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海の底で生まれた俺と。
作者:あくた咲希
 世の中の決まりってのは、ときに理不尽で。
 俺は、生まれたことに感謝することもできず、だからといって自ら命をたつこともできず、今日も、濁り気味の海の底で、ふゆふゆと長い髪を浮遊させているのでありました。
 ときどき、ワカメと間違われて魚連中につつかれるのがイヤです(半泣)

     *

 その日、ふやけた頭皮が引きちぎられるような感覚に俺は目を覚ました。
 ここは、日の光が届くか、届かないかという深さ。どこの海かはわからないが、海水浴場や漁場ではなさそうだ。なのに、視線を上にやると人がいた。ライト付きのマスクをつけて、背中にタンクを背負っている。でもふつうのビキニ姿で、何を好き好んでこんなとこに潜っているのかと不思議に思った。趣味でダイビングなら沖縄にでもいくといいのに。あそこはきっと、今でも綺麗だろうに。
 俺が生まれて、ちょうど三千日目の朝か、すでに昼のことだった。寝ぼけ眼の俺を、その女の子はびっくり顔で見おろしていた。状況がのみこめていないのだろう。俺だったら、こんな俺に出くわしたら気絶する。
 俺、霊だ。しかも複数の人間の念から成り立つ霊。皮膚やらなにやら、ぶよぶよとふやけてしまってる外見からすると怨霊みたいな。
 世の中の決まりなんである。無念にも死んでいった者たちの想いが一定レベル集まり、なんらかのきっかけがあると、生まれちゃうんである。俺みたいのが。
 とりあえず、つかまれたままの髪が痛い。
「あの、すみません。手を、離していただけませんでしょーか?」
 相手はダイビング中だ、怖がらせてパニくらせてしまっては命に関わる。ので、俺はできるだけ低姿勢に頼んでみた。が。
 聞こえたかな。聞こえてないな。彼女は日本人っぽいから、日本語で話しかけてみたんだけど。俺みたいなやる気のない霊じゃ、相手に話しかけるなんて芸当はできないんだよ。
 仕方なくジェスチャーに努めていると、彼女は徐々に顔をひきつらせていった。俺の髪をつかんだまま、体勢を崩して水中でころぶ。
 まずい。ここでこの女の子に死なれちゃ、俺、立派に怨霊じゃないですか!?
 だからといって助けようにも、俺、ここから動けない。へそから下が自分でもよくわかんないぐらい黒くてどっかにつながっていて、ほんと海藻みたいに潮の流れに揺られてるわけなんだけど。実は伸びたりできんのかな?
 目の前の彼女は気を失ったようだった。レギュレーターが口から離れ、頭のでかい黒い海蛇みたいにうねりながら、はかなげに水中に泡粒を放出している。
 俺は思わず、そいつを自分でくわえていた。とたんに口の中にひろがる空気の味。こころなしか、錆びた風味がする。
 生きた人間ならばまず勢いよく息を吐いて、レギュレーターに入り込んだ海水をふきださなくてはならないが、そこは俺。意を決して反対に吸い込む。やがて空気が大量に流れ込んできた。つぶれていた肺がふくらむ。痛ぇ。でも、なんか快感。
 生まれ変わった気がして、俺は彼女を抱き、ゆらゆらきらめく海面へ伸び上がった。

 はじめて見る気がしないその磯は(そりゃそうだ、俺はここで死んだ人間たちの霊だもの)、人の手があまり入ってなく、ちょっとひらけたところの砂浜はとても綺麗だった。
 白い細かな砂に彼女を横たえ、人工呼吸でもしたほうがいいんかなと悩んでいると、遠くから人の声が聞こえてきた。まずい、と本能的に思って、急いで彼女の顔を横向け、頬を叩く。失神しているから水はそう飲んでいないだろう。気づきさえすれば、助かるはず。
