表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

三枝係

作者: 坪山皆

「パリは何回行っても良い意味で変わらないんだよね。せせこましい日本と違って空気すら洗練されているとでも言うか。まあ一般庶民の君には分からないだろうけど、僕には水が合うのかなあ。とにかく良かったよ。そうそうこれ、ラ・メゾン・デュ・ショコラ。知ってる? 東京なんかには支店もあるらしいけど、僕に言わせれば邪道だね。こういうのはやっぱり本店で買わないと。さあ、これを食べて君も少しはパリの雰囲気を味わうといいよ」


「……ありがとう」


 浮かべた笑顔が引きつらないように努力しながら、曽根岸そねぎし麻奈まな三枝さえぐさ瀧彦たきひこが差し出す、茶色いリボンで飾られたいかにも高級そうな箱を受け取った。


「後、消え物だけじゃ申し訳ないからこれもあげるよ。何、ただのキーホルダーだから遠慮する事はない。その冴えない通学鞄にでも付ければいいんじゃないかな」


 麻奈の瞳は、瀧彦から手に押し付けられた小さな箱に釘付けになった。チョコレートと同じく濃い茶色のリボンで包装されたオレンジ色の小箱の中央に刻印されているブランド名は、麻奈の姉が家に帰ってくるたびに「バーキン欲しいいい!」と悶えている、あの有名な高級ブランドではないか。


「ああ、気付いた? でも気にしなくていいよ。一女子高生である君には到底手の届かないブランドかもしれないけど、僕はあの三枝グループの会長の孫だから個人的なポケットマネーでも全然余裕で買えるんだ」


 キラッ。そう効果音を付けたくなるような仕草で、瀧彦が長めの前髪をかき上げる。


「でもこんな高そうなの悪……」


「そう言えば君、昼休みの予定はある? 実は今日は馴染みの料亭で仕出しを頼んでいてね。僕なんかは当然量よりも質なんだけれど、皮肉な事にこの店は全てが絶品なんだ。どうも全部は食べ切れそうに無くてね、良かったら手伝ってもらえるとありがたいんだけど」


 瀧彦が麻奈の言葉を遮り、強引に話を続けるのはいつもの事だ。麻奈の声は小さめで通りにくいから聞こえなかったのかもしれないが。


「わたし今日お弁当持ってきたし、きいちゃん達と約束してるんだ。だから、また今度」


 今度はきちんと聞こえるようにと声を張って告げ、麻奈は強張った笑顔を貼り付けたまま席を立った。

 くるり、瀧彦から背を向けた瞬間にぐったりと死んだような表情になり、友人達が待つ教室の隅へと向かう。


「お疲れ麻奈。今日も大変だね」


 親友の希帆きほを筆頭とする友人の面々が、同情に満ちた顔つきで麻奈を迎えた。



   ☆



 県立××高校。偏差値は高くもなく低くもない。際立って優秀な生徒はいないが、特に問題を起こす不良生徒もいない。

 麻奈はスカート丈さえ規定よりは少々短いものの、それ以上制服を着崩す事も髪を染める事もしないごく普通の、どちらかと言えば真面目寄りの生徒だった。

 このまま何も無ければ平穏で、ある意味つまらない高校生活を送るであろう麻奈の日常をことごとく奪う人物に出会ったのは、入学式翌日のLHRだった。


「はーい静かに、今日から君達の担任を務めることになった岩坂佐和子です。まずはお互いを知るために自己紹介、出席番号一番からどうぞ。一人三十秒ね」


 それぞれが緊張した面持ちで、名前、生年月日、出身校などを告げていく。まだ出番は遠いものの、人見知りしがちな麻奈としては内心ドキドキしながら順番を待っていた。

 カ行最後の近藤祐樹の自己紹介が終わった時、麻奈の心音は最高潮を迎える。


 (後四人、名前と誕生日だけ言って終わらせよう。趣味とか別に無いし、余計な事言ってがっついてるって思われるのもやだ。でも三十秒って微妙に長いよね、どうしよう、やだなあ)


