コガレ
この想いを、なんと呼べばいいのだろう。
近くて遠いのは、憧れ。
もしかしたら、焦燥、嫉妬……恋、のような何か。
あなたに、なりたい。
*
「似てるんじゃないかな」
うしろから聞こえた無責任な声に、ショートカットを揺らして振り返る。
あたしは返事をするのも忘れ、エイリアンでも見るような目をしてしまった。
聞き間違いかと、耳を疑う。
似ている、などと。
「ひどい顔するなあ。褒め言葉のつもりだったんだがね。絵美亜くん、色白だろう。体型も華奢だし」
いかにも心外そうに肩をすくめながら、平べったい四角い箱を抱えて、巴さんが歩いてくる。吉元巴、この美術館の館長だ。幼いころから、学校帰りに直行してくるあたしを咎めるでもなく、優しく接してくれる。
気を許せる、大切な存在。
大好きな人、だけど。
そういう冗談をいうひとだっていうのは、知らなかった。
「なにそれ。もう、皮肉にしか聞こえないよ。セーラー服着てたって男に間違われるあたしが、これに似てるって。こんなに美人だったら、とっくに人生バラ色だよ」
「似てるよ。モデルになった女の子が当時十七だったというから、年齢も同じぐらいだろう」
驚いた。十七歳、まさに今日、なったところだ。
似ている、を撤回する気はないらしい巴さんを、じろりと一瞥。確かめるためというわけでもないけど、フロアの中央に横たわる人形に、もう一度視線を落とした。
膝辺りまでしかない青い柵の向こう側、床よりも一段高くなったディスプレイに、金の布が敷かれている。その上には、まるで今にも動き出しそうな、少女の人形。
美術館ができたのは、十年ほど前だっただろうか。そのころからずっとある、ひどく精巧な人形だ。
だだっ広いこのフロアには、この人形だけ。ネームプレートには、「初枝」としか書いていない。考えてみれば不思議な話だけど、深く考えたこともない。人形にまつわる歴史だって、何も知らない。
そんなことは、どうだっていいのだ。
まるで人間そのものなのに、決定的に違う姿。その姿に、あたしはずっと、惹かれていた。
理由はよくわからない。
惹かれている、というのも、本当は違うかもしれない。
うまく言葉にならないのだ。
「お客様、そろそろ閉店時間ですが」
長い付き合いなのに、わざと慇懃無礼ないい方。
閉館のアナウンスは、もうとっくに流れて消えた。第一、入館料なんて払ったことないのに、お客様って。嫌味だ。
「いつもはもうちょっとサービスしてくれるじゃん。どうせ帰っても誰もいないし。もう少しいさせてよ」
お願いの上目遣いを披露すると、巴さんは苦笑した。
知ってる。しょうがないな、とかいいながら、巴さんはあたしに甘いんだ。
お姉ちゃんたちと違って、とりたてて長所のないあたし。パパもママも、あたしのことなんていらないみたいだけど。
巴さんは、ちゃんと、優しい。
「しょうがないな」
案の定、巴さんはそういって肩をすくめた。
「けど今日は、ちょっと忙しいんだ。展示品の入れ替えがあってね。新しい着物が手に入って」
「着物?」
思わず、甲高い声をあげてしまった。
「入れ替えって……え、もしかして、この人形の着物? どういうこと?」
「美術品として価値があるのは、人形本体よりも、むしろ着物の方なんだよ。そんなことも知らずに見てたのかい」
知らなかった。ちょっとショックだ。
こんなに綺麗な人形なのに、この子自体には、価値はないのだろうか。
十年通っているけど、新しい着物の登場なんて初めてだ──そう思ったら、ちょっと興味が沸いてきた。
面白いかも。
「ね、その着物、見せて!」
巴さんは目を丸くした。どうせ明日になったら見られるのにって、そんな顔だ。
でも、次の瞬間には、しょうがないなって、いつもみたいに肩をすくめる。そこでやっと、あたしは気づいた。このフロアに入ったときから持ってる、四角い箱。
「……もしかして、それ?」
「まあね」
あたしの目は、巴さんの腕の中の箱に釘付けになった。
それほど厳重そうにも、価値がありそうにも見えない、普通の箱。マーケットで安売りの浴衣を買ったって、これぐらいの箱になら入れてくれそうだ。
