異世界ヤンキー爆走伝2
(17)
最近、“実家”である“慈愛の園”に、変な男が顔を出すようになった。
年齢はわからないが、おそらく二十台半ばから三十前くらいだろう。
濃い金髪の髪を後ろに撫でつけるような髪形、薄い眉に鋭い目、そしてハの字型の口ひげに顎ひげ。
強面である。
長身で体格もよく、黒服の袖をめくり上げ、裾が広がった奇妙な脚衣を身に着けていることが多い。
初めてその男を見かけた時、なんでこんな男がここにいるのだと、ヨウコリスは警戒した。
「だ、誰なの? あの人」
子どもたちに聞いてみると、みんな我先にと教えてくれた。
「う~んとね、お菓子のおじちゃん」
「おかし?」
「え~、違うよぉ。おじちゃんっていったらだめなんだよ」
「そうだよ。もうお菓子くれなくなるよ」
「やだ~」
「いまのなし!」
「あにきお兄ちゃん」
「あにきお兄ちゃん」
「あ、ぼくが先に言った」
「あたしが先!」
どうやらアニキという名前らしい。
ヨウコリスは“慈愛の園”の院長であるピュータル女史に確認することにした。正確な年齢は知らないが、ヨウコリスが子どものころから老婆だったので、おそらく八十歳近いだろう。最近は記憶力が怪しくなってきている。
「あら、ヨウコリス。お久しぶり」
「園長先生。あの、アニキさんのことなんだけど」
「アニキさん? ああ、兄貴さんね。そう呼べって言ってたわね。ヨウコリスは初めてだったかしら? いい人だから、心配はいらないわよ」
「いい人って……」
他人のことはいえないが、外見からはとてもいい人には見えなかった。
「まさか、この土地を狙ってる、とか」
声を潜めて、ヨウコリスは警戒を促した。
孤児院である“慈愛の園”の敷地は、王都エクリアスの中でも上層部に位置している。周囲に住んでいるのは上位中流階級の人々で、正直、この院のことはよく思われていないらしい。
院の経営は寄付によってまかなわれているが、できる限り多くの子どもたちを救いたいというピュータル女史の方針もあり、食べていくだけでやっとの様子。
住人の社会的階級と、居住地の階位が、一致していないのである。
急激に人口が膨れ上がり、土地不足に陥っている王都では、嫌がらせをして無理やり土地を買い取ろうとする悪人もいたりする。
園長の話では、“慈愛の園”にも怪しげな風体の男たちが尋ねてくることもあるそうだ。
「あの人は、港町……何という名前の町だったかしら。とにかく、田舎から出てきたばかりみたいなの」
田舎者が都会でいきなり悪さをするとは考えにくい。もしその話が本当だとするならば、だが。不審に思う心が表情に出てしまったのだろう。のんびりとした口調で、ピュータル女史は付け加えた。
「それに、この歳になるとね。いろいろなことが分かってくるの。あの人、兄貴さん? 顔はこわそうだけど、悪い人じゃないわ」
育ての親の言葉を否定したくない。その思いで、ヨウコリスは押し黙った。
とはいえ、アニキという男が嘘をついている可能性は否定できないし、警戒するにこしたことはないだろう。
「あの、アニキさん、ですか?」
「あ?」
ぎろりと睨まれて、ヨウコリスは身構えた。
男は椅子の修理をしていた。食堂にあった古びた椅子で、脚がぐらついていたようだ。胡坐をかき、口には釘をくわえ、手には金槌を握っている。男の周囲を、興味深々といった様子で、数人の子どもたちが取り囲んでいた。
「はじめまして。“慈愛の園”の卒院生で、ヨウコリスといいます」
「ああ、チコが言ってた、料理の下手な姉ちゃんか」
「――なっ」
ヨウコリスは思わず顔を赤らめた。
確かにヨウコリスは料理が下手である。壊滅的といってもよい。サラダすら満足に作ることができず、現在特訓中なのだが……メンバーたちに試食させようとすると、みな急に用事があると言い出して、あたふたと外出してしまうのは何故だろう。
「へ、下手じゃありません!」
反射的に言い返してしまった。
「慣れてないだけです!」
「そうかい。ま、頑張りな」
ぶっきらぼうな男、というのが初対面の印象だった。
男が帰ったあと、ヨウコリスは子どもたちを部屋に集めた。
「今日は、みんなにお土産があるの」
そう言って差し出したのは、ヨウコリス特製の手作り焼き菓子だ。
奮発して買った蜂蜜を練り込んであるので、甘い。
お菓子などという贅沢品など滅多に口にする機会のない子どもたちは、大喜びするはず。大歓声を予想していたのだが、返ってきたのは微妙な沈黙だった。
きょろきょろと落ち着きのない眼差しで、視線を交し合う。それから子どもたちは、ヨウコリスを見上げてきた。
どういうわけか、同情とか、哀れみとか、そういった種類の感情が読み取れた。
「あ、ありがとう……」
「うれしいな、やったー……」
「ヨウコリスお姉ちゃん、だいすき……」
「わーい。お菓子だ……」
もそもそと静かに食べる子どもたち。
いつもと反応が違う。
「ど、どうしたの、みんな。美味しくなかった?」
「ううん、そんなことないよ」
チコという小さな少女が、首を振った。
原因が判明したのは、数日後のことである。
男が悪さをしないかと気になって、ヨウコリスは“慈愛の園”に足しげく通うようになっていたのだが、ある日、子どもたちが幸せそうに焼き菓子を食べている姿を発見したのである。
ヨウコリスが作ったものとは違う。分厚く、しっとりと柔らかそう。動物を模ったのだろう。可愛らしい形をしていた。木の実を砕いたものも入っているようで、香ばしそうだ。
それは、上流階級の人々が集うアルマンティア通りの店あたりで売ってそうな、見るからに高級そうな焼き菓子だった。
「みんな。それ、どうしたの?」
「あ、ヨウコリスお姉ちゃん。いらっしゃい」
チコが満面の笑みを浮かべて、自分の分をひとつ分けてくれた。
「……お、美味しい」
予想を超える触感と味に、思わず目を閉じ、感動に浸ってしまう。
自分の作った菓子とは、まるで次元が違った。
「あにきお兄ちゃんが、作ってくれたんだよ」
「え?」
「おーい、お前ら。運ぶの手伝え」
調理場の方から、どすのきいた声が聞こえてきた。
年長者の子どもたちが一斉に立ち上がって、声のした方へと走っていく。しばらくして調理場から現れたのは、ピュータル女史と子どもたち、そしてアニキというあの男だった。
「あら、ヨウコリス、いらっしゃい」
「園長先生、と。アニキさん」
「よォ」
男と子どもたちは、拳ほどもある木の実の殻を抱えていた。
「うちのやつに魔法をかけさせたんだが、あいつら、どうにも不器用でな。完全に凍っちまった。まあ、溶かしながら食ってくれや」
「なんですか、これ?」
「雪果汁の、成り損ないだ」
最近王都で流行りだした魔法菓子の一種である。ひとつで角銅貨五枚はするはず。メンバーから噂を聞いて、ヨウコリスも興味が沸いたのだが、生活費を切り詰めなければならないので、まるで興味のないふりをしていた。
「ひょっとして、この焼き菓子も、アニキさんが?」
「もうひと工夫味足りなくてな。完成品じゃなくて申し訳ないが、捨てるのはもったいないだろ?」
「す、捨てるなんてとんでもない、です」
「というわけだから、遠慮なく食ってくれや」
子どもたちから大歓声が沸き起こる。
「婆ちゃん、こいつは冷たいから気をつけろよ」
「ほっほ、心配はいりませんよ。食欲は旺盛ですから」
ピュータル女史は恰幅の良い老婆である。物珍しそうに目を丸くしながら、木の実の殻から綿毛のように飛び出している氷菓子を口に運んだ。
「――くわっ、あ、頭が!」
突然、リニという少年が頭を押さえてうずくまった。
「ふっ、ひっかかったな」
心配するふうでもなく、男がにやりと笑う。
「この氷菓子はな、一気に食うと、頭にガツンとくるのヨ」
「あたまに、がつん?」
「どんなの?」
「あたしもやる」
「ぼくも!」
「ば、ばか、やめろ! チビにはまだ早ぇ。ゆっくり食え、ゆっくり」
手の平を返したように、男がどなり散らす。
そんな光景を、ヨウコリスは呆然と眺めていた。
この男はいったい何者だろうか。凶悪な風貌をしているが、見かけほど悪い人間ではなさそうだ。人の本質は、子どもたちの相手をしている時に顕著に表れる。無遠慮で、裏表のない性格。だからこそ、子どもたちも懐いているのだ。
雪果汁の成り損ないは大好評だった。
子どもたちは満足そうに吐息をついている。
「また食わせてやるヨ」
男は木の実の殻を子どもたちに洗わせて、回収した。
それから、子どもたちに別れを告げた。
「え~、あにき兄ちゃん、遊んでくれるっていったろ?」
「今日は先約があってな。また今度だ」
「ぜったいだよ」
「またお菓子、持ってきてね」
「あたし、ぎょーれつのできるお店、見つけた」
「本当か? 案内できるか?」
「うん、ナギサお姉ちゃんといっしょにいく!」
僕も私もと、子どもたちが男の足にしがみつき、男は重石を付けたまま、ゆっくりと強引に歩いていく。それが面白いようで、また大騒ぎになる。
「お前ら、いい加減にしろ、離れろ!」
怪我をさせないように子どもたちを振り払ってから、男は“慈愛の園”を出て行った。
あまり深く考えずに、ヨウコリスはその後を追った。
「あの! アニキさん」
「あ?」
自分で声をかけておきながら、ヨウコリスは言葉に詰まった。
特に用事はない。
あるいは、男の本性を確かめたかったのかもしれない。
「あの、その……」
もじもじしていると、男が先に聞いてきた。
「お前、あの孤児院出身なんだってな?」
「え、あ、はい。そうです」
「稼いだ金で、ガキどもに玩具とか、服とか、食べ物とか、買ってやってるみたいじゃねぇか」
「いえ、そんな。たいしたものでは」
自分が作ったぼそぼそで焦げた焼き菓子のことを思い出して、赤面してしまう。
「家を飛び出した子どもが、元気でやってる姿ってのは、やっぱ嬉しいもんさ」
「え?」
「がんばんな」
一方的に話を終わらせて、男は背中を向ける。
「……あ、お前。名前、なんつったっけ」
「ヨウコリスです」
男は何かを検討するかのように考え込んだが、首だけで振り返り、こう言った。
「ヨーコって呼んでいいか?」
名前を短縮して呼ばせるのは、本来親しい間柄、それこそ家族や恋人くらいのものだ。許可なく呼ぶことは、礼を失する行為である。
しかし反射的に、ヨウコリスは返事をしてしまった。
「あ、はい」
「じゃあな、ヨーコ。アバヨ」
不思議な言葉を残して、男は去っていった。
家に帰ったヨウコリスは、再び外出する準備をした。
洗いざらしの清楚なブラウスと丈の長いスカートを脱ぎ、袖のない上衣とぴったりとした脚衣を身に着ける。さらに、夕焼け色に染め上げた派手な上着を羽織る。背中には“ドラゴンブレス”の絵文字。腕の部分には、細い鉄製の鎖が何重にも巻きついていた。脚衣は左右で色と柄が違う。腰の革帯と黒革の長靴には鉄鋲が入っており、投擲用のナイフが仕込まれている。
とある世界では、パンクファッションと呼ばれる類の格好だろう。
あまり手入れのされていない金茶色の髪は長く、腰まで届く。
それを強引にまとめて、頭の後ろで高く結わえる。
露になった顔に、化粧を引く。
目の周りに黒い縁取り、まつげを強調させるような、とげとげをまぶたに描き入れる。唇の色は紫。頬や額のいたるところに、炎を模った文様を描き込んでいく。
かなりの時間をかけて変身したヨウコリスは、まるで別人だった。
「行くか!」
鏡の中の自分に向かって、気合を入れる。
向かった先は、王都の下層区域にある冒険者組合だった。
広大な敷地内に建てられた、石造りの建物。飾り気はなく、植木や鉢植えといった装飾すらない。
集まっている人間のほとんどは冒険者であり、物々しく派手派手しい出で立ちをしている。その中でも、ヨウコリスの化粧と格好はひと際目立っていた。
一階の広間で仲間たちと落ち合う。
今日は依頼案件を物色する予定だったのだ。
「リーダー!」
集まってきたのは、五人の仲間たちだった。全員が女性で、ヨウコリスと同じような化粧と格好をしている。共通しているのは夕焼け色の上着で、背中に“ドラゴンブレス”の絵文字が入っている。
「みんな、気合入ってる?」
「はい!」
五人がそろって返事をしたので、周囲の注目を浴びた。
「お、おい。“ドラゴンブレス”だぜ、相変わらず、気合入ってるな」
「今はまだ“一角獣級”だが、昇格も近いって話だ」
「文字通り、“竜級”になるわけか」
「たった六人で、よくやるよ」
「あいつら、女じゃねぇからな」
「“ホーリィギガンテス”のリーダーがちょっかいかけたが、肘鉄くらったって話だぜ」
「きっひっひ」
冒険者チームはその実績により幻獣の名を冠した級別けがされている。
下から順に“石像鬼級”、“一角獣級”、そして最上位が“竜級”だ。
六名という少人数でありながら、ヨウコリス率いる“ドラゴンブレス”は、現在、最上位を狙える位置にいる。
しかもメンバーの年齢も二十台前半と、若い。
「いいかい、“シルバーローズ”のリーダーが、物見遊山から帰ってきたそうだ。お遊びで戦っているお譲ちゃんたちに、負けるんじゃないよ」
「はい!」
何かと“ドラゴンブレス”と比較されがちな冒険者チーム“シルバーローズ”に対して、ヨウコリスは敵対心を燃やしていた。
