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ドクターズファミリー ケース4
作:GFJ


<原口明子さんの場合>

 突然、腰に激痛が走りました。息もできず、何が起きたのか理解できず、私は、ただ堪えました。額から油汗が滴り落ちてきました。思わず、俊平しゅんぺいを落としそうになりましたが、歯を食いしばっていました。俊平の重みで痺れ始めた私の腕は、しばらくまた動かせません。動かせば、新たな痛みが腰に走りそうです。時計の針は夕方4時。娘が帰ってくるのは何時になるのでしょう。大抵8時か9時頃でしょうか、遅いときは11時過ぎることもありました。少なくともあと4時間は、この生き地獄から解放されることはないのかと思うと、気が遠くなりそうでした。これまで経験したことのない腰の痛みと、俊平のずっしりした重みが一層強く両腕にかかり、額からの汗とは別に、私の目からは涙がぽたぽたと落ちてきました。
 
 いつものように、庭の花達に水撒きをし、主人と私の数少ない洗濯物を干し終わった時でした、加奈子かなこから電話があったのは。この時間帯だと長年の友達のえっちゃんか、娘からかのどちらかです。
「もしもし、お母さん?ごめん、私」
 いやな予感です。
「どうした?また俊平が熱出したの?」
「そう。よくわかったね。本当に申し訳ないけど、平田さんも都合がつかないって。どうしようもなくて、それで、またお願いしたいんだけど……」
「保育園に行けばいいのね?しょうがないわねえ、いつも。今からだとお昼くらいかしらねえ。保育園なんでしょ?俊平」
「うん。今朝、座薬突っ込んで保育園に預けてきたから、昼くらいに熱が上ると思う。本当にいつもごめん」
 
 私はいつもの旅行かばんを取り出して荷物を詰めると飛行機の時刻表を確かめました。8時25分は間に合いそうにない。次は9時10分か。
 主人に置き手紙。
”加奈子から電話あり。俊平がまた熱を出したとのこと。洗濯物を取り込んでおいてください。冷凍のしゃけを解凍していますので、そのままグリルで焼いて食べてください。冷蔵庫の中段にほうれん草を入れています。白いタッパーです。明子”
 空港の近くに住んでいるというのは、いいような悪いような。タクシーを使えば30分で到着します。俊平の熱がいつ出るのか前もってわかっていれば、航空運賃だって早割りで取れるのに、窓口でいつも正規料金を支払うたびに勿体無いと思ってしまいます。
 飛行機を降りて、高速バスの切符を買うために行列の最後に並んでいるとき、携帯電話がなりました。電源を入れたのとほぼ同時です。何ていうタイミングなの。俊平の熱が上ってきたのね。
「もしもし、私よ」
 私が話し終わらないうちに加奈子が早口で喋ります。
「ああ、お母さん。今どこ?保育園から電話がかかってきた。38度だって」
「いまからバスに乗るところだから。あと40分かしらね」
「わかった。じゃあ、そう保育園に連絡入れとく。ごめんね」
 娘はいつもそうです。早口で喋って、勝手に切って。忙しいのはわかるけれど、もう少し親への労わりってないのかしらねえ。
 加奈子から私専用にと渡されていた鍵でマンション入口のドアを開けます。最近のマンションは昔とは随分違うんですね。建物に入るにも鍵がいりますからね。監視カメラもこちらを見ているし。
 エレベータの中にもカメラです。5階で降ります。501号室。
 まあ、相変わらず散らかっていること。
 医者二人の生活って、どこでもこんなものでしょうか。
 カレンダーを確認します。明彦さんは、今日は当直ね。そして、明日は加奈子が当直。
 荷物を置いて、私は、玄関にあるベビーカーを持って愛育保育園に向かいました。保育園では職員室の奥にある畳の間に俊平が一人寝かされていました。
 そのまま私は、俊平を近くの小児科に連れて行きました。ここへは、何度足を運んだことでしょう。熱を出したときだけでなく、予防接種も、私かベビーシッターの平田さんかのどちらかが担当してきました。
 個人契約の平田さんのほかに、市が助成金を出して運営している家政婦協会、託児所が3件、NPO団体の「働く女性を支援する会」での子供預かり制度。娘は利用できるあらゆる手段を駆使してはいましたが、それでもなお、子供が熱を出したときには、「ババ頼み」なわけです。平田さんだって、加奈子のためだけに時間を取っているわけではありませんから。また、医師という仕事が、私の想像を超える激務だということも、正直驚いています。こういう生活は常道を逸しています。なぜ、お医者さん達は何も言わないのでしょう。

