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鏡中毒者

作者: 竹蜻蛉

 電灯が消され、窓から差し込む月明かりを頼りにした部屋に三十代半ばをようやく過ぎたかという年齢の男がいた。会社帰りで濃い紺色のスーツを着込んでいる。室内であるにも関わらず、まだネクタイは締めたままだ。男は部屋の隅に置かれた鏡を前にしてうな垂れていた。賃金が安めのアパートを借りて住居を持っている男の自室は、最低限の家具や電化製品以外には何枚かの立てかけ式の鏡しかなかった。床には綺麗に敷き詰められるようにして鋭い破片が散らばっている。月光を反射して淡く光るそれは、割れた鏡の破片だった。立てかけ式の鏡の幾つかは、淵だけ残して無残な姿を晒している。まるで鏡の死体だ。そしてこの部屋は墓場だ。男は数多の死骸を踏みつけて、痛みさえ厭わずうな垂れていた。

「また、会社で怒られてしまったよ……」

 男は顔を上げ、鏡の中に写る自分と向き合うようにして語りかけた。鏡の中の男は痩せこけていて、とてもじゃないが健康的と言えるような風貌をしていなかった。眼は無気力そうに半眼で、瞳は虚ろだった。

「同じことの繰り返しだ。僕は上手くやろうとしていても、それが出来ない。何が『たるんでいる』だ。僕はいつだって必死だっていうのに」

 男はつまらないミスを会社で重ねることが多かった。誰でも出来ることを失敗し、結果上司から怒声が飛ぶ。入社してかなり経つが、今まで首を切られなかったことが不思議なくらいだった。

 そうしてミスを重ね、自身に負の感情を溜める度に、男は鏡を割っていた。もう最近では毎日のように繰り返されている。ついには割れた破片を片付ける気力さえ失った男は、その行為に酔うように鏡を割り続けた。男の右手の甲はボロボロで、常に包帯が巻かれている。その上からまた傷を重ねては包帯を巻く。この行為すらも酔っているような、狂気的な中毒者だった。

「君みたいな弱い僕は死ねばいい」

 男が鏡の中に笑いかけた。酷く自嘲するような引きつった表情を浮かべながら笑う。そして鏡の中の男はそれに頷いた。「弱い僕なんて死ねばいいんだ」と自虐的なセリフすら吐いて、男に同意した。

 ふう、と大きく息を吐き出した。男の心臓は高鳴った。血流の音が耳に響き、どくんどくんとリズムを作る。それを抑えるように右手の拳を強く握る。そのまま腕を振りかぶり、一心の元に鏡へと振り下ろした。

 拳に衝撃が走った瞬間、男は自分の中から何かがすっと抜けていくような感覚を持った。耳を劈くような激しい音とともに、男の分身は砕け散った。床に破片が飛び散り、男の膝や太腿を切りつけた。拳に降りかかった破片は包帯を再び赤く染めていく。男は体の中から不純なものが流れ出しているように感じた。この血液とともに脆弱さが流れ出し、痛みとともに強さが増えていく。そんなある種のナルシズムに浸るような錯覚に男は陥り、そして哂った。

 男は立ち上がって部屋を見渡した。月明かりに照らされた鏡の欠片は艶美で深い輝きを放っている。床一面に積もった男の分身は、いつしか圧倒的な質量を持って見るものを魅了した。男がそれに酔ってしまうのは仕方ないとも思えた。暗闇に浮かび上がる破片は夜空の星のように淡く瞬き、男はまるで宇宙を見下ろしているかのような視界を得た。しかし、唐突にそれが自分の破壊したとてもくだらないものだと気づいた瞬間から、ただの無機物なものだとしか思えなくなる。男の小宇宙は分身の死骸で埋まっているのだ。そこにはロマンも壮大さもなく、ただの莫大なエゴが広がっているだけだった。