 彼女が少量の水を吐き出し、咳き込むのを見届けてから、俺は海へ戻った。駆けてきた男が遠目で俺を見て、足を止めたのがわかったが、さすがに追ってくる気配はない。早く、彼女を介抱してやったらいい。
 伸びた黒い部分がしゅるしゅると縮んでゆく。肺に海水が侵入してきて、ハリが出たような気がしていた体をまたふやけさせた。
 ……俺の生前って、どんなだったんだろう。なんとなく記憶があるようで、複数の人間のがまざっていてハッキリしないけれど、心の根っこで海は好きだったんだろうな。沖縄の海がことさら好きらしい。
 俺、みてくれどおりにコワイ系の霊だとしたらできそこないだ。人間に害をなそうとは思わないし。まぁそれは、これまでに人間と遭遇することがなかったせいかもだけど。
 ならば、なんのために存在しているのか。そんなこと、考えたことなかったな。
 もとの海底で、ぼんやりと上の世界を思う。
「いーなぁ、あっちは明るくて……」

     *

 彼女が再びやってくることはなかった。怖い思いをしたのだから当たり前だ。周りの人間だって引き止めるだろう。
 あの日、磯に駆けつけた男は、彼女の恋人なのかな。そうでなくても、介抱の果てに結ばれることだってあるよな。なんか悔しい。助けたのは俺なのに。……俺のせいで溺れたって事実はこの際おいといて。
 報われない恋をした人魚姫気分で、今日も俺は海の底でゆらめいていた。……なんだ、報われない恋って。恋? まさか。
 へそから下のわけわからん黒いところは、さらに黒くなったようで、時折、じくじくと痛んだ。じんわりと熱を帯びている気もする。
 俺はちょっと伸びてみた。ぴり、ぴりと表面がひきつれる。劣化したゴムみたいだ。もしかして千切れる? 予感がしながらも、なおも海面へ向かってみる。
 一瞬、気が遠くなりかけた。どうしよ、痛いって感覚も追いつかないぐらい。死ぬ。霊だけど死ぬ。なにこれ、霊生命の危機!?
 見事にブチンッと音がして、分離した俺は太陽きらめく水面へ浮上していった。その途中で、完全に意識を手放した。

 下半身を波に洗われている。上半身は太陽熱にジリジリと焦がされている。
 重たいまぶたを持ち上げると、小さいカニが顔のそばをうろついていた。息を吹きかけるとよろめいて、節のある足をわしゃわしゃさせて、慌てて逃げてゆく。
 いいなあ、足。
 起き上がって、あぐらをかいてみた。……あれ、あぐらかいてる? 俺が?
「おおおっ」
 歓喜の声がもれた。足、それもいい感じに筋肉がついて、気持ち悪くない程度にすね毛も生えている。これで日に焼けてればいうことなしなんだが、文句は言うまい。
 手も胸も、くまなく確認する。均整のとれた悪くない体だ。髪は短く、前髪だけ長め。肝心の顔はどんなふうになっているだろう。見たい。どこか、鏡のあるところは。
 立ち上がり辺りを見回してみた。なんとなく腰に片手をあて、ポーズをとりながら……
「あ」「あっ」
 視線と視線がかちあい、互いに固まった。
 うわ、こないだのあの子だ。うわ、俺、オールヌードだよ。
 彼女はミドルティーンらしい健康的な肌の色をしていて、ぴちぴちした肢体は発展途上だが生命力にあふれていた。しかもポニーテール。白のビキニが眩しい。足もとで、スキューバの装備が落ちて砂に埋もれている。
 みるみるうちに顔を引きつらせてゆく彼女に、俺はとっさに隠すこともできずに赤くなった。うわ、怨霊もどきの次は変態だよ俺。同一人物とは思われないだろうが、どっちの出会いも最悪って切なすぎる。
 果たして彼女は悲鳴をのみ込み、くるりときびすを返して走り去ってしまった。引き留めることもできず、呆然と佇む俺。