 4時12分。涙は痛みに誘発されて出てきたものでしたが、段々情けなくなってきて、悲しい涙も混じってきました。私の腰は一体どうなったのでしょう。ぎっくり腰をおこしたのでしょうか。横座りのまま少しずつ身体をずらして、私は、俊平を布団の上に寝せました。途中、俊平が激しく動いたため、再度腰に激痛が走りました。俊平は布団の上でワンワン泣いています。
(お前も泣きたいだろうけど、おばあちゃんもつらいのよ。堪忍してな)
 掌を俊平の枕元につけたまま、私は、静かに呼吸をしました。深く息を吸うのが怖くて浅い呼吸を繰り返しました。俊平の泣声は激しさを増し、身体をよじっていましたが、今の私にはどうしてやることもできません。

 加奈子は私の反対を押し切って医学部に進学しました。6年間も学生生活を送らせてやるだけの経済的余裕がなく、そちらの不安もありましたが、何より、女性が仕事をすることの大変さを私は身をもって経験してきましたから、本当に心配だったのです。若い頃は、誰でも簡単に考えがちです。でも、男社会の中で女が当たり前に渡りあっていくのは、よほど周囲のサポートがないと不可能なのです。ましてや医者となれば、どれほど大変な人生が待っているでしょうか。ただの会社員勤めでさえ、身体を壊すほどだと言うのに。
「一生独身で頑張っていく覚悟があるの?結婚して子供育てながら医者を続けていけるほど、世間は甘くないのよ」
 そんな私の言葉は、何の説得力も有してはいませんでした。
「結婚?そんなん、医者になれるんだったらどうでもいい。お母さん見てて結婚生活が幸せとも思えんし。だったら、自分ひとりの力で生きていく」
「バカなこと言わないの。結婚しないって、そんな、世間様から何て笑われるか」
「独身でいく覚悟があるのかって聞いたのはお母さんじゃない」
 自分の娘ながら口ばっかり達者になって、年長者の意見には耳を貸そうともしません。
「お父さんやお母さんには迷惑かけないから。自分ひとりの力で大学にも行くから」
娘は、本当に自分ひとりの力で何でもできると思っていたんでしょう。若者はいつでも無謀です。でも、そういうエネルギーを失いつつある自分には、同時に、羨ましい存在でもありました。散々言い合いをして、結局私が折れました。主人は、のんびりした性格で、あんまり後先のことを考えない人です。
「やりたいようにやらせてみればいい」
 なんて呑気なことを言っていましたが、加奈子が医学部に行って結局苦労するは私達夫婦だということは頭にないのです。

 4時40分。時間が経つのが本当に遅く感じます。
 秒針ってこんなに動くのが遅かったかしら。カチッカチッとわざとのようにのんびり動く赤い針を見つめながら、居間の救急箱まで痛み止めを取りに行けるはずもなく、時折、痛みで気が遠くなりそうになると、俊平の泣声が私を現実に引き戻す、ということが何度となく繰り返されました。俊平の体温記録は3時44分で止まっています。おむつも気になります。白湯さゆも飲ませてあげたい。火がついたように泣く俊平を抱き上げることも叶わず、ただただ、時間が経つのを待つばかりです。右足が痺れてきていますが身体の向きを変えるのも怖くて、一体どうしたらいいのでしょう。

