俺達は幸せを知っている
※「僕の知っている世界と違う」「わたくしの知っている弟と違う」の更なる裏話・完結編です
※最後はほんのり裏
「平民になりたいんです」
二週間ぶりに逢った異母弟はそう言った。
「目的は」
「貴族の立場では色々と不便なので」
「俺は理由でなく目的を訊いた」
「ある女性です」
下町の一角、俺たちの親父も若い頃よく通ったという飲み屋で膝をつき合わせ、いつもの掴みどころの無い笑顔で弟は続けた。
「彼女と結婚したい。どうしても一緒になりたいんです。……いや、」
のほほんと。いかにも害の無さそうな、好青年風の笑みで。
「欲しいんです」
俺は「なるほど」とだけ返して酒器を傾ける。細められた瞳の奥、見覚えのありすぎる表情が視えたから。外見は似ていないが、なかなかどうして血縁を感じる。なので、思ったことを言ってやった。
「お前はやっぱりあの男の息子だな」
片親だけ血の繋がった弟は笑顔を消し、さも嫌そうに眉を顰めてみせた。自覚はあるが、改めてそう云われるのはどうしても抵抗を感じるらしい。
ぶすっとした顔で言い返された。
「兄上もですけどね」
「……。生意気な」
眼前の男とそっくりの表情をした自覚はある。
母親の違う弟とこうして飲みに行くのはそう頻繁ではない。二十年ほど前から始めた事業が忙しいし、異母弟の方も好きに余暇の作れない職に就いているからである。
ただ、俺も弟も使えるものは使う主義なので、互いの仕事に関する有意義な情報が手に入った際は、然るべきと横流す。知りたいことがあれば早々と連絡を取り、勝手に聞き出す。そしてついでに愚痴も零しあう。こういったやり方は賛否あろうが、当の俺達に罪悪感は無い。これが合理だと完結しているからだ。そもそも自身が人間の好みに厳しく、身内であろうがなんだろうが厭だと思ったら一生厭う頑固さも持っている。仕事面において、公私の混同はあるようで無い。
外見やら女の趣味やら細かいことを見ればあまり似ていない兄弟だが、非合理を厭う主義と身内贔屓ながら身内に厳しい感覚は同じであり、大雑把な価値観も似ている。だからこそ、道が違った今もこうして長く付き合えているのだろう。何より、兄弟共通の肉親である親父が大嫌いだ。ありきたりではあるが「敵を共有出来れば仲良くなれる」の典型である。それはさておき。
こういった日常が当たり前になったのは、いつからだったか。同い年の妹が遠方へ嫁いでいった直後はいっとき距離が開いたが(というか弟が一方的に俺を避けるようになったが)、弟が自立してのちはまた気の置けない会話をするようになった。
妹の縁談時のあれこれを蒸し返してやるたび、奴は決まり悪げにする。内実がわかる年代になったことに加え、いい歳をして未だ割り切れないものを抱えたままなのだ。曰く、「あの頃は僕も若かったんですよ」。何を偉そうに、このシスコンが。
まあ、俺も大概なので人のことは言えないが。
「女の身分は平民か」
「ええ。勿論、賛成してくださいますよね」
「メリットは」
「個人的な慾が満たされる他、気持ちの平穏も手に入ります」
「お前自身のことなんぞ訊いてない。お前が平民になることで俺に齎される利益の具体例を挙げろ」
「絶縁状態とはいえ鼻抓みの妾子が除籍されることで、一部外戚の苦言が無くなるでしょう。棚上げされていた幾人かの令嬢の見合いも白紙となり、彼女らが望み通りの相手と添い遂げられる可能性も高くなります。恋愛結婚が増えることで自然、兄上が運営する宿泊施設も盛況となるでしょうね」
「最初のものはともかく、あとは単なる希望的観測であり、具体例とは程遠いな」
「でしょうね」
下町の酒場は安酒が主だが、店を選べばそれなりの料理が出てくる。香草の混じった衣をつけ柔らかく火を通された豚肉をフォークで突きつつ、弟はまた微笑む。表情が大袈裟でない代わり秘めたものには絶対に気付かせない、当たりが柔らかくも強かな笑みである。
