夜。
僕は、暗闇の朧の中で、彼女の声を聞く。
「早く死ねよ」
彼女はクラスでも人気の美少女で、性格も至って温和、絵に描いたような大和撫子……と思いきや、ユーモアにも溢れた、とにかく凄く感じのいい女の子だった。
人望も厚くて、勉強もできる。教師からの信頼も厚くて、成績も人格も平均点な僕としては次元の違いを感じるくらい。雲の上の人、とでも云えば相応しいだろうか。
そんな彼女とどうして僕なんかが付き合うようになったのかというと、それは、意外なくらい単純な成り行きからだった。
彼女は根っからのプロ野球好き。でも、同じクラスの女子達には、サッカー部所属の生徒が三人いたことも影響してか、プロ野球よりもサッカー人気の方が高かった。男子の人気も、どちらかというとサッカーの方に傾いていたかも知れない。女子が騒いでるんだから尚のことだっただろう。
そんなある日、学校の近くにある本屋で彼女と偶然遭った。とはいえ、僕はプロ野球雑誌を立ち読みしていて全く気付かなかったんだけど。隣で同じ雑誌を立ち読みしていた彼女が僕に気付いて、声をかけてくれた。
それがキッカケで話しをするようになり、その年の秋には一緒に試合を見に行くまでに発展した。好きなチームが同じだったこともあって話しは盛り上がるし、彼女の選手評ももっともだと思えるくらいに説得力があって感心したのを、今でも覚えてる。
教室での休憩時間や放課後の喫茶店で一緒に過ごす時間も長くなり、お互いの家を行き来することも増えた。『付き合ってるんだろ?』とクラスメートに云われても、否定する必要がないくらいにまでなっていた。
そんな付き合いが、高校時代の彩として約二年続いた。
卒業した僕達は、当然のように同棲を始めた。お互いの家に足を運ぶには丸きり正反対の駅で降りなきゃいけないネックが大きかったし、何より、それまでにはセックスも経験済みだった。
燃えるような激情の果てにって訳じゃないのが物足りなくもあるけど、日に日に美しさを増していく彼女と一緒にいられることがとにかく嬉しくて仕方なかった。そして、彼女も同じ気持ちだと信じていたし、疑う必要すら感じなかった。
彼女が、僕のために食事を作る。
彼女が、僕のために掃除をする。
彼女が、僕のために洗濯をする。
手伝うよと云っても、楽しいからと遠慮する。それでも手伝おうとすると、男の子がそんなことするもんじゃないと諌めてくる。だから僕は邪魔しないように、でも「手伝って」と云ってくれるのを待ちながら、テレビや本を眺めてる。そうしてるうちに僕が居眠りをしてしまうと、彼女は、僕が寒い思いをしないようにとそっと毛布を掛けてくれる……。
僕は、とても幸せだ。ほんとに、最高に幸せだ。
来年には、正式に挙式もする。この間の日曜日には、一緒にウェディング・ドレスを見にも行った。真っ白なウェディング・ドレスを試着した彼女の、例えようもないくらい幸せいっぱいの表情……それを見た僕は、自分が生きてることにすら誇りを感ぜずにはいられない。
彼女を幸せにしなくては。彼女を、この世で一番愛し続けなくては。
だって、彼女は僕の総てなんだから……。
だから。
僕は、その言葉に唖然としていた。
夜の夜中。まるで、僕が熟睡するのを待っていたかのように。
僕の耳元で。
注意しなければ聞こえないような、そんな音で。
聞いたこともないような、地を這う声で。
細心の注意を払って囁かれる、その言葉。
「早く死ねよ」
僕は。
僕の耳がおかしくなっていることを、祈った。
朝の日差しの中で見る彼女は、弾けるくらいにキラキラしている。僕は、その顔を見るたびに……いい加減馴れてもいいくらいだと思っていても、やぱりドキドキしてしまう。
相変わらずの完璧な朝食を食べて。
彼女が用意したスーツを着て。
まるでフランスの映画みたいに、出掛け際にキスをして。
「今日の夕飯は、あなたの好きなオムライスよ」って言葉を、帰るコールに聞いて。
寄り添いながらテレビを見て。
時には、番組をネタに意見を戦わせて。
一緒にお風呂に入って。
そして、抱き合いながら眠りについて。
そんな、絵に描いたような幸せな毎日。
絵に描いたような、幸せな毎日。
なのに。
夜の闇の中、あの声が耳を打つんだ。
「早く死ねよ」
ねぇ。
これは一体、何の呪文なんだい? |