお舐め」
夢野は、赤くぬらりと光った指先を差し出した。この男も、血は赤いのか。黒いのかと思った。源泉は、先ほど私が作った傷だ。恐る恐る、チロ、と桃色の小さな舌でなぞった。
とたんに、恐ろしい快感が身を襲った。熱いのだ。体中が熱い。とけて消えそうなほどに。体中の毛が抜けて宙返りをしたような感覚。何か布のようなものがが地面に触れる音。
視界が黒い。糸か? 自分の頭部から糸が幾本も垂れている。黒い葉の草むらの中に迷い込んだような視界だ。 その「黒い草むら」を掻き分けていると、妙なことに気付く。
掻き分けているこの手は何だ、この足は何だ。この身体は……、白い。毛が無い。人間の身体だ。
「やはり貴女は女の子でしたね。猫の身体での性別は関係ありませんから。……美しい子です」
私の混乱よりも数段高い所から、彼は言った。ほんの少しの間、男の存在を忘れていた。
夢野は私の頬に触れる。思わずぎくりと身体が揺れた。その様子を見ると、彼の瞳の湖面に柔らかい光が宿る。私の瞼にゆっくりと薬指を這わせた。なぜか、この身体は夢野の声にも手にも、不思議な反応する。表しがたいもどかしさを生じさせる。食べたいのだ。いますぐに、この男の指も、肩も、声に形象があるのなら、それも食べたいのだ。
「ねぇ、黒猫。……私と契約しませんか」
上手く出ない声で「契約」の音をなぞると、夢野は一瞬、その瞳孔を明るくした。
「綺麗な音で啼くのですね」
彼は一度、浅く頷いた。何かを確かめるように。
「そうですね、貴女の名に相応しい。『音』。貴女、黒猫ですから、私の話している言葉の意味は理解出来ているでしょう?」
ゆっくり、頷いた。顎に当てられたままの夢野の手が一緒に上下する。その蠱惑的な親指が、下唇にそろそろとのびてくる。……噛みつきたい。血が出るほど強く。その衝動で、堪らず全身が粟立つ。
「いい子です。……この指を噛み千切りたいでしょう? 噛み切らせてあげますよ、貴女が私と契約するのなら。『音』という名を認めるのなら」
私の頭から生えている黒い糸、恐らく髪の毛(こんなに長いのは初めて見た)、それを夢野は自分の腕に通す。さらさらと流れていく、青みがかった黒い髪。親指は、口内に進入してくる。下唇に押し当て、歯を上下に割る。そこに制止がかかる。
「待ってください」、いや、にゃぁ、だったかもしれない。傍には、いつの間にか先程の少年が変化した黒猫がいた。
「夢野先生、説明も無しに契約ですか、」
夢野先生、そう呼ばれた彼は小さくうなだれると、飽き飽きした瞳で黒猫を見下ろした。
「貴方は私の小姑ですか……。私とこの子の勝手でしょう」
「使い魔は僕一人で充分でしょう。先生は本当に欲張りな人だ。……いいえ、ヒトではありませんが、」
よくばり? と繰り返し、とんでもない、と頭を振った。
「彼女は私の指を前にしてお預けを食らっている。可哀相ではないですか。見なさい、こんなに肌を紅潮させて」
「夢野先生はサディスティックなお方だ。少女の堪えている姿で興奮しているんでしょう」
「興奮。さて、そんな感覚私はもう覚えておりませんが、」
先刻よりは、二人の掛け合いが弾んでいるようだとも思う。しかし、私が彼らに付き合う義理もない。この親指が食べたいだけだ。私は堪らず夢野の指に噛り付いてしまっていた。つんとした、金属質の香りが直接身体に染み渡る。と同時に、先程まで身体を支配していた言いようの無い疼きは霧散していく。
「……お前、取り返しがつかなくなるぞ……!」
黒猫(猫なのか、少年なのか)は、目を細めて私を睨みつけた。夢野の方は、ゆったりと構えているのだが。
「いいえ、まだです。これから名前承認の接吻をしなければなりません」