「でも兄上。兄上は僕に、借りがあるはずですよ」
言うと思った。
「お前にしては勿体ぶったな」
「なにぶん私情の都合が大半ですから。ちょっとは前置かせてください」
「御託はいい。俺に何をさせたい?」
「養女を迎える気はありませんか」
行儀悪い弟の手元から肉の切り身を分捕り、口に入れる。口に入れたままもごもご喋るという、これまた行儀の悪さで言葉を返す。
「お前も三十を前にして記憶力が衰えたか。生憎だが、間に合っている」
「兄上も四十を前にして癒しが欲しいでしょう。若くて可愛い、素敵な女の子ですよ。兄上の天使達には及ばないかもしれませんが、年上な分落ち着いていて、くたびれたおっさんを労わってくれます」
「癒しも労わりも間に合っている。ウチの天使達以上に可愛いのはいない」
安い肉だがここの料理人の腕は良いらしい。ハーブの香味が臭みを見事に消しており、加熱度も丁度いい。丁寧に調理された薄っぺらいソテーを安酒で飲み下し、ふん、と鼻で笑う。背もたれに預けた上着の内ポケット、そこに忍ばせている姿絵を知っている弟は、やや呆れ顔になった。「……兄上はきっと、僕より大変なことになるな」と小さく呟かれた言葉に目を瞬かせる。何を言っているのやら。
「それはそうと。先ほどの『平民になりたい』願望が、なぜ養子案に結びつく?」
「ああ、すみません中継ぎ忘れていました。『平民になりたいんですが、事情により諦めて貴族のままでいることにします』」
言い切ってから、弟は深皿に残った切り身を俺から庇うよう、フォークで引き寄せた。テーブルマナーも何もなってない、互いに平素では絶対にしない行儀の悪さで、もごもごと聴き取り難い会話をする。
「で、平民のその女を貴族側に引き込むことにしたと」
「さすが兄上。察しが良くてらっしゃる」
「ちなみに養女は要らないからな」
「駄目ですか。書類は問題ないのですけど」
「仮に養子縁組したとして、お前の言う外戚からの苦言とやらは減るどころか増えるに決まっている。『胤』は理由としては弱い。世間評などどうでもいいが、害を被るのは俺でなくウチのあれだ。お前の私情ごときであれを煩わせるわけにいかない」
「……そうですか。そうですよね」
ごくり、と飲み込んでのち、弟は然程動揺していない口調で続けた。
「では別の方に頼むことにします。信頼の置ける貴族の知り合いは兄上だけではないので」
「そうしろ」
「さしあたって、紹介状を書いてください。兄上の口添えがあれば説得力が増しますので」
「見返りはなんだ」
「今度の給料日のあと、兄上の天使達にお土産付きでお目通り願いたいのですが」
「許可する」
見込みの有無には切り替えが早い。第一手に頼らず、常に二手三手を用意しておく点も、まったくもって似ている兄弟である。
「ところで。敢えて訊くが、孕ませたのか」
「違いますよ。手を出してもいません」
「ほう」
下町らしく安価であるが、飲み馴れるとクセになる酒をもう一杯呷る。
「俺に養子案を出すほど切羽詰っているというのに、手を出していない、と。相手がどんな事情持ちだろうとお前一人で解決出来る範囲なら構わんが、肝心の前提を未確認であるほど脳が花畑なら、結婚など論外だが」
「いえ。互いに未婚ですし、出逢ってから一年余り一緒に暮らしています。身分以外特にややこしい問題もありませんし、彼女も僕と同じ気持ちかと」
「ならなぜ」
「未成年なんです」
器を戻した手が、思わず止まってしまった。まじまじと弟の顔を見返す。弟は変わらずあの笑みを浮かべてはいるが、さっきから視線が定まっていない。俺と同じく酒器を手にしているが、もうとっくに中身の残っていないそれを意味無く唇に当てている。顔色にはまったく顕れないが、その分動作の不合理さが如実。極度に緊張しているときや、本気で羞恥を覚えた際の奴はこうなるのである。
しかし、わかっていても言わずにはいられない。