 戦後の復興期、まだまだフルタイムで働く女性が少なく、そう言う女性がある種の偏見を持って見られていた時代、私は必死で子育てと仕事を続けてきました。職場での女性の仕事は、男性以上に沢山です。始業時間の一時間前に出社するのが常でした。社員全員の机拭きとお湯を沸かしてポットに入れる作業、お茶を入れるのも私の仕事でした。正確に言うと、私の仕事だと決まっていたわけではありませんでしたが、何も言わずに女性が自分から気がついて『率先して』やることが求められていた時代でありました。その上で、男性以上の成果を出さなければ、男性と同等の評価はしてもらえません。ガスコンロで湯を沸かしている間に、夜中にコンピュータから打ち出された昨日のデータに一通り目を通し全体像を把握する。昔のコンピュータは今のようにコンパクトではなく『コンピュータ室』に仰々しく立って威張っていましたね。朝礼の前までに「社員として」と「女性として」やることは沢山ありました。朝礼に出席しながらデータのことばかり考えていたこともありました。実際にこの方法で何度かミスを早期に発見し会社としての損害を未然に防いだり最小限に抑えたことが何度かありました。こういう努力の積み重ねが結果的に社内での信用を得ていくことになったのだと思います。私は定年退職まで仕事を続けることができました。
 加奈子には、中途半端に仕事をするなと口を酸っぱくして言ってきました。それは、二つの理由があります。一つは、女性が仕事をすることを世の中に認めさせるには、どうしても男性以上の評価をしてもらい続けることが必須条件なのです。職場で男性は女性には一層厳しい目を向けてきます。それをイヤというほど思い知らされてきたからです。そしてもう一つ、それは、私自身が入院した経験から、患者の一人として加奈子に肝に銘じていてほしかったからです。入院生活。それは、プライバシーも何もない、不安と不自由と痛みと悲しみと淋しさからなる生活です。今思い出しても、入院だけはしたくないと思います。鬱々とした生活の中で、患者はどれほど医者の言葉、行動に傷ついたり悲しんだりすることでしょうか。もちろん勇気付けられることもありますが、何気ない一言で絶望的になったりするのです。病んだ人を診るという責任ある職業を選んだ者の責務として、いい加減なことだけはしてほしくありませんでした。

 5時03分。俊平は寝息を立て始めました。泣き疲れたのかもしれません。寝苦しいのでしょう、時々手足をバタバタさせます。私の腰の痛みは相変わらずでしたが、俊平が静かになってくれたことが今の私には一番の喜びでした。ふーっ、ふーっと口を尖らせてゆっくり息をすると少し痛みが和らぐような気がします。静まり返った部屋の中が少し薄暗くなり始めました。夕飯の準備が途中でした。台所のまな板の上には、刻んだ野菜がそのままになっています。何より、お鍋に火を点けてなくて良かった。ここに来ている時くらい、加奈子にもおいしい物を食べさせてあげようと、夕飯の下ごしらえを途中までしていて、こんな情けない状態になったのです。

 加奈子が医学部に進学すると、弟の圭介もまた医学部に行くと言い出しました。圭介は姉と違ってちゃっかりした所がありますから、これはこれで果たして医者が務まるかどうか心配でした。もう少し派手な世界の方がいいのではないかと親心に思っていたのです。でも、姉が医学部進学をしているのですから、道理として反対するわけにはいきません。私は深いため息をつきました。本人は、私が反対すると思っていたみたいで、ずいぶん鼻息が荒い宣言の仕方をしました。
「お前まで医者になりたいの……」
 私の答えは随分本人をがっかりさせたようでした。何と言って私を説得させるか色んな言葉を準備していたみたいです。反対する気力もなかったというのが正直な所です。ただ、圭介はまあ男ですから、社会に差し出す覚悟も親としては必要かもしれないとは思っておりました。そうして、とうとう圭介も医学部へ進学しました。
 近所の方からは、
「お子さんを二人とも医学部へおやりになるなんて、いいですねえ。経済的なことも健康のことも、将来は心配なさらなくて済みますでしょう」
 なんて言われましたけれど、親としては、二人を戦場に送り込んだようなものです。経済的なことはまだしも、健康のことで子供達がこんなに当てにならないなんて、誰が想像できたでしょうか。