なんだか、じりじりした。
一度気になってしまっては、もうそこから目が離せそうにもなかった。一刻も早く見てみたい。そういう特別って、わくわくする。
突然、シンバルを打ち鳴らしたみたいな大きな音が響いた。なんだか叱られたようで、あたしは身を縮こまらせてしまう。
ケータイの着信音だった。巴さんの、だ。オーケストラが続く。
はい、と電話に出て、なんだか難しそうな会話。見上げるあたしと目が合って、巴さんはちょっと困ったような顔をした。
ケータイはそのままで、あろうことか、着物が入っているという平たい箱を、床に置く。
「ちょっと急用だ。ここに置いておくけど、触っちゃだめだよ。あとでちゃんと、見せてあげるから」
ケータイを離して、あたしにそう忠告する。
返事も待たず、もしもし、と会話に戻ると、フロアから出て行ってしまった。
取り残された。
広いだけのフロアに、一人。
「触るなって……」
ため息が出る。
価値のあるという着物を、こんなふうに床に置き去りにして。あたしが泥棒とかだったらどうするんだろう。信頼されてるってことなのかもしれないけど。
あたりまえに、箱の中身が気になった。
巴さんはいない。
だれもいない。
──着物には触らなくても。紐を解いて、箱を開けて、ちょっと覗くぐらいなら。
たったそれだけだ。たいした罪悪感もない。あたしはほとんどためらわずに、浅葱色の紐を引くと、そっとふたを持ち上げた。
息を飲んだ。
濃い茶色の、無地の着物。価値なんて、もちろんわからないけど。
人形に抱くのと酷似した感情が、芽生える。
いてもたってもいられなくなる。
「着てみたい」
思わず、声になっていた。
これを着たら、どうなるだろう。髪だって短くて、もちろん美人でもないし、あたしが着たところでどうにかなるなんて、思ってはいないけど。
でも、近づけるかもしれない。
彼女のように、なれるかもしれない。
状況とか理性とか、そんなものはどこかに行ってしまっていた。
あたしは薄汚れたセーラー服を、その場で脱ぎ捨てる。
着方なんて知らない。けどそれだってあたしを留まらせる理由にはならなかった。薄い順に三枚の着物を羽織って、帯らしきものを無造作に結ぶ。
おかしな気持ちになった。
まるで、自分が自分でなくなるかのような。
この気持ちは、なんだろう。
ただ横たわっているだけなのに、これほどまでにあたしの心を支配して、決して消えることのない少女。
触れたい、と思った。
あたしは何かに操れられるかのように、人形に近づいていった。
背の低い柵など容易に越えて、ディスプレイに上る。
初枝という名の少女を、いつもよりも間近で、見た。
綺麗だった。
黒く長い髪は無造作に咲き誇り、紅い着物は清らかに乱れて。
存在している、それだけなのに。
この気持ちは、なんだろう。
あたしはそうっと、金の布の上に横たわった。
彼女の隣に並ぶのではなく、彼女の反対側から、まるで違う存在であることを強調するかのように。
目の前に、白く細い手。
少し伸ばせば触れられるところで、あたしを呼んでいる。
手を伸ばした。
後ろめたさに、どうしようもなく高揚する。
あと少し。
あと少し。
あと少し。
とうとう、触れた。
*
この想いを、なんと呼べばいいのだろう。
近くて遠いのは、憧れ。
もしかしたら、焦燥、嫉妬……恋、のような何か。
わたしは立ち上がった。
長い髪を後ろに払い、乱れた着物を整える。
金の布の上、気が遠くなるほどの長い間、わたしが横たわっていた場所に、新しい人形の姿。見慣れたその姿を、見下ろした。
茶の着物に、短い髪。うつろな瞳は、幸せであるようにも見える。
どちらにしろ、わたしにはもう、関係のないことだ。
「初枝」
わたしの名を呼ぶ、愛しい声。
願いをかなえてくれた、大切なひとの声。
わたしは微笑んで、声の方へ歩き出した。
了
読んでいただき、ありがとうございました。
これは、『小説風景12選』(9月)参加作として、乙麻呂先生のイラストに物語を加えさせていただいたものです。
同じイラストに、複数の書き手が異なった物語を執筆しています。よろしければそちらもご覧下さい。