「――お前、シスコンに加えロリコ、」
「言わないでください……!」
澄ました顔だがこれ以上無いほど切羽詰った声に憐れみを感じ、からかうのはやめてやった。
「……。順序を守っている辺り、年頃の娘を持つ父親として大変高く評価する」
「……」
真面目に褒めたつもりだが、まだ弟の表情は晴れない。澄ました笑顔が強張っている。なんとなく痛々しさすら感じ、同じ男として心から労いの言葉をかけた。
「正直、尊敬する」
そっと、いつもはしない酌をしてやる。弟はやっと、中身のある酒器を唇に当てた。
「それにしても、平民で安堵した」
「なぜです」
「わかっているだろう。もし貴族だったら、お前はあの人と同じ境遇になる確率が高い。もしくは、あの男と同じ轍を踏む」
「……」
あの人――弟の母親。
あの男――俺たちの父親。
「もしお前が『貴族の女と結婚したい』などと言ったら、俺はまず反対する。単なる兄の私情としてな」
「……そうですか」
当家とは物理的にほぼ絶縁、一見自立している風に見える弟だが、その立場は微妙に危うい。爵位は当主である俺のものだが、住まいを別にし別個で生計を立てている分、一貴族として籍を与えられているに等しい。ただし、その地位は下町で働く最底辺の貧乏貴族よりも低いのだ。
つまり、弟は母親と同じかそれ以下の立場。半平民化した貧乏貴族であっても、弟のような立場の者は正式婚姻相手としては殊更避けられる傾向にある。金持ち貴族と結婚など到底出来る立場でなく、望まれれば日陰の身になる率の方が高いのである。
「俺個人の意見として、お前は愛人の器じゃないよ。もしそうなったら職も失うだろうしな。ヒモの弟なんざ虫唾が走る」
「当たり前です、僕もごめんですよ。今の仕事は好きじゃありませんが、それでも自分で選択した道ですから。辞める時は自分で辞めます」
今の世の中、貴族が愛人をおおっぴらにするのは問題がある。特に「貴族が平民を愛人にする」のは貴族の横暴、身分の暴力だと一部の人権家がやかましい。しかし、「貴族が貴族を愛人にする」のであれば風当たりを極力弱めることができる。それでも中傷は受けることは受けるが。
俺も弟も、この歳になれば色々とわかってくる。いや、前々からうっすらとわかってはいたが感情で納得出来なかったものを理性で渋々納得させる、という言い方が相応しいか。
(あの男は、俺達を護ろうとしていた)
愛人の子、妾腹。現代では不義と道楽の証として厭われる言葉だが、古代は違う。むしろ、貴族にとって愛人の存在は誇るべきものだった。結婚はただ単に家を存続させるためのものであり、本当の恋愛は婚姻のその後から。もしくは、最初から夫婦生活の外に存在するものだった。
妾の存在は自由恋愛の証であり、庶子の数が多ければ多いほど当主の精力が強く家が裕福であるという事実の誇示にもなる。そういうわけで、古代王制下では貴族本家の周囲に妾宅という名の世間公認ハーレムが乱立していた。「英雄色を好む」ならぬ「貴族色を嗜む」、それが上流階級特有の正義だったのだ。
実のところ、現代においてもその風潮は存在する。古代の風習に貴族のプライド――今や潰れかけている身分制の意義を感じ、信じている者も少なからず存在するのだ。ただ、再興が失敗したこの時代ではさすがに公に出来ない。世間にバレないよう愛人を作るのも、それとなく囲うのも、自分達のなけなしの「貴族」意識を護るため。馬鹿馬鹿しいながら、それは確かに貴族らしい隠れた伝統。
……そして俺の異母弟は、そういった声に擁護され、幼少期を無事に過ごした。平民には決して理解されないだろう「公の妾」、それが最終的に許可されたのは他でもない、親戚はじめ一族全員がこれといって強く反対しなかったからだ。形ばかり非難を浴びせつつ、実は皆、内心で喝采をあげていた。我らが当主はこの世知辛い情勢下、実に勇敢だ、貴族らしい貴族だ、と。だからこそ、弟と弟の母親は一等地の妾宅(護衛を駐在させる必要も無い、幼い子供が徒歩で気軽に訪れられるような安全立地である)を与えられ、しばらくそこで何ひとつ不自由無く生活することが出来たのだ。詳細を知らない世間知らずの母が憤るのは当然にせよ、あそこには確かな平和が在った。