 加奈子が卒業して4年目、圭介が2年目の頃、主人が夜中に腹痛をおこしたことがありました。いきなり七転八倒しだした主人を見て私は本当に慌てました。ところが加奈子にも圭介にも電話が通じないのです。あの時ほど心細く感じたことはありませんでした。夜中に救急車を呼ぶのは近所の手前もあり簡単にできることではありません。何より、救急外来を受診した方がよいのかさえ素人の私には判断できないのです。20分経っても主人の腹痛は収まることがなく、何度も二人に電話をしてみましたが、やはりダメでした。散々悩んだ挙句、結局タクシーを呼んで救急外来を受診しました。こんな風で、これまで何度も、肝腎な時にあの子達に連絡が取れないことが続くと、本当に何のために二人も医者にしたのだろうかと、愚痴の一つも言いたくなります。医者じゃなくてもいい。咄嗟の時に自分の子供が心配してくれるだけでもいいのです。それさえも叶わぬ私達夫婦は「私達には子供はいないと思うことにしよう。二人も子供がいると思うから期待してしまうんだよ」と慰めあったことがありました。
 よそ様には子供達が二人も医者になれば、随分大事にしてもらって、経済的にも恵まれた生活をしているだろうと映っていることでしょう。でも、大事にしてもらうどころか孫がいつ熱を出すかひやひやしながらの生活、気軽に旅行もできないでいるのが現状です。何だかいつも束縛されているみたいで、不自由なんですよ。それに加奈子の給料は、私の交通費も含めて、俊平にかかる費用で全て出て行ってしまっています。もしかしたらマイナスかもしれません。それでも、仕事で空白期間ができると、職場復帰が精神的に困難になることは想像がつきますから、無理してでも、ずっと働き続ける方がいいのです。でも、子供が熱を出したからと言って、簡単に早退できるような職業ではありませんから、こうやって、私も老体に鞭打って頑張っているのです。

 5時27分。突然携帯電話が鳴りました。ああ、加奈子からかしら、主人からかしら。壁際に置いた私のハンドバッグ。慌てて手を伸ばした時、またしても激痛が走りました。電話を取りたい気持ちとは裏腹に、私は完全に身体を動かすことができなくなりました。息を止めて、痛みが和らぐのを待ちます。しばらく着信音が鳴った後、静かになりました。2分ほどして、また、電話がなりました。私はもう電話に出ることは諦めていました。部屋は一段と暗くなっています。電気を点けることもできません。俊平の頭は汗でぬれていましたが、私にできるのは、おでこにぺったりとくっついた前髪をじっと眺めることだけでした。こんな痛みにただ黙って堪えなければならないなら、いっそ、死んだほうがマシ。そんな思いがふっと頭によぎります。

 加奈子は、卒業すると、循環器内科を選びました。教授に惹かれたようです。学問的にも人間的にも尊敬できる教授だと言っていました。現在、加奈子は、市立病院で仕事をしています。心臓カテーテル検査では、全国でも上位にくるほど件数をこなしている病院です。加奈子の肩は、私よりずっと凝っています。ちょくちょく加奈子の肩を揉んでやったりします。「親に肩を揉ませるなんてね」と厭味をいいながら揉みますが、本当にガチガチなんです。レントゲンでカテーテルの先端を確認しながら検査を進めるので、被爆防止のため重い鉛のガウンを長時間着用するのだそうです。加奈子は、しょっちゅう頭痛薬を飲んでいます。多分、肩こりから来るんでしょうね。そういう娘を見ると、親としては、もう少し仕事量を減らせないものかと考えます。
 でも、加奈子は恵まれた方だと思います。私の口から本人には言いませんが、親が健在であるからこそ、これだけの仕事をこなしていけるわけですからね。親御さんが亡くなっていたり、病気をされている女医さんは、こうはいかないでしょう。でも、私もどこまで協力してやれるか、すっかり自信が無くなりました。
 医学部に行く前は「お母さんには迷惑かけないから」なんて言っていましたが、実際に結婚して子供を産めば、迷惑をかけずになんてやっていけないんですよ。本人はどこまでわかっているのでしょうね。娘が一応医師として男性と遜色なく仕事がやれているのは、子供を産んでも、ほとんど産みっぱなしの状態でいるからです。