 やがて我に返り、水の中か、岩陰のどちらに身をひそめるかで悩んだ。っていうか、隠れていては埒があかないんだよな。
 とりあえず両手を股間にあて、うろついていると、人の気配が近づいてきた。警察かと焦ったが、彼女だったのでもっと焦った。
 怒ったような顔つきで、彼女はタオルと着替え一式を突き出してきた。受け取り、ありがとう、と口を動かしたが、声は出るのだが言葉にならなかった。ジェスチャーで感謝の気持ちを伝える。
 彼女が背を向けた。その隙に手早く水分を拭き取り、シャツとトランクスとハーフパンツを身につける。これは、かりゆしウェアってやつだな。柄が青色のシーサーと真っ赤なハイビスカスだ。シャツの裾を両手で向こう側に引っ張るようにしてまじまじと見つめていると、こちらをうかがいながら振り向いた彼女が、ぷっとふきだした。
「派手でごめんね? これしかなかったの」
 あなたが着れそうなものは、とつづけて、俺を見上げて目を細めた。
「運がよかったですね。このへんは潮の流れのせいで沖に流されやすいの。この時期、ちょっとのあいだだけ、流れが変わるから……」
 どうやら俺を漂流者だと思っているらしい。だから、こうして着替えを持ってきて親切にしてくれるんだな。
「どこから流されてきたんですか? 日本語、わかります?」
 そう訊くってことは、俺って日本人離れしているのかな。なんとなく笑って肩をすくめてみせると、彼女は少し困ったようだったが、すぐに笑顔になった。そしてジェスチャーをまじえながら、
「うち、ペンションなんです。具合はいかがですか? しばらく休んでいってください」
 俺の手をとり、足元を気遣ってくれながら、こじんまりとした建物に連れていった。古びた白壁の平屋の、中庭に椰子や、がじゅまるの木を配した南国風のペンションだった。
「開店休業状態だから。気を遣わないで」
 食堂のテーブルについてシークヮーサージュースをいただきながら、室内を見回した。壁時計は午前九時をさし、日めくりカレンダーが七月二十八日を示している。光のかげんか、西暦の部分がここからだとよく見えない。
「横になったほうがいいなら、あちらの部屋を使ってください」
 彼女は中庭に面した窓の向こうを指さした。海側の端っこの部屋のドアがひらいていているのが見える。
「トイレやお風呂は共同で、ここのとなりにあります。冷蔵庫の中身は自由に使って。わたしは、ちょっと出かけてきます」
 そう言う彼女の手首をつかみ引き留めると、
「あ、名前ですか? わたしはルリ。父さんと母さんが好きだった、沖縄の海の色」
 微笑みを残して、ルリは出かけていった。ついていこうと席を立ちかけたのだが、やんわりと拒絶された。
 ちょっぴり傷心で残された俺は、ジュースを飲み干して中庭に出た。どこの部屋のドアも中庭に面していて、オープンでアットホームな雰囲気の宿である。夏休みだというのに閑古鳥なのは、ここから見える海がいわくつきなせいだろうか。沖縄にはかなうまいが、エメラルドグリーンに近い、いい色をした海なのにな。
 低い塀に寄りかかり、目前に広がる景色を眺めた。ひとっこ一人いない。振り向いても、左右を向いてもほかに建物はなく、このペンションだけ、木々もまばらな山肌に抱え込まれるようにしてぽつねんと存在している。
(ルリは一人でここを切り盛りしてるのか?)
 若い娘さんだけで物騒なことである。中学生か高校生だろうに、今だけ留守番をしているのならいいが。家族はどこにいるのだろう。
 もたれた塀の両端にいる石のシーサーが沖縄の風味をかもしだしている。近づいてみると、風化がはげしく、耳がかけていたり尻尾がとれたりしていた。魔除けの獣がこれでは、役目を果たさないのではなかろうか?