 麻奈がうじうじ悩んでいる間に、次の生徒が席を立った。


「三枝瀧彦です。苗字は数字の三に枝。名前は難しい方の瀧に彦根の彦です。僕の祖父は三枝グループの会長なんだけど、流石に三枝グループは知ってるよね。その会長の孫である僕が何でこんなところにいるかって言うと、祖父に言われたわけ。お前は社会の波に揉まれる必要があるってね。仕方が無いからここを受験して当然受かっちゃったんだけど、正直庶民の生活になじめるとは全然思わないなあ。電車とか今日初めて乗ったけど、思わず笑ったよ、何あの人ごみ。そんなわけでこの僕と仲良くなると色々メリットがあると思うよ、主に金銭的な意味でね」


 しん、と教室内は静まり返る。


「何あれ、受け狙い? 全然笑えないんだけど」


「うっざー」


 担任である岩坂すらもどう対処していいのか分からないようだった。


「ははは、三枝くん面白いね君、でも三十秒を大分超えているぞ。じゃあ次どうぞ」


 岩坂の乾いた笑いと共に自己紹介が再開された。

 麻奈はその後誰が何を言ったのか、そして自分が自己紹介で何を話したのか、あまり良く憶えていない。後で希帆ら友人に聞いても、皆同じような事を言った。

 三枝瀧彦という少年は自己紹介時の強烈なインパクトを持って、担任教師を含む一年B組の全員にその存在を焼き付けたのであった。

   


 三枝グループと言えば元は一軒の小さな洋食屋から始まり、今ではファミリーレストランや若者向けの居酒屋、ダイニングバーなど全国に店舗を展開させ、近々アジア進出するのではないかと噂されている大手外食産業企業である。麻奈の地元でその名を知らぬものはいない。

 その大企業の会長の孫である瀧彦は、長い睫毛に縁取られた垂れ目がちの大きな瞳を持ち、女装をすればさぞかし似合うであろう優しげな顔立ちをした美少年だ。身長はまだ平均よりもやや低めだが、背に比べて大きな手と足を持っているので近い将来ぐんと伸びる可能性が大きい。

 肩書きはもちろん整った外見も将来超有望だと、あの黒歴史にも近い自己紹介を見なかったことにした複数の女子達が一時瀧彦の周りに群がったのだが、日を追うごとに一人二人と脱落していった。

 確かに瀧彦は気前がいい。「クラスメイトになった記念に」と全員に、チェック柄が有名な某ブランドのハンカチを配ったり、群がる女子達には家で雇っている専属パティシエが作ったという、見た目も華やかなスイーツを振舞ったり。

 しかし三枝瀧彦という少年は、自己紹介から察せられる通りの人間だった。「何せ僕の祖父は三枝グループの会長だからね」、あるいは「君達みたいな庶民には分からないだろうけど」から始まる自慢話のオンパレード。

 取り巻きが少しずつ減り、やがてクラスメイトが彼の周りに集まらなくなっても、瀧彦は留まるところを知らなかった。

 休み時間になっても誰も自分の所に来ないと分かると、果敢にも談笑するグループの中に自ら割って入り、聞かれてもいない話をペラペラ話し始めるのだ。突然話に入り込まれた生徒達はお互い目配せし合い、誰か一人をいけにえに自然とフェードアウトしていく。哀れ残されたいけにえは、休み時間が終わるまで瀧彦の話につき合わされ、その後逃げた友人達から何かを奢ってもらうと言うのが慣例になりつつあった。


「うっぜえんだよ、三枝あああ!」


 ある日、とうとう我慢の限界に来てしまった男子生徒、一部でキレると厄介と有名な大野淳平が、怒りの表情で瀧彦の胸倉を掴んだ。ざわめいていた教室内が波が引くように静かになり、教室にいた全員が固唾を呑んでその光景を見つめる。麻奈もその中の一人だった。