 部屋の鏡はほとんど割れていた。どれもこれもが質素な枠ぶちを残して屑と消えた。その中、たった一つだけ残った鏡を男は見た。

 その鏡を最後に残した理由は無かったが、どうしてか初めて見たときから男はこれを最後にしようと決めていた。見掛けもほかと変わらない単なる鏡だが、強いて言うならばその鏡は購入した時にはすでにひびが入っていた。不良品だったのだ。そこに惹かれたのか、それとも情緒的な同情が生まれたのか、それは男自身にも分からない。しかし、こうして最後までこの鏡は残った。

 近づいて鏡に触れると、ひびの入った部分ですべっていた指がひっかかる。少し力を入れて押すだけで割れてしまいそうなそれに、男は着ていたスーツをかけた。遊戯のようで儀式のような行為だったが、やはり最後の一枚ともなるとちょっとした寂しさが生まれる。生まれたばかりの赤子にしてはずいぶんと歪だが、男はよしよしとあやすような仕草で鏡を撫で上げ、十分に満足するとスーツのボタンを留めて鏡を包んだ。

 カッターシャツから着替えないまま、男は布団に入った。もちろん割れてしまった鏡は片付けない。寝返りを打つだけで散らばった破片で切ってしまいそうな危うさの中で、男はゆっくりと目を閉じた。

 次ぐ日、男の眠りは深く、目覚ましが鳴るのにも気づかず会社を遅刻することになった。



 男はその日もミスをした。会社のプレゼンテーションの時間に遅刻したのだ。それもプレゼンテーターは男自身であり、もちろん結果は失敗に終わった。帰路につきながら、男は首を切られることをほとんど覚悟した。

 喧騒が包む夜の街を抜け、横道に入ったところにあるアパートに帰ろうとした時、不意におでんの屋台が視界に飛び込んできた。そろそろ二月に差しかかろうとしている時期で、おでん屋は嬉しい。耳も手も真っ赤になっていた男は、そういえば夕食を買っていないな、と自宅とおでん屋台を交互に見たあと、足を屋台のほうに運んだ。

 屋台には人の良さそうなオヤジが下ごしらえをしていた。無精ひげが不衛生で男は嫌な顔をしたが、結局席についた。

「いらっしゃい」

「大根と、卵と、それからがんもをくれ」

「ありがとうございます」

 オヤジは慣れた手付きで注文を皿に取り出し、男に差し出した。

「お待ち」

 おでんのつゆの香りが男の鼻腔をくすぐった。おでんを食べるのはいつ以来だろうと、香りに懐かしみを覚えながら、置いてあった割り箸を取って左右に引いた。

 屋台に備え付けられているラジオから野球中継が流れている。巨人対阪神の試合だ。男は野球に興味がなかったが、ほかに耳に入れる音もないのでそれを聞き入った。

「いった、いった、いったー!」

 実況者の熱の入った声に男は驚き、ラジオを見た。

「またホームランか。巨人の強打者打線も懲りないな」

 露骨にいやそうな顔をしてオヤジがそう言った。

「最近トレードで沢山強い選手が入ってますよね、巨人」

 男もそれを聞いて自分の知っている知識を口にした。

「まったくだ。巷じゃ、巨人は金で優勝を買った、とも言われているくらいだ」

「それは酷いですね。よくわからないんですが、そんなに酷いんですか?」

「ルーキーを除いたら、巨人軍はほかからやってきたやつばかりだよ。俺は今の巨人は好きじゃない」

「そうなんですか」

「と言っても阪神ファンでもないから、結局巨人を応援するんだがな」

 聞きながら、男は大根を口に運んだ。汁がしみこんでいて美味い。コンビニ弁当が多かった男には、久しぶりのご馳走に思えた。

「いらっしゃい」

 オヤジが新たにやってきた客に声をかけた。男がそちらを見ると、地味な眼鏡をかけた女だった。同じく会社帰りなのか、スーツを着ている。女は深いため息をつくと、ハンドバッグの中からノートパソコンを取り出して台の上に置いた。

「牛筋とお酒ちょうだい」

「ありがとうございます」

 男がしばらく女を見ていた視線に気づいたのか、女も男のほうに首を曲げて小さく礼をした。男は自分が見ていたことにようやく気づいて視線を外し、顔が熱くなるのを感じながら卵を箸で割った。