 部屋に入ると、素朴で清潔なベッドと、家具はほかに木製のテーブルとイス、キャスター付きのハンガー台があるだけだった。テレビはなく、純粋に海や自然を楽しむことをモットーにした宿なのだなと思った。俺には好ましかったが、今時、あまり流行らないのかもしれない。
 ベッドに腰掛けると、あけはなしたままのドアがバタンと閉まった。俺、霊でありながらビクッとしてしまう。ドアとは反対側にある大きな窓から顔を出してみると、すぐそばが断崖絶壁だった。荘厳な眺めではあったが、落ちたらひとたまりもねーな、とうすら寒くなった。つくづく俺って霊に向いてない。
 外は暑いが、ここは空調が効いているのか過ごしやすい。せっけんの香りのシーツにくるまり横になる。ひさしぶり、じゃない、生まれてはじめての足で歩いて疲れてしまった。
(ルリが戻ってくるまで、眠っておこう……)

 ぶるっと身震いがして目が覚めた。ああ、これはあれだ。人間の証のひとつ。
 まだ太陽の位置は高い。なんとなくスキップをしたい気分で中庭を横切り、食堂を通ってバスルームに向かう。トイレの扉は二つあり、廊下をはさんで、お風呂の扉が二つあった。用を足してから、風呂場をのぞいてみる。鏡があるのではないかと思ったのだ。
 しかし予想に反して目に入るのはタイルばかりで、ちょっと残念だった。ルリはちゃんと俺の目を見て話していたから、俺、見るにたえない顔をしているわけではなさそうだけど。自分で自分の顔を知らないというのは物足りない気分だ。
 ルリ、と呼んでみようとしたが、やっぱりちゃんと声にならなかった。ペンション中を探してみたが、まだ戻ってきていないようだ。
 中庭の椰子のたもとにビーチベッドを見つけ、体を預けてみた。葉の隙間から日の光がこぼれてくる。日本の夏らしく、じっとりと暑い。肌からしみだす汗も気持ちいいもんだなぁと目を閉じていると、そういえば先日の男はどうしたのだろうと思いだした。ここの宿泊客だったのだろうか。それとも、
(あっ。ルリ、あいつに会いに行ったのかも)
 モヤッとして、跳ね起きる。動悸までしてしまう。ちゃんと心臓あるんだな、俺。
(いやいや、ご両親のところだよきっと)
 もやもやしながら食堂に移動した。時刻は二時である。親切なルリのことだから、お昼を用意してくれそうな気もしていたんだけど。出かけてから、四時間以上がたっている。
(どこへ行くのか聞いておくべきだったな)
 冷蔵庫を物色しながら、あ、と思った。
 彼女は水着姿で出ていった。俺と会ったのも浜だった。スキューバの道具を持っていた。
(潜りに? それにしては長くないか)
 あんな、ビキニという軽装で潜るぐらいだから慣れているんだろうが、一本のタンクで四時間は潜れまい。ずっと潜ってるとも限らないけど。俺がいたところなどはかなり深いし、素人でなくともきついはず。
 いやな予感がして、俺は海へ向かって走った。足がきしむように痛い。でも走る。心臓と肺が絞れるようだ。だが耐えて走れ!
 砂浜にも磯にも人影はなかった。シャツを脱ぎ捨て、水の中にざぶざぶ入っていった。息を止めて潜る。深くなるにつれ水が冷たくなっていき、視界もどんどん悪くなってゆく。
 あてがあるとすれば、俺がいた場所だ。腹の底が呼応している感じがする。息が苦しくなってきたが我慢した。水をたらふく飲めばまた、元の体に戻ってしまう気がしたから。
 潜って潜って、見つけた。ルリは、ライトの明かりを頼りに熱心に海底を見つめていた。
 彼女の前に回り込み、左右の人差し指を交差させる。それから右手の親指を立て、海面に向けた。するとルリは驚いた表情で、顔の前で片手を振り、ついでに首もふる。しかーし、イヤと言われても仕方がない。いつから潜っているのか知らないが、だいたいこの海、許可されたダイビングスポットか? 生まれてこのかた、潜ってきた人間なんてルリ以外に知らないぞ。