「ねえ、三枝くん泣いちゃうんじゃない? 大野くん超怖い」


「うん。どうなっちゃうんだろうね」


 希帆と声を潜めて囁きあう内容は、大方のクラスメイトと同様のものだったのだが、瀧彦はその予想を裏切った。


「全く、だから愚民は嫌なんだよね。気に入らない事があるとすぐ暴力に訴える」


 瀧彦は胸倉を掴まれているにも関わらず、欧米人のように器用に肩をすくめて見せたのだ。淳平はそのまま殴りかかろうとして周囲の視線に気付き、盛大な舌打ちと共に乱暴に瀧彦を突き飛ばした。


 その日の放課後、大野淳平とその友人達により三枝瀧彦が校舎裏に呼び出されたのを知る者は当人達以外にはいなかった。



 麻奈は図書室で勉強するのが好きだ。静まり返っているのに自分以外の誰かがいるという適度な緊張感に満ち、テレビや漫画、パソコン、ファッション雑誌といった、聖アントニウスを誘惑する悪魔のごとき存在も無く、ここでなら節度を守って宿題をする事ができる。だが残念な事に賛同者はおらず、予定の無い大抵の放課後、麻奈は一人図書館で出された課題をこなし帰路につく事が多い。


 (今日は怖かった。もしあのまま大野くんが殴っちゃってたら退学とかになるのかな)


 集中しようにも、休み時間に見た光景が強烈過ぎた。動揺しているせいか数学で少々てこずるタイムロスがあり、いつもの帰宅時間より遅くなったがなんとか最終下校時刻に間に合うように宿題を終わらせ、下駄箱で上履きからローファーに履き替えた。

 玄関を出、校門まで向かう麻奈の視界の端に、ボロ雑巾のような姿で足を引きずりながら歩く生徒の姿が入る。良く見れば顔を痛そうに歪め一歩一歩ゆっくり歩いているのは、三枝瀧彦だった。

 きょろきょろと辺りを見渡しても、十七時をとうに過ぎた今、下校している他の生徒はいない。

 麻奈は基本的に気が弱い小心者だ。怪我をしているクラスメイトを見捨ててさっさと帰るような勇気は無い。


「あ、あの、三枝くん大丈夫?」


 振り返った瀧彦の顔には散々殴られた痕が生々しく残り、所々血が滲んでいる。いたたまれなくなった麻奈はポケットに入れていたハンカチを取り出した。



「だから嫌だったんだよ、こんな礼儀も一般常識も知らないような愚民が通う高校に入るのは。あの愚民どもは自分達が何をしたか分かっているのか? 僕はあの三枝グループの三枝瀧彦だぞ。いや、そうでなくてもこんな理不尽な暴力を受けるいわれは僕には無い。悪い事は何もしていないと胸を張って言える。そうだろう? 君もそう思うよね、ええっと」


「曽根岸です、同じクラスの」


 麻奈は名字だけ名乗った後、おずおずと指摘した。


「えっとあの、愚民、とか言っちゃうからだと思う……」


 本当は自慢話が過ぎるとか、他人を見下した自分語りは止めたほうがいいだとか色々あったのだが、麻奈にはこれが精一杯だった。当然瀧彦に通じるわけもなく、


「愚民を愚民といって何が悪い。大体僕とあいつらとでは格が違いすぎる。祖父はもちろん父は本社の幹部だし、これはあまり言った事ないんだけど母は実は昔女優を……」


 自慢話を延々と聞かされる羽目になってしまった。



 翌日、瀧彦は学校を欠席した。昨日瀧彦といざこざを起こした大野淳平も同様。加えてSHRの時間になっても担任の岩坂が姿を見せず、代理の教師が行った。


「大野くんは個人の事情で、急遽転校することになりました」


 さらに翌日、疲れた顔の岩坂により淳平の転校が告げられる。瀧彦は相変わらず欠席、詳しい事情を知らされない生徒達に様々な憶測を呼んだ。麻奈以外のクラスメイト達は、瀧彦が教室内で淳平に胸倉をつかまれた所しか見ていない。