最初は自分たちと同じ女性チームということで、仲良くやっていこうと思った。
しかし、あいつらは違った。
自分たちとは、まるで別の世界の住人だった。
泥や汗にまみれて働いたことのない、きれいな顔と手。
駆け出しの頃から身に着けている、最高級の装備品と意味のない宝飾類。
今ごろ、花や緑に囲まれた庭園で、優雅にお茶でも飲んでいるのだろう。
不幸を売り物にする気はないが、這い上がろうとする人間の、本気の強さを見せてやる。
「ぜったいに、私たちが先に昇格する!」
涼しげな顔をした銀髪の女性を思い浮かべて、ヨウコリスは歯軋りした。
レイディ・キース。
あんただけには、負けない。
(18)
ヤンクが“シルバーローズ”のリーダーとなって、約ふた月。
冒険者としての依頼を、ようやく受けることになった。
ヤンクとしては編隊の機動力と安定感にまだ不満があり、もう少し訓練を続けたい様子だったが、いつの間にかチームの財政を預かることになっていた総務統括のナギサが、にこにこしながら聞いてきたのである。
「ヤンクお兄ちゃん、レイディお姉ちゃん。いつになったらお仕事するの? うちの家計は火の車で、真っ赤っかなんだけど」
ヤンクに教わった、どうにもならない時の表現である。
もうひとつ習った表現も使ってくる。
「このままじゃ、尻のけ――」
「わーっ! ナギサ、なんてこと言うの!」
「――鼻血も出ないんだけど」
「そんな言葉、絶対に使っちゃだめ!」
どたばた劇の末、なし崩し的に依頼を受ける運びになったのである。
「でも、冒険者組合、よく絡まれるから、あまり行きたくないんだよね」
冒険者の男女比は、およそ九対一といわれている。
女性冒険者は十人にひとりしかいない。
その数少ない存在も、筋肉をむき出しにした野性的な女や顔に派手な化粧を施した過激な女ばかりで、中には同性にしか興味がない、ある意味“シルバーローズ”にとって天敵と呼べるような輩もいる。
貴重な魔法使いであり、可憐な少女である“シルバーローズ”のメンバーを連れて行くわけにはいかなかった。
「今回はナギサもお留守番だよ。ヤンク兄さん、いっしょに来て」
「ま、いつまでもただ飯食らいするわけにはいかねぇか」
「そういえば、ヤンク兄さんは組合に登録してないよね。ついでだから――」
「あ~、こほん、こほん」
わざとらしい咳払いをして、ナギサが兄と姉の注目を集めた。
「実は、依頼の件は、ここにあるのでした」
そう言ってナギサが差し出したのは、依頼書の写しだった。
比較的近い距離にある地方の、緊急案件。
それも三件。
「へぇ。うちはみんな馬に乗れるから、都合がいいかもね。それで、どれにする? ヤンク兄さん」
「なに言ってるの、レイディお姉ちゃん」
「え?」
「依頼書の達成期限、見て」
確認すると、それぞれが微妙にずれていることが分かった。往復の移動時間と行動時間を計算すると、三件ともぎりぎり達成できる形になっている。
「あの、ナギサ?」
「この際だから言っておくけど、お姉ちゃん?」
「あ、はい」
「お姉ちゃんたちが何気なく食べてるお菓子だって、ただじゃないんだよ。本当なら、事務所の賃貸借料も、メンバーの頭割分、払わないといけないんじゃない? お風呂だって毎日入ってるし。収入に見合っていない、贅沢な暮らしだよね?」
「――うっ」
「だいたい、お姉ちゃん歌手としても人気があるのに、どうしてあんな少ない報酬で歌ってるの?」
「だ、だって。あそこの主人には、昔世話になったし」
「普通に給仕として働いてたんでしょ? 労働の対価として報酬をもらうのは、当たり前のことだよ」
「た、確かに報酬は安いけどさ。その代わり、お酒を飲ませてくれるんだ。ヤンク兄さんといっしょに飲んでるから、その分が加味されてないのでは、ないのか、と……」
「じゃあ、ヤンクお兄ちゃんのお小遣い、減らしてもだいじょうぶ?」
「おい待て。なんでそうなるんだヨ!」
妙なところから飛び火して、ヤンクも焦り出す。
話し合いの結果は年長者側の一方的な敗着となり、三件の依頼すべてを受けることになった。
翌日の茶話会。内輪の事情を除いてこの件を話すと、魔法使いの少女たちは、俄然やる気をみせた。
ここひと月半の訓練で身体も引き締まり、体力もついた。特にファムロなどは別人のように細身になった。
それに、前回の依頼はレイディとカリンが、ヤンクを王都に連れ出すためにヘイポの町へ出かける前だったので、もう三ヶ月近く経っている。
さすがに彼女たちも、冒険者としての矜持、というか後ろめたさを感じ始めていたのである。
「ようやく、古代魔法を撃てますわ。爆発とか、爆発とか、爆発とか……」
ただひとりカリンだけは、別の理由で燃えているようだ。
「出発は明日だ」
ヤンクは不敵な笑みを浮かべた。
「オレは喧嘩は得意だが、魔法を使った戦いは初めてだからな。まずは、お前たちの実力を見せてもらうぜ」
カリンもまた、不敵な笑みで応えた。
「望むところですわ。華麗なるわたくしたちの戦いぶりを、特等席でご覧に入れてみせますわ」
「へっ、頼もしいじゃねぇか」
通常であれば、馬車の手配と食料などの消耗品の準備で二日、さらに移動で二日はかかるところ、シルバーローズはたった一日で現地に到着した。
食料は現地調達するという、ヤンクの方針のためである。
これには、依頼主であるカツラ村の村長も驚いた。
「まさか、こんなに早くいらっしゃるとは思いませんでしたぞ」
依頼の内容は、近くの森の中で発見された魔城蜘蛛の退治と、その巣の除去だった。
この魔物は、胴体部分だけでも十メルク、足の長さを合わせると二十メルク以上にもなる巨体で、弾力性と粘着性のある糸を出して攻撃してくる。
絡め取られてしまえば、ほぼ助かることはない。
魔城蜘蛛の外骨格は硬く、目や口、そして関節部分以外は刃物も通りづらい。武技魔法や古代魔法を操る冒険者でなければ、まるで歯が立たない魔物だった。
「その魔城蜘蛛が、産卵の準備に入ったようなのです」
村長は青ざめ、がたがたと震えていた。
魔城蜘蛛の成体は体内で卵を育む。そして卵が孵ると、自分の身を犠牲にして幼体たちの餌にするのだ。
このあたりは通常の蜘蛛と同じである。
だが、魔城蜘蛛の幼体は、ある程度の大きさになると、一斉に拡散するという。
後継者となる一体を除き、集団で森を出て、新たなる住処を探す旅に出るのだ。
その経路に人の住む町や村があった場合、大きな損害が出ることになる。
実際、冒険者や騎士団の派遣が間に合わず、魔城蜘蛛の幼体の群れによって蹂躙された町や村は、過去百年間で三十を超えるとされていた。
ここまでの情報は、フラー・プリトンが所有していた最新の魔物図鑑に掲載されていたものである。
「え~とぉ、魔城蜘蛛の成体は、産卵間際になると、強靭な糸で城のような巣を構築するとあります。あ、これが魔物の名前の由来のようですわ。そうなると約半年ほどで、幼体が飛び出してくるみたいです」
「村の者が森の中で魔城蜘蛛の巣を見つけたのは、つい先日です。その時にはすでに、城が構築されておりました」
村長の話を加えると、一刻も早く、糸の城とその中にいるであろう魔城蜘蛛を排除しなければならないということだ。
「本来であれば、お国に栄光騎士団の派遣を依頼すべきなのでしょうが、決議が行われるまでひと月以上かかると言われまして。やむなく、冒険者組合に駆け込んだしだいなのです」
どうか村を救ってくださいと、村長は頭を下げた。
「どうする、ヤンク兄さん?」
「その城とやらに乗り込んで、蜘蛛野郎をぶっ飛ばせばいいんだな?」
「いや、中距離から魔法で破壊するんだけどね」
戦いにおける近距離は、武器が直接届く距離。中距離は約五百メルク以内で、視界が通る範囲。そして遠距離は制限なしと定義されている。
見通しの悪い森の中に巣があるならば、かなりのところまで近寄る必要があるだろう。
「むろん、案内役として村の者をつけますぞ」
即断即決。
あるいは何も考えていないのかもしれないが、ヤンクはすぐさま出発することを宣言した。
(19)
「開錠」
それは、シェフィール女子魔法学園に入学すると一番最初に習い、卒業までに最も多く口にする古代言語のひとつだった。
頭の中にあるという“乖離扉”の鍵を開けて、“万象世界”へと同調する。
現実感がすっと希薄になり、夢か現か分からない状態になる。
ちなみに新入生などの初心者は、この瞬間倒れてしまうこともあるので、椅子に座ったまま練習する。
「“魂の器”を満たす、“精神の海”において。我、象を結ばん」
粘土をこねて像を作るように、精神力を練り上げて、現象を構築する。
――炎だ。
想像するのは、この世で最も強力とされている、幻獣竜の炎。
煌々と輝き、激しく燃え盛る。
もちろん本物の竜の炎など見たことはない。スカラエ魔物研究所に所蔵されている竜の剥製や、溶鉱炉の炎、他の魔法使いが行使した魔法などを組み合わせ、頭の中で再構築する。
要するに、継ぎはぎだらけのまがい物だ。
「召喚」
具現化した現象を、現実世界に顕現させる工程。業界用語では“釣り上げる”とも表現する。
海で魚を釣る行為に例えているのだ。
釣り糸は、術者の魔力。しなやかで強度の高い魔力を持つ者が、より大きな魚――つまり、強力な魔法を召喚することができる。
ちなみに、釣り針は古代言語の発音とリズムらしい。
魔法を召喚する際には、どうしても磨耗が発生するが、その度合いは術者の属性に対する相性に影響されるといわれていた。
ゼリシオ・ルエトの場合、炎系の相性が一番いいようだ。
余談だが、属性の相性によって術者の恋の性格を分類する“属性恋占い”なるものが、古くからシェフィール女子魔法学園に存在している。
炎の属性の場合、情熱的で激しい恋を好むとされていた。
まったくもって同意できないと、ゼリシオは考えている。
自分には、自信が足りない。
覚悟が足りない。
ゆえに、何ごとに対しても積極的になれない。
幼少の頃から培ってきた技術や経験で補い、繕っているだけなのだ。
「顕現」
ゼリシオは左手で右腕の肘を固定し、魔棒を握った右手の手首を額に当てていた。
集中力を維持しやすいとされている、教科書通りの仕草だ。
しっかりとかかった釣り針。
ぴんと張り詰めた糸。
自分が想像した魚が大きすぎた場合、釣り針が外れたり、糸が切れたりすることもある。
安全を考えて、あえて磨耗させる必要も時にはあるのだ。
自分の中から、強大な存在を引きずり出す感覚。
今回は、釣り合いがうまくとれた。
視界の先、周囲の木々がなぎ倒され、地面が掘り起こされた場所に、巨大な白い塊が横たわっていた。
「灼熱の炎の息吹を持て、悪しき魔城を焼き払え」
発生点を定め、魔棒を釣竿のように振り下ろす。
「竜炎咆!」
魔城蜘蛛の巣は、半径五十メルクはあろうかという巨大な半球状の塊だった。
天頂部に突起のようなものが八本出ている。
折りたたまれた魔物の足なのかもしれない。
ゼリシオの竜炎咆によって、糸の城の三分の一ほどが炎の渦に巻き込まれた。ちなみに、巣の周囲にはエア・シーズが魔防壁を張っているため、森の木々に炎が燃え移ることはない。
「魔蜂攻爆、ですわ!」
恍惚とした表情を湛えながら、カリン・カリルが魔棒を振るう。
光が収束し、爆発。
糸の城の五分の一ほどが弾け飛んだ。
ゼリシオの炎の魔法の方が効果範囲は広いが、破壊力についてはカリンの爆発魔法の方が上だ。
「怪狼雪咆!」
「猿獣空裂鞭!」
「土蜘蛛八爪!」
他のメンバーたちも、自分の属性に合った攻撃魔法を行使する。
派手に、無秩序に、一気呵成に――
これが“シルバーローズ”の戦い方だった。
中には魔法の効果が打ち消し合うものもあるが、破壊力は凄まじいのひと言に尽きる。
これほどの種類の攻撃魔法を一度に行使できる冒険者チームは、“シルバーローズ”以外には存在しない。破壊力だけに限れば、王立騎士団の魔法部隊にさえ匹敵するだろう。
「三頭犬炎弾!」
ゼリシオの魔棒がしなる。
頭上に現れたみっつの炎の球が、それぞれが異なる軌道を描きながら、魔城蜘蛛の巣へと飛び込んでいく。
着弾点から火柱が上がり、視界が真っ白に染まった。
なるべくならば、何も見ないまま、何も知らないまま終わって欲しいと、ゼリシオは願っていた。
魔物の姿は、生理的嫌悪感をもたらすものが多い。特に蜘蛛や百足や蛇のような姿をした魔物は、正視に堪えられない。
巨大な繭の中にいるであろう魔城蜘蛛の成体に動きはなかった。すでに卵を産み、力尽きているのだろう。繭が破れていないことから、幼体も外に出ていないことが分かる。
攻撃をするには、一番よいタイミングだったのかもしれない。
ほっと肩の力を抜いたその時、炎の中に影が揺らめいた。
魔法によって破壊された繭の裂け目から、五体の蜘蛛が飛び出してくる。
魔城蜘蛛の卵は、孵化していたのだ。
幼体の大きさは、大型犬くらい。
おそらく初めて目にする外の世界に戸惑っているようだ。しばらくは混乱し、その場でうごめいていたが、本能的に敵であり餌となる存在、人間に気づいた。
「……あっ」
一番近くにいたのは、ニコリコ・ブラン。