「あれ、あなた……」

 男の肩が不意に叩かれる。女が眉を細めて男を計るような目で見ていた。

「な、なんですか?」

「高校の時一緒のクラスだった……」

「あっ」

 そこまで言われて男も思い出した。女の顔は、確かに高校時代に一緒のクラスだった女子に似ている。確か委員長をしていた女子だ。あまり関わりがなかったために直ぐに気づかなかったが、改めてみてみるとそうとしか見えなくなった。眼鏡も変わらず質素で、良く話のネタにされていた気がする。

「久しぶりだね、良く僕だと分かったね」

 素直に驚いていた男は興奮気味にそう言った。

「久しぶりって、つい最近同窓会やったばかりじゃない。みんな三十路になったってことで集まって」

「ああ、そういえばそうだった。でも、その日僕とは会わなかったよね」

「会ったし話したわよ。覚えてないの?」

「どうだっけ……」

 記憶を巡ってみるが、覚えはなかった。男はその日、翌日に重要な仕事を控えていて同窓会どころではなかった。そのためか、同窓会で何をやったのかが記憶に薄かった。酒も飲まなければ、クラスメイトとも挨拶程度しか話していない。思い出すと、自分がいかにつまらないことをしていたのかを思い知って、男は気落ちした。

「まあいいわ。最近どう? どこの会社に勤めてるんだっけ」

「IT系だよ。収入はいいけれど、最近ついてなくてね。失敗ばかりだ」

「ついてないって?」

「プレゼンテーションに遅刻したり、書類がうまくいかなかったり、接待に失敗したり、とにかく色々さ」

「それは全部自分のせいじゃないの」

「まあ、ね……」

 そうは言われても、男自身にはどうしようもない話だった。上司に言われた「たるんでいる」という言葉を思い出す。考えれば考えるほど腹の立つ言葉だが、冷静になるとたるんでいたのかもしれないと、男は弱気になった。

 オヤジが酒を女に渡すと、女はそれを杯に注いで、男の前に置いた。

「意外に参ってるみたいね」

「ありがとう」

 素直に受け取り、男は杯を口に当てて酒を喉に流し込んだ。度が強いのか、とたんに体が熱を持ってくる。いつもこんなものを飲んでいるのかと、女に苦笑いで笑いかけると、女は屈託のない綻んだ笑顔を返した。

「何か話してみたら? 楽になるかも」

「ははっ、相談役か?」

「あたしでよければ」

 まぶしいな、と男は思った。人の悩みなんて聞いているほど余裕がないのは、同じ会社員をやっていて分かる。たまに後輩から悩みを聞く男だが、正直疎ましくて仕方がなかった。自分は重なる失敗を取り返すために必死になって働いていて、人の悩みなんて聞いている暇はないのだと。女がノートパソコンを開いている様からして、仕事が間に合っていないのだろう。そんな中、突然事故のように会った昔の同級生の悩みを聞こうだなんて、輝かしいにもほどがあった。

 遠慮したい気持ちが大きかったが、酒のせいもあってか男の口はダムが決壊したかのように言葉が流れ出した。新入社員として会社に入ったとき、仕事のハードさに会社をやめようと思った。後輩が入ったとき、そいつが生意気で仕事が本当に楽しくなくなった。上司が変わった時、僕の失敗を寛大に許してくれる人で助かった。一度語りだすと止まらない男の過去は、いまや背景となった野球中継とともに音となって屋台の中に響く。オヤジは我知らぬ顔でおでんの下ごしらえをし、女は相槌を打ちつつ、熱心に男の話に聞き入った。男はその環境が気持ちがよくて、どんどん口をすべらせる。

 そうして一時間、二時間ほど経っただろうか。女がしきりに腕時計を気にし始めたところで男は話をやめた。流石にあまり長い時間つき合わせると、男も気が悪い。

「悪い。僕ばかり盛り上がっちゃって」

「ううん、悩み相談だったんだから良いんだよ。どう、すっきりした?」

「ああ、かなり楽になったかも」

「ならよかったわ」

 お世辞ではなかった。男は何か、自分の中に潜んでいた粘っこくて汚いものが洗浄されたような気がしていた。こびりついて取れなかった汚れが落ちたような、小さな達成感すら感じていた。

