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白をおよぐ
作:悠栖




 あのね

 せんせい

 わたしの

 だいじな

 友達がね

 そらを

 およいで

 ふわふわって

 飛んでっちゃって

 それから

 きのう

 帰ってこないの

 一緒に

 さがしてくれる?



 人魚のモデルとなったと言われているジュゴン。
 地上の草に近い海草を食べ、主に単独行動をする。好奇心旺盛な性格と愛らしいその姿は、たくさんの人に人気がある。

 もうずっと昔から、彼女にはその白く大きな体が見えるようになっていた。


 最初は驚いたものの、案外人懐っこかったその子とはすぐ仲良くなり、彼女は自分の名前を捩って【ふう】と名前を付けた。

 来る日も来る日も一緒に過ごし、【ふう】は彼女を楽しませた。何もかもから守るように舞い泳いで慰めた。今となっては掛け替えのない存在だ。

 白い友達、か。


「最後に遊んだのは、いつ?」

 椅子に凭れて足を揺らし、楽しそうに答えた。

「二日前、だよ。信号が変わるのを待ってたの」
「そう」
「酷いんだよ。ふうはね、あんなの簡単だよって」
「あんなの?」
「この間のゲーム。二人でやったけど、わたし、弱くて。ふうに負けちゃった」
「そっか」


 もうこの子のカルテは何枚目だろう。通い始めて三週間だが、彼女の病気は着実に進行していった。

 支離滅裂な会話文は幼さから来ているだけではない。心的外傷が全ての整頓を拒否させ、常に心中は穏やかではなかった。


 文字通り、彼女の周辺には防御壁が存在した。


 それは部屋だと認識している。彼女は自分の部屋から出た事がない。自分の四方八方を囲む透明のガラス張りの世界は、一辺が三メートルの立方体で出来ている。

 その壁から出る事は出来なかった。出ようと思っても勢いよくぶつかってしまうし、手のひらに感じるのは突き抜けようのない硬い感触だけなのだ。


 その中を自由に泳ぎ回る【ふう】だけが、部屋を出て行く事が出来た。


 【ふう】は彼女のかけがえのない友人で、いつも側に居て一緒に遊んでくれたという。姿はいわゆるジュゴンだ。彼女の身長を軽く一メートルは越え、尾ひれをはためかせてひらひらと優雅に泳ぐ。


 【ふう】がガラスの壁を抜けて部屋を出て行くとき、水の波紋が広がるように周りの景色は滲んで見える。
 その向こうで【ふう】は彼女の代わりに外の世界を見、感じて、危険を教えてくれるのだそうだ。


「それで……潮子ちゃん。相変わらず外には出れないの?」
「だって、通り抜けられないんだもん。ふうが居ないと、わかんないよ」

 【ふう】は風見潮子ちゃんの眼の役割をしていた。外の世界に潜む【ばいきん】を超音波でキャッチして、それにぶつかる前に【ばいきん】を食べてあげてたのだ。

 【ばいきん】は潮子ちゃんの壁をどろどろに溶かして、彼女の部屋に侵入し、部屋の中を真っ黒にしてしまう。彼女の全てを汚して、二度と元には戻らなくなるのだ。

 実際に彼女の部屋の一部は、昔【ばいきん】が入ってきた跡で汚れて溶けてしまっていた。
 潮子ちゃんはそこを誰かに見つかるのを極端に嫌い、いつも破れた床にたった一枚のハンカチを敷いて隠しているらしい。


 診療成果に基いて解説してみよう。

 彼女の部屋は心の防壁だ。誰と接するのにも、そこから進んで出て行く事はないので、要するに心は開けない。
 【ばいきん】は他人からの攻撃だ。【ふう】が守ってくれると信じる事によって、潮子ちゃんは自分に都合の悪い言葉は理解出来ないようになっていた。
 もっとも、私はこの話の全てを裏付けることなど不可能なのだが。


「せんせい」
「何ですか?」
「ふう、さがしてくれる?」


 ジュゴンの【ふう】は昨晩、ふわりと潮子ちゃんの部屋を出て行って以来戻ってこない。彼女はそれをとても不安に感じていた。

 【ふう】が居ないという事は、潮子ちゃんの部屋は油断すると【ばいきん】に汚染されてしまうという事だ。

 朝一番に近付いてきた【ばいきん】──実際はそれは彼女のお母さんなのだが、潮子ちゃんはそれを見るなりパニック状態に陥り、頭を抱えて泣き叫んだ。

 今、彼女の部屋は全体の二割が【ばいきん】によって汚されていた。


「ああ、見つけるよ。約束だ」
「本当? 約束だよ?」
「もし見つけられなくても、きみの部屋が汚れなくて済むようになんとかしてあげるよ」

 潮子ちゃんはほっと一息ついて、扉を開けて出て行った。


 彼女のガラス張りの部屋は、人ではなくどこかの建物や扉を出入りする際には、それと同化するようだった。 つまり、建物の入口に近付くと、目の前のガラスの壁はその入口を吸収し、潮子ちゃんの触れる部分まで溶け込んでしまう。そのおかげで彼女はこの診察室にも出入りが出来た。