左右でくくりつけている、明るい蜂蜜色の髪。目は大きくぱっちりしていて、笑顔が可愛らしい。
そんな少女の顔が青ざめる。
「ニコリコ、下がって!」
鋭い声とともに、少女のわきを、銀髪の戦士が駆け抜けた。
レイディ・キースだ。
メンバーたちから絶大な信頼と支持を受けている副リーダーは、野生の動物のような身のこなしで跳躍した。
手にしているのは、両手持ちの大剣。柄の部分を含めれば、その長さは使い手の身長をゆうに超える。
大剣の重量と全体重をのせた下突き。
幼体の胴体を貫く。
間髪いれず、大剣を抜き去り、次の幼体に向かって突進。
危険を察知した一体が跳躍して逃げようとするが、その動きを見切り、レイディもまた同じ方向に跳躍。
大剣の一閃。
魔城蜘蛛の幼体は斜めに切り裂かれ、二つに分かれた。
残るは三体。
幼体たちの関心はレイディのみに集中したようで、ニコリコはその場を離れ、レイディを支援するための魔法の準備に入ったようだ。
さすがはレイディさまと、ゼリシオは安堵した。
普段は優雅な仕草と穏やかな口調で接してくるレイディだが、いざ戦いとなると、冷徹な戦士に変貌する。
魔物の返り血を浴びても動じることなく、最短で、最速でとどめをさすよう行動する。自分を鼓舞するために声を張り上げたり、大げさに武器を振り回したりもしない。
心が凍りついているかのような戦い。
これも、“氷の歌姫”と呼ばれる理由のひとつなのだ。
わたくしにも、レイディさまのような強さがあれば……。
戦闘中だというのに、そんなことを考えてしまったゼリシオは、何かが地面に落ちてきたような音に、とっさに反応ができなかった。
慌てて振り返ると、二十メルクほど先の木陰に、別の幼体がいた。
薄暗闇の中、いくつもの複眼がぼんやりと赤く光っている。
カチャカチャと、何かが音を立てている。
幸いなことに、こちらに気づいていないようだ。
「開錠――」
行使速度の速い魔法。
威力は弱いがコントロールのつきやすい、火蜥蜴突尾か。
「り、召喚」
シェフィール魔法学園で習ったとおり、ゼリシオは声に出して発音する。そのほうがより確実に魔法を召喚することができるからだ。
その行為があだとなった。
ゼリシオの声に気づいた魔城蜘蛛の幼体が、地の上をすべるように近寄ってくる。
カチャカチャと、硬いものが擦り合うような音。口らしき部分にびっしり生えている歯だ。唾液のようなものに濡れて、糸を引いている。
――捕食される。
根源的な恐怖と生理的な嫌悪感に、ゼリシオの精神は乱れた。魔法を撃つだけの十分な時間はあったはずなのに、頭の中が空回りして、精神力を練り上げることができなかったのだ。
レイディはまだ他の幼体と戦っている。
ひとりで倒さなくてはならない。
倒さなければ、死ぬ。
頭の中では分かっているのに、身体が強張り、一歩また一歩と後ずさってしまう。その様子を見て、魔城蜘蛛の幼体が何かを判断したようだ。
おそらく、この人間には勝てると。
八本の足を曲げ、身体が沈み込む。
跳躍して上から襲う気だ。
「ギギッ!」
「ひっ」
幼体が飛び上がると同時に、別の方角から白い塊が飛んできた。
それはゼリシオが――いや、“シルバーローズ”のメンバーたちが、毎朝の訓練で嫌というほど目に焼き付けている、白い長外套だった。
「おらっ!」
どすの利いた掛け声とともに、ヤンク・キースの身体が半回転する。
突進力に回転力を上乗せした後ろ回し蹴り。
まるで木槌を地面に叩きつけるような音とともに、魔城蜘蛛の幼体は破裂した。
「あ、アニキさま」
「――くっ」
ヤンクは胸の前で両手を合わせると、ばきぼきと指の骨を鳴らした。爆発や炎の光で照らされた横顔には、邪悪な笑みが浮かんでいる。
「くっくっく」
「あ、あの……」
「やっぱ、喧嘩はこうじゃなきゃな。観戦してるだけじゃつまらねぇ!」
糸の城から、さらに数匹の幼体が飛び出してくる。
興奮したような奇声を上げながら、強面のリーダーは魔物の群れに向かって突進していった。
(20)
道案内役の村人がそのまま魔物退治の証人となり、その夜はささやかな祝宴が催されることになった。
大きな災いが取り除かれたことで、村長は感謝感激といった様子だ。
「なにぶん田舎村で、たいしたおもてなしはできませんが。ぜひお越しくだされ」
小遣い制で飲み代に苦労しているヤンクは、嬉々として参加を表明した。
一方の少女たちは戸惑いを隠せない。
これが上流階級の人々たちが集う社交界のパーティであれば、にこやかな微笑みと優雅な仕草と定型的な社交辞令を駆使して、見事に乗り切ることができるのだが、田舎村の庶民の飲み会は勝手が違った。
まず、立食ではなく、床の上に布を重ねたものを敷いて、その上に直に座る。このような座り方は子どもの頃くらいしかしたことはないし、足の裏を見せるようなはしたない格好には、さすがに抵抗がある。
そういった心情を察したレイディが、さり気なく気を遣った。
「申し訳ないが、村長。私たち女性陣は寒がりでね。布を一枚ずつお借りできないだろうか」
少女たちは足を崩すようにして座り、膝に布をかけた。
大皿に山のように盛られた料理がいくつも運ばれ、酒が注がれる。
葡萄酒を嗜む程度の少女たちは、香りがないことを訝しんだが、ひと口飲んで盛大にむせ返った。酒は芋類を使った蒸留酒だったのだ。淑女としては吐き出すこともできず、口を押さえて苦しそうに耐えるのみ。
「〜くぅ、しみるぜ。やっぱりヨ。地酒はいいな」
「はっはっは、ヤンクさんはいける口ですな」
全体的に料理の味付けは濃い目だ。芋や野菜などが多いが、中には奇妙な形をした固形物もある。
ヘイポの町ではタコを克服したカリンが、果敢に口に放り込む。
口をもごもごさせた後、眉根を潜めた。
「……これは、なんですの?」
「それは、桃色アゲハのサナギですな。鍋を振りながらじっくりと焼いただけなのですが、味よし歯ごたえよし、しかも栄養たっぷりというご馳走ですぞ」
「サナ――」
金髪巻き毛の令嬢は、白目をむいて倒れた。
大騒ぎになって、その夜の祝宴はなし崩し的に終了となる。
翌朝、大勢の村人たちに見送られながら、“シルバーローズ”の一行はカツラの村を発った。
往路で二日、作戦行動で一日。三日ぶりに王都の事務所に帰還する。
「みんな、お帰りなさい!」
少女たちは久しぶりにナギサ入れたお茶を飲み、みんなでお風呂に入って、ようやくひと息ついたのであった。
「明日は一日休んで、次はムジナ村だね。頑張って」
やや疲れを残したまま屋敷へ戻ると、還暦を過ぎた執事が出迎えてくれた。
「ああ、お嬢さま。ご無事でなによりでございました。お帰りなさいませ」
「ただいま帰りましたわ」
「旦那さまもお帰りになられています」
執事の言葉に、ゼリシオは緊張した。
「書斎ですか?」
「はい」
ゼリシオの父親は、イギス伯爵家の五男だった。爵位を継ぐことはなく、栄光騎士団に入隊し、とあるパーティで知り合った商家のひとり娘――ゼリシオの母親と結婚し、ルエト家の婿養子となった。
現在では、騎士団の副軍団長を務め、ルエト商会の差配まで行っている。
有能かつ厳格な父親のことを、ゼリシオは尊敬していたが、同時に決して越えられない壁として、恐れにも似た感情を抱いていた。
畏怖、という言葉が一番近いかもしれない。
ゼリシオはまっすぐに父親の書斎へと向かった。
「帰ったか」
「はい、お父さま。お久しぶりでございます」
「話がある。かけなさい」
父親は背が高く、肩幅が広い。年齢は四十二歳だが、いつも気難しい顔をしているので、少し年上に見られるようだ。
こげ茶色の髪に濃い同色の瞳。腰まで届く黒髪と青色の瞳を持つゼリシオとは、顔立ちもまるで似ていない。
執事曰く、ゼリシオは母親の面影を色濃く受け継いでいるらしい。
ゼリシオが子どもの頃に病気で亡くなった母は、もともと病弱で身体が弱く、長くは生きられないと医者から宣告されていたのだという。
そんな母親を愛した父親は、まるで悪夢を振り払おうとするかのように、ゼリシオを鍛え始めた。
最初の頃は楽しかった、ような記憶がある。
父親もよく笑っていた、と思う。
しかしいつしかゼリシオは、父親の失望している顔しか思い出すことはできなくなっていた。
向かい合ったソファーに腰をかけると、父親は手の平サイズのカードを三枚取り出して、テーブルの上に置いた。それぞれに気取った感じの男性の顔の絵が描かれている。
いわゆるお見合い用の姿絵であることに気づき、ゼリシオは硬直した。
「この男は、マーカス。団の部隊長でな、まだ若く荒削りだが、剣の筋はいい」
父親は順番に男たちを紹介した。
人物評価に厳しい父親がこれと決めた男性であるからには、きっと優秀な方ばかりなのだろう。
しかし、今はまだ――
「その、お父さま。わたくしは今、“シルバーローズ”の活動に、力を入れたくて……」
消え入りそうな声で主張すると、父親の雰囲気が変わった。
心底つまらなそうな顔になり、苦々しい吐息をついたのである。
「“シルバーローズ”の活動? くだらんな」
「――っ!」
「しょせんは、女子どものお遊びではないか」
「そ、そんなことは――」
反論する前に、父親は指摘してきた。
所属メンバー数と活動期間に対して、依頼の達成件数が少ないこと。仕事がない日も事務所に集まっているが、ろくに訓練もせず、お茶ばかり飲んで談笑していること。ゼリシオの乗馬や剣術の腕前が、まるで上達していないこと。
情報源は執事ではないと、ゼリシオは思った。
母親が子どものころからルエト家に仕えていた執事は、完全にゼリシオの味方である。その他の家政婦たちも、みな同じだ。
それに、情報が微妙に古い。
ヤンク・キースがリーダーとなって約ふた月。メンバーたちは訓練漬けの毎日を送っている。機動力を備え、今後は依頼も増えていくことだろう。
少しずつではあるが、変わろうとしているところなのだ。
「誤解をせぬよう言っておくが、私は冒険者を毛嫌いしているわけではないぞ。もともと、イギス伯爵家の始祖もまた、冒険者だったのだからな」
「え?」
父親の実家である。
「イギス家の始祖となられた方は、一介の冒険者として活躍された。今から二百年ほど前、王国の創世記の時代だ。冒険者組合などという組織はなく、満足な支援が受けられない中、ご先祖さまは仲間たちを集い、飛竜の山へと進軍して、悪しき飛竜を討伐なされたのだ。その功により、初代国王に貴族として取り立てられたのだという」
初耳であった。
一瞬、父親は昔を懐かしむような顔になったが、すぐに表情を引き締めると、重々しい口調で語った。
「だが、今は時代が違う」
今から百年ほど前、上級魔物および魔物郡の討伐を目的とした、栄光騎士団が設立された。ほぼ同時期に、冒険者たちもまた冒険者組合を立ち上げたのだが、両者が依頼を巡って衝突することはなかった。
大きな災害が予想される強力な魔物や数百匹規模の魔物の群れたちは、騎士団が組織的に戦う。小回りのきく冒険者たちは、比較的弱い魔物たちを相手にし、とにかく数をこなす。
自然と仕事の住み分けが成り立ったのである。
「もう一度言うが、私は冒険者たちを蔑んではいない。むしろ、実績のある冒険者たちには、それなりの敬意を払うつもりだ」
父親の目が冷たい光を帯びた。
しかしお前たちは違うと、その目が語っていた。
「お、お父さま。“シルバーローズ”は、一角獣級です。かなりの短期間で昇格し――」
「それは、レイディ・キースのおかげだろう」
冒険者チームの階位は、所属しているメンバーたちが所有する達成点で決まる。
達成点は、依頼の難易度によって設定され、その依頼を達成することで冒険者に付与される。
十五歳で冒険者となり、以来ずっと単独で活躍し続けていたレイディは、“シルバーローズ”結成前からかなりの達成点を所有していた。“シルバーローズ”がごく短期間で一角獣級へ昇格できたのは、その土台があったからなのである。
「ここ一年ほど、レイディ・キースの個人達成点数は伸び悩んでいると聞く。総合順位も下がっているようだ。お前たちが、彼女の使命を邪魔しているのではないのかね?」
「……!」
父親の指摘に、ゼリシオは息を飲んだ。
虚をつかれ、何も反論することができなかった。
剣術でも魔法でも乗馬でも、練習では一定以上の成果を出せるのに、肝心な実践になると失敗ばかりしている自分。
父親より教えられた技術を活かせず、チームにも貢献できていない自分。
蜘蛛の幼体を目の前にして、足が竦んでしまった自分。
――へっぴり腰。
「このまま冒険者の真似事を続けたところで、時間の無駄だ。そのことは、お前が一番分かっているはずだ」
結論はすでに出たとばかりに、父親は淡々と語る。
「覚悟もないままに冒険者を続けたとしても、人々を救うことなどできはしない。最悪、命を落とすことになるだろう。お前には――」
父親の言葉は、まるで呪いのようにゼリシオの胸に突き刺さった。
「冒険者は、向いていない」
(21)
「魔法を撃つ時に、何を考えている、ですか?」
カリン・カリルは不思議そうに聞き返した。
「はい。もし目の前に魔物が迫っていて、もう後がない時、とか」
「そうですわねぇ」
少し考え込んでから、カリンは琥珀色の瞳を輝かせた。