 女は一度も使わなかったパソコンを閉じて、バッグの中にしまうと、ポケットから千円札を取り出してオヤジに渡そうとした。しかし、それが親父に渡る前に男が横からかっさらい、代わりに自分の財布から二千円を取り出した。

「話につきあってくれたんだから、ここは僕が出すよ」

「あら、じゃあお言葉に甘えようかしら」

 可愛らしい笑みを横目にして、オヤジに金を渡した。釣りを財布の中に入れると、二人は屋台を出た。夜はすっかり深くなっており、時計の針は十二時を回ろうとしていた。

「じゃ、終電が危ないからそろそろ」

「ああ、今夜はありがとう」

 じゃあね、と女は軽く手を振って街の中に消えていった。

 男はアパートの前まで戻ってくると、突然憂鬱な気持ちに駆られた。寂寞感とも言うのだろうか、楽しいことが終わって寂しくなる、子供のころに忘れてしまったような感情だ。自分の部屋を見上げた。あの部屋には、こんな感情も散らかっているのだろうかと、男は漠然と思った。



 男のミスは少なくはならなかった。自虐をし始めると止まらないもので、彼のミスの多さは周りから見て痛々しいほどに増えていった。ついには会社を首になり、彼は職を失うこととなった。いつかやってくるだろうと心に置いていたためか、男は然程ショックを受けなかった。ただ、胸の中にぽっかりと空虚な穴が出来てしまったように、無気力になり、ほとんどホームレスと変わらない生活を送ることになった。

 相変わらず鏡を割る行為は続いていた。新しい鏡を何枚か仕入れ、精神疾患患者のように鏡の前で何かを呟いては割る。鏡が無ければある種の禁断症状のようなものすら出た。彼はもはや、鏡に依存していた。

 男の部屋には依然として鏡の欠片が散らかっている。それで足を何度切ろうとも、男はそれを片付けなかった。片付け方が分からなかった、ということもある。そもそもゴミ箱がない、ということもあったし、量が量なだけに、もう片付ける気力が出なかったということもある。とにかく、男の生活の一部と化してしまった破片は男と同化するように息づいていて、男ももう色々なものを諦めてしまっていた。布団に横になった男が手を伸ばせば、自分の割った鏡に手が届く。いくつ壊しても鏡に写った自分はずっと自虐を繰り返すだけで、決してなくなったりはしなかった。

 その日の午後六時を過ぎたころ、男はゆっくりと瞼を持ち上げて上体を起こした。夕食を取るためだ。幸い、趣味などがなく今まで娯楽費に金をかけたことがなかった男には蓄えがあった。今はかろうじてその蓄えで食をつないでいる状態だ。男は気だるげに立ち上がり、鏡の破片を踏んで冷蔵庫の前まで来た。それを開けると、真っ白な空間が広がった。買いだめしていた野菜類も、少しずつ食べていた缶詰も底をついていた。男は買出しにでかけるために、働いていた時に着ていた群青色のコートを寝巻きの上から羽織り、千円札が何枚か入った財布を持って部屋を出た。

 アパートを出て少し行ったところにある、大通りへ出るための横道におでんの屋台があった。あの日以来、この場所で屋台を見かけたことはなかった。何かローテーションを決めて移動しているのか。男は屋台から流れてくる美味そうな匂いに腹を鳴らした。

「久しぶりに、食うか」

 男は屋台へと足を運んだ。

 オヤジは変わらずあの時のオヤジのままだった。人柄のよさそうな表情で「いらっしゃい」と声をかけてくることも同じだった。すべて、あの日のままだったら良かったのに、と男は思った。ぐつぐつと鳴るおでんの汁も、ラジオから流れてくる野球中継もあの日のままだ。男は席につくと、大根と卵とがんもを頼んだ。出来るだけ同じものを食べたかったのだ。

「お待ち」

 オヤジは男を見ても何の反応もしなかった。気さくで常連客に愛想の良さそうなイメージのある屋台のオヤジだが、さすがに一度来ただけの客の顔なんて覚えているわけもないのだろう。男は少しだけ、昔のことを持ち出される事を期待した。しかし、湯気の向こうに佇むオヤジはラジオに耳を傾けながら新聞を読んでいるだけで、男には興味もないようだった。