 5時49分。痛みは相変わらずでしたが、いつまでもこのままで過ごすわけには行きません。俊平に水分を補給させていないことが気がかりでしたし、そろそろお腹もすく頃でしょう、おむつの交換もしなければいけません。私は完全に隔絶された空間に俊平と二人取り残されていました。
 何にしても、携帯電話を近くに引き寄せることが急務だと思いました。回りをぐるっと見渡します。利用できるものがないかどうか。私の手足の届く範囲にあるもの……。ティッシュペーパー、私が俊平のために準備した二つの哺乳瓶、一つはミルク、一つは白湯が入っています。俊平の紙オムツ、お尻拭き、ミッキーマウスの絵のついたゴミ箱、俊平の記録をつけているノートとボールペン、体温計、赤い秒針の目覚まし時計、あとは……本棚の横にどういうわけか『孫の手』が見えました。これだ。左足をそっと伸ばしてみます。届きません。ほんの少しずつ体を移動させて『孫の手』が届く位置まできました。相変わらず腰の痛みは続いていましたが、命をかけても、この『孫の手』を使って携帯電話を手にする必要があると思いました。いえ、大げさでも何でもなく、本当にそう思いました。

 圭介はまだ独身です。圭介の生活もめちゃくちゃです。アパートには時々帰るだけで、半分、病院に住んでいるようなものです。アパートは、本類などの物置として使っていると言ってもいいかもしれません。
 親としては、正直言って、女医さんとだけは結婚してほしくないと思っています。孫守りは俊平だけでもう充分。本当はそんなこと言っておれないんですけどね。お見合いの話をしても、「面倒くさい」とか「そんな時間ないよ」と誤魔化されてしまいます。誰かいい人がいるのかどうかもさっぱりわかりません。圭介は、皮膚科に進みました。皮膚科というと「楽」だと思われているみたいですが、そんなことはありません。私も、圭介が皮膚科に進むと聞いたとき、内心『あーよかった』と思いました。でも、それは大きな勘違いでした。圭介は皮膚科の中でも熱傷などを専門にしていますので、それは救急医療です。重症の熱傷患者さんが県をまたいでヘリコプターで運ばれてくるそうです。皮膚科にそんな分野があるなんて、圭介が仕事を始めるまで私は知りませんでした。何となく圭介に騙されたような気がしています。

 左足のかかとが『孫の手』にかかりました。そっと引き寄せます。『孫の手』の『手』の部分がちょうど踵にはまり、うまくいきそうです。おっと、力を入れすぎて『孫の手』がいきなり立ち上がりました。あっという間に方向転換してしまい、内心『しまった』と思ったのですが、そのお陰で、左手の届くところに柄の部分が落ちてきました。腰の痛みを一瞬忘れるくらいの喜びでした。そうして、私は、『孫の手』でハンドバックを引き寄せ、携帯電話を手にすることができました。時間はかかりましたけれど。これで、外部とつながった気がしました。
 その時、電話が鳴りました。何て事なの。居間にある固定電話が鳴ったのです。折角、携帯電話を手に取ったというのに。遠くで鳴る電話の音を聞きながら私は放心状態になっていました。

 私の人生は一体何だったのでしょう。戦後復興期の貧しい社会の中で必死に生きてきました。大学へ進学したかったけれど叶いませんでした。高卒で社会へ出、以後、仕事をしながら二人の子どもを育てました。その間、無理がたたって一年半の入院生活。退院後、会社は温かく私を迎えてくれました。そのことに関しては、とても感謝しています。女性初の中間管理職。やりがいはありましたが、ストレスも半端じゃありませんでした。どれもこれも家族が元気でいてくれたから出来たことでした。でも、私も疲れてきました。子どもが成長したら少しは楽になるかと思っていたら、こき使われるばかりで、一体いつになったら楽になれるのでしょう。えっちゃんの所も娘さんがいますが、羨ましい限り。
「女の子は大きくなってからがいいわねえ。」
 近所に住んでいて、時々3人の孫を連れて遊びにくるそうです。
 冗談じゃありません。私の所は、これだけ離れているのに、しょっちゅう私の方が飛行機であっちとこっちを行ったり来たり。孫守りもここまで来ると本当に負担です。
「まあ。あきちゃん、大変ねえ。娘を医者になんかするもんじゃないわねえ」
えっちゃんとは、何でも相談できる仲です。高校の頃からの友達で職場もしばらく一緒でした。
「そうよ。ホントに。使われるだけ使われるのよ。」
 えっちゃんは、真顔で言いました。
「ねえ。ほっとけばいいんじゃない?そんな、バカみたいじゃない。孫守りなんかしてないで、一緒に紅葉を見に行きましょうよ」
 それが出来ればどんなに楽でしょう。でも、加奈子が頑張ってる姿を見ると、親として出来る限りのことをしてやりたくなります。本当は娘達夫婦の問題です。でも、いざ、夫婦のどちらかが犠牲になるとしたら、それは間違いなく娘の方でしょう。
「あなたが言うようにそんなに簡単にはいかないわよ」
 もしかしたら、私はこの忙しさから死ぬまで解放されないのかも知れません。
 私がここへ来ていない間、俊平は、保育園から託児所へ直行です。24時間営業の託児所、それは夜の街にあります。加奈子か明彦さんが迎えに行くまでそこで過ごすのです。祖母としては俊平が可哀想な気がしますが、どうしようもありません。