「それはもちろん、爆発のことですわ」
「……」
「この世に始まりと終わりがあるとするならば、それは爆発だと思いますの。世界の生誕と終焉、収束と拡散。まさに生命の鼓動ですわ!」
何を言いたいのか、いまいち理解できなかった。
丁寧に礼を述べてから、次に木陰で本を読んでいたキスイト・ミュズに質問する。
「魔法を撃つ時に、ですか?」
「ええ。もし――」
ムジナ村へ向かう道中、馬を休めるための休憩時間。
のどかな田園風景の中、ゼリシオ・ルエトはシェフィール女子魔法学園で魔法実践学の成績がよかった二人、カリンとキスイトに、とっさの時の心構えについて質問していた。
ちょっとしたことですぐに動揺してしまう自分を変えるための、きっかけとなればと考えたからである。
――が。
「何も考えていません」
キスイトは真顔で答えた。
「え?」
「危険が目前に迫った時、思考はかえって邪魔になります。いったん切り捨てて、形式に当てはめた思考に身を委ねることが、最良だと思われます」
何を言いたいのか、いまいち理解できなかった。
思考の切り捨て方について、キスイトは丁寧に説明してくれたが、心を凍らせるだの、遠くでもない近くでもない場所に漂わせるだのと比喩的な表現が多く、やはり理解することはできなかった。
ゼリシオは実戦に弱い。そのことを自覚している。
原因は自分の心が弱いからだと、彼女は結論づけていた。
このままではいつか自分に、あるいは仲間たちに、取り返しのつかないことが起こるかもしれない。
それは以前から漠然とした不安として感じていたことだった。
しかし前回の魔物との戦いで、魔城蜘蛛の幼体を前に魔法が使えなかったこと、そして先日父親から指摘されたことで、彼女の不安は現実感を伴う問題へと変わったのである。
ちなみに、見合いの件については、まだ誰にも話していない。
メンバーの誰もが抱えている問題でもあり、相談したところでどうにもならないことは、分かりきっていたからだ。
とりあえず直近の依頼があるからと、父親への回答は先延ばしにしたが、そう長くは引き伸ばせないだろう。
今回の魔物退治を含めて、実戦はあと二回。
その間に、自分の中で何かをつかみたいと、ゼリシオは考えていた。
ムジナの村は山の中腹にある山村で、人口は三百名ほど。土地は痩せているが、近くに水晶が採れる谷があり、貴重な村の収入になっているのだという。
その谷の一角に、小鬼が住み着いた。
数は十匹ほどらしいが、依頼料を下げるために過小報告をしている可能性もある。
それに、初めて戦う人型の魔物だ。
小鬼は人間よりも小柄な体格だが、野生の猿のように俊敏で力も強い。そして、猿よりも頭がよい。
表皮は濃い緑色で、体毛は灰色。額に角が生えている。
動物の毛皮を身に纏い、石を加工した武器を手に持つ。
小鬼の氏族のリーダーは小鬼頭といい、ひと回り身体が大きい。
氏族が複数集まり、集落を形成すると、小鬼頭の一体が小鬼長となり、さらに身体が大きく、角も長くなる。
夜行性であり、夜襲には気をつけなくてはならない。
近距離で戦うときには、間合いをとれる槍か、破壊力のある斧が推奨されている。
古代魔法による攻撃は、もちろん有効だ。
ムジナ村の村長は矍鑠とした老婆で、“シルバーローズ”のメンバーが女性ばかりということに驚いたようだ。
「ようこそ、冒険者さま方。まずは、歓迎の宴を……」
「おい婆さん、そんな余裕ないんだろ?」
初対面の村長相手に、ヤンク・キースは気安く話しかける。
「はぁ、分かりますか」
「ちびっ子どもが、すがるような目で見てるじゃねぇか。とっととやっつけなくちゃな」
「おお、頼もしいお言葉じゃ。嬉しく思いますぞ」
やる気はあるが細かいことが嫌いなヤンクは、状況分析や作戦立案には関わろうとしない。とにかく、相手をぶっ飛ばせば勝ちだと思っている。間違ってはいないのだが、それでは泥沼の戦いにしかならない。
適材適所ということで、レイディとカリンが村長にヒアリングを行い、作戦を立案することになった。
とはいえ、本拠地が分かっている相手にとるべき手段はひとつだ。
小鬼たちが住処としていると思われる洞窟に、奇襲をかける。
決行日時は、明日の明け方と決まった。
「フラーはここに残って、遠距離魔法で風をおこしてくれるかな。物音を消したい」
「心得ましたわ」
翌朝は雲ひとつない天気だったが、まるで嵐の前のように風が吹き荒れていた。
フラーの魔法“有翼天使風”によって、ある一定の領域だけに風が召還されていたのである。
周囲の木々が揺れ、葉が擦れ合う。
このような状態では、小鬼たちもあまり洞窟の外には出ようとしない。
静止した景色の中で動くものは目につきやすいが、すべての木々がせわしなく動いている。そして、物音が聞き取りづらい。
奇襲を行う良い条件を、作り出したわけだ。
村の若者による道案内で、渓流を遡っていき、水晶が採れるという洞窟までたどり着いた。
切り立った崖に挟まれた薄暗い渓谷である。岩肌にぽっかりと開いた洞窟の入り口には、見張りらしき小鬼が一体いた。
“シルバーローズ”のメンバーは、大きな岩陰に身を隠した。
「こちらには気づかれていないようだね。運がいい」
案内人の話によると、洞窟に他の出入り口はないとのことである。
「見張りが一体だから、パターン一で行こうか」
事前にレイディが考えていた作戦のひとつである。
まずは見張りを倒して、それから洞窟の内部を炎の魔法で焼く。
閉ざされた空間で大きな炎を発生させると、毒の煙が回る。それは炎の熱よりも強力で、あらゆる生物を死に至らしめるのだ。
「パ、パターン七はだめですの?」
小声で聞いてきたカリンに、レイディは首を振った。
パターン七はカリンが考えた作戦で、洞窟の入り口を爆発の魔法で壊し、小鬼たちを生き埋めにするというものだった。
入口が狭ければ試す価値もあったが、意外と広く、岩肌も堅そうだ。入り口を完全に塞げない可能性がある。成功しても小鬼はしばらく生き残るだろうし、失敗すれば、逃げられてしまう。
ならば、確実に倒せる作戦をとるべきだろう。
「フラーの風も長くは持たない。一気にいこう」
一番手は、エア・シーズ。
見張りの小鬼の周囲に魔法防壁を張る。
二番手は、アロマ・アルゼとチェイナ・ククの連携魔法。
「水馬包球」
渓流から生まれた水の玉が空中を移動し、呆気にとられている小鬼に命中。
「巨人掌雷」
直後、バチンという音とともに、小鬼が痙攣し、煙が上がった。
「ゼリシオ、出番だ」
「分かりました」
岩陰からレイディが、続いてゼリシオが飛び出す。
まだ魔法に使った戦いに慣れていないヤンクも、「ほほ~」と感心したような声を出して、後に続いた。
見張りの小鬼は、地面の上に倒れている。四肢の欠損もなく、焼け焦げてもいない。気絶しているのか死んでいるのか、判断はつかなかった。
「開錠」
洞窟の入り口が完全に視界に入る位置までくると、ゼリシオは古代言語を口にした。
想像するのは、この世で最も強力な、幻獣竜の炎。
煌々と輝き、激しく燃え盛る。
洞窟の奥を睨みつけ、魔棒を釣竿のように振り下ろす。
「竜炎咆!」
確かな手ごたえとともに、炎の渦が巻き起こった。
岩肌を赤くするほどの熱量。
攻撃魔法の破壊力を上げると、継続力は落ちる。今回はどれだけ長時間魔法を持続できるかがポイントだ。
細くて長い、息を吐くように。
精神力を練り上げ、現象を構築し続ける。
精神疲労で自分が倒れたとしても、他のメンバーたちがいる。全員が魔棒を構え、いつでも魔法を撃てる準備を整えている。
すぐそばにはレイディと、気合の入っているリーダもいる。
怖くなんかない。
炎に照らされた洞窟の奥に、黒い影がうごめいた。
それは、細長い――手のようなものだった。
宙をつかむような仕草。
その手は地面に落ちて、代わりに頭のようなものがもちあがる。
頭のようなのものは、ゆらりゆらりと揺れて、地面に落ちる。
再び持ち上がり、落ちる。
「ひっ」
小鬼だと、ゼリシオは思った。
自分が生み出した炎の中で、苦しみ、のたうち回っているのだ。
枯れ枝のような手が、頭部をかきむしる。
狼の遠吠えのような、甲高い声が聞こえてきた。
それは子どもが泣き叫ぶような声に似ていた。
「うっ――」
ゼリシオは口元を押さえ、嘔吐した。
(22)
「持ち場を離れるんじゃねぇっ!」
ヤンクの怒声が響き渡った。
ゼリシオの異変に気づき、思わず駆け寄ろうとしたメンバーたちは、驚きでその足を止めた。
「自分の仕事を、忘れんなヨ」
魔法使いの少女たちは、洞窟の入口を半円状に取り囲んでいた。精神力切れなどでゼリシオの魔法が途切れた場合には、それぞれの役割が与えられていたのである。
「アロマ、チェイナ、魔法を」
「は、はい」
「わ、分かりました」
レイディの指示で、アロマとチェイナが魔棒を構える。
魔力の大きさの他に距離適正や属性の相性等があるため、ゼリシオほど強い炎は召還できないが、二人で協力すれば十分に対応が可能だ。
崩れかけた陣形を立て直せたことに、レイディは安堵の表情を見せた。
多くの人間の心を瞬時に捉える迫力は、自分に欠けているもの。そのことを彼女自身、自覚している。だからこそレイディは、ヤンクにリーダーを任せたいと考えたのだ。
アロマとチェイナが火属性の攻撃魔法を放つ瞬間、洞窟の奥から二体の小鬼が飛び出した。
通常の個体と、もう一体は明らかに体格が違う個体だ。
煙に巻かれながら追い出されたようで、口から黄緑色の液体を吐き出しながら、周囲の様子を伺う。
魔法を召還する際の位置と方向は固定されるため、アロマとチェイナの炎ではこの二体を倒すことができない。他の少女たちが迎撃の準備に入るが、予想外に魔物の反応が素早かった。
身体の大きな個体がゴブリン語でなにやら叫ぶと、小さな個体が弾かれたように駆け出したのである。
包囲網の崩れかけた一角、いまだ立ち上がれていないゼリシオの方に向かって。
「いけない!」
大剣を構えたレイディが、間に割って入った。
ぎりぎりのところで間に合い、小鬼の突進を大剣の刀身で受け止める。
その隙をついて、もう一方の大きな個体がレイディのそばを駆け抜けた。
レイディは驚いた。味方をおとりに使って、自分だけ逃げようとする。このような状況下で、そんな機転がきくとは思わなかったのだ。
通常の小鬼であれば一.二メルクほどの大きさだが、この個体は二メルク近くあった。
しかも、額には二本の角が生えている。
それは小鬼長の証だった。
魔物図鑑によれば、二十体ほどの小鬼の氏族では、小鬼頭しか発生しない。数十の氏族が密集した時に初めて、小鬼頭の中で最も強い個体が小鬼長になるのだという。鬼頭や小鬼頭は小鬼長に勝てない。やがて氏族は統一され、数百体規模の集落を形成するのだ。
それらの知識を引き出しつつ、レイディは想像した。
ひょっとすると、この洞窟に住み着いた小鬼たちは、“ゴブリンの森”の奥深くにあるというゴブリン王国から追放された、はぐれ小鬼長が率いる一団なのではないか。
レイディは目の前の小鬼を蹴り飛ばした。
振り返ると、ゼリシオの前にヤンクが立ちふさがっていた。
やや半身で、片足に体重をかける独特の立ち姿。やや俯き加減で鋭い睨みをきかせている。
小鬼長が、ゴブリン語で何かを叫んだ。
「ああ、俺がチームの、頭だ」
ヤンクにゴブリン語など理解できようはずもない。
会話が成立しているのかどうかは不明だが、小鬼長は渾身の気合を込めるように、雄叫びを上げた。
「ヤンク兄さん、気をつけて! そいつは――」
レイディが警告する。
小鬼長は第四級に位置づけされている魔物である。注釈として記入されている強さの目安は、「初級、中級冒険者が単独で立ち向かってはならない」。
人間と比べて、筋力、耐久力、持久力が桁違いに高く、武器を扱える器用さもある。
よほどの武技魔法の使い手でなければ、接近戦で勝てる見込みはないのだ。
安全に倒そうと考えるならば、間合いのとれる武器で体力を削りつつ……。
――右直拳の、一閃。
ヤンクに顔面を打ち抜かれた小鬼長は、派手に吹き飛び、地面で一度反射してから燃え盛る洞窟の穴の中へと消えていった。
「……だが、てめぇは違う」
わずかに乱れた髪を撫でつけて、ヤンクは吐き捨てた。
「仲間をおとりに使うようなクズに、頭ぁ張る資格はねぇヨ」
渓谷の風が吹き抜ける。
白い長外套の背中に刺繍された海竜が、荒ぶるようにはためいた。
「よし、カリン、いけ!」
「ひっく! 一番、カリン・カリル。小さな刺のついた丸いもの、一気に食べてご覧にいれますわ」
地酒を飲んで真っ赤になったカリンが、もはや恐怖を克服したとばかりに、怪しげな団子を口に入れた。
同席していた村人たちが、やんやとはやし立てる。
「いいぞ、爆発さま!」
「さすがは爆発さまだべ」
「まあ、それは刺じゃなくて、ハサミむし……」
「あ? 何か言いまして?」
「い、いや、なんでもねぇべ。な?」
「お、おう」
今回出番のなかったカリンは、鬱憤ばらしに渓谷にあった大岩をいくつか爆破した。おかげで、水晶の採れる洞窟までの道がなだらかになり、村人たちは大いに感謝するとともに、カリンのことを「爆発さま」と呼び讃えるようになったのである。