 ほとんど会話らしきものもなく、男は出されたものを食べ終わり、財布から千円札を出してオヤジに渡した。屋台を出ると、珍しく星空が瞬いていた。黒く塗りつぶした空に小さな穴を開けたような、ささやかな光が差し込んでいる。丸い月も見えた。そこに辿り着かんとするようにして、屋台からもくもくと湯気が上がっている。綺麗だ、と率直に男は思った。自宅の歪んだ星空なんて比じゃない、壮大で、崇高なもの。何故だか涙が出そうになる。惨めで、悔しくて仕方がない。

「一体、僕がなにをしたっていうんだよ……」

 口に出してしまうと止まらない。男のうちから、沸々と情動が沸きあがってきた。理不尽だ、どうして僕が、と誰も聞いていないのに愚痴を吐き散らし、次第に憤怒はヒートアップしていった。

 男は無心になって走り出した。アパートの階段を二段飛ばしで駆け上がり自室の前まで来ると、扉を壊しそうな勢いで部屋に入り、じゃりじゃりと音を立てながら部屋の隅に向かった。そこにはスーツを着込んだ鏡があった。結局割らずに置いておいたあのひび割れた鏡だ。剥ぎ取るようにスーツを払い、鏡をさらけ出す。ひび割れた鏡面に写る男の顔は、ごっそりと頬肉が削げ落ちていて、瞳には力がなく、髪の毛は油でぎとぎとになっており酷い有様だ。もはや男自身、鏡に写ったのが誰なのか一瞬分らなかったくらいだ。顔は鏡の中で真ん中を境にして割れていた。ピカソを評価する美術家だって、いまの男の顔は醜悪なものにしか見えないだろう。

 腹が立った。鏡にまで馬鹿にされたような気分になり、男は顔を真っ赤にして激昂した。壊す程度じゃ足りない。落ちた破片すら粉々にしてやろう。包帯で固くなった右手を振り上げ、そのまま鏡を殴った。体全体にぐっと押すような感覚。体を動かしてなかったことによって弱っていた関節が悲鳴を上げ、男は歯を食いしばった。

「あ、れ……」

 鏡はびくともしなかった。依然としてひびは入ったままなのに、それ以上割れた痕跡が見当たらない。男はもう一度、今度は体のひねりを加えて本格的に殴ってみた。しかし、それでも鏡は傷一つ入らなかった。男は怖くなった。鏡が悠然と立つ姿が、とてつもなく大きなものに思えたからだ。膝はがくがくと震え、心臓の鼓動は早くなった。口内が渇き、舌の裏側から涎が湧き出してきた。ぶるり、と体の中心から外側にかけて寒気が走る。指先が痺れ、脳天にかすかな痛みを感じた。

「なんだよ、壊れろよ!」

 もうほとんど怒り狂ったように声を荒げて、鏡を殴りつける。何度も、何度も殴りつける。しかし、ひびは入らないどころか男の右手は痛みによってどんどん力を失っていき、最後には崩れるようにして膝を折り、男は涙を流して鏡にすがりついた。

「お前は、どうして壊れないんだよ……。僕の分身なんだろう、僕の、僕と違う部分なんだろう」

 しゃがれた声でそう切れ切れに言うが、鏡の中の男は答えない。項垂れて雫を垂らす男を見下して、同じように涙を流すだけ。

「お前が壊れなきゃ、僕はどうすれば……」

 男は俯いた視線で、床を見た。散らばった鏡の破片たちが、各々に男を写し出していた。一体いつの男の表情だったのか、苦渋に悩み顔や落ち込み沈んでいる顔、泣いている顔に嘲弄しているような顔もあった。それが万華鏡のように視界を埋め尽くし、男に迫った。

