バスの旅
宿題を終えて台所に行くと、お母さんが夕食の準備をしていた。
そこから漂う美味しそうな匂いで、僕は夕食のメニューを推測する。
甘くて、とろけるような、でも香ばしいこの匂い。
(これは、もしかして―――)
「お母さん、今日はグラタンだね!」
「当たり」
僕が元気よくそう言うと、お母さんは悪戯っぽく笑った。
「やったぁ! 今日はお父さんも早く帰ってくるから、みんなで食べられるね」
お母さんはいつもどおり笑って答えた。
「そうね、みんなで食べられるね」
(―――おいしいね、お母さん……)
そう思ったとき、頭に鈍い衝撃が走って目を覚ます。
「痛っ……そっか、夢かぁ……」
拓人は頭を座りながら座席に座りなおす。 隣に座っているはずの母・加奈子の横顔を盗み見すると、思いつめたような顔をして、ただひたすら前を見ていた。
まだやっと見れるようになったばかりの車窓から、外の風景を見る。
窓の外に広がるは一面の水田。 それからずっと先には壮大な山が続いている。 夏の青々とした稲を濃い夏の空。 その景色を見て、僅かに感じる懐かしさ。
拓人が住んでいた都会の高層マンションから見る景色とは大違いだ。 都会育ちの拓人が、こんな田舎でバスに揺られているのは訳がある。
それは、両親の離婚。
「拓人」
加奈子が、物思いにふけっていた拓人の肩をぽんと優しく叩いた。
「もうすぐ降りるから、ね」
「うん」
素直にうなずくと、加奈子は悲しそうな顔を無理やり笑顔にした。
(そんなに、無理して笑わなくてもいいのに)
と、拓人は思う。
離婚した父が、いまさら家を出て行けと言ってきた。 だから、加奈子の実家であり、拓人にとっては祖母の家に向かっている。
離婚した原因は、父の浮気。
父は真実を知って激し、理由を聞こうとする加奈子に目を合わせることすらせず、こう言ったのだ。
「お前には、俺は勿体無いだろ」
自分が寝静まってから、起きた喧嘩。
でも、大声に起きて、誰にも知られることなく、見て、聞いてしまった喧嘩。
父の言い放ったその言葉を聞いた途端、加奈子は怒鳴らなくなって、ただ棒立ちになった。
父は、そんな彼女の姿を一瞥し、携帯電話と財布、それと煙草を持って出て行った。
「お前には、俺は勿体無いだろ」
なんて思い上がった言葉。
加奈子に、何が足りなかったというのか。
料理だって出来た。
揚げ物だって簡単に出来るし、いつも美味しい手作りのご飯を出してくれた。
裁縫だって出来た。
親戚の女の子のお母さんに、子供の浴衣が上手く作れなくて困っていると泣きつかれ、優しく丁寧に教えていた。
家事も、母親としても、人間としても。
完璧ではないにせよ、決して劣っていたわけではない。
それを、そんな母を、父はたった一言で切り捨てた。
それから、いつもどおりに毎日が過ぎた。 拓人は、二人が仲直りしたのかと思っていた。
しかし、そうではなかった。 拓人の知らない間に、二人の関係は壊れていたのである。
そしてあの日、父は出て行った。
思い出される、祖母が加奈子に会うたび言っていた言葉。
(―――「あの子は、自惚れが強すぎるから」―――)
そんな最低な父のことを思い出しているうちに、顰め面になっていたらしい。 加奈子が心配そうに聞いてきた。
「拓人、どうかした?」
はっとなった拓人は慌てて言う。
「な、なんでもないよ」
「そう? もう降りるからね」
「う、うん」
無愛想な運転手の顔を横目で見て、加奈子は自分達の分のお金を入れていく。 「あんがとござましたー」という運転手のいい加減な挨拶を聞きながら、バスのステップを降りる。
バタンと、無駄に大きな音を立ててドアが閉まり、都会ではありえない土ぼこりをあげて走っていった。
せみの声がやけに五月蝿かった。 蒸し暑い風が拓人の頬絵を撫でる。
「それじゃ、行こっか」
「うん」
周りには水田と山しかない、舗装されていない道を二人は歩いていく。 |