本人もまんざらでもない様子だった。
洞窟内を確認した結果、今回倒した魔物は、小鬼長が一体に小鬼が二十五体だった。
小鬼長がいたことに、村人たちは大きな衝撃を受けた。
このまま放っておけば、鼠算式に数が増え、いずれ食料を求めてムジナ村を襲ったことだろう。
それだけの知恵と統率力が、小鬼長にはあるのだ。
潜在的な恐怖が取り除かれたことで村人たちは安堵し、宴は大いに盛り上がった。しかし、酒好きのヤンクと酔っ払ったカリンを除いて、“シルバーローズ”のメンバーたちは微妙な様子だった。
ゼリシオが、激しく落ち込んでいる。
俯いたまま食事にも手をつけようとしない。
両隣にいたアロマとチェイナが心配そうに声をかけるが、微笑返すこともできないようだ。
「ゼリシオ。今日は疲れたでしょ」
見かねたレイディが助け舟を出す。
「先にベッドで休ませてもらったら?」
「……はい。申し訳ありませんが、お先に失礼させていただきます」
ゼリシオはのそりと立ち上がって、あてがわれた部屋へと戻っていった。
「わたくしが、まいりますわ」
そう言って立ち上がったのは、ファムロだった。
彼女もまたひとりで悩みを抱え、それを克服した経験がある。ゼリシオの姿を自分に重ねて、居ても立っても居られなくなったのだろう。
すぐに後を追いかけて、廊下でゼリシオを呼び止めた。
「少しだけ、わたくしのお話を聞いていただけませんか?」
そういう表現で、ファムロはゼリシオを外に連れ出した。
石垣で囲われた村長宅の庭。雲ひとつない夜空には見事な満月が浮かんでおり、地上を透明な光で照らしている。宴の会場から、時おり形容のし難い笑い声の重なりが漏れ聞こえてくるが、それ以外は静かだ。
「今回の作戦が始まる前から、ゼリシオさんは悩んでいらっしゃいました」
「……え?」
図星を指され、ゼリシオはファムロを凝視した。
「気づいたのは、わたくしだけではないと思います」
シェフィール女子魔法学園時代、ゼリシオは優等生だった。
学業面だけではない。すらりとした長身で、細身の体格。艶やかな黒髪と青い瞳を持つ凛々しい顔立ち。そして、カリンほどの自信家ではなく、親しみやすい性格。
外見や内面も含めて、同級生や下級生たちの憧れの存在だったのである。
戦闘に関する基礎的な技術もある上に、教え方も上手い。
いつも頼られる側の存在。
そんなゼリシオが、ムジナ村に向かう道中、カリンやキスイトに魔法を使う時の心構えについて、質問をしていたのだ。
小鬼の住処である洞窟へ向かう時も、気合が入っている――というよりは、どこか追い詰められているような、張り詰めた雰囲気があった。
チームの和を重んじる少女たちは、そういった気配に聡い。
しかし、作戦の前ということもあって、声をかけづらい状態だったのである。
「ゼリシオさんがどのような問題を抱えているのかは、わたくしには分かりません」
「……」
ファムロはゼリシオを見つめた。
深い緑石色の瞳には、何かを悟ったかのような、確信めいた輝きを宿していた。
「このようなことを申し上げる資格は、わたくしにはないのかもしれません。それでも、ひとつだけ――」
まるで月の女神に祈るかのように、ファムロは懇願した。
勇気を出して、ヤンク・キースを頼るようにと。
(23)
――失敗した。
王都に戻ってからも、ゼリシオは落ち込んでいた。
自分の役割を果たせなかったばかりか、またもや精神的な弱さを露呈して、あのような醜態まで晒してしまった。
自分の部屋のベッドの中に潜り込みたい。
子どもの頃のように。
王都への道中の記憶もあいまいで、事務所での反省会も上の空だった。
「ゼリシオ?」
だから、レイディに声をかけられた時、とっさに反応ができなかった。
「え? あ、はい」
「ほら、お風呂だよ」
談話室での反省会が終わり、旅の疲れを癒すためにメンバー全員でお風呂に入るところだった。
「ゼリシオさん、いきましょう」
アロマ・アルゼが真剣な表情で誘ってくる。燃えるような赤髪は癖がなく、艶やか。前髪を眉の上で一直線に切りそろえている。
「お風呂に入れば、きっと元気がでますわ」
ニコリコ・ブランが右腕に飛びついてきた。蜂蜜色の髪を頭の左右でくくりつけており、いつもほがらかな笑顔を絶やさない。チームのマスコット的な存在だ。
「さあ、早く」
チェイナ・ククが、左腕を抱きかかえる。鈍色を少年のように卵型にまとめており、元気で活発。飛び跳ねるように歩いたり、くるくると回ったり、妖精のような少女だ。
「あ……」
普段の冷静なゼリシオであれば、口裏を合わせたような三人の言動から気遣いを察して、その好意を素直に受け取っていただろう。
しかし、今のゼリシオには余裕がなかった。
家の事情、自信の喪失、そして仲間に迷惑をかけたという悔恨の念。こんな精神状態で一緒にいては、迷惑をかけてしまう。
しばらく、ひとりになって精神を落ち着けたい。
「あ、あの――」
そう考えてしまったゼリシオは、遠慮してしまった。
「申し訳ありません。わたくしは、その……あとで入りますので」
結局、時間をずらして、ひとりで風呂に入ることになった。
せっかくの好意を無駄にしてしまったことが、さらにゼリシオを落ち込ませた。
浴槽の中でため息をつく。
昔から自分は、人に頼ることが下手だった。
子どもの頃、父親との訓練が厳しくなってくると、部屋の中に閉じこもって泣いてばかりいた。執事や家政婦たちが慰めにきても、扉を開けようとはしなかった。
学校に入ってからは、成績がよかったこともあり、どちらかといえば助言をする側になった。
本当の自分は、大したことない。
精神が脆い。実技になると、足が震える。
目が眩む。
だが、作り上げてしまった虚像が、ゼリシオの言動を縛りつけていた。
弱音を吐けない。頼れない。
頭の中はぐるぐると空回り。
ふいに、つい先日の光景が思い起こされた。
揺らめく炎の中、枯れ枝のような手が蠢いている。
甲高く、か細い、絶望の声。
人型の魔物と戦う時の注意事項は、魔法学校で学習していたというのに。筆記テストに出た時は、その場合の心の持ち方について、完璧な解答を記入することができたのに。
「……うっ」
涙を滲ませながら嗚咽を漏らしていると、がらりと浴室の扉が開いた。
「熱いしせ~ん~、つぅらぁぬいてぇ♪」
聞いたことのない楽曲を口ずさみながら入ってきたのは、ヤンク・キースだった。
当然、裸である。
次の歌詞を覚えていないのか、ふんふんという鼻歌に変わる。ご機嫌な様子で桶を掴み、湯船の方に近づいてくる。
「あ?」
「――っ」
悲鳴を上げることもできず、ゼリシオは硬直した。
固まったのは視線も同じ。ヤンクの身体の中心部分。成人男性の裸体など、図鑑でしか見たことはない。その真実が、目の前にある。
「なんだ、ゼリシオか」
こともなげに言うと、ヤンクは桶でお湯を掬って、身体にかけた。
そのまま湯船に入ってくる。
「ふぃ~。仕事のあとの風呂は、最高だぜ。な?」
「ふ、ふぁい!」
同意を求められて、思わず変な声を発してしまった。
……近い。互いに何も身に着けていないというのに、その距離は一メルクもない。
ゼリシオは混乱した。
いったい何が起こっているのか。夫婦でもない男女が同じ時間帯に同じ浴槽に入ることなど、ありえるのだろうか。いや、夫婦といえでもある程度節度は守って然るべきだろう。神の祝福を受けていない恋人同士ならば、なおさらだのはず。
そもそも自分とヤンクは、恋人同士ですらない。
「なんだお前、泣いてんのか」
「……え?」
慌てたようにお湯で顔を洗う。
「も、もうしわけ、ありません」
「なに謝ってんだ。別に悪いことはしてねぇだろ?」
「……は、はい」
「ま、仲間の前では泣けねぇわな?」
何故か普通に会話をしている。
そういえば、考え事をしていて、脱衣所の入口の扉に「女子入浴中」の札をつけるのを忘れていた。この風呂はヤンクも使うことがあるので、そういった取り決めをしていたのだ。
つまり、ヤンクが強引に入ってきたわけではないということである。
いや。たとえそうだとしても、この状況はおかしい。
……おかしい?
シェフィール女子魔法学園の生徒は、世間知らずのお嬢さまだという風評を、ゼリシオは聞いたことがあった。
実際ゼリシオは、市井の生活など詳しくは知らない。地方の村で出されるお酒や料理にも、驚くばかりだ。
ゼリシオは自問した。
ひょとすると自分は、ルエト家の常識が世間の常識だと、勘違いしているのではないか。
他人の家のお風呂事情を知らずして、おかしいと断言することができるのだろうか。
「あ、あの、アニキさま」
「なんだ?」
以前は“あの方”などと呼んでいたのだが、編隊の試験の後、皆で話し合いを持ち、ヤンクの呼び名を統一することになった。ナギサに聞いたところ、ヘイポの町では年下の仲間から兄貴と呼ばれていたらしく、「アニキさま」に決定したのである。
「そ、その……」
ゼリシオは震える声で問いかけた。
「アニキさまのご実家では、男性と女性が、いっしょにお風呂に入るのでしょうか?」
ヤンクは両腕を浴槽の縁にかけて、天井を見上げた。
「……まあ、入るな。レイとか、ナギサとか」
「そ、そうなのですか」
レイディがヘイポの町にいたのは十五歳までである。その頃のレイディはヤンクにべったりくっついていて、風呂まで一緒に入っていたのだ。
「し、しかし。家族ならばともかく、わたくしのような者といっしょ、というのは、いかがなものでしょうか?」
若干のぼせたのか、思考がうまくまとまらない。
「なんだ、遠慮してんのか」
熱い風呂が苦手なのか、ヤンクはゼリシオより早く浴槽から上がった。桶を逆さにして座り、鼻歌を歌いながら、目の粗い布で身体をこすり始める。
「同じチームの仲間なんだ。家族みたいなもんだろ?」
「……!」
そうだったのかと、ゼリシオは驚きとともに納得した。
確かに自分たちは生死をともにする仲間である。レイディや他のメンバーには尊敬の念とともに、家族のような強い絆を感じている。
そして家族であれば、男女が風呂に入ったとしてもおかしくはない。
「昔はよく、背中の流し合いをしたもんサ」
これが、世間の常識。
頭では理解しても、羞恥心のあまり浴槽から出れないでいる自分に、ゼリシオは歯噛みした。自分は実践に弱い。心が弱い。それはこういうところに原因があるのではないかと考えた。
自分を、変えたい――
その一心で、ゼリシオは立ち上がった。
まるで小鬼を相手にでもするかのように、ヤンクの背中を睨みつけながら、一歩一歩と進んでいく。
浴槽を出て、さらに近づく。
「ア、アニキさま」
「あ?」
ヤンクが振り返った。
瞬間、心臓が止まりそうになる。
男性に一糸纏わぬ姿を晒したことなど、一度たりともない。だが、家族ならば、恥ずかしがる理由はないのだ。
その場で蹲ってしまいたくなる衝動を堪えながら、ゼリシオはぎこちなく微笑んだ。
「も、もしよろしければ。お背中を、お流ししますわ」
「おう、そうか。じゃあ頼むわ」
やはりヤンクは平然としている。
これが、世間の常識。
落ち着け、鼓動。
何か大切なものをなくしたかのような奇妙な喪失感を受けたが、自分は勇気と経験を得ているのだと、無理やり納得させる。
「で、では――」
たくましい背中の前で膝をつくと、ゼリシオは震える手を伸ばした。
(24)
今回の魔物退治にかけようと、ゼリシオ・ルエトは思った。
大切な仲間たちに、さんざん無様な姿を見せてしまったが、これ以上迷惑をかけることはできない。
自分の失敗は、チーム全体の危険にもつながるのだから。
父の言うとおり、自分が冒険者として致命的に向いていないのであれば、取り返しのつかない失敗を犯す前に、潔く諦めたほうがよいだろう。
今はまだ、夢の中にいるようなもの。
優しいまどろみは、いつかは終わる。
一度目覚めてしまえば、居心地のよいベッドから出て、冷たい朝の空気に身を晒さなくてはならない。
それが現実だ。
どこかで折り合いをつけなくてはならない。
ルエト家には多くの従業員や使用人がいるし、彼らの生活を成り立たせるためには、家の存続と安定が第一条件となる。
それはつまり、ひとり娘であるゼリシオが婿を向かい入れ、跡取りを生むということだ。
顔も名前も知らない、父が副団長を務める栄光騎士団の、誰か。
おそらくは自分とは間逆の、鋼のような精神を持つ殿方なのだろう。
自分は耐えられるだろうか。
見合いの席で、相手方の失礼にならないように、上手く微笑むことができるだろうか。
ともすれば足元が崩れ落ちそうになる想像を、ゼリシオは頭の中から追い出した。
今は集中しなくてはならない。
“シルバーローズ”の安全だけでなく、自分たちに助けを求めている人々の生活もかかっているのだから。
王都エクリアスから南東へ徒歩で十日、馬車で四日。山をいくつか超えた場所に、なだらかな草原がある。土地はあるが痩せており、麦は育たない。
ここに住む人々は、メロという小型の羊を放牧し、芋を栽培しながら暮らしている。
冒険者に助けを求めたのは、氏族の長老である。
「これはこれは、遠いところをようこそ。お疲れになられたことでしょう」