 ガラスの部屋は彼女が動くのと同じように移動する。まるで彼女を包み込むように。


「……先生」
「はい」

 カルテを渡しに来た看護士が、何か気まずそうな、ためらいがちな顔をして入ってきた。

「どうかしましたか」 

 彼女は原口さんという。まだニ十六で若いのだが、この地元で就職する為に必死に勉強を続けてきた。

 彼女の何か言いたげな顔に、私は続きを促した。すると彼女ははっきりと言い放つ。


「すいません。あまり期待させるような言葉は控えた方がいいかと」
「聞こえてました?」
「いえ、その」

 口ごもって下を向く原口さんに、無言で説明を要求した。手元は渡されたカルテをめくっている。

「同じ言葉をしきりに呟いてましたので」
「なるほど。なんと」
「先生が居れば大丈夫、先生がふうを見つけてくれる──と」


 原口さんはまだ若い看護士だが、冷静な判断力を持ち合わせている。メンタルクリニックについて勉強もしていたらしいが、そのうちに自分には易しすぎる問題に気が付いて、自ら臨床心理を希望してここに勤めているのだそうだ。

 つまり、彼女は潮子ちゃんの行く末を案じて苦言を実行させようとしている。


「失礼ながら、あの子は次の防御壁を探しているに過ぎないと思います。空想のジュゴンに続く、自分の味方を。このような病院で、患者が担当医師に依存するのは危険では……」
「次の方を」


 目も合わさずにそう告げると、彼女はただ
「……わかりました」と残して部屋を出た。


 依存させようとは思っていない。処方箋も最低限より多くは渡していないし、ここでの診察以外に顔を合わす事も決してないのだ。

 診察は週に一度。最近は大体一人でやってくる。まだ三回目の診察だが、経過は良好だ。


 それに彼女は、小学生だった。

 幼い心は何もかもが不安定で、敵味方を見分ける事が容易ではない。そういう部分では空想のジュゴンは必要なのだろう。

 安心させる言葉も時として必要だ。私は潮子ちゃんの病気を理解している一介の医師として、在るべき対応をしているに過ぎない。

 彼女はまだ私には依存しないだろう。あの部屋から出られない限り、他人の干渉は受けられないのだ。

 当面の目標は、私が患者の信用を得る事だった。


 桜の枝に緑葉が目立つ皐月の風。
 中川神経科を開業して一ヶ月が経とうとしていた。


 私は末っ子の次男で、両親からはたくさんの愛情を受けていた。良い成績を取る事はそれのお返しだった。

 外科医である父親の期待を浴び、県立大の医学部を高成績で卒業。
 後は出来過ぎたエリートコースだ。医大の研修医を経験し、近年需要の高い精神科に腰を据える。

 対応は正解に近いものをしていた。患者の数だけ治療方法が拡がるデリケートな病気だが、元々冷静さを持っていた私には向いている仕事内容だった。

 そして私には人生を賭けた目的もある。


 七年勤めた末、父である中川一寛から声が掛かった。

「どうだ、病院を開く気はないか」


 心の問題は、医大にまで通って解決するしかない例よりも、個人の病院の診療がメジャーとなっていた。カウンセリング付きの病院が求められていたのだ。
 精神科と銘打つよりも敷居が低い、神経科の看板を掲げた。

 医大からの患者の内何割かはこちらに流れた。重度の錯乱状態の患者などは居ない。私と数人の看護師で回せるスケジュールも、病院を始める時の第一の目標だった。元居た精神科は、それでも大分助かっているみたいだ。深層心理では話をしたいだけの患者が大半なのだ。


 そう考えると風見潮子ちゃんは、私の受け持つ患者の中では厄介な病状だと言えた。


 一週間後、彼女は再び診察に訪れた。


「どうかな、潮子ちゃん」

 私から離れた場所に立っているところを見ると、どうやらまだ【ふう】は見つかっていないようだ。 【ふう】が居た頃には彼女は一応私の役目を理解していたのか、自らを傷付ける【ばいきん】からは除外してくれていた。