「三枝くんがお祖父ちゃんに言いつけて辞めさせちゃったらしいよ。本当は退学なんだけどそれだと色々まずいから、転校ってことにしたんだって。酷くない?」


「知ってるか? D組の飯田とF組の三谷も急にいなくなったって。あいつら大野と同中で仲いいだろ? 見せしめかよ」

 

 麻奈は、瀧彦が淳平達に殴られ酷い怪我を負わされたと希帆ら友人には話したのだが、大人しめな彼女達の話はあまり伝わらなかった。

 実際は一人の生徒への、複数による一方的で行き過ぎた暴力行為が原因だったのだが、


「三枝瀧彦が家の権威を盾に気に入らない生徒を自主退学に追い込んだ」


 というのが事実として学校中に広まってしまった。

 二週間後、顔の腫れも引き、ようやく登校してきた瀧彦を待っていたのは、まるで見てはならぬものを横目でこっそりと窺うような級友達の視線だった。

 好奇と嫌悪と恐怖の入り混じった空気。教室に入った途端にそれを一身に浴びた瀧彦だったが、全く動じる事は無く室内をぐるりと見渡した後、目的の人物を見つけると迷いの無い足取りで真っ直ぐそこに向かった。友人と談笑する麻奈の所である。


「おはよう。借りたハンカチだけど、汚れてしまって申し訳ないから新しい物を持ってきたよ。家にあった物なんだけれど未開封だから安心して使ってくれたまえ。残念ながら君のと同じようなコットン製は見つからなかったんだ。僕の家ではいつもシルク百パーセントの物を使っているんでね」


「お、おはよう。別にそんなに気を使ってくれなくても良かったんだけど、な……」


 食い入るような周囲の視線が痛い。思わず麻奈はそれまで話し込んでいた希帆に助けを求めたのだが、思い切り目を逸らされてしまった。


「別に気を使っているわけではないよ、人として当然の事だろう? 受けた親切には親切で返さないと」


 驚くほど全うな事を言いながら、瀧彦は近くにあった椅子を引き摺り、麻奈の正面に陣取る。と同時に希帆はそっと席を立った。

 ――ごめん! 今日おごるから! 愕然と見送る麻奈に向かって声に出さず口の動きだけで伝え、そそくさと他の友人の元へと向かって行ってしまう。

 どうしよう気まずいと、麻奈は落ち着きなく身じろいだ。そもそも瀧彦と会話をしたのは、前回が初めてのようなものだ。そっと窺うと、瀧彦はにこにこと笑いながらこちらを見ていたので、麻奈もぎこちないながら何とか微笑を浮かべた。


「怪我、良くなったんだね。長い間休んでたからもしかして入院したのかと思ってた」


「そうなんだ、あの後は困ってしまったよ。僕は大した事ないって言っているのに主治医がなかなか許してくれなくて。あ、この主治医っていうのが他に担当しているのは、知っているかな、あの最近ドラマに出ている……」


 瀧彦の話がやっと途切れたのは、始業のベルが鳴ってからだった。


 どうやら懐かれてしまったらしい。麻奈がそう確信するのに至ったのはそれから二日後の事であった。 どうもおかしいと思っていた。昼休みこそは友人達と共に過ごせるものの、それ以外の休み時間は、いつの間にか瀧彦が麻奈の隣か前の席に座っていて、上機嫌で自慢話を披露している。周りには驚くほど誰もおらず、まるで二人だけの世界だ。

 時既に遅し。


「どうしよう、あたし日直で日本史のプリント集めなきゃいけないんだけど、三枝だけには絶対話しかけたくないんだよね」


「あ? そんなの三枝係に言えよ。おーい曽根岸ー」


 気付いた頃には、麻奈のニックネームは「三枝係」なってしまっていた。

 とは言っても実害はない。希帆は見捨てたお詫び、あるいは「お疲れ会」と称し、美味しいと評判のお店のアップルパイやファミレス(三枝グループ系列に非ず)のパフェ、アイスクリームをたびたび麻奈に奢ってくれるし、クラスメイトからも男女問わず、ジュースやプリンなどの差し入れが絶えない。それはとてもありがたいと麻奈は思う。