確かに冒険者たちとその馬は疲れ切っていた。
何しろ王都からここまでの距離を、わずか一日半で駆け抜けてきたのだから。
元気なのはヤンクくらいのもので、「なかなか走りがいのありそうな草原だな」などと呟いている。それを聞いたカリンは、げんなりとした。
交渉役は見栄えも人当たりもよいレイディである。
「依頼書では、怪力鬼による家畜への被害が出たとありましたが。今でも続いていますか?」
「続いているどころか……」
人死にが出たらしい。
この平原に暮らしているのは三十ほどの氏族で、その全てが縁戚関係にあるという。
彼らは縄張りを分け合い、時には助け合いながら厳しい環境を生き抜いてきた。
異変が起きたのは、ひと月ほど前。放牧していたメロの、引きちぎられた死骸が発見されたのだ。
狼などの獣では、このような残状にはならない。
そして周囲には、巨大な人型の足跡が残されていた。
「おそらく怪力鬼が出たのだろうと、我々は考えました」
というのも、平原のさらに南には荒れた岩地があり、そこには怪力鬼が住むという言い伝えがあったからだ。
「我々は子供たちに、悪さをすると、怪力鬼が来て食べられてしまうぞと、言い聞かせたりします。そんなものは伝説に過ぎないと考えていたのですが」
ここまではっきりとした状況証拠があると、放っておくわけにもいかない。
すぐさま氏族会議が開かれ、王都の冒険者ギルドに怪力鬼退治を依頼することになった。
冒険者たちを雇うための資金については、それぞれの家が貴重なメロを出し合って工面した。家畜の見張りを増やし、武器を携帯することも決定した。
しかし、それでも悲劇は防げなかった。
“シルバーローズ”が到着する前に、とある氏族の家が襲われたのである。
皆が寝静まった深夜。平原の人々が暮らしているメロの皮を使ったテントが引き裂かれ、体長十メルクはあろうかという巨人が襲いかかってきたのである。
「遺体すら残らない、酷い殺され方をしました。三人です」
レイディを始めとする“シルバーローズ”のメンバーたちは沈痛な面持ちとなった。
「そりゃあ、間に合わなくて済まなかったな」
ヤンクが不機嫌そうに頭をかく。
冒険者としてスピードを極めようとしていたヤンクである。今回受けた三件の依頼のうち一番最後にしたことで、被害が出たのではないかと考えたのだ。
「いえ。怪力鬼に襲われたのは、使いの者が王都に旅立ってすぐのこと。それに、これほど早く冒険者の方においでいただけるとは思ってもおりませんでした。お気になさらずに」
「そうかい。まあ、オレたちが来たからには安心しな。そのデカブツをぶん殴ってやるぜ」
「おお、よろしくお願いしますぞ。仇を、仇をとってくだされ」
恐怖と無念さ、そして怒りに震えながら、長老はヤンクの手を握りしめた。
今日は身体を休めて、明日から探索を開始することになった。
さすがに平原に住む民だけあって、馬の世話は慣れたもの。愛馬たちを安心して任せることができた。メルの肉を使った料理も独特の食感と香りがある。
来客用のテントは狭かったが、メルの毛皮を何重にも重ねた絨毯は柔らかく、寝心地も良さそうだ。
全員で座って、作戦会議を行う。
「ヤンク兄さん。まさか、怪力鬼相手に殴り合いなんかしないよね? 話半分だとしても、体長五メルクだよ」
「殴りがいがあるじゃねぇか」
相変わらず拳ひとつで解決できると考えている兄に、レイディは呆れた。
怪力鬼は第三級に位置づけられる魔物である。小鬼長とは強さの桁が違う。殴ることはできないだろうが、中距離からの攻撃魔法ならば倒せる。
ただし、こちらが先に魔物を見つけるという条件が必要になってくるだろう。
暗闇で奇襲を受ければ、全滅することもあり得るのだ。
幸いなことに、ここは見晴らしのよい平原である。“シルバーローズ”のメンバーであれば、魔物を見つける手段はある。
「問題はどうやって倒すかだけど」
「あのぉ、レイディさま」
遠慮がちに手を上げたのは、フラー・プリトンである。
彼女は魔物の研究が趣味であり、最新版の魔物図鑑を携帯しているのだ。
「怪力鬼相手に接近戦は危険です。分厚い皮と油成分を含んだ剛毛で覆われていますので、打撃も斬撃も効果が薄いです。唯一可能性があるとするならば、馬上槍による特攻ですがぁ」
その武器を持っているメンバーがいない。
レイディの大剣はどちらかといえば打撃系の武器であり、ヤンクは素手だ。
「やはり、中距離からの魔法攻撃だね」
「はい、そう思います」
ただ、中途半端な攻撃は相手を逆上させることになるとフラーは忠告した。
「怪力鬼は知能も高く、距離をとった相手に対して、引き抜いた樹木や石を投擲したという記録があるんです」
この草原に樹木はほとんどないが、石だらけの土は驚異の飛礫になるだろう。
フラーは提案した。
「ですから、投擲されない距離を保ちつつ、効果範囲の広い魔法を使います。具体的には、雪薔薇氷牙で動きを封じてから、強力な炎の魔法で、怪力鬼を窒息死――」
自分の口にした言葉に恐れおののくかのように、フラーは小声になった。
「……させますぅ」
「ありがとう、フラー」
レイディはフラーを安心させるように微笑んだ。
「僕も、フラーの作戦に賛成だ」
“シルバーローズ”全員をゆっくりと見渡して、最後にゼリシオのところで視線をとめる。
「頼めるかい? ゼリシオ」
ここ数日、ゼリシオの元気がない。
メンバーに対して、よそよそしい態度を見せることもあった。
そして今、彼女は思いつめたような表情をしている。
以前のファムロのようだと、レイディは感じていた。
あの時のレイディは、ファムロを信じることができなかった。勝手に空回りして、ヤンクを責め立て、最後にはファムロの強さを見せつけられた。
ゼリシオもまた、悩んでいる。
おそらくは、“シルバーローズ”と自身に関する、同じような悩みなのだろう。
自分にできることは、ゼリシオを信じることだと、レイディは感じていた。
だからあえて、重要な役割を任せる。
他のメンバーたちが心配そうに見守る中、ゼリシオはこくりと頷いた。
「お任せください、レイディさま」
無理やり作った笑顔には、悲壮な覚悟が見てとれた。
(25)
自分自身の判断を下すために、神さまチャンスを与えてくださったのだと、ゼリシオは考えた。
魔法は距離が遠くなればなるほどコントロールが難しくなる。ゆえに、範囲の広さでそのずれを補うのだ。
竜炎咆は、灼熱の炎を召喚し、辺り一帯を焼き尽くす。
臆病な自分には似つかわしくない魔法だが、何故か相性はよい。
もしこれで失敗するようならば、冒険者としても失格だろう。
必ず、成功させる。
翌日、“シルバーローズ”一行は、最後に怪力鬼が活動したであろう場所に向かった。
そこは草原の南東の区画で、以前怪力鬼に襲われた氏族の居住地から少し離れた場所だった。惨劇のあった夜、百頭を超えるメロが逃げ出しており、怪力鬼は追いかけて食料にしているようだ。
「じゃあ、キスイト」
レイディがキスイトの背後から抱きしめるような形で手を回した。
「頼んだよ」
「は、はい」
背が高く、すらりとしており、男装の似合いそうな二人の接触に“シルバーローズ”の少女たちの心は騒めく。
ゼリシオも一瞬見惚れてしまったが、今は自分のことに集中しなくてはならないと自分を戒めた。
「小悪魔浮遊」
古代魔法の中でも特殊な系統に属する近距離魔法である。
キスイトとレイディの周囲に闇の翼のようなものが広がり、音も立てず二人は浮遊した。
「おいおい、魔法ってのは何でもありかヨ」
手を額にかざして眩しそうに見上げているヤンクに、カリンが悔しそうに言った。
「あれは、キスイトさんの専売特許ですわ。わたくしも、あの魔法が使えたなら、レイディに抱きしめてもらえますのに」
この魔法の使い手は、シェフィール女子魔法学園でも三十年来の快挙なのだという。
二人は雲ひとつない青空に溶け込んだ。
そこからレイディが、全方位を目視にて確認した。
もちろん、通常のやり方ではない。
おもに戦士系の冒険者たちは、体内に宿る魔力を燃焼させることで、身体能力や感覚機能を爆発的に向上させることができる。
これを、武技魔法という。
レイディの場合、身体能力五種の中では筋力と瞬発力の向上、そして感覚機能五種の中では視力拡大に秀でていた。
背丈の低い草しか生えていないなだらかな草原であれば、かなりの範囲を見渡すことができる。
キスイトに少しずつ回転してもらいながらじっくり時間をかけて周囲を観察したレイディは、草原の彼方に横たわっている黒い影を発見した。
正確に方角を確認し、地上に降りてくる。
「いたね。倒木かと思ったけれど、たぶん間違いないと思う。大の字になって寝ているみたいだ」
「よしお前ら、気合を入れろ! 追い込むぞ」
ヤンクが乗馬を命じる。
ゼリシオは愛馬の首を撫でた。
「無茶ばかりさせてごめんなさい、デロデロ。もう少しだから、頑張ってくださいね」
自分に名付け親のセンスがないことに、ゼリシオはまったく気づいていない。
勢いをつけて愛馬に飛び乗る。
そして、いきなりトップスピードで走り出す。
以前の自分は、自力でデロデロに跨ることすらできなかった。ヤンクに尻を押されて恥ずかしい思いをしたものである。
そして、とてつもないスピード。
この景色の中にいる自分が信じられない。
恐怖は常につきまとう。
だが、その中に楽しさというか爽快感のようなものを感じている自分に、ゼリシオは気づいていた。
途中で二回、馬の足を止めて、レイディは怪力鬼の位置を確認した。
そしてついに、ゼリシオの肉眼でも確認できるほどの距離にまで迫った。
目撃者の証言は、大げさではなかったようだ。
まるで小山のような、毛むくじゃらの塊が、草原の上にある。
「でけぇな、おい」
口の端を上げて、ヤンクが笑った。
放っておくとひとりで飛び出していきそうな気配だ。
怪力鬼はすでに目覚めているようで、あぐらをかくようにして座り込んでいた。
全身が黒い毛で覆われており、顔だけがむき出しになっている。
こちらに気づいているかどうかは分からない。
「どう思う、ヤンク兄さん」
「誘ってるんじゃねぇのか?」
レイディとヤンクの会話を聞いて、そうなのかもしれないとゼリシオは思った。
魔物たちは嗅覚が鋭いものが多い。
それに座り込んでいるとはいえ、明らかにこちらよりも高い位置に視点があるのだから。
「全員、馬から降りて。ゆっくり近づいていこう。魔法が命中しなくても焦らないで。馬に乗って、距離をとればいい。あの巨体じゃ、そう長い距離は走れないはず。そうだよね、フラー」
「は、はい。そう思います」
じわりじわりと近づいていく。まどろっこしい作戦に、ヤンクが「馬の上から魔法を使えばいいじゃねぇか」と文句を言ったが、カリンに窘められた。
「魔法は、極度に集中力を使うのですわ。不安定な馬の上からでは、とても使えません」
その通りである。
古代魔法に必要なものは、集中力とイメージ力。気合や勢いで威力が増すといわれている武技魔法とは、発現原理が違うのだ。
「よし、ここでいいかな」
距離は、約三百メルク。
「エア、魔防結界を」
「はい。開錠――」
エア・シーズが歌うような声で、古代言語を詠唱する。彼女は攻撃魔法を防ぐ魔防結界が得意だ。その強度は、他のメンバーたちが一斉に攻撃しても耐えられるほど。
「何ものにも侵されぬ鋼鉄の衣を広げ、我が愛しき同胞を護りたまえ」
性格は内気であまり表に出るタイプではないが、思わず聞き入ってしまうほど澄み切った詠唱だ。
「鏡頭竜護繭」
空気が軋む。
ほんの一瞬だけ、怪力鬼の周囲を虹色の壁が覆った。
「パラム」
氷系の魔法が得意なパラム・ランパの出番だ。
彼女はエア以上におとなしく、ほとんど会話をしない。
だが、気弱なわけではないようだ。まるで緊張感を感じさせない淡々とした口調で、古代言語を詠唱する。
「……雪薔薇氷牙」
結界内部に霧のような白いものが広がる。
白い霧は渦を巻き、地面に氷の薔薇を咲かせた。
この魔法は鋭い花びら状の氷で魔物を傷つけ、拘束する。さらに地面を凍らせるため、移動も阻害する。
怪力鬼が、咆哮を上げた。
氷の花びらを粉砕して、立ち上がる。
しかし、足を滑らせて尻餅をつく。
半径五十メルクはあろうかという氷の大地だ。そう簡単に渡りきることはできない。
「ゼリシオ」
「は、はい! 開錠――」
教科書どおりに魔棒を構える。
目を閉じると、怪力鬼の苦しげな咆哮が耳に突き刺さった。
前回の小鬼のことが、嫌でも思い起こされた。
自分の作り出した炎の中でもがき苦しむ黒い影。
虚空をつかむ手。
人型の魔物は、いやでも人間の姿を連想させた。
背筋が緊張し、吐き気がこみ上げてくる。
いけない。
ゼリシオは必死に、頭の中を切り替えようとした。
弱気になってはだめだ。
あの怪力鬼は、すでに三人も殺めている。
このままほうっておいたら、さらなる犠牲者が出るだろう。
多くの家族や親族たちの悲しみ、恐怖、そして怒り。
『おお、よろしくお願いしますぞ。仇を、仇をとってくだされ』
わたくしの炎の魔法で、焼き殺す。
そうすれば、長老たちの仇がとれる。
『お前には――冒険者は、向いていない』
そんなことはない!