「一方的過ぎますよ! 第一、足手まといだ!」
彼は飼い主の足元で、うろうろと八の字を描いている。
「ふつうの黒猫に何か語って解ってもらえますか? 解りっこありません」
「本当に夢野先生は駄目な方です。……ねぇ、君、名前は何て言うのですか? いたでしょう、飼い主が」
男に向かって鳴いていたかと思うと、不意に私に向かってきた。
「私は野良だ。飼い主なんていない。名前もない」
はぁ、と小さなため息らしきものを零した。私と男との間に割って入ると、地面に突いている私の両手の下に入り込んで見上げて言った。いや、鳴いた、だろうか。
「状況がわかっていないようですね。いいですか、もし、貴方がこのろくでなしと契約したら、……」
懸命に話している最中だったのだが、男は黒猫の首根っこを掴み、私から引き離してしまった。ヒトにとっては猫を抱えることなど造作もない。彼は何やら良く分からない扉の向こうへ押し込んだ。少年黒猫は、手足を総動員して抵抗していたが、空しい事だった。
男は一度、二度、ぱんぱんと手を打って微笑んだ。あたりは埃だらけなのだろう、彼の拍手の衝撃で薄茶色の粉が舞う。商品と呼べる代物ではない。
「気にしないでください。貴女にはさほど関係の無いことです」
「今の猫は……?」
「ああ、『黒髪小僧』と言いまして、」
彼を押し込んだ扉を振り返って、つまらなそうなに呟いた。彼のさらさらとしたきれいな黒髪が思いこされる。汗一つかかず揺れていた毛先を。
「生意気な顔でしょう? その点、貴女は純粋に美しい。やはり、女のヒトはいいですね」
女? ……私はオスだ。彼はぱん、と口元を着物の袖口で押さえた。
「おやおや、言うのをすっかり忘れていました」
彼はつと踵を返すと、水屋箪笥の斜め向かいにの壁に垂れ下がった絢爛な着物の帯を床にずるりと落とした。そこは壁ではなく、全身鏡だった。随分古いものだ。木枠がささくれ立っている。
いや、それより驚くべきことがある。鏡に映っていた自分は、紛れも無く人間の女だった。しかも、一糸纏わぬ姿で獣のような(いや、実際は獣なのだが)格好をしている。長くまっすぐな黒髪が、その白い身体を覆うほど長く伸びている。
「どうです。分かりましたか。魂が女性のものだったのではないでしょうか? ……ねぇ、どうです。貴女は美しいでしょう?」
「これは、美しいと言うのか?」
強く肯定した男は私の前へしゃがむと、今度は両手で頬を挟んで上を向かせる。黒々とした瞳が、私のヒトの姿を映し込んでいる。
「黒猫よ、黒猫よ。『音』という名を欲するか?」
訳も分からず、私は瞬きでもって順応の意を表した。私の内部をジリッと激しくかき乱すような微笑を湛えた後、静かにその舌を私の呆けた口に沈めた。
男は中々口を離さないどころか、私が苦しがるのを感じるや、顎を持ち上げる。更に深く、その暖かいものを泳がせる。床に着いたままの両腕が脱力してきて身体を支えられない。くらりと傾いた私を引き寄せて抱え込む。
ぴちゃりと、金魚のひれが揺れるような水音を立てて、やっと僅かに離れた。やっと空気に放たれた私は、肩で息をしていた。そんな自分を腕に抱いて、至近距離で底意地悪く目を細めて笑った。
思わず、口に溜まったす唾を床に吐き捨てた。気色悪い。
「これから、ヒトから猫に戻る時は、この儀式をします」
ぞわりと腰から寒気がはいずりあがってきた。男は私の反応を楽しむように、私の髪の毛を手に取り唇をつける。
ガダン、と小さな音がして木製の古い米びつのようなところから黒猫の黒髪小僧が飛び出してきた。さっきは戸の向こうに押し込まれたはずだが。
「夢野先生! 野良猫!」