 俺はもういちど親指を立て、素早く上下に三回ふった。緊急浮上だ。有無を言わせず、抵抗するルリの腕をつかむ。やがてルリはしぶしぶ親指と人差し指で輪をつくり、おとなしくついてきた。海面へ出て、浜へ泳いでゆく。油断すると潮の流れに引き戻されそうだが、海生まれの霊の身、そうやすやすとは流されてやらねぇ。
 なかばぐったりとしたルリを引き上げ、装備を外し、一緒に砂につっぷした。全身が痛ぇ。四肢がもげそうだ。すっかり人間になった気分でいたけど、この姿はいろいろと負担がかかるらしい。全速力で走って、素潜りではありえない深さまで泳いだから、そうとうガタがきている。下半身なんか感覚がひどく鈍くなってきている。そして、やたらと熱い。
 最後の力をふりしぼり、ルリを仰向かせ抱きしめた。額をなでて前髪を梳き、親指で弓なりの眉をなぞる。長く海水につかっていたせいか血の気をなくした肌は白く、頬だけうっすらと赤い。
「……父と母の……を、探してるの……」
 今まさにくちづけようとしたその青ざめた唇で、ルリはつぶやいた。
「あのあたりにあるはずなの。琉球ガラスの、ペアリングが」
 彼女の吐息が近い。潮風に似ている。俺の唇がしゅわしゅわし、喉がすっとする。
「……ペアリング?」
 声が、出ていた。
「君は指輪を探しているのか? どうして」
「二人の結婚指輪。探さなきゃ……」
「いつなくした? 本当にあの場所なのか? 何色をしたガラス玉だ?」
 静かに嗚咽しはじめたルリに、俺は矢継ぎ早に尋ねていた。沸騰しかけた欲の熱から、早く気をそらしたかったのだ。
 最近の話だろうか。少なくとも、俺はそんなもの見たことがない。変わりばえのしない海の底は退屈で、過ごした日にちをひたすら数えてしまうぐらいだ。なにかいつもと違うことがあれば気づかないわけがない。ルリの見当違いではないのか。それとも、俺が生まれるより前の話なのか?
 ルリは涙をぬぐい、手を目にあてたまま、
「七月二十八日だった。あの日、父さんと母さんはボートで海に出て……指輪を捨てた」
 華奢なのどがコクリと音を立てた。
 結婚指輪を海に捨てるとは穏やかではない。男女のあいだになにがあっても不思議はないが、娘のルリにとっては当然一大事だったはず。ましてやその現場に居合わせたのなら、三千日――八年以上も昔のことならば、彼女はまだ十歳にも満たない頃だ。心の傷は、海よりも深いに違いない。
 ルリは俺をまっすぐ見上げ、
「沖縄は家族でよく遊びにいったの。ダイビングもしたわ。みんなでライセンスもとったの。高校を卒業したら、わたしは沖縄でインストラクターになるための講習を受けるはずだった」
 吐き出すように、少し怒った顔で言う。
「家族三人で、思う存分ダイビングをするつもりでいたの。なのに、二人は」
 また涙をため、唇をひきむすぶ。
 俺は見ていられなくなり、子どもにするように、ルリの頭をなでてやった。
「俺がかわりに探しにいってやる。ここで待っていろ。だから、指輪の特徴を教えてくれ」
「……青くて、綺麗な……空気の粒が入ってて、きらきらしてて。沖縄の海そのものなガラス玉。わたしの名前の色を、していたのよ」

 日が傾きはじめた砂浜で、ルリにここで待つよう言いおいて、ライトだけ借りて俺はふたたび海に潜った。
 正直、小さな指輪など見つかるとは思っていなかった。でも、泣きじゃくる少女に諦めろとは言えなかった。
 体は言うことをきかなくなってきていたし、空気がなくても死にやしないだろうに息苦しいし。俺、みてくれは怨霊のくせに、人助けだなんておこがましいよなと自嘲したくなってくるし。残してきたルリが、また無茶をしないとも限らないので心配だし。彼女の証言に腑に落ちないものも感じたりで、俺の頭の中はいろんなことがごちゃまぜになって、ぐるぐる渦巻いていた。
 ずいぶん時間がかかって、ようやく例の場所にたどりついた。岩陰に隠れて、今朝まで俺とくっついていた部分がふゆふゆとワカメのように揺れていた。根元をたしかめてみたが、どこまでも黒々としていて境界がなく、海の底よりもずっと深くにつながっているようにみえる。