 医師とは、どうしてこう自己犠牲を強いられる職業なんでしょうか。こんな職業、加奈子が女性でなくったって、充分過酷な仕事です。医師本人だけではありません。医師が一人前の仕事をしようと思ったら、それこそ家族が献身的に『奉仕』する心構えでないと無理でしょう。
 娘が医師になる前、私は、娘に精一杯仕事をするように言い聞かせました。自分で選んだ職業、妥協はしないようにしなさい、患者さんの気持ちがわかる医師になりなさい、常に勉強を続けていきなさい、そんなことばっかり言ってきました。でも、私は、自分が言ってきたことが果たして正しかったのかどうか最近疑問に思っています。そうして、娘を助けてきたことも、他の女医さん方の仕事がしにくくなってきた一つの要因であるかもしれないと思うようになってきたのです。同じ理由で、ここまで医師の仕事が大変になってきた責任の一端は医師達自身にもあるのではないかと思うようになりました。できないことはできないと、どうして言ってこなかったのでしょう。
 娘は悲しいほど私の教えを守って仕事をしています。肌は荒れ放題、年中頭痛薬を飲み、この前は、自宅に帰ってくるなり玄関先で倒れてしまいました。そんな娘を見ると、親としては泣きたくなるのです。娘にも何度か言ったことがあります。
「もういいんじゃない。仕事やめたら?身体あっての仕事だからね」
 娘は笑って言いました。
「負けず嫌いは親譲り」
このは、私と同じ過ちを犯さないと、本当の意味での『健康の有難さ』がわからないのかも知れません。折角、経験者が助言していると言うのに。
 そして、私も年をとってきたのでしょうね、今年66歳になりますが、できればもう少し静かな生活を送りたいと思っているのです。俊平が小学校に上るまで、まだまだです。それまで私は生きていることができるのだろうかと時々弱気になります。