すべては、父の取り計らい。俺たちの父親は――あの男は、誰よりも自分の立場を理解し、誰よりもその危うさをわかっていた。だからこそ、その潰れかけの「貴族」意識を逆に利用したのだ。時代に逆らうような負の御旗、しかし裏ではそれ以上の擁護意識が集うことを計算の上で。そしてその後におこなわれる、財産縮小と人事改革の下準備として。
結果、弟は護られた。そして妹と俺は、新しい世界を識れた。途中で多少計算が狂った部分もあったが、おおよそあの男の思うとおりになった。
――俺も弟も、その事実が悔しいのである。
「そういうわけでお前はあの男よりはマシな選択をしたよ」
「あいつと比べられても嬉しくないですねえ」
「まあな。でも、」
ぶすっとした表情に戻った異母弟に、笑って返す。手酌をしている先からとくとくと澄んだ音。
「俺はお前を弟に出来たという点においてだけは、あの男を評価しているんだ」
弟はきょとんとし、ゆっくり微笑む。俺が置いた酒瓶を手に取り、次いで手酌し始めるその声が笑っている。
「奇遇ですね。僕も、兄上を兄に出来た点だけは、あいつを評価しているんです」
確認しなくともわかる、きっと鏡を見ているかのような表情だろう。お互いに視線を外しながらでないとこういうことが言えない辺り、揃って照れ屋な兄弟である。
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「では兄上、ご足労感謝です。義姉上によろしく。近いうちにまた、伺いますと」
「ああ。来る時はついでだ、お前の未来の花嫁も連れて来い。養女にはし損ねたが、どんなのかは興味がある」
「ええ。きっと気に入ると思いますよ」
何やら自信満々に言い切る弟を片手で追いやって(色ボケの惚気ほど鬱陶しいものは無い)俺は帰路につく。平民用の馬車を乗り継ぎ、市街の片隅で降りてから徒歩でゆくことしばし、
「――旦那様。お戻りなさいませ」
住居の近くに待機していた執事が近寄り、頭を下げる。市街地に居た時から周囲につかず離れずで集っていた護衛の何人かに合図をし、異常なしを確認したあと門を開ける。大仰な造りでもないが決して小さいわけでもない玄関、その扉を越えれば届くのは愛しい声。
「父上、おかえりなさい」
「なさいっ」
たたたっと駆け寄って抱きついてくるのは二人の天使。寝巻きがひらひらと躍るのが目に華やかである。
「もう寝る時間なのに、起きていてくれたのか」
「はい、母上はお休みになっているので。妹もわたくしも、母上の代わりに父上をおむかえしたかったのです」
「そうか。ありがとうな」
「パパ、だっこ、だっこ!」
照れくさそうに笑う天使とぴょこぴょこ飛び跳ねる天使、両方を腕に抱えて頬ずりする。ぺち、と小さい手が頬に当たってぐいぐいと押された。
「パパー、おさけくさぁい」
「ん? そうかぁ、ごめんな」
煙草は娘達が生まれてから付き合い以外のものをやめたが、酒をやめるのは少々問題がある。投資先には酒造場所もあるし、接待で飲むことも多い。俺自身、飲むのは好きだし。
「父上、おつきあい以外のお酒はほどほどになさってください。肝ぞうガンになります。わたくしは、父上に長生きをしていただきたいのです」
「おさけくさいパパ、いやー」
「……そうかぁ……」
でもこの天使達が言うことに、そのうち全面屈服してしまいそうになるのがこわい。
「――お帰りなさいませ」
「ああ、今帰った」
娘達を寝室に送ったあと、二階から降りてくるのはほっそりした一人の女である。先ほどまで横になっていたらしく目元が淡く色づき、緩く編んで横に流された髪が明りにきらきらと輝く。
