一掌(手の平の温度)
ついに泣き出した空に、私が泣きそうになった。
数分前。バスを降りたときはまだ小雨だったのに、今では典型的な本降りになっている。そして頭上の雲を見た様子だと、止む気配もない。
急いで雨宿りの場所を探すと、いつもは目にも留まらないくらい小さな公園があり、私はそこに駆け込んだ。
ブランコと滑り台と、小さな藤棚しかない、予想通りの小規模な公園にがっかりしながらも藤棚の下に入り、とりあえずは雨を防げることを確認すると、安堵のため息が口から零れ出る。
だが、いつまでここにいたらいのだろう。そう考えると、また別の意味でため息が出る。
ぽつんと座っているベンチに座り込んで、上を見上げた。
緑の葉が繁っていて、空と私を遮断している。
毛虫、いるのだろうか。ぼんやりと考え、どっちでもいいか。というつまらない結論にたどり着く。
いつかいたトモダチに、毛虫が大の苦手な奴もいたのだが。
胸が小さく痛み、私はそのことを考えるのを止めた。心が、体が、彼女の存在を禁句と決め込んでいるのだ。
「隣いいかい?」
いつも通り、足元を見つめていた私にそんな声が頭上から降り懸かって来たのは、そう時間は経っていない時だった。
見上げた先にいたのは、街を10分歩けば見かけそうな特徴のない顔の男性だ。くたびれたスーツの肩を、雨で濡らしていた。
私は無言で席を立った。
多分私と彼、二人でこのベンチは座れない。その原因は、ベンチの大きさと私の体型だ。
「あれ、立たなくてもいいよ。一緒に座ろう」
ナンパか? と思ったが、すぐに苦笑しながら否定する。
こんなデブにナンパする人なんて、いないだろう。
顔だって、よくない。私の頬には余計な肉がついているし、体だってそう。
「何か悩んでるのかい?」
「……いいえ。別に」
私は嘘をついた。そしてそれは簡単にばれてしまったらしい。
男性はニコリと笑うと、ポケットの中から名刺を取り出し、私に差し出した。
私はそれを無言で受け取る。
少し湿ったその紙には、聞いたことのある企業の名前と、どこにでもありそうな男性の名前が書かれていた。
「斉藤一さん?……いいところで働いているんですね」
嫌味を込めて言った私の真意に気付かずに、斉藤さんは照れ臭そうに頭を掻いて言った。
「そうでもないよ。肩書なんてあんまり意味ないしね」
「ふぅん。そう」
「それに今は副業の方がやりがいがあるんだよ」
「……何ですか、その副業って」
尋ねたのは社交辞令と、ほんの少しの好奇心だった。
私が尋ねるのを予想していたのか、斉藤さんは得意気な笑みを顔に浮かべ、私を見た。
人と顔を合わせるのが苦手な私は自然と視線を湿った地面に向ける。
「副業ってのはこれだよ」
視線の端から出てきた紙を、無意識のうちに握った。名刺とは違って薄く、安っぽい紙にでかでかと文字が書いてある。呆れたて声の出ない私に、斉藤さんは例の明るい声でその文字を読み上げた。
「100円であなたを愛します。愛されたい方、是非ご利用ください……どう?やってみない?」
何も言わずに顔を上げた私に、斉藤さんは笑顔で手を差し出した。
私が彼の手を、戸惑いがちに握った瞬間。それが全ての始まりだったのだろう。
二掌(遠い距離)
梅雨が明けても、うっとうしい湿気はなくなることはない。むしろ、暑さが増すからさらに過ごしにくい季節の到来。というのが正しいのだろう。
「お疲れ。手伝おうか」
「ん?いいよ。お前授業遅れるだろ」
サッカーボールを片付けている俺に、クラスメイトでチームメイトの山瀬が話し掛け、俺が遠慮したにも関わらず、ボールを手渡してくる。
「うちの部活ってさ、なんで朝練するのかなぁ。大して強くないのに」
「さあ。強くないからするんじゃねえの?」
「ん〜」
納得いかない。といった顔をした山瀬だったが、朝から酷使した体と徐々に上がっていく気温せいで考えるのが嫌になったのか、反論は返ってこなかった。
「まあいいじゃん。どうせあと少ししたら引退だ」
言った俺に山瀬はだるそうに頷いた後、あっと拍子抜けするような声を上げた。
「片岡さんだ」
俺はほぼ反射的に視線をサッカーボールに向けて、山瀬の声が聞こえてないふりをした。
「間に合うのかな……あれ?」
「どうした」
「ちょっと片岡さん明るくなった?」
言われて、俺は彼女を見るが丸い体を縮めるようにして歩いている格好は、別段いつもと変化はない。
「そうか? いつもの根暗な片岡じゃん」
「いや、なんとなくなんだけどね」
「片岡が明るくなっても俺らには関係ないし」
早くこの話しを切り上げたくて、そう言い放った俺を山瀬は大きな目でじっと見ていた。
「何だよ」
「いや、そう言えばお前入学したとき片岡さんと仲良かったよなぁって思ってさ」
俺は唾を飲み込む。胸が鈍く痛んだ。
だがそれ以上、山瀬は何も俺に尋ねてこなかった。あいつなりに感づいたのだろうか。それとも何も気付かなかっただけなのだろうか。