 携帯電話を手にしましたので、とにかく誰かに連絡を取ることを考えました。救急車?いえ、「救急車まで移動する」ということ自体、今の私には想像したくないことでした。とにかく、この体勢を無理やり変えられることが恐怖だったのです。それに救急車を呼んだところで俊平はどうすればいいのでしょう。加奈子? もしかしたらカテーテル検査の最中かもしれません。連絡が取れたとしても、あまり役に立ちそうにありません。主人? 遠方すぎますが現状を伝えておく必要がありますし、一番現実的だと思いました。とりあえず自宅に電話を入れます。右手を布団についたまま、左手で、ボタンを一つずつゆっくり押します。
 その時でした。いきなりドアが開いたのです。心臓が止まるほどびっくりしました。
「きゃああぁ」
 これは、私の声ではありません。突然聞こえてきたこの声に再び驚いて、私も思わず
「わあぁ」
 と叫んでいました。再び、腰に落雷……
 ドアを開けたのは、平田さんでした。
「ど、どうしたんですか?外から見ても501号室は真っ暗だったから、てっきりいらっしゃらないかと……」
「まあ、平田さん……」
「あの、電気をつけてもいいですか?」
 私は平田さんが救いの神に見えました。部屋が急に明るくなりました。平田さんは、ジーンズとTシャツ姿で本屋さんの袋をぶら下げていました。突然、俊平が大声で泣き出しました。 平田さんは俊平を抱きかかえ、あやしながら言いました。
「加奈子先生から電話があって、連絡がつかないから自宅を見に行ってもらえませんかって。それで慌ててやってきたんです」
 安心したからでしょうか。涙が溢れ出てきて、喋ることもまともにできなくなってしまいました。
「腰が……」
 本当に加奈子はいい人を見つけたものです。41歳、しっかりしていて、とても優しい人です。
 平田さんは俊平を抱いたまましゃがみこんで私を覗き込みました。大きく見開いた二つの目がびっくりしたことを物語っていました。ついでに口もあいています。
「まあ……」
 状況を把握できずにいながら、何かがこの部屋で起きていることを察知した様子でした。
 平田さんがあわててウエストポーチからハンカチを差し出してくださいました。
 差し出されたハンカチを受け取って涙を拭きながら、説明しなければならない義務感と、年甲斐もなくしゃくりあげている自分を抑えきれずにいる腹立たしさとで、私の心はぐしゃぐしゃになりました。
「腰が痛いんですね?救急車を呼びましょうか?」
 返事もなかなかできずにいる私とは対照的に、平田さんは、私を気遣いつつ、同時に俊平の汗を拭き、体温を測り始めました。
「ご、ごめんなさい。本当に情けない……」
 私は自分が本当に役立たずだと感じました。
「そう仰らないでください。あぁ、今朝少し無理してでも都合つければ良かった。私の方こそ、すみませんでした。」
 いいえ、平田さんには平田さんの生活があります。
「とんでもないです。申し訳ない……今も無理して来てくださったんでしょう?ごめんなさいね。加奈子は本当に人使いが荒いから、いつも迷惑ばかりかけているでしょう?」
 平田さんは、私の話を聞いて状況を把握するとすぐに加奈子に連絡を入れてくれました。今から救急病院を受診しても疲れるだけで大したことはできないはずだから鎮痛剤で明日まで様子を見る方がよいだろうという加奈子の判断でした。痛み止めと安定剤を飲んだら、多少はいいような気がしました。多分、『平田さん効果』が一番大きかったと思います。
「それにしてもお母様も大変ですね」
 しみじみと平田さんが同情してくださいます。
「いいえ、もう、本当に今日は助かりました。どうなることかと思いました。みっともない所もお見せして。加奈子の書斎に俊平の布団を敷いたところまでは何ともなかったんですよ。俊平がぐずってぐずって、布団に寝かせると気が狂ったみたいに泣き叫ぶんですよね。抱っこするしかなくってね、そしたらいきなり……。本当に地獄でした」
 加奈子の書斎は、私が訪問した時に私の部屋としても利用させてもらっていて、俊平の面倒を見るのにも一番落ち着ける場所です。
 俊平の熱はいつの間にか37度まで下がっていて、着替えも済ませてもらい、ミルクもたっぷり飲んできゃっきゃっと笑っていました。いつもこんなだと可愛いんですけどね。 