 絶叫を上げ、男は逃げるように駆けた。いや、実際に逃げたのだろう。足をもつらせながら階段を降り、必死に走った。住宅街の景色が高速で流れていく。男はひたすらに前だけ見て、全力で疾走した。しかし、ちょうどおでんの屋台の前で何もないのにつまずき、転んだ。肩と肘を擦りむき、男は痛みにか細い声を上げた。

「お、おい、大丈夫か!」

 それに気づいた屋台のオヤジが飛び出してくる。肩を抱かれ、アスファルトに打ち付けた部分を安静にさせる。無精ひげの姿が、今だけ凄く様になっている気がした。情けない、実に情けない姿だった。男はもう立ち上がる気力も力も残っておらず、オヤジの腕の中でははっ、と乾いた笑いを漏らした。

「今冷やすもの持ってくるから、ちょっと待ってろ」

 オヤジは背中を抱き起こし座らせると、屋台に駆け足で戻っていった。

 アスファルトの冷たさが尻から伝わる。それなのに、頭も肩も腕も拳も足も、どこもかしこもが熱くて、男はいっそ寝転がりたかった。

「……大丈夫?」

 オヤジの声でない、透き通った女性の声がした。男が顔を上げると、その先にあの時の女がいた。満天の夜空をバックにして、心配そうに男の顔を覗き込んでいた。それを見た瞬間、バックの広大な宇宙に吸い取られていくように、男の怒りや悔しさや、ほかの言いようのないものが消えていく。

「あ、その……」

 女が「ん?」を首をかしげ、髪を掻き分けた。ただそれだけの行為なのに、男は顔を向けられなくなった。

「い、いるとは思わなかった」

「ああ、うん。さっき来たところ。それよりも大丈夫なの、傷だらけじゃない」

 女が男に手を伸ばしたが、男はとっさにそれを取り払った。男はもう何日か風呂にも入っていない。そんな汚れた体を、彼女に触って欲しくなかった。

「ごめん、血がつくと悪いから」

「気にしないでよ。別に洗えばいいじゃない」

「いや、本当に大丈夫だから」

 そっけない返しに、女のほうもどう返したものかと黙ってしまった。男は気まずくなって視線を逸らし、こちらも口を開かない。

 しばらくそうして黙りこくっていると、オヤジが冷えたタオルを持って二人の前に戻ってきた。男の肩に置き、軽く打撲した部分を熱心に冷やしてくれる。男はオヤジの人の良さに胸が熱くなった。折角冷やしてくれているのに、これじゃあ申し訳ないな、と男は内心嬉しさでにやけていた。

「何があったのか知らないが、前みたくこの姉ちゃんに話してみたらどうだ」

「前って……覚えてたんですか」

「俺は一度会った客の顔は忘れない性質でね。兄ちゃんたちはどうにも深刻そうな話をしていたから、良く覚えてるよ」

「そう、だったんですか」

 オヤジが男に肩を貸し、屋台のところまでつれていく。屋台の席に座らせると、店の裏側に回って男に一升瓶を差し出した。

「右手、痛むなら注ごうか」

 言われて、男はとっさに右手を隠した。今の有様はあまり人に見られて気持ちのいいものじゃない。何せ血まみれで、さっきまで動かなかったくらい重症な傷を負っている。後ろから追いついてきた女がその話を聞き入れたのか、吃驚して言う。