山瀬の表情が読めず、俺はボールを抱えて呆然と立っているのが精一杯だった。
「終わったよ。行こうか」
「あ、ああ」
返事をして投げたボールはワンバウンドして、かごの中に入った。
三掌(ブランコの二人)
いつもの夜。私はあの公園のブランコに座り、空を見上げていた。排ガスやらなんやらで黒く染まった空の上では、天の川が輝いているのだろうか。そう思うと、憂鬱な日々も少しは救われる気がする。
「いや〜ごめんごめん。待った?」
「……六勝二敗。勝ち越す気あるんですか」
「うっ。次はちゃんと先に来るよ」
バタバタとやかましい足音を立てながらやってきた斉藤さんは、上着を脱いでワイシャツには汗を滲ませていた。
そんなに急がなくてもいいのに。と思うが、口にしない。なんだか照れ臭いから。
斉藤さんの手を握ったあの日から、私たちは度々この公園で会っていた。
カラオケ、ファミレスやゲーセン。もちろんホテルなど行きはしない。
ただただずっと、会うまでの期間で起こったことをブランコに座って話すだけだ。
最初は恐る恐るだったけれど、今はこうして会うのが楽しみになっている。なんてことは絶対に口にしないけど、斉藤さんに出会ってから毎日が少し変わったのは確かだった。
「でも大丈夫なのかい?もう九時近いよ。親御さん心配するんじゃないの」
「関係ない。両方とも死んじゃってるから」
ブランコを小さく揺らした私は空を見上げた。
「……親族はいないの?」
「弟が一人。でもほとんど帰ってこないの」
足の悪いおばさんにお世話になっていて、おばさんにはバイトだと言ってある。実際に今はバイト帰りだ。
斉藤さんは口を開かず、ブランコを漕ぎ出した。
「悲しくないの?」
「……よくわからない。おばさんは悪い人じゃないし、私と弟には無関心だけど暴力を奮うわけでもない」
でも、私を愛してはくれない。喉まで出かかった言葉を飲み込み、地面を見つめる。
ふぅん。と気のない返事をして斉藤さんは、こちらを向いた。
「世の中ってさ、気付かないものだらけなんだよね。しかも人間ってのは近くにあるものには目を向けようとしない」
「それが三十年生きてきた教訓?」
「まあ、そんなもんさ……だから自分の感情ってのに気付かない人が意外に多いんだよ」
何が言いたいの。と尋ねると斉藤さんは大きく伸びをして笑った。
「のんびり勉強しましょうってこと。結論を出すのはそれからでも遅くはない」
はいはい。と私が生返事すると斉藤さんは、年寄りの意見はちゃんと聞くべきだ。とふざけて怒ってくる。
それが面白くて、私は思わず吹き出した。
自分でも驚くくらいの明るい声が、夜の空に吸い込まれていった。
四掌(休み明け)
夏休みが明けて久しぶりに来た教室はひどく懐かしい感じがした。
夏休みの半分までは、すぐそこのグラウンドで走り回っていたのが不思議なくらい遠い出来事に思えて、目を細くする。
「やぁ篠原。夏休みは満喫できた?」
「ほとんど引きこもってた。部活終わったら暇で暇で」
と言いつつも、ちょくちょく大学の受験勉強をしていたというのは、まあ受験生のかわいい嘘だ。
そんな時、クラスに一人の男子生徒が走り込んで来た。妙に慌てていて、どこから走って来たのか息を切らしている。
「よぉ。どうかしたのか」
「か、片岡が……」
その言葉に自然と意識がそちらにいってしまう。それは山瀬も同様で、静かに男子生徒を見ていた。
「片岡ぁ? あれがどうかしたのかよ」
『あれ』呼ばわりするんじゃねぇ。と突っ掛かりそうになるのをぐっと堪え、次の言葉に集中する。
「可愛いくなってる!!」
一瞬の沈黙。その後クラスが笑いの渦に飲み込まれてた。笑っていないのは、息を切らした男子生徒と、俺と山瀬だけだ。
「お前目が腐ったんじゃねえの。あの片岡だぜ?」
「本当なんだってば!! もうすぐ来るからちゃんと見ろよ」
そう言った途端、後ろ側のドアが開いて片岡が入ってきた。
クラス中が沈黙する。
というより声が出ない。と言った方が良いのかもしれない。
片岡は片岡なのだが、容姿が全く変わっていた。
まず、太り気味だった体型が適度に痩せた健康的な体になっている。化粧っ気のない顔はそのままだが、顔の肉も落ち眉は綺麗に形を整えられている。
そして何より変わったのは、人に見られるのを避け、体を小さくしていた頃とは違い、背筋を伸ばして歩いていることだ。
他の生徒は容姿が変わったからだと思うのだろうが、俺の場合は逆だ。
背筋を伸ばして、世の中をより高いところから見えるようになったからこそ。綺麗になったのだろう。
ぎこちなく挨拶するクラスメイトに、朗らかに返事をする片岡を見ながら、俺は漠然とそう思った。
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