 瀧彦自身は自慢話さえなければ物腰はきわめて紳士的だし、常に上から目線ではあるが誰か個人の悪口を言うのを聞いた事がない。本質的には悪い人間ではないのだと思う。

 実害はほとんどない。ただ、麻奈の表情筋がたまに疲弊し、時折死んだ魚のような目になるだけだ。 

 



   ☆




「麻奈ちゃん、三枝くんから貰ってたその箱ってもしかしてエルメスだったり?」


「やっぱりそうだよね? 返した方がいいのかなって思ってはいるんだけど、なかなかタイミングつかめなくて」


 机を合わせ弁当を囲みながら話題になるのは、学校を数日休んでフランスに行って来たという、三枝瀧彦から手渡されたお土産の品々だった。


「別に返さなくていんじゃない?」


「ねー、迷惑料としてもらっちゃいなよ」


 友人達が無責任にはやし立てる。


「でも……」


 女子高生である自分に縁遠いと思っていたそのブランドは、値段こそ詳しく知らないものの分不相応であるという事だけは麻奈にも分かる。


「もし返すんなら早いほうがいいよ。向こうはもう渡して、麻奈がちゃんと受け取ったって思ってるんだから、日が経つとややこしくなるよ」


 希帆だけは的確にアドバイスしてくれた。


「うん、分かってる。今日ちゃんと返すよ。あ、そうだ。あとこれ、なんとかなんとかディ、ショコラ? よく分かんないけどなんか有名なチョコレートみたい。デザートに皆で食べちゃう?」


 これくらいはいいよね? と麻奈は友人達の顔を見るのだが、皆は気まずそうな笑顔を浮かべてお互いの顔を見渡し、


「いやー、あたしはいいかな」


「あ、私もいいや。もうお腹いっぱい」


「ていうか、もしあたしらが食べたのが三枝くんに知れたら、ねえ?」


「そ、そっかあ、そうだよね。じゃあ家に帰ってから食べよっかな」


 どうやら皆、麻奈と同じ轍は踏みたくはないらしい。麻奈はしゅんとうな垂れ、チョコレートの箱をしまいこんだ。


「あ、えっとさ、あーそうだ! 最近駅前に出来た雑貨屋さん行った事ある? 可愛いのいっぱいあるらしいよ」


 微妙になってしまった空気をなんとかしようと、希帆が話題を変える。


「え、ほんと? ずっと気になってたんだよね」


「あたしも! ね、今日暇? 皆で行ってみようよ」


 気の変わりやすい女子高生達はすぐその話に食いつき、放課後皆で件の雑貨店へと向かう約束をした後も昼休み中その話題で持ちきりだった。


 希帆の言うとおり、女の子が好むような可愛い小物で溢れかえった店だった。麻奈達は長い間店内を見て周り、きゃあこれ可愛いと周りの迷惑にならない程度に騒いだ。

 結局、二時間以上迷って麻奈が買ったのは、色々な動物の形をした付箋紙と、ボーダー柄で縁取りされた小花柄のシュシュだけだった。希帆と色違いのお揃いで買ったので、今度一緒に付けようと約束した。



「ただいまー」


 家に着き玄関の扉を開くと、脱ぎ散らかしたヒールの高いパンプスが目に入ってきた。


「お姉ちゃん来てるんだ」


 麻奈は脱いだ自分のローファーと一緒にパンプスをきちんと揃え、リビングへと向かう。七歳年上の姉みちるは、駅三つ分を隔てた所で一人暮らしをしている。みちるが給料日間際になると実家に食事をたかりに来るのは、月末の恒例行事だった。