「どうしたのその右手、酷い」

「いや、これはその……」

 なんとか嘘を並べようと、頭を回転させるが、上手い言い訳が思いつかなかった。

「兄ちゃん、観念しちまいな」

 後押しするようにオヤジが言う。男は神妙な面持ちをして迷ったが、二人の視線に耐え切れずに、重かった口を開いた。

「鏡を、殴っていた」

「鏡を!? どうしてそんな危ない事を」

「鬱憤晴らしというか、僕独自のストレス解決法みたいなものさ。でも、ちょっとばかり行き過ぎたらしい」

「どういうこと?」

「今日の鏡は、壊れなかったんだ。だから必死に殴った。壊れろ、壊れろって念じながら、何度も殴った。したら、こうなった」

 赤く染まった包帯に包まれた拳を掲げて、そう言った男の表情はどこか穏やかだった。

「殴って壊れなかったって、どういうことなの」

「握力とかが落ちたんじゃないのかな」

 男の握力、腕力は確かに低下していた。長くにわたって鏡を殴り続け、傷つけてきたせいか、今となってはものを掴んで持ち上げることすら困難な状態だった。

「どうしてそんなになるまで……」

「仕方ないよ。僕が弱かったんだ。鏡なんかに頼らないと、まともに精神を保ってられないくらいに弱かったせいだ」

 屋台の中を冷たい風が吹き抜けた。男の前髪が揺れ、口から出た本音を乗せて女の方に届けていった。男は一升瓶を左手で持ち、杯に注いだ。杯に溜まった酒が、男の顔を写し出す。そこに視線を落とした男は、ああ、これは鏡とは違うんだな、と思った。

「変な話だよ。僕は鏡に写る僕を殺して、自分を保っていた。結局自分が死んで、傷ついているだけだって言うのに」

 そういうことをすべて分っているのに、やってしまう。男は本当に中毒者のようだった。

「気持ちよかったんだ。鏡を破壊することで、今日の僕とはオサラバできる。明日からまた新しい気持ちに切り替えて頑張ろう、って気になれた」

「でも、結局それはそう見えただけで、自分の中に積もり積もってあなたを傷つけていた、でしょう」

 女が男のセリフに続けて言った。そして男はそれに深くうなずいた。それも分っていたことだった。煙草を吸う人が体に良くないものだと分かっていながら吸うのと同じで、男もそれで解決したわけでないと分っていても、ほとんど関係のないことだった。その時が男にとっては快楽で、必要な時間だったからだ。

「まさか、こんな狂ったみたいになるなんて思わなかった」

「誰かに相談とかしなかったの?」

「あのとき、君にしたのが最初で最後だったよ」

 女はそれを聞いて目を伏せた。自分のしたことを思い出しているのだろう。曇った眼鏡をはずして、女は生の瞳で男を見た。

「今から、あなたの家に行きましょう」

「えっ、どうして」

「今夜は夜通し話を聞いてあげるって言ってるの。幸い明日は土曜日で休みだし、構わないでしょう?」

「い、いや、ダメだ。勘弁してくれ、見せられる部屋じゃない」

「大丈夫よ、汚くても気にしないから」

「良い女性が、そんな簡単に男の部屋に入っていいのか」

「そんなことを気にしているほど、あなたに余裕があるの?」

「……」

 ずい、と顔を寄せられて男は視線を逸らした。

「分かったよ。でも頼む、そういうことなら明日とか、明後日にしてくれないか」

 男が頭を下げて言うものだから、女は顎に手を置いてわざとらしく考えるしぐさをした後に、「分かった、明日ね」と妥協を許した。

「ありがとう、君には感謝してもしたりないくらいだ」

 男は涙声で感謝の意を言葉にし、今度は違う意味で頭を下げた。



 その晩、男は自室を改めて見渡した。鏡の破片がさながら自分が絨毯であるかのように自然に床を埋めている。今見てみれば、自分はこんな部屋で生活していたのだと、自分のことながら男は奇妙に思った。敷き詰められた破片を一枚拾ってみる。鋭い切っ先が指を切った。赤い液体がにじみ出て、腕をつたって鏡の上に落ちた。男は血を受けた欠片を拾った。今度は指の付け根が切れた。また液体は滴って、鏡の上に落ちた。男はそれを繰り返して、部屋の鏡をかき集めた。

 それは翌日の朝まで続いた。穏やかな陽光が窓から差し込み、鏡が柔らかに光を反射して室内を明るくする。窓を開けると、締め切っていた部屋の中に新しい風が舞い込んできた。外では完全に上りきっていない太陽が青空をオレンジ色に滲ませ、雲が地上に影を作っている。耳を凝らせば鳥のさえずりすら聞こえた。

 すべての破片を集めた部屋は、床がようやくかといった様子で姿を現し、血で滲んでいた部分は綺麗にふき取られた。清々しいまでになにもなくなった。男はその生まれ変わった部屋で、一度大きく深呼吸をしてみた。今まで肺に溜まっていた濁った空気を、一気に吐き出すようにして。