(あるか? 指輪……)
 ダメもとで探してみる。ライトに反射でもすればいいが、電池切れが近いらしく、だんだんと光は弱くなってきている。届く日光の量も減ってくる。
(……、ないよな)
 ルリには申し訳ないが、やるだけはやったと思う。浮上しようとして、俺は急に体勢を崩した。――足に、なにかが絡みついた。ライトを向けるが、照らしだす前に闇に吸い込まれるようにして明かりが消えてしまう。が。
 照らさずとも、わかってしまった。俺から千切れた黒いやつだ。また俺と一体になろうとしているのだ。
 黒いそいつは伸びあがってきて、俺の首に巻きついてきた。たまらず、ほとんど残っていない空気を吐き出してしまう。かわりに海水が流れ込んできて、肺を満たし、体中にしみわたってゆく。おぼろげな視界のなかで、指先がふやけてゆく。
 いやだ。また、元に戻るのはいやだ。海の底でゆらめいているだけの毎日はいやだ。
 ルリの、ルリのところへ行くんだ――
「ルリ……!」
 黒に呑み込まれながら名を呼んだ。強く想った。もういちど触れたいと願った。抱きしめたい。くちづけたい――俺のものにしたい。
 ほんの瞬間だけ気が遠くなって、それから、膨れ上がった意識はうなりを上げて俺を突き動かしにかかった。どこまでも体が伸びてゆく感覚。海面をつらぬき、夕焼けに染まりはじめた空を裂き、やたら巨大化した目が砂浜で両膝を抱いてうずくまるルリを見つける。
 ルリが、こちらを見上げ目をみひらく。
「ルリ」「ルリ」「ルリ」「ルリ」「ルリ」
 自分のものとは思えない声が、磯の岩々にこだまして何重にも聞こえた。
 止められない。俺は俺を止められない。
 波が砂の城をさらうように、果てしなく黒く沈んだ腕が少女をとらえ、海に引き込んだ。

 まぶたを持ち上げる。視線をさまよわせる。長くうねる髪に絡まるようにして、目を閉じたルリが俺の頭上でゆらめいている。
 ぶよぶよした指で髪をたぐりよせ、少女の体を抱いた。両親の結婚指輪を探しに、こんなところへきたばっかりに。俺みたいな霊に目をつけられて。若い命を失ってしまって。
 ただ、俺は、恋をしただけのつもりだったのに。欲が、俺を見た目どおりの怨霊にした。ただ日がな一日中、海の底をただよっていただけの俺の、なんと無害だったことか。
 海底に夜が訪れる。月の光はここには届かない。完全なる闇。そのはずが、視界のすみで何かが光る。
 ルリを抱いたまま、小さな輝きに顔を近づけてみた。それは俺の根元のほう、黒い黒い中に埋もれながら、その存在をアピールするかのように青い光源となっている。
 指でまさぐるとコロンとしたものが二つ、ひび割れた爪にあたった。慎重にてのひらに包み、目の前に持ってくると、指の隙間から光がもれた。
 リングの部分は黒ずみ朽ちかけていたけれど、これは――ルリが探していた両親の結婚指輪。彼女の名の色をした、透きとおる琉球ガラスの玉。
「ルリ、見つかったよ」
 無駄なことと知りながら、話しかけていた。
「ちゃんとあった。俺、諦めずに探していればよかった。そしたら、こんなことにはならなかったかもしれないのに。ごめん」
 後悔と懺悔をくりかえす。俺は泣いているのかもしれなかった。涙なんて海水とすぐ同化してしまうし、そもそも俺から出る水分なんて海水だろうし、そう考えると可笑しくなってしまう。
 泣き笑い状態でガラス玉を握りしめ、ルリを抱きしめ、頬に頬をすりよせた。冷たい肌はふやけてはおらず、綺麗なままで手元に置いておけるのなら悪くないのかもしれない、そんな怨霊的なことを思う。
 それでも一方的にキスをするのはためらわれて、ぼうっと上のほうを眺めながら落ち着かない気持ちをもてあましていた。やがて髪の毛をひっぱられる痛みがして、我に返った。
「……ルリ?」
 少し体を離して、覗きこむと、彼女がうっすらと目をあけていた。焦点は合っていないようだが、意識がある――生きて、いる?