わたくしは“シルバーローズ”に貢献できる。
冒険者としての自信がつき、お父様にも……。
「おい」
気づけばヤンクが隣にいて、頭をぽんと叩かれていた。
集中が解け、現実世界に引き戻される。
「余計なこと、ごちゃごちゃ考えるんじゃねぇぞ」
「……え?」
ヤンクの口元には、苦笑らしきものが浮かんでいた。
「お前の後ろには、仲間がいる」
振り返らなくても分かる。
憧れのレイディ。
カリンを始めとする、同じ志を抱く十人の仲間たち。
みんな、心配するように自分の背中を見つめているだろう。
祈るような気持ちでいるのだろう。
「お前の最高の魔法を、見せてやれ」
ただ最高の、魔法を――
「じゃ、頑張んナ」
ぽんぽんと子供をあやすように頭を叩いてから、ヤンクは離れていく。
ゼリシオは魔棒を見た。
こんな立派な杖じゃ、なかった。
自分にとっての、最高の魔法は――
『お母さま、なにかでました!』
それは小さな頃。
自宅の庭だったと思う。
今日のように澄み切った青空で、テラスには母親が座っていた。
絵本を読んだ魔法使いに憧れていたゼリシオは、子供用の魔棒を振り回して遊んでいた。
そして、気づいた。
蝶のようにふわふわと手を動かしながら念じていると、魔棒の先から何かが飛び出してくることを。
それは、うっすらと白く輝く光の蝶のようなもの。
面白くて何度も何度も念じていると、光はどんどん増えていき、幼いゼリシオの周囲を取り囲んだ。
「ねぇ、お母さま、見てください!」
得意げに母親の元へ駆け寄ると、テラスにいた母親は一瞬だけ目を見張って、それから。
『あらあら、とてもすてきですわね。まるで――』
妖精のよう? 揚羽蝶のよう?
台詞はうろ覚えだが、楽しげな母親の微笑だけが、今でもはっきりと記憶に残っている。
「わたくしの、最高の魔法」
大好きな人を、大切な人を、びっくりさせたかった。
ただただ、喜ばせたかった。
失敗など、欠片ほども考えなかった。
「開錠!」
竜を、呼ぶ――
(26)
左手を右手の肘に添えて固定する。
そして、右手首を額に押しつける。
これがシェフィール女子魔法学園で教えられる基本形。
この形を、ゼリシオは無視した。
ふわりふわりと宙を舞う蝶のように、魔棒を揺らす。
子どもの頃の、拙いダンスのように。
ただし、心の中に映すイメージは、物騒なもの。
スカラエ魔物研究所に所蔵されている、竜の剥製だ。
巨大な顎と牙。
見ているだけで震えるほどの、圧倒的な存在感。
その口から吐き出される炎息は、この世でもっとも熱いとされる。
「召喚」
かつて経験したことがないほど深い“万象世界”への同調。
視角も聴覚も、味覚も嗅覚も、触覚も。
すべての感覚が消え去る。
まるで空中を浮遊しているかのよう。
「ゼ、ゼリシオさま?」
誰かが呼んだような気がしたが、すでに意識の外だ。
思考が虚ろになる。
暗闇の中に浮かんでいるのは、強大な竜の顎門。その奥、真の闇からあふれ出るのは、灼熱の炎。
ただ、焼き尽くすだけの存在。
「顕現」
術者の“魂の器”を満たす“精神の海”。
魔法は、そこでの魚釣りによく例えられる。
当然のことながら、“魂の器”の大きさを超える魚を想像することは、不可能だ。
実際に使える範囲は、四分の一ほどだという。
よほど相性がよくても、三分の一。
そして今、ゼリシオが創り上げた存在は――
「すべてを、すべてを焼き尽くせ……」
ぼんやりと目を開けつつ、視界の先にいる蠢くものに、魔棒を向ける。
「いけないっ」
それは魔防壁を張っていたエアの声だった。
「この魔圧、防ぎきれません。みなさまも防御壁を展開してください。急いで!」
「は、はい!」
最高の魔法を。
特大の灼熱を。
「竜炎咆!」
気づいた時には、遅すぎた。
これまでに見たこともない、目も眩むような光輝く炎が渦を巻き、一瞬の間を置いて、虹色の防御壁を木っ端微塵に粉砕する。
オレンジ色の炎は四方八方に飛び散り、その一部がゼリシオたちの方に向かって襲いかかる。
「あ……」
その直前に、ゼリシオは気を失った。
――また、失敗した。
王都へ戻る道中、ゼリシオはひと言も口を開かなかった。
制御しきれないはずの魔法を、召喚してしまった。
精神が壊れなかったのが、不思議なくらいだ。
自分のことなどどうでもよかったが、ひとつ間違えば、“シルバーローズ”のみんなの命までも奪っていたかもしれない。
とっさの機転でエアが指示を出さなければ、危うかったはず。
その事実が、ゼリシオの心に重くのしかかった。
限界を超えた魔法を行使したことで、ゼリシオは半日ほど気を失ってしまった。
気づいたのは、夜。宿泊していたテントの中である。
自分が寝ている間、仲間たちは後始末に追われていた。
エアの魔防結界が破られたことで草原が燃え広がったため、メンバーたちは水系の魔法を行使して、消火作業を行ったのだという。
その話を聞いたとき、ゼリシオは消えてしまいたいと思った。
すぐさま、ゼリシオはみんなに謝った。
誰もゼリシオを責めたりはしなかった。
それどころか、カリン・カリルなどは、
「さすがは、わたくしのライバルですわ!」
「え?」
「古代言語の詠唱中、ふわりと浮いてらっしゃいましたし。まさか、竜の顎門にお目にかかれるとは、夢にも思いもしませんでしたわ!」
浮いていたというのはよく分からないが、魔法を極めると、破壊の現象だけでなく、想像した魔獣、幻獣、神獣などの一部が具現化することがあると言われていた。
「わたくしも、とても調子がよいときには、うっすらと爆弾蜂の羽が見えたりするのですが、竜は初めてですわ!」
どうやら炎とともに、とんでもないものまで出てきてしまったようだ。
それにしても、自分がカリンのライバルだったとは驚きであった。
「ゼリシオさまがお謝りになる必要はありません」
一方、エアーは神妙な顔をしていた。
「わたくしの魔防結界が頼りなかったことが、問題なのです。心のどこかに、慢心があったのでしょう。でも次は、きっと受け止めてみせますわ」
前髪に隠れた瞳には、強い輝きが宿っていた。
レイディには「無事でよかった」と抱きしめられたし、長老たちとメロの乳で作った酒を飲み交わしていたヤンクは、「やるじゃねぇか」と赤ら顔で褒められた。
「この草原では、しばしば火事が起こります。幸いなことに火は消し止められたとのこと。お気になさらないことです」
長老もそう言って、慰めてくれた。
依頼は無事に達成した。
しかし、ゼリシオとしては完全に失敗である。
またしても、“シルバーローズ”のみんなに迷惑をかけてしまった。
そもそも制御できない魔法を召喚するなど、魔法初心者の過ち。児戯に等しい行為だ。
それをこんな重要な場面でやらかしてしまう自分に、ゼリシオは幻滅していた。
うな垂れるように無言のまま王都に戻ると、愛馬の世話をして、実家に帰る。
そこで、父親に見合いの日程を告げられた。
純白のデイドレスを身につけ、唇に紅をひく。
鏡の中の自分は、まるで人形のよう。
無表情で、生気がないという意味だ。
自分は上手く微笑むことができるだろうか。
覚悟をしていた瞬間ではある。
だが、心の整理がまだついていない。
いや、自分は最後の試練に失敗したのだ。
それはもう結論が出たということ。
取り返しのつかない損失がでなかったことに、むしろ感謝すべきではないか。
見合いの場所は、実家のテラスだった。
今日は顔合わせらしい。
執事に先導されて静々と庭へ向かうと、そこには父親と、筋骨たくましい男性がいた。
栄光騎士団の団員で、小隊長なのだという。
「歳は三十歳。鍛錬にばかりかまけて婚期を逃していたが、お前には、落ち着いた大人のほうがよかろう」
「副団長、その紹介はどうなんですか?」
男は豪快に笑って、自己紹介をした。
ゼリシオも上品に礼を返した。
「ゼリシオ・ルエトでございます」
「いやしかし、噂には聞いていましたが、お美しいお嬢さんだ。副団長があまり人前に出したがらないのも頷けますよ」
「娘は、人見知りが激しくてな。訓練所に連れていったら卒倒しかねん」
子どもの頃、一度だけ父親と栄光騎士団の訓練所を見学したことがあった。大男たちが怒声を上げながら剣を振るっている様子に、幼いゼリシオは怯えてしまい、父親の後ろにずっと隠れていた。
父親の中では、自分の姿はその頃と変わっていないのだろう。
男が聞いてきた。
「乗馬をなさるとお聞きしましたが」
「……はい。多少ですが」
父親が苦笑する。
「私が教え込んだのだが、どうにも気質に合わなくてな」
「というと?」
「娘は、馬を怖がる。だから、大人しい馬としか接することはできん。散歩程度であれば問題ないが、お前と早駆けなどできんよ」
確かに、その通りである。
その通りだった。
ヤンクが“シルバーローズ”に来て最初にやったのは、メンバー全員に軍用馬を買い与えたこと。
その大きさに尻込みしたゼリシオは、自力で馬に跨ることすらできなかった。
だが、今は違う。
デロデロとわたくしは――
「それは残念ですな」
「剣術にしても馬術にしても、素質はあった。だが、気質が弱かった。あるいは母親に似たのかもしれないが、身体を鍛えることはできても、生来の心の弱さを変えることはできなかった」
父親の厳しい言葉に、男が焦ったようにフォローする。
「ですが、娘さん――ゼリシオさんは、シェフィール女子魔法学園を卒園されて、冒険者になったと聞いていますよ。生半可な覚悟じゃできない選択では?」
「仲間たちがいたからだ。流れに乗せられたに過ぎん」
これもまた、その通りである。
臨時指導冒険者として招かれたレイディ・キースの華麗さに目を奪われ、カリン・カリルの決断に相乗りした。
「身を守るくらいのことはできよう。だが、娘は、庭にいる虫の屍骸を見ただけで、怯え、涙するほどに、心が脆い。簡単に同調してしまう。魔物相手ですら、ろくに魔法は撃てんよ」
完全に見抜かれている。
本当に父親は自分のことをよく知っているとゼリシオは思った。
魔城蜘蛛の幼体と対面したときには、身体が硬直した。小鬼の巣穴を燃やしたときには、炎の中で苦しむ影を見て嘔吐した。
そして、先日の怪力鬼に対しては――
「そうですか」
ゼリシオを気遣うように、男は言った。
「ですが、無理をする必要はありませんよ。家庭に入れば、そんな怖い思いをする必要はなくなる。実際の生活で、攻撃魔法を使うことなど、まずあり得ないのですから」
最高の魔法。
あと、少しだった。
結果的には失敗だったが、感じはつかめた。
もし、次があるのなら。
今度こそは、制御してみせる。
ねじ伏せてみせる。
「……はい」
ゼリシオは笑顔を浮かべたままだった。
それ以外にどんな顔をすればよいのか、分からなかったのだ。
「お友達と話をしたいならば、家に招いたり、出向いたりすればいい。そこらへん、俺は寛容ですから。栄光騎士団の仕事は、出張も多いですしね。いくらでも時間はつくれますよ」
「……はい」
「言っちゃあ悪いですが、冒険者など大儀のない集団です。依頼を受けた村に居座って何日も酒盛りをした挙句、魔物たちと遭遇するや否や真っ先に逃げ出した、などという話もよく聞きます。ゼリシオさんのような、心優しい方が目指すものじゃありません」
笑顔が、硬直する。
『冒険者にとって一番大切なもの。それは、スピードだ』
ヤンクはそう断言した。
『誰かが魔物に襲われて困ってんのに、とろとろ旅行馬車で駆けつけるのか? そんなんじゃ、現場に着く前に終わっちまうぜ』
反論したいのに、できない。
『だからヨ。オレたちは、どんな依頼でもとにかく一番に駆けつける。そして、魔物たちをぶっ飛ばす!』
自分はまだ、何ひとつ手に入れていない。
ほんの二ヶ月前まで、ろくに馬に跨れなかった。魔物相手に魔法を撃てず、無様に嘔吐した。最高の魔法を取り逃がし、仲間たちを危険に晒した。
冒険者としての実績も、堂々と胸を張って誇れるものではない。
それでも。
いや、だからこそ――
父親は重苦しい口調で告げた。
「これ以上、娘を遊ばせておくことはできんよ。取り返しがつかないことになっては、亡き妻に申し訳が立たないからな」
「まあ、それはそうですね」
その後は淡々と話が進んでいく。
「これでも、団員の中ではましな男を選んだのだぞ? お前は男に対しても、苦手意識があるようだからな」
「副団長、もっといい褒め方をしてくださいよ」
「ふっ、私は、嘘や中途半端な表現が好きではない」
今回で婚約が成立するらしい。
何度か関係者の社交パーティに出席して、親戚やルエト商会の顧客にも挨拶をする。もちろん、栄光騎士団の詰め所にも挨拶にいく。
それから、式を挙げて――
「よいな、ゼリシオ」
父親はまっすぐにゼリシオを見据え、念を押すように聞いた。
笑顔の奥で、ゼリシオは震えていた。
悔しい。
何も言い返せない自分が、悔しい。
これで、終わりなのだろうか。
これからずっと、笑顔を貼りつけながら生きていくのだろうか。
嫌だと、ゼリシオは思った。
だが、父親には逆らえない。
父親は必ず、理論的な説明を求めてくる。感情論など意味はない。空想論など相手にもされない。
そして自分には、言葉を紡ぎだすだけの力がない。
わたくしは、まだ――
「……ぁ」
いけないと、ゼリシオは思った。
――泣く。
せめてもの意地すら、崩れる。
しかし、涙を見られることはなかった。
執事がテラスに来て、来客を告げたのである。
主が許可を出す前に、悠然とした足取りでやってきた客人。
「よォ」
それは、ヤンク・キースだった。
(27)
「ア、アニキさま」
あまりにも予想外の人物の登場に、ゼリシオは思わず立ち上がってしまった。
自分は誰にも、何も言っていない。
どうしてこの方が、ここに。
さらに驚いたのは、ヤンクがまともな服を着ていたことだ。