 9時過ぎになって、主人がかけつけてくれました。平田さんは主人が到着するまで私に付き合ってくれました。俊平の看病と私の看病と、平田さんには本当に頭が上りません。平田さんの家族にまで大迷惑をかけてしまいました。
 それにしても加奈子一人のために、一体、どれだけの人たちが迷惑を被っていることでしょう。
 平田さんはニコニコしながら言いました。
「一番上が高校二年の女の子ですから、簡単な夕飯くらいは作れるようになって私も助かっています。うちは何とか大丈夫ですよ」
 私の見えない所できっとお子さんに電話をかけて謝ったんでしょうね。
『ごめんね、急にお仕事で今日はお母さん夜遅くなるから、夕飯作って食べて先に寝ててね。弟たちの面倒もしっかり見てちょうだいね』というところでしょうか。
高校二年生の長女、中学三年生の長男、そして小学6年生の次男の三人のお子さんがいらっしゃるそうです。本屋さんの袋からは、『受験問題集』という赤い文字が透けてみえました。子どもさんのために、本屋に行ったところで加奈子から連絡をもらったのでしょう。
 平田さんが来てくれなかったら、どうなったのでしょう。本当に考えたくありません。その日、加奈子は、受け持ちの患者さんが急変されたとかで結局自宅に帰ってきたのは、夜中の2時でした。それにしても加奈子は明日は当直勤務だと言うのに……今日の睡眠時間はせいぜい3時間でしょうか。明日は多分眠らずに働くのでしょう。加奈子は夜中に帰ってきて私のことを心配してくれましたが、あの娘の顔は土気色つちけいろ、こんな顔して患者さんの診療にあたっているのでしょうか。ここには今、病人が3人いるみたいです。俊平と私と、そして加奈子。
 加奈子も圭介もまるで短距離走の走り方でフルマラソンに挑戦しているような生活です。二人とも、いつか身体を壊すのではないかと心配です。医者って日本の中では使い捨ての消耗品なんでしょうかね。私は、あの子たちに「きちんと仕事をしなさい」なんてことは言わなくなりました。本心を言うと、少しくらい手を抜いて、うまく生きていってほしい。過労死したら誰が責任を取ってくれます?「ああ、いい先生だったのにね、可哀想に」と同情されておしまいです。もしかしたら「医者の癖に自分の健康管理もできないのか」と内心笑われるだけかもしれません。いっそ医者なんて辞めてくれたらと思ってしまうこともあります。あの娘の人生ですから私が口出しすることではないのですが。
 
 翌日、私は主人に連れられて私立病院を受診しました。整形外科は本当に混んでいました。
「こんにちわ。臼井うすい先生から話は伺いました。」
 外来担当のたに先生はおちついた雰囲気の先生でした。
 レントゲン検査の結果、私の第二腰椎が圧迫骨折を起こしていたことがわかりました。
「お孫さんが熱でご機嫌が悪かったんですよね。その時でしょうね。本当に痛かったですね。お孫さんの相手をしていて骨折したり大怪我される方は実はよくいらっしゃるんです。あまり無理をなさらないようにしてくださいね。コルセットを作りましょうね。しばらくはお孫さんの面倒は見ないようになさってください。おっと、そんな事を言うと臼井先生が困るのかな。でも、実際、今は安静にするしかありませんから」
 腰の骨が折れていた。私はがっくりきました。と同時に、「そういうことか」という納得もありました。尋常な痛さではありませんでしたから。今日もまだ痛みは続いていますが、昨晩は、結局一睡もできませんでした。それにしても、いつの間にか、そんな年になっていたのですね。年を取るって何て悲しいのでしょう。
 
 俊平の面倒を平田さんにずっとお願いするというわけにもいきませんから、結局、主人が2,3日一緒にこちらに滞在することになりました。本当に大騒動です。私が腰の骨を折っても、医者である私の娘、娘婿、息子、誰一人、ほとんど役にたっていないなんてね。何だか滑稽ではありませんか?娘婿の明彦さんは、天海あまみ病院の消化器外科部長をしていて、これがまた、あてにならないんです。病院業務もさることながら、シンポジウムの司会やら何やらで、夜中に帰ってきてもそのまま部屋で資料作りをしているような状態ですから。医者だらけの中にいると、時間感覚が本当におかしくなってしまいます。正直言って、加奈子の所に来ると、夕食が11時は当たり前、朝は5時半には起きないといけませんから、数日滞在しただけでへとへとになってしまいます。大抵は俊平が病気した時ですから、休む間がないのです。70歳近い私には、そろそろ限界です。

 いずれにしても、娘には、仕事以外のことも少しは考えてもらう時期がきたようです。様子をみて、じっくり話をしようと思っています。私には、もう娘を支えていく気力と体力があまりありません。女医を支えるシステムを社会全体で考えてもらうなりしないと、愛情や親心だけではどうしようもない、というのが私の本音です。腰の骨が折れなければ、もう少し、前向きな気持ちでもいられたと思うのですが。


今回は、年々増加している女性医師の抱える問題を取り上げてみました。医師家族にとっては、あまりにもありふれた話。でも、一般の方には、案外知られていないのではないかと思います。













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