 部屋には、一枚の鏡がある。あの時壊せなかったひび割れた鏡だ。男はもう一度その正面に立ち、軽く左手で突いてみた。やはりひびが大きくなるような気配はなく、その鏡だけは悠然と部屋のスペースを陣取っていた。

 こいつはどうしようか、と男は考えた。このまま記念に鏡として使ってもいいかもしれない。ひび割れて不良品だが、思い入れがあれば使えないことはないし、いまさら新しい鏡なんて買う気は早々起きない。男は鏡を見た。写っているのは間違いなく自分で、ほかの誰でもなかった。当たり前のことなのに、なぜか初めてそこに自分を見た気がした。

 数時間後、女が予定通りにやってきた。部屋はきっちり片付いてはいたが、少なくとも女性を呼べるような部屋ではなかった。空気の入れ替えをしていなければ、今のいままでゴミ屋敷と呼んでも相違なかったのだから。質素で、机も椅子もない部屋。女はそれを見て、くすりと微笑した。

「なに、わたしが来るからって片付けたの?」

「それは、まあ。やらないと色々まずい状況だったから」

「ふうん、散らかってたころの部屋も見てみたかったかも。これだけ何もないと、一体何で埋まってたのかちょっと知りたくなる」

「秘密ってことで、許してくれ」

 手のひらを合わせて、悪戯っこのように男は笑った。

「あれは……」

 部屋の中まで案内すると、女が鏡を指差して言った。

「あれが、壊れなかった鏡だよ。どうしようか迷っていたんだ」

「これが、ねえ」

 女は鏡のところまで歩いていくと、まじまじと観察するように鏡を見つめた。何かを調査しているのか、裏を確認したり鏡の割れ目に指を這わせたりして、しきりに女は行動した。そして、何か閃いたようにぽんっ、と手を叩くと、おもむろに腕を振り上げた。

「お、おい」

「とうっ」

 気が抜けるような掛け声と共に、それが振り下ろされた。

 そして、ガシャンという音が続く。男は唖然とした。その音は紛れもなく鏡が割れた音だった。男の目の前で、鏡の破片が飛び散った。四散した破片は雪のような輝きを刹那に持って、ふわりと床に吸い込まれていった。

「なんてことないじゃない」

「う、嘘だ……」

 割れた鏡は何も写しださなかった。この部屋にあった、男を写し出していたすべてのものが破壊され、消えた。女は破片を一つ拾い上げ、「不良品じゃない」と簡単そうに呟いた。

 驚く男を尻目に、女は得意げに笑う。

「さあ、仕上げに片付けようか。そのあとに、ゆっくり話しをしようね」

 女の拳は、男の代わりに傷だらけになっていた。

どうも蜻蛉です。


この作品は大学のサークル提出用に書きました。題材は「鏡」でした。

なんというか、GWを挟んだので期日に間に合わせるのが超ギリギリといいますか、まさにこの作品、1日で仕上げて推敲したという荒業……。なんか、自分の作品ってこんなんばっかな気がします。さっさと精進しないと……。


この作品は鏡と主人公に対して色々な暗喩みたいなのが使われてます。なんとなく気付いてくれると嬉しいですが、伝わりにくかったと思います。すんません。


では、ありがとうございました。蜻蛉先生の次回作におご期待ください!(何

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― 新着の感想 ―
[一言] どうも。またまた妃宮です。 蜻蛉先生の書かれる文法が気に入って、こちらにまで来ちゃいましたw。 今回の使用されている暗喩が、綺麗で素敵だなと思いました。私だけそう言ってたらすみません。でも好…
[一言] こんばんは。沢木(旧姓:藤村)です。酷評OKとの事なので、感じたままを遠慮なくあげていきます。 文章に適切でないと思われる部分があり、先にスムーズに読み進む事が出来ませんでした。 それらは、…
2009/05/09 23:45 退会済み
管理
[一言] SS企画お疲れ様です。NATAです。 評価するほど、自分も上手くないですが、ご指摘させていただきます。 主人公の暗さや葛藤はとても書けていました。舞台の描写が上手く、言い回しが上手なので羨ま…
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