 これは今日の診察は難航するだろう。


 そう思った時、彼女はふっと安心したように微笑んで、私の向かいにある椅子へと腰を下ろした。


「えへへ、もう大丈夫」
「大丈夫?」
「しんが囓ってくれたから」


 しん? 一体何のことだ。嫌な予感が胸中を通り抜けた。

「しん、って何だい」
「ともだち」
「友達?」

 落ち着け。順を折って聞いていこう。

「いつから友達なんだい?」
「んっとね、ずーっと前から」
「そうなんだ。どんな友達?」
「すごく、頭がよくって、ゲームが楽しいの」
「ゲームするんだ」


 つまり、潮子ちゃんは再び、防御壁となる友達を引き連れてきたということか。

 これは今まで以上に難しくなってしまうかもしれない。


 心的外傷を負って間も無く造り上げた【ふう】の存在は、紛れもなく彼女の理想のものだ。
 けれどその【ふう】が居なくなって、更に不安定になった潮子ちゃんが思い描いたのは、代役であって代役でない。

 以前の【ふう】の話はしない方が懸命か。


 私はそれから改めて、新しい友達の話を聞いた。

「見た目は? どんな体をしているんだい」
「あのねえ、ちっさいの。すうんごく。わたしの手のひらに、ちょこんって」
「へえ。小さな体をしてるんだね」
「それでねぇ、まぁっしろいの。真っ白なの。綺麗なんだ」


 白い?
 【ふう】と同じじゃないか。

 白は純潔という心理的印象がある。深層に語りかけるものだ。
 そこで私は大事な事に気が付いた。


 彼女には、白という汚れのない色に執着するべき理由があるのだ。


 【しん】という真っ白なハツカネズミは、空中に浮かぶ【ばいきん】を齧ってくれる存在だった。


「あのねえ、わたしの目の前に、ぶよぶよってばいきんがくるでしょ」
「うん」
「しんはねえ、それを食べちゃうの。齧っちゃうの! がじがじって」
「そうなんだ」
「そしたらわたしは、ほっとするの。また動けるようになるの」

 要するに言っている内容は前の【ふう】と同じだった。彼女を守るべき存在。それは彼女から離れる事はなかったのだ。


 私は以前彼女に聞いた事のある質問を、今日もう一度重ねてみる事にした。


「潮子ちゃんは、大人になったら何になりたいの?」

 彼女はきょとんとして、丸い瞳を瞬きで見せる。

「なりたい?」
「うん。いろいろあるよ、お店屋さんだったり、お嫁さんだったり」
「お嫁さん?」


 両足をぷらぷらとさせて自分の髪の毛を弄びながら、それはなんだと尋ねてきた。


「お嫁さんはね、旦那さんと結婚するとなれるんだよ」
「結婚? だんなさ?」
「好きな人とずっと一緒に居れるんだ」


 へぇーと漏らした彼女の口は、にこやかに緩んでいた。


「じゃあねぇ、しんと結婚する」
「しんと?」
「うん!」
「……ふうは?」

 彼女は私の言ってる事がわからないのか、ことりと小首を傾げた。


「なに? それ」


 どうやら彼女は、本当に代わりの友達を探していただけのようだった。


 潮子ちゃんは大人にならなければいけない。それはいずれ来る壁となる。だが彼女の幼さから見ると、非常に難しい治療だった。

 私は彼女をこの世界に引っ張り上げる事が出来るだろうか。


 夕診が始まる前、携帯電話を見ると父親からの着信が残っていた。私はすぐにかけ直した。

「もしもし、父さん」
「おお、久し振りだな」
「どうしたんです」
「今日でお前がその神経科を開いて一ヶ月だろう。調子はどうかと思ってな」
「まずまずですね。追い付かないのでカウンセラーを雇おうかと思っています」
「ああ、カウンセリングルームもいいが、やはり二人ほど同じ医師を雇った方がいいかと思うぞ」
「私はまだキャリアが薄いので……」
「構わん、紹介して寄越してやろうか。東京はどうせあぶれてる」
「考えておきます」


 東京の病院で外科医を勤める父。回診も的確丁寧で信頼が厚く、手術は回数をこなしていて成功確率も高いので、正直知名度は高い。
 私が若くしてこんな病院を独立させられたのは、やはり父の光を借りている部分があるだろう。