「起こしたようだな、済まない」
「いいえ。ちょうど目が覚めただけなので、お気になさらず」
妻は事業手伝いのため今朝早くから外出していたので、夕刻から弟に逢っていた俺と今日一日すれ違う予定だった。疲れているだろうに、それでも起きて迎えてくれた姿がいとおしい。
「弟君はお元気でしたか」
「ああ。鬱陶しいほどにな。土産話もあるぞ、付き合うか」
「喜んで」
ほっそりした身体を抱きしめ、なめらかな頬に唇をすべらせ、しっくりくる場所に埋める。妻の柳眉がわずかに顰められた。
「臭いか? さっきも言われた」
「下町のお酒がお好きなのは結構ですが、悪酔いなさらないように」
「前科もあるしな」
「まったく」
小言が出てきそうだったので唇の端に口付ける。ぽっと薄赤く染まった頬がいとしい。共働きの夫婦は、こういった触れ合いが貴重なのだ。
「……なるほど。それで、私の実家に紹介状を書かれるのですね」
「察しが良いな。その通りだよ」
「当ては叔父でしょうか。私に可愛い姪が出来るのね、嬉しいですわ」
「お前には敵わない」
夜半の書斎に灯る明り、くすくすとしのび笑い。ゆったりと、ハーブティーの柔らかな香りが漂う。酒と肉で興奮した胃を落ち着かせるような、優しい液体が喉を通り過ぎていく。
「おめでたいことです。弟君には恩もありますし……早くその方にお逢いしたい」
「近いうちにな」
その繊手をすっと引いて、こちらの膝に座らせる。恥ずかしがってはいたが、こめかみに口を埋めると大人しくなった。天使には酒臭いと云われた呼気も、香草で宥めたので問題は無いはずである。
ほっそりした顎を持ち上げ、唇を合わせ、しばらく味わったあとでそっとささやく。
「――疲れているか?」
「……いいえ」
許可が出たので、愛しい女を抱き上げて寝室へ向かった。
妻と俺はいっぱしの貴族らしく、政略結婚で一緒になった。
当主の座を継ぐより更に前、成人前に届いた山ほどの釣り書き。その中から適当なものを選び、見合いと同時に婚約が成立した。出逢った時の印象は「可愛げの無い女」「鼻持ちならない男」そのまま。俺もだが、妻も決して好印象でなかったらしい。俺は例にもよって表面的な印象でしか判断できない若僧であったから、妻となった女は趣味でないと断じ、親父と同じく結婚してから愛人を作ることになるのだろうと思っていた。
十七の歳で、正式婚姻。十八になった時、親父が身体を壊し、引退を宣言。家督を継ぎ当主となった俺は、表面的な余裕を周囲に見せつけながら、その実誰よりも慄いていた。如何に並み以上の要領持つとはいえ、俺は生来慎重で臆病な性質を持つ男である。現実を見ることを徹底して叩き込まれた若輩者にとって、差し迫った窮状とこれから襲い来るであろう困難は想像して余りあるものがあった。しかし当主という立場上、すべてを押し隠すことしか出来ない。重圧は日々俺を蝕み、食べ物は喉を通らず、無理して詰め込んでもその都度吐き戻し、一時血尿が出るほど追い詰められた。察してくれたのは双子の妹と、そして可愛げの無い妻だけだった。
俺の一族は、特に直系に近い者たちは衰える権勢を憂うばかりで自分達は何もしない。だが、この二人だけは違った。妹は、自ら難しい案件の橋渡しになると宣言してくれた。妻は、箱入り貴族ながら母と違って妙に鋭く逞しいところのある女で、夫の窮地を悟ってから怖気づくことも無く冷静に事を指摘、以後から健康管理を徹底すると言い切った。消化の良い三食と睡眠時間を確保、山積みとなっていた仕事は自ら「代理」として可能な限り処理した。それだけの有能さを隠し持っていた女であり、妻としての責務を理解していた。彼女はそう、自分のやるべきことをわかっているばかりか嫌っていた男にここまで尽くしてくれる、尊大な俺なんかよりずっと懐の深い立派な人間だった。そして弱っている人間を正しい意味で労わってくれる賢く優しい女だった。一緒に過ごす時間が重なるごと、彼女の優秀さと内面の美徳が浮き彫りになっていく。妹が嫁いでいってから、その優しさが殊更に沁み渡るようだった。