「おー、遅かったじゃん。何なに、買い物? 見して見して」


 姉は缶ビールを数本開け、既に出来上がっていた。母はいい年した女が、と苦い顔をしながらもみちるが来るといつもより豪勢な夕食を作る。今日は滅多にしない揚げ物だった。


「今日きいちゃん達と新しい雑貨屋さんに行って可愛いの見つけちゃった。ね、可愛いでしょ」


 そう言いつつ、麻奈は嬉しそうに今日の戦利品を披露したのだが、


「へー、別に普通。で、そっちは? そっちの高そうな紙袋」


 シュシュや付箋紙にはろくに目もくれずみちるが食い入るように見つめているのは、瀧彦からもらったフランス土産の入った紙袋だった。


「あ、これ? 同じクラスの子がくれたの。フランスのチョコだって」


 チョコレートが入った箱を取り出そうとして、一緒にキーホルダーが入っているというオレンジ色の小箱も転がり出てきてしまった。

 今日返そうと心に決めていたものの、結局休み時間は瀧彦の話の腰を折るタイミングがつかめず、放課後は麻奈が気付いた時にはもう瀧彦は下校した後だった。呆れた眼差しの希帆に対し、「明日絶対に返すから!」と宣言したのだが、


「それ、何。それも貰ったの?」


 オレンジ色の小箱を見た瞬間、みちるの目がギラリと光る。狙った獲物は逃さない。その視線はまるで獰猛な肉食獣のようだ。麻奈は慌てて拾い上げ、後ろ手に隠したのだが後の祭りである。


「貰った……んだけど、なんか悪いから明日か」


 ――返そうと思ってるの。最後まで言わせず、瞳をぎらつかせてみちるは吠えた。


「ちょうだい!!」






「あれ、昨日あげたキーホルダー付けてないんだね」


 翌朝、登校するなり麻奈の元へ突進してきた瀧彦は、麻奈の通学鞄に昨日までと何の変化もない事を目ざとく見つけ、尋ねてきた。


「庶民にはそぐわないハイブランドだからって気後れする事はないんだよ。服と違ってただのキーホルダーなんだし、せっかくこの僕がプレゼントしたんだから、付けないだなんてもったいない事はしないよね?」


「うん、ごめんね。あの、お姉ちゃんがどうしても欲しいって言うからあげちゃった」


 本当は強奪された、というのが正しい。昨夜みちるは「ちょうだい! ちょうだい!」と、血走った目で繰り返した。見かねた両親が叱ったのだが当然聞くわけもなく、酒に酔ったせいもあるのか麻奈の脚にしがみつき、終いには地団太を踏んで「だって欲しいんだもん!」と涙を流して暴れ始め、根負けした麻奈が「とりあえず貸すだけだからね」と念を押して騒動はひとまず治まったのだった。返ってくる可能性は限りなく低いとしても。


「お姉さんがいるんだ」


「そうなの。結構年上なんだけど物欲が凄くって」


 思わず麻奈は遠い目になる。「どうしてこんな子になったのか」と、母は涙ぐんでいた。当のみちるは酔い潰れて寝た後、今朝は上機嫌で出社して行った。その手には戦利品をしっかり持って。

 幼い頃からそうだった。みちるは欲しいと思えば、それが例え他人の物でも容赦なく奪おうとする。そのためならば、騙し、脅し、泣き落とし。手段は選ばない。被害者は数知れず、その筆頭は妹である麻奈だった。

 現在の麻奈の忍耐心は、姉みちるによって鍛え上げられたといっても過言ではない。


「ふうん、ちなみに僕には二人兄がいるんだけど、言った事あったっけ? 上の兄はグループの本社に就職して幹部候補として日々精進しているし、下の兄はまだ学生だけど東京の有名大学で経済を学んでいて卒業したらやっぱり系列会社に入る予定なんだ。そうか、君にはお姉さんがいるんだ。という事は、ご両親とお姉さん、君の四人暮らし?」