 父はこと私の仕事の話になると饒舌になった。この病院を開く時にも、やれ提携する薬局だの看護師の紹介だの、戸が立てられなかった事を覚えている。


「人員が必要な時は言ってくれよ。見込みのある奴は知っているからな」
「ありがとうございます。覚えていてくれて」
「当たり前じゃないか、息子の事を」

 息子の事なら覚えていると、父はそう言って笑った。

 息子の、事なら。


「兄さん、もうすぐ帰ってきますね」
「──っ、その話はするな!」


 父は息を荒げて怒鳴り、すぐに何も話さなくなった。

「すいません……」
「……また電話する。それじゃあな」


 通話の終わった携帯電話の画面は、今日の日付を表示していた。


 あれから十七年。あと一年だ。

 あの悪夢が蘇るまで、あと一年。


 次の週、潮子ちゃんは血相を変えて病院に飛び込んできた。
「せんせっ。せんせいは」
「風見さん、順番になったらお呼びしますので……」
「せんせい〜」

 受付で駄々をこねる彼女の声を聞き、仕方がないのでこっそり内線で原口さんに伝えた。

「通して下さい」
「……わかりました。風見さん、どうぞ」

 案内されるなり、彼女はドアを壊しかねない勢いで診察室に入ってきた。


「しんがっ、昨日からっ、いないのっ」


 しゃくりあげる潮子ちゃんを見て、またか、と思わざるを得なかった。


 きっと彼女は頭の片隅に、動物に頼っている自分に対しての焦躁を抱えているのだろう。
 だから知らず知らずのうちに空想の親友は消えていくのだ。


 とはいえ、これが彼女の成長であることに変わりはなかった。
 先に述べたように確信にも成り得ないのだが。


「潮子ちゃん、しんは何故居なくなったんだい?」
「わからないっ、なんで? どうして居なくなっちゃったの?」

 続いて一人になったことに混乱しているのだろう。悲しみと動揺で涙が止まる気配はない。


「潮子ちゃん。聞いて。私は思うんだ」

 彼女の両手を握って、目線を合わせるように屈んだ姿勢になった。

 幾分泣きやんで私の話を聞く態勢になっている。私は息を吸ってゆっくりと話し出した。


「ふうやしんは、君はもう一人で大丈夫だと思って、君の元を去ったんだよ」


 涙で濡れた赤い瞳が、ぽろぽろ残りを排出しながら見つめ返してくる。

「ひとり、で、だいじょぶって?」
「そう」
「どういう、こと?」
「君はもう一人で外の物にも触れるし、何も君を傷付けない──」
「うそ!」

 潮子ちゃんは私の両手を振りほどき、壁際まで後ずさった。


「無理、だよ、そんなの。汚れちゃうもん。出られないもん。ふうはわたしを見捨てないもん」

 私は彼女がふうと言った事実に驚愕した。もう忘れてしまっていると思っていたのに。


「ちゃんと覚えてたんだね……」

「せんせいは、いつ見つけてくれるの? ふうは今どこにいるの?」

「潮子ちゃんの側に居るよ」


 泣き止んでも、瞳の赤いのは消えない。むしろさっきよりもずっと酷い顔をしている。


「君が一歩その部屋を出れば、素敵な友達が待っているんだ──」
「嘘つき!!」


 ばたん、と音をたてて、彼女は部屋から出ていってしまった。

 彼女自身を包む部屋は今どうなっているんだろう。完全に汚れてしまっているんだろうか。


 ぼんやりとカルテを書き込んでいると、原口さんが慌てて診察室に入ってきた。

「先生、風見さんは……」
「謝っといて下さい」
「先生」
「すいません。お願いします」
「……先生、あなたは」


 彼女は美しかった。 
 長い髪、白く透き通った肌、大きな黒目、二重まぶた、その全てが誰もが認める美の要素だった。

 もしこの不規則に奏でる心音が彼女のせいならば、私は自分の血を一滴残らず搾り取ってしまいたくなるだろう。

 あの悪夢を、あの現実を、どうしても認めたくないのだ。


 だが潮子ちゃんの一種異様な美しさを目の当たりにする度、どうしようもない罪の意識に襲われる。

 無垢な瞳。純粋な心。
 それら白を覆い隠す、無機質な立方体と波紋を広げる泳ぐ友人。

 続き過ぎる海は絶望へと姿を変えるだろう。


 診察室のドアが閉まる音が響き、次の患者を呼ぶ声が聞こえる。


「すまない……潮子ちゃん……」


 一言口に出して、私は次の診察に移った。


 中川神経科の鍵を閉める。看板に目をやりそっと溜め息を吐いた。