気が付いた時、俺は妻に心底惚れていた。当然ながら、片想いだった。前述の態度に加え、俺は忙しいことを理由に妻との閨を断っていた。同様の理由で愛人などは持っていなかったが、可愛げの無い妻に対抗しようとして(思えばこの時点で俺は彼女が気になって仕方なかったのだ)そういう素振りを見せていた。だから彼女は、俺に愛人がいると思っている。そしてそれを、貴族らしく黙認している。見込みは無かった。無いにも関わらず、想いを寄せてしまった。
苦労をかけている妻にこれ以上の苦労をかけたくなかったので、俺は体調を復活させてからもすべてを隠して仕事に邁進した。彼女は何も云わず、俺を陰日なたにサポートしてくれる。ありがたさと申し訳なさ、いとおしさと慾だけが募り、大変苦しかった。事業が落ち着いてからも妻への片恋が辛く、家に帰りたくなくて外泊を繰り返した。彼女の義務的な眼差しさえ嬉しいと感じてしまう自分が憐れだ。外出するごと逢っているそいつにもう逢うな、お前の愛人はみんな殺してやると脅しそうになる自分が恐ろしい。かつて学校で首席だった男の姿はどこにもなく、国有数の名家当主の顔すら維持出来ず、貴族の風習でさえ全否定する嫉妬深いただの若僧がそこに居た。
転機となったのは、異母弟が成人したことによる。妹に似て人の機敏に妙に聡いところがあった弟は、わざわざ俺のいない隙を見計らって家を出た。そして義姉にのみ、言付けを託したのだ。俺が嫌でも彼女と顔を突き合わせて話をすることを、せざるを得ない状況を、奴はしっかり計算していた。
弟が家を出ることなどわかりきっていた。妹が嫁いでいったその日に、わざわざ宣言していたのだから。でも、妻はそのことを知らない。妻は、義弟を引き留められなくて申し訳ないと泣きながら俺に謝った。俺はそんな妻を抱きしめながら、前日に託された手紙の内容を思い出していた。
『義姉上に愛人はいませんよ。外出が多かったのは兄上の事業を助けるため親戚に挨拶周りをしていたためです。兄上と義姉上は一度、しっかり話をするべきです』
彼女の涙がもし、本気で俺のことを想ってのものなら。俺たちはここからまた、新しく始められるのかもしれない。その光明を頼りに、俺は覚悟を決める。
かつて稽古をつけてやった小さな弟は、いつのまにか逆に兄の背中を押す心強い存在になっていた。かつて俺の袖を引き背中に隠れていた妹も、とうに兄の前に立ち、道を自分で切り開いていった。そんな逞しいきょうだい等に恥じないためにも、臆病な男はそろそろ前進すべきだと。
――かくして、素直でなかった夫婦は、結婚六年目にしてやっと結ばれたのである。
とろりとした甘い色の光が彼女の瞳に宿っている。
「灯りを、消してくださいな」
「断る」
燭台だけのわずかな光の中、妻を抱くのが好きだ。暗闇と明るみの狭間、しらじらと浮かび上がる月のような裸体がうつくしい。その中にもぐりこむごと、水面に映る月は甘く柔らかくゆらめき、ほどけてまた包んでくれる。
握り締めれば握り返してくれる手が嬉しい。俺にとっての天使を育み産んでくれた細い身体を抱きしめ、ハーブと酒と二人だけの匂いに包まれながら、ありきたりの愛をささやいた。
「愛してる」
俺だけの女神は、恥ずかしそうに微笑んで愛を返してくれた。
……俺と妹は、結婚した相手を好きになった。弟は、好きになった相手と結婚する。ただそれだけの、単純なこと。
回りくどい手を使った親父と違い、貴族としてなんとも合理的で誰も不幸せにならない顛末じゃないか。今はただ単純に、そう思う。
拙作にお付き合いくださり、本当にありがとうございました…!
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