高級感漂う黒のスーツに白のスカーフ。そして光沢のある革靴。もともと細身だが足が長く、すらりとしたシルエットである。
濃い金色の髪にも櫛が通っており、真後ろにきれいに流れていた。
ハの字の口髭を剃ったようだ。
少しだけ、若返ったような。
相変わらず目つきは鋭いが、微笑を浮かべながら歩いてくるその姿は、何というか……。
好青年に、見える。
しかも彼は、純白の花束を抱えていた。
「初めまして、ルエト卿」
「むっ」
無礼な侵入者に対して、父親は叱責するタイミングを失ったようだ。
「このような大切な時に、誰かね?」
「オレは、ヤンク・キースといいます。お嬢さんが所属している冒険者チーム“シルバーローズ”のリーダーです」
ヤンクは一礼すると、花束を執事に渡した。
「“シルバーローズ”のリーダーは、レイディ・キースだと聞いているが」
「レイディは、オレの妹ですよ。しばらくの間、お嬢さんたちの面倒を頼まれましてね。今は、オレが代理です」
ヤンクがちらりとゼリシオを見た。
一瞬、心臓が止まるかと思った。
いけない。
この場にいる人間で、ヤンクの身の上を証明できるのは、自分しかいないのだから。
「そ、その通りですわ、お父さま。アニ――ヤンクさまは、わたくしたちの、リーダーです」
「ふむ」
父親はゼリシオと、それから恐縮している執事に目をやった。
「このようなタイミングで、わざわざここに来るということは、よほどの理由があってのことだろう。かけるかね?」
父親はテラスの席を勧めたが、ヤンクは断った。
「いえ。ひとさまの家庭の事情に首を突っ込むような、野暮なこはしませんよ」
「ほう」
ゼリシオは血の気が引いた。
自分を助けるために、ここから連れ出すために来てくれたのではなかったのか。
「ただ……」
ヤンクは苦笑する。
「口下手で、不器用な意地っ張り娘を、どうにもほうっておけませんでね」
ひどい言われようである。
彼はお見合いの邪魔をしたり、父親を説得するためにこの場に現れたわけではなかった。囚われの姫を助け出す騎士などでは、断じてなかったのである。
ヤンクはゼリシオのそばまで来ると、
「お前なぁ」
呆れたように言った。
「そんな顔で、みんなにお別れをするつもりか?」
助けて欲しい。
誰かにすがりつきたい。
それは、迷子になった子供のような、不安と悲しみで押しつぶされそうな顔だっただろう。
「お前にとって一番大切な、ダチなんだろ?」
ナギサに教えてもらった。
ヤンクの言う “ダチ”とは、友達のこと。
「は、はい!」
それは唯一、ゼリシオが自信を持って断言できる事実だ。
「あ〜、まあその、なんだ」
ヤンクは視線を外すと、ガラにもないことをしているという感じで、頭をかいた。
「レイのヤツはな……」
ヤンクが語った話は、妹であるレイディのことだった。
五年前、半ば喧嘩別れのような感じで、レイディはヘイポの港町を飛び出したのだという。
だが、手紙のやりとりを通じて、生活の様子は知っていた。
王都の生活に馴染むまで、苦労したこと。
冒険者になって初仕事を成功させたこと。
場末の酒場で歌姫の真似事をしていること。
冒険者としての実力も実績もあり、爆発的な人気を誇る“氷の歌姫”の過去話である。
父親も見合い相手も、つい聞き入っているようだ。
「そしてあいつは、ふらりと戻ってきやがった」
レイディは悩んでいた。
自分の力量のなさに苦しんでいた。
だから、兄であるヤンクに助けを求めて来たのだ。
「ま、正直、嬉しかったサ」
年の離れた妹が頑張っていることも。
いざというときに、自分を頼ってくれたことも。
「ダチにはせめて、意地を張らなきゃならねぇ。それができなきゃ、ダチとはいえねぇ。自分の弱さをさらけ出してまで助けを請えるのは、家族だけだ」
ゼリシオは瞠目した。
自分はどうだっただろう。
たったひとりの肉親である父親に、心を開いて話をしたことがあっただろうか。ただただ、貝のように固く閉じこもっていただけではないか。
「理屈なんていらねぇ。悔しかったこと、楽しかったこと、そして、絶対にやりとげたいこと。スッカラカンになるまで全部話し切ってヨ、最後にからりと笑えたなら。それで喜ばねぇ親はいねぇさ。そうですよね、ルエト卿」
「……む」
急に話をふられた父親は、反論することができないでいた。
「連れていきな」
「え?」
「絶対に敵わねぇ相手に勝とうと思ったら、自分の場所に引きずり込むしかねぇ」
「自分の、場所……」
ヤンクはふっと笑うと、背中を向けて歩き出した。
「オレたちの、景色にヨ」
他人の家の事情に首を突っ込まない、などと言っておきながら、娘に余計なことをさんざん吹き込んで、男は悠然と去っていった。
ポケットに手を突っ込んで、口笛を吹きながら、ガニ股歩きで。
ヤンク・キース。
一体、何者だろうか。
「お父さま」
娘は思いつめたような表情で、一方的に宣言した。
「お見合いのお答えは、後日いたします」
丁寧に一礼すると、スカートをつまみながら駆け足でテラスを出ていってしまう。
残されたのは、呆気にとられた父親と、哀れなその部下だ。
「……副団長。何ですかね、これ?」
このまま二人で話していても、何の意味もないだろう。
娘の婿にと見込んだ部下には、申し訳ないことになった。
「すまんな。埋め合わせは、必ずする」
それで、見合いはお開きとなった。
「旦那さま」
部下が帰った後、書斎にやって来たのは、長年ルエト家に仕える老執事だった。
厳しい表情で辞表などを差し出して来たが、こんなことで辞められてしまっては、こちらが困る。
何しろこの執事は、ルエト家の古い顧客との繋がりがあり、多くの使用人を完璧に束ねている存在なのだから。
「気にするな。私も、少し強引過ぎるとは思っていたのだ」
この老執事が、ゼリシオの心情を汲み取り、“シルバーローズ”のリーダーに助けを求めたのだ。
でなければ、タイミングよくヤンク・キースが現れたりはしないし、敷地内にも入れないはず。
実際に老執事が助けを求めたのは、総務統括のナギサであり、彼女が借り衣装をヤンクに着せ、花束を持たせて、小遣いアップを条件にヒゲまで剃らせたわけだが、そんな裏事情など知る由もなかった。
「お父さま。大切なお話があります。半日ほど、お時間をいただけませんでしょうか」
困ったのは、娘の処遇である。
こちらの反対を押し切って冒険者になったときのように、心の中に火がついてしまったようだ。
現実を認めさせ、ようやく諦めさせたところだったのに。
つくづく、余計なことをしてくれたものである。
気乗りはしないが、再び叩きのめさなくてはならない。
「話ならば、ここでもできるだろう」
どうせ小賢しい理屈でもこねてくるのだろうと予想していたのだが、違った。
早駆けをしたいのだという。
珍しいこともあるものだ。
いつからだろうか。
馬やスピードに怯える娘に幻滅して、こちらから遠駆けに誘うことをしなくなったのは。
結婚してしまえば、娘が馬に乗ることはないだろう。
最後の思い出としては、悪くないかもしれない。
そう考えて、許可を出したのだが。
「……っ!」
思わず呼び止めそうになる声を、必死で堪えるはめになった。
目的地など、詳しいことを娘は何も言わなかった。
ただただ、馬を走らせている。
一歩間違えば崖下に転落しそうな細道を、全力で。
娘がどこからか連れてきた馬は、立派な体格をした、明らかに軍用馬とわかる若馬だった。
やめろ。
手綱を緩めろ。
お前には、無理だ。
そのスピードでは曲がりきれない。
しかし、癖のない黒髪をなびかせながら、娘はびゅんびゅんと駆け抜けていく。
絶対に認めるわけにはいかなかったが、正直、ついていくだけでやっとの状態だった。
どれくらいの時間が過ぎただろうか。
たどりついたのは、切り立った崖の上だった。
眼下には王都やその周辺の田園風景が一望できる。
天気もよく、まさに絶景であった。
「お父さま、お話があります」
「あ、ああ」
崖の上に一本だけ生えていた木の根元に敷物を敷いて、あらかじめ準備していたらしい携帯用のポットと木製のカップでお茶を出す。
何も話さずとも、気持ちが伝わる時間と場所というのは、確かにあるのだろう。
娘は緊張しながらも、自分に対し真っ直ぐに接しようとしている。
それは父親としても、新鮮な感じを受けた。
ぼそりぼそりと、つっかえつっかえ、娘は話を始めた。
冒険者となり“シルバーローズ”を立ち上げてからは、レイディに頼りきりで、安全な仕事しか選ばず、仲間たちとおしゃべりばかりしていたこと。
そんな自分たちの活動に危機感を受けたレイディが、リーダーとしてヤンクを連れてきたこと。
冒険者にとって一番大切なものはスピードだという、ヤンクの考え。
その言葉を実現するために、ヤンクはメンバー全員に軍用馬を買い与え、厳しい訓練を課したこと。仲間のファムロが、自分の実力に悩みながらも、ヤンクに自主訓練を申し出て、驚くほど成長したこと。
それが、羨ましかったこと。
この崖は、メンバー全員がヤンクの試練を乗り越え、たどり着いた場所であること。
この景色を見ながら、全員が泣いたこと。
「アニキさまは、とても頼りになる方ですわ」
娘は少しだけ饒舌になる。
言葉遣いはぶっきらぼうだが、決して仲間を見捨てたりはしない。いざという時には必ず助けてくれる。
腕っ節も強く、料理もうまい。
「それに、わたくしが知らない世間の常識も教えてくださいました」
チームのメンバーであれば、家族も同然であること。
だから、いっしょにお風呂に入って背中を流し合っても、何ら問題はないこと。
「ちょっと待ちなさい」
聞き捨てならない話が飛び出した。
「お前はまさか、あの男と風呂に入ったのかね?」
「はい。まだ一度だけですが」
それは仕事で失敗して落ち込んでいたとき、風呂場で偶然いっしょになって、少しだけ話をしたらしい。
「背中の、流し合いだと?」
「前は自分で洗えと言われましたが」
娘は恥ずかしそうに微笑んでいる。
ふざけるなと、思わず奥歯を噛みしめた。
場合によっては、あの男に果し合いを申し込まなくてはならない。
話を聞く限りでは、幸いなことに大事にはいたってないようだ。
異性として意識されても困る。家族同然ということにしておいた方が無難か。いや、冗談ではない。とりあえずは、親しき仲にも礼儀ありだと釘を刺さし、それからあの男に話をつけるべきか。
そんなことを考えているうちに、娘の話は“シルバーローズ”の活動へと移っていた。
ヤンクがリーダーを務める“シルバーローズ”が、ようやく冒険者としての活動を開始したこと。
ここ十日ほどで三件の依頼をこなしたこと。
最初の依頼は魔城蜘蛛退治。
メンバー全員で繭の城を破壊したが、飛び出してきた幼体を見て、身体が硬直し、魔法を使えなかったこと。
次は小鬼の殲滅。
鉱山跡の洞窟内部に火を放った。だが、焼けただれる小鬼を見て、嘔吐したこと。
そしてつい先日の、怪力鬼討伐。
炎の魔法で打ち倒したものの、自分の手に余る魔法を召喚してしまい、気を失ってしまったこと。
「ちょっと待ちなさい」
怪力鬼は 第二級に分類される魔物である。
本来であれば、栄光騎士団が総力を挙げて打ち倒すレベルの相手だ。
それを、虫も殺せぬこの娘が、炎の魔法で倒したというのか。
実のところ、娘の攻撃魔法の力量ついては、まったく期待すらしていなかった。
栄光騎士団では、武技魔法に比べて、古代魔法《顧問マジック》を軽く見る傾向にある。
敵の前で目を閉じ、悠長に呪文をつぶやく。一発外したら、もう取り返しがつかない。しかも魔法使いたちは、体力もなく足も遅いので、退却することもままならない。
ようするに、足手まといなのだ。
いつしか、娘は泣いていた。
自分の力のなさが、心の弱さが悔しい。
みんなに迷惑をかけて、申し訳ない。
だが、嘆き悲しむだけではなかった。
「……次は。次こそは、わたくしの最高の魔法を召喚してみせます」
何やら頭痛がして、頭を押さえた。
これはもう、自分が独自に集めた情報に齟齬があったことを、認めざるを得ない。
“シルバーローズ”は、魔法学園の卒園生の同窓会のような、ぬるま湯に浸かったチームだったはず。
しかし、娘の話を鵜呑みにするならば、“シルバーローズ”は理にかなった活動を行っていることになる。魔法使いのの弱点である機動力を補いつつ、一気呵成に攻撃魔法を放っているのだから。
こちらからも質問をしてみる。
愛馬のこと。“氷の歌姫”レイディのこと。仲間たちのこと。
“シルバーローズ”が引き受けた依頼の内容のこと。魔物と戦う際の作戦。そして、古代魔法。
せめてもの意地で、ヤンク・キースのことだけは聞かなかった。
いったいどれくらいの時が過ぎただろうか。
二人きりの家族であるにも関わらず、これだけ会話をした記憶はなかった。
「お前は、大切な人たちと大切な場所を、見つけたんだね」
娘は目を驚いたように見開くと、花がほろこぶような笑顔を見せた。
その笑顔には、見覚えがあった。
娘のものではない。
だが、しっかりと受け継がれたもの。
『あなた。ゼリゼリには、すばらしい魔法の才能があるわ! きらきらした光の蝶に囲まれて、とても可愛らしかったもの』
思い出した。
あの時だ。
娘に様々な経験をさせ、その可能性を広げてやろうと考えたのは。
「それで、その。お父さま……」
娘がもじもじと、何やら言いにくそうにしている。
ここまでお膳立てをして、すべてを話しきってまで、そのひと言を口に出せないのか、この娘は。
まるで子供のように、上目遣いで促してくる。
「お前の気が済むまで、好きにしなさい」
思わずため息が漏れた。
「ただし、中途半端は許さんぞ。冒険者として身を立てるなら、いっそのこと、頂上まで駆け上がってみせろ」
「……!」
悔しいことに。
『――それで喜ばねぇ親はいねぇさ』
ヤンク・キースの言葉は、正しかった。