 小さくあくびをして、ルリは動揺する俺に一瞥をくれた。何事もなかったようにもういちど、いくらか大きなあくびをして、ようやく俺に気づいたかのように目をまるくした。
 ルリはぱくぱくと口をあけたり閉じたりして、顔の横で片手を平らにして、中指を軸にぱたぱたと動かした。何かおかしい、って?
 俺を見て驚きはしたようだが、ルリはいろいろと了解したらしく、冷静にハンドシグナルで合図を送ってきた。とりあえず浮上しようと言う。
 俺は、へそから下と海底をつなぐ黒い部分をさわってみた。ふよふよっとして弾力がある。千切れそうにはないが、浜まで伸びる自信もない。が、やるしかない。
 ぐいーっと、かなり無理やりな感があったが、まず海面から顔をだす。ふやけた顔に潮風が心地いい。表面がしゅわしゅわする。
 のろのろと浜を目指し、やっとこさ這い上がると、砂にまみれた錆だらけの空気タンクと、ゴムの部分が腐食した装備が目に入った。
 ぐったりとして動かないルリの頬を叩いてやると、咳をして水を少し吐いた。それから、俺の足の部分――黒くて太い蛇みたいになってるとこを、やさしくなでた。
「人では、なかったのね」
 改めて問われると、答えにくかった。それに、そっくりそのまま質問を返したいところである。薄々とは感じていたが、ルリもまた人ではないのだろう。スキューバダイビングのライセンスは十歳からしか取れないから、ちょっと妙だなと思っていたのだ。
 瑠璃色のガラス玉を渡してやると、彼女はしばらく無言で、月明かりに透かして見つめていた。そして悲しそうに微笑んで、俺のとなりにしゃがみこみ、波打ち際の砂に埋めた。
「これがぶじ見つかっていたとしても、二人はもう戻れなかったのにね」
 ペンション経営がうまくいかないのと同調するように仲たがいをしていった両親を元通りにしたいがために、ルリは海へ潜った。昔から海難事故の多い、いわくつきのこの海に。捨てられた、結婚指輪を探すために。
「わたしも捨てられた気分だった。だって、わたしの名前の……、よ? 打ち上げられた私を見ても、父さんと母さんの心は近づかなかったのね。おまえが、あなたが、もっと早くに見つけていれば助かったのにって喧嘩してた。お葬式をするまで離婚はしないでいてくれたけど、やっぱりダメだったの」
 ペンションは廃墟と化し、時折、心霊スポット好きの人間が訪れるだけで世間からは忘れ去られてしまったという。このあいだ見た男はそういったやつらの一人なのだろう。ルリのことに気づいたかどうかは知らないが、俺という霊を遠目にでも見れてラッキーとでも思ったかな。
 ぽつぽつと話す彼女の肩を、そっと抱きよせた。残念ながらぶよぶよした皮膚のままなので触れられても気持ち悪いかもしれない、と思いはしたが、ルリは気にならない様子だった。喋れないので、なぐさめるために頭をなでてやる。ルリはくすぐったそうに笑う。
「話せるようになったら、あなたの名前を教えてね」
 名前だけでなく、たくさん語って聞かせたい。もしかしたら指輪がきっかけになって、俺が生まれたのかもしれないこと。沖縄が好きなのもそのせいかもしれないこと。指輪が、かつては両親二人が愛し合った証であること。
 そして、ルリ――君が命をかけてまで求めていたものだからこそ、俺が、こうして君に恋をしたのかもしれないってことも。……それはちょっとロマンチストすぎるか?
「ありがとう。わたしを助けてくれて」
 ルリの瞳に俺が映る。ワカメみたいな髪が邪魔で、顔はよく見えないけれど。きっと、どんなでも俺は俺。ルリが見つめてくれるなら、それでいい。
 ルリの吐息が近づいてきて、唇に触れる。閉塞した喉を潮風が吹きとおる。
「――俺こそありがとう、ルリ」
 出会えたのが君で、よかった。これはもしかしてハッピーエンド。
 俺たちはぴったりと寄り添いあい、海の色を濃くしたような深い、深い瑠璃色の空に浮かぶ、泡粒のような白い月を見上げた。


   *おわり*
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