それは、暑い暑い、夏のある日の昼下がり。
真夏の太陽がぎりぎりと人々の背中を刺すなか、その少年は真っ黒の学生服に身を包んで、学帽を深く被っていた。
暑かろう。そう思って一瞬だけ、人々は彼に目線を送る。痛いほどの陽光を受けとめ、あらゆる熱を吸収しては身の裡に仕舞うかのような、黒。不快な汗すべてを飲み込むかのような、重たい黒。そこに少年の肉体の苦悶を想像する。
……ところが、そのまた一瞬のうちに彼らは目線を外し、見なかったものとして彼をやりすごす。
慎みによるものではなく、恐らくは不気味さからだろう。
学帽という代物の今日性の無さからくる違和感は勿論だが、何より恐ろしいことには、汗一つかかない少年の白い顔。黒い髪は汗にまみれることなく、学帽と詰襟の間でさらさらと揺れる。あらゆる温度が、彼の周りに存在しない。夏の熱気が彼の周囲を避けるようにして過ぎ去っていく。
要すると、無機物が歩いている印象を受けるのだ。
それが、私の目を引いた。
彼の足取りは確かだった。
一人、また一人。
道を歩く者は少なくなっていく。
彼は、新興住宅街にひっそりとたたずむ古風な和風建築物の中に吸い込まれるように消えていった。
あっけらかんと開け放たれた戸口からは、時空の歪みのように懐古的な空気が流れ出ている。見たこともないほど大きな金魚蜂の透明の中を、黒い金魚が一匹気だるげに泳いでいる。軒先では、青銅の風鈴がどろりとした熱風に煽られている。覇気の無い風に煽られた風鈴も、やる気の無いくぐもった鈍い音をならす。
《古道具『土倉真倉』》
――ドグラマグラ、とでも読ませるのだろうか。
そう記された古い木の看板が掲げられ、店であることがやっとわかる。
「夢野先生。只今帰りました」
茶色の封筒をしっかりと握り締め、声を掛ける。
少年の猫目は淋しく醒めていて、妙な具合に光っている。まるで翡翠のような色だ。
彼の目線の先には、会計台がある。会計台の更に奥、埃による煙たい暗闇の向こうに、黒曜石のような二つの光。あまりの妖しい光に、猫の目と見まごうところだが、どうやらそこには人間がいたらしい。大きな椅子に溶け込むように座っている。彼がまとう彩度を失った着物が、包まれた肉体の存在感を失わせている。
――それはそれは不気味な男だった。いや、男かどうかも怪しい。濡れたような青黒い髪の隙間から覗く白い肌が暗い家屋内に際立つ。着物の胸元ははだけ、薄く貧相な身体をうかがわせる。それでも、その顔は背筋を凍らせるほどの張り詰めた造りだった。
ゆらりと首をかしげ、赤い唇から空気のような低い声を漏らす。
「おや、お帰りなさい」
この古道具屋の店主だろうか。
彼、……店主の傍では、鉄製の真っ黒の古い扇風機が億劫そうに回っている。「疲れた。もう止まりたいんだ」とでも言わんばかりに。それにしても、扇風機がこの男に必要だとも役立っているとも思えない。この男も少年と同じく、温度ある世界とは縁遠い気配を宿している。
「早かったですね」
「この暑さです。役所に向かう人間も少ないのでしょう」
ゆっくりと、二人の問答が始まった。
「ところで夢野先生、戻っても構いませんか」
「何故」
「どうしても。この格好は億劫です」
「はあ。あなたの好きにしたらよいでしょう。その代わり、今ばっかりは、私に」
「夢野先生」と呼ばれた店主らしき男は、細い指を椅子から浮かせた。少年は彼の手を無感動に見下ろした後、店主の瞳を睨むようにした。
「またいつもの意地悪ですか。……自分でできます」
「私がしたいと言っているのですよ。……さあ、こちらへ」
少年はなにやら嫌悪を表していたのだが、最終的には諦めたように素直に従った。夢野と呼ばれた男は、少年を椅子の足元に跪かせる。
嫌な音を立て自身の唇を噛み切り鮮やかな色の血を流す。親指に血を掬い取ると、その指で少年の鼻筋をすうッとなぞる。少年の下瞼が、不快そうにピクリと痙攣する。
「口を開けなさい」
薄く口を開いた少年の顎に手を差し込み上方を向かせると、迷い無くその舌を滑り込ませる。少年は学帽の下の眉一つ動かさず、ぬるぬるした生暖かい生き物を受け入れる。
全ての時間が止ったような沈黙の後、少年は跡形も無く消えた。黒い学生服と学帽が、パサリと乾いた音を立てて床に落ちる。
……いや、消えたのではない。学生服の下に、「小さくなった」彼がいる。いや、小さくなったのとも違う!
――猫だ。彼は黒猫になったのだ。
学生服のカタマリから、黒猫が抜け出してきた。少年のいるべき空間がが消え、代わりにそこには猫が現れた。「少年が猫になった」、とするのが妥当だろう?
黒猫はふるふると身体を震わせながら、するり、と複雑に立ち並んだ古い家具の隙間に身を滑り込ませて消えた。
「……さて、ご覧になりましたか?」
男はゆったりと腕を組んだ。低い声が、生ぬるい空気を揺らす。
「……黒髪小僧に寄せられた迷い黒猫。さぁ、隠れず出てきなさい、お嬢さん」
少年がいなくなった今、この場で話しかけられているのは、間違いなく「私」だ。私は、この儀式めいた一場面を、家具のように気配無く黙って目撃していたはずだった。身も隠していた。
しかし、男の黒い瞳は私を確かに捕らえていた。彼は私を見ている。
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