「おや、一足遅かったですね、黒髪小僧。……契約は済みましたよ」
男は私の喉にその白い指を這わせる。もう、指を食べたいとは思わない。先刻は、なんとも不思議な感覚だったのだ。
「音、彼は君の先輩です。ヒトの姿の時の心得は彼に教わるといいですよ」
黒猫は瞳を細めて、唸り声を上げた。
「馬鹿ですね君は。この夢野先生の猫になるとはどういうことかわかっているんですか」
返事をしない私に苛立ったのだろう、彼は毛を逆立てた。
「君のような輩がいるから僕が苦労するんです。……いいですか、僕らは彼の使い魔なのですよ」
黒髪小僧は、長い尻尾をパタンパタンと、埃を巻き上げてしまいそうなほど強く上下させた。別の生き物のように尾がふりふりと動く。この黒猫は怒りっぽいが、面白い奴だ。
それにしても、「使い魔」、聞いたことの無い言葉の響きに戸惑い、思わず聞き返した。
「要するに、この加虐嗜好のある変態主人の使いッ走りになるということです」
「……随分な言い方をしてくれますね、黒髪小僧」
夢野はどこか、黒猫のわめきをどこか楽しんでいるような気配すらある。
「『少女趣味』も加えて差し上げましょうか」
「おや、『少女』とは心外ですよね、音。若い女性は子ども扱いを嫌いますよ?」
「私はオスだ」
「いいえ。貴女のヒトとしての身体と魂は女性です。……まぁ、いずれ慣れます」
男はやっと私を解放すると、立ち上がって再び椅子につこうとする。その際、先程現れた鏡を再び帯で隠した。
「先生。大事な事をまだ言っていません」
「ああ、契約代償ですか、」
詰まらなそうな顔をして着物のはだけを少し直した。しなやかに椅子に身を沈めると、その膝に黒髪小僧は飛び乗る。
「君たちをヒトにして差し上げる代わりに、私は若さ、つまり、生命力をいただきます」
男はゆったりと説明を始めた。それに対し、黒髪小僧が合いの手(?)を入れる。
「貴女にとっては、寿命が奪われているという事ですよ。本来、今回のケースのようなものは規則違反なんですよ。一方的にリスクを負わせるなんて許されるべきじゃないです」
規則。このよくわからん連中にも法はあるのか。人間が黒猫になったり、黒猫が人間になったりだなんて、聞いたことがない。
「もともと猫は寿命が短い。今更どうでもいい」
「話はそれだけではないんです、」
いいかげん、うんざりしてきた。ようするに、この夢野とやらは私を飼ってくれるということだろう? 食住に困らないならそれで充分だ。この黒猫の言う「取り返しのつかないこと」とやらは、寿命を奪われて早死にする、程度のことだろうか。そんな事を言うなら、猫として普通に生きていようが同じではないか。むしろ、死ぬ確率は野良猫の方が高い。
黒髪小僧は、あれやこれやと口をもごもごさせている。何を第一に伝えるべきか迷っているようだ。
男……、夢野は、黒髪小僧の滑らかそうな毛並みを撫でて心地よさそうだ。
「もういいでしょう、違法契約には違法契約のやり方があります。彼女もどうでもいいとおっしゃってることですし。……さぁさぁ、二匹とも、難しい話はまた後にしましょう、猫の癖にそう脳を使うものじゃありません」
私に顎で何かを示す。
「そこに服があります。何時までも裸じゃ困るでしょう」
そう言われ、改めて自分が裸、無防備であることを自覚した。
夢野は、セーラー服と紺色のそろいのスカートを用意していた。いや、もともとあったと言うべきか。
普通ならば白や赤のライン・リボンがあるのだろうが、これは、黒のラインとリボンだ。徹底的に暗い。真夏なのに、この暑苦しい服が全く不快でなかったのだ。
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