 瀧彦は麻奈の姉の話よりも曽根岸家の家族構成に興味を持ったようだ。いつもは麻奈に相槌を打つ暇さえ与えず機関銃のように話し続ける瀧彦が、個人的な質問をしてくるのは非常に珍しい事だった。


「え? ううん、お姉ちゃんは家を出て一人暮らししてる。あと二世帯住宅だから食事は別だけど、おじいちゃんとおばあちゃんも一緒に住んでるよ」


 それを聞いた瀧彦は、なにやら深刻そうな顔つきになった。

 俯き加減に真剣に考え込む瀧彦の顔は麗しく、その実情を知っていてる麻奈でさえ思わず見惚れてしまったのだが、不意にどきりと胸が高鳴ったのをきっかけに我に返り、慌てて目を逸らした。

 それにしても今の会話の何が引っ掛かったと言うのだろう。やはり許可なしにお土産をみちるにあげてしまった事に腹を立てているのだろうか。そして、麻奈の両親も祖父母もそれを咎めない非常識な家族と思っているのだろうか。

 いくらあの三枝瀧彦とは言えども嫌われてしまうのは少々悲しい。

 キーホルダーについては今さら何を言ったところで言い訳にしかならないだろうから、もうひとつ貰ったチョコレートに対してはせめてきちんとお礼を言おうと麻奈は思った。

 

「あ、でもチョコはちゃんと食べたよ。すっごく美味しかった! ほんとにありがとう、三枝くん」


 姉みちるが酔いつぶれて早々と眠った後、姉と祖父母の分を取り置いて両親と一緒に堪能したチョコレートは、まさにとろけるような味わいだった。

 麻奈の顔には我知らず、いつものぎこちないものとは全く違うごく自然な笑顔が浮かべられ、それを見た瀧彦の顔が徐々に赤らみ、最終的には茹蛸のようになった。着ている物を剥けば、文字通り頭のてっぺんから脚の爪先まで真赤に染まっているだろう。


「ま、まままままままあ、ととと当然、き君みたいな庶民が味わった事は到底ないだろうから? カルチャーショックを受けるのは無理ない話だよ、ちなみに僕はイートインで飲むホットチョコレートが、ああいやそんな話はどうでもいいか……。と、とにかく気に入ってもらえて良かった。ええと、そ、それはそうと、曽根岸さん」


 自分でも何を言っているのか分からないのだろう、赤い顔のまま額の生え際には汗を滲ませた瀧彦は、いったん言葉を区切り神妙な面持ちで尋ねてきた。


「君はウェディングドレスと白無垢だったら、どっちがいいと思う?」


 麻奈は当然知るよしもない。瀧彦が考えていたのは二人姉妹の姉が家を出てしまった状態では、将来麻奈が曽根岸家を継がざるを得ない事、そしてもし麻奈が望んでくれるのなら瀧彦は婿養子に入るのにやぶさかでない事。そのために今から祖父をはじめ、家族を説得しようと決意した事を。


「ええ? っと……ドレス、かな。やっぱり憧れるし」


 瀧彦の熱がうつったのか、面食らいながらも律儀に答える麻奈の頬に、いつの間にかじわりと朱が上っていた。


 三枝係は、当分解任されることはないだろう。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 三枝くんの個性の強い性格とそれになんだかんだ付き合ってしまう麻奈ちゃんとクラスの関係性面白くて良かったです!そして終わりにかけての二人の会話がかわいくてにこにこしちゃいました。 ここからど…
[良い点] 三枝くんのぶれなさ。御曹司っていうと乙女ゲーム的なキラキラ系を考えてしまうけど、このような御曹司(傲慢口調でも憎めない)は初めて読みました。彼が傲慢口調のまま彼等が付き合ったら、周りの人は…
[良い点] 三枝君、いい味だしてますね。 彼の幸運は主人公と出会えたことでしょうか。このカップルが ラブラブになるのも機会があれば読んでみたいですね。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