 時刻は八時。夕診が思いの他長引いたのだ。最後の患者が終わり次第看護師には帰ってもらい、個人的に持ち帰りたい資料や整理しておくべきものをこの時間まで片付けていた。


 外は嫌味なくらい雨だった。持ち前の黒い傘を開こうとしながら、どうせすぐに車だと思い直して差すのはやめる。

 目と鼻の先にある国産車へ走り寄ると、向かい側から赤い傘を差した女性が走り寄ってきて、私の頭上に翳した。

「風邪ひきますよ」
「……原口さん」

 車のキーを押してロックを解除した。

「中川先生。私、先生が心配なんです。何か大事なことを決断しようとしているみたいで」

 彼女の赤い唇は滑らかに動いた。手の届く距離で見つめていると、触れたくなってしまう魔力がある。

「とりあえず、乗って下さい」


 助手席側に回り、ドアを開けて誘導した。彼女は私に傘を預け、それを持ったまま運転席に乗り込み中で畳んだ。

「濡れませんでしたか」
「大丈夫です。お帰りはどちらへ」
「私、先生の家にお邪魔したいです」

 全く若さというものはどれだけ勇敢なのか。それが似合う容姿をしているのが唯一の救いだが、何にしろ殺人的な脅威を持った台詞には違いない。


 真直ぐ自宅へ向かい、マンションの駐車場へ入った。

 今まで連れて来た女性の大半がマンションの大きさに驚いてしなを作ったが、原口さんはそうではなかった。ずっと何かを悩んでいるように前を見据えて口を利かなかった。
 私にはそれは、彼女こそ何かを言おうか言うまいか決断しかねている気がした。


 エレベーターに乗って七階のボタンを押す。

 気が付いた時には遅かった。

 隣の彼女は、監視カメラにも気を払わずに私の唇を奪い取った。


 甘美な誘惑が頭を麻痺させる。心臓はいつもよりも大きな鼓動を響かせていた。
 互いの唇を貪るように吸って、階に着いた時には平常心など彼方へやってしまっていた。


「先生」

 玄関に入ると原口さんは大胆に抱き付いてきた。後ろ手で鍵を閉め、彼女に答える。

 彼女は甘ったるい香水を体中から発散させていた。


「何ですか」

 息も絶え絶えだ。

「私、中川先生の秘密を知ってます」

 一気に氷点下まで温度が下がった。

「秘密、とは」
「聞き出して下さい」
「教えてくれないんですか?」
「無理にでも、あたしから聞き出して」


 すがりついてくる肢体を強引に撫で、壁に押し付け唇を這わした。

 全て彼女の計算なのか。
 原口さんは最後まで口を割る事はなかった。


「あなた、あの子のためにこの町まで来たのでしょう」


 電球の淡い光に反射する体。その雪白から目を逸しつつも、動揺が喉までせりあがっていた。

「何です急に」

 原口さんの方は一切見なかった。罪悪感もそれなりにあったが、それよりも彼女の話の内容に問題があった。


「あの子の前住所、東京だわ」
「だから何です」
「あの子を追ってこの町に来た。違いますか?」


 彼女の推理は当たっていた。けれど私はこんな直接的な言葉に
「はい」と言えるほど寛大でもないし、鈍感でもなかった。
 抱いたからとすぐ信用できるわけがない。ましてや女のそれは信じられない。


「少し調べたらわかることでした」

 黒い塊が胸に生まれる。ああ、これが【ばいきん】か──。


「あの事件は」
「黙れ」


 私は潮子ちゃんと対峙する度、自分の血液を抜いてしまいたくなった。


 中川神経科が開設されて間もなく、一人の中年女性が病院を訪ねてきた。

 その様子は傍から見ていても憔悴しきっており、長年かけて携えられたであろう青黒く縁取られた大きな隈が特徴的だった。


「あの、こちらの病院は」
「はい、最近開いたばかりです。私東京からやって参りました中川です」
「精神科ですか」

 そう質問する女性の瞳は、何かにすがるように追い詰められた色をしていた。
「いえ、神経科です。診る内容はそこまで変わりはないですが、主にトラウマによるPTSD患者を治療しています。この町は震災や事故が多いと聞いたので……」
「この子を! お願いです、助けてください!」


 女性の数メートル後ろに、言葉の内容から彼女の娘らしき人物が後ろ手を組んで立っているのが見えた。

 それが、風見潮子ちゃんだった。


「小学四年生の真夏でした」

 潮子ちゃんは勉強が得意で、母はそんな彼女の才能をもっと伸ばそうと近所の公立大学に通う学生を家庭教師に雇った。

 だが、その若さがいけなかった。早熟で稀にみる美貌を持ち合わせた彼女が、大学生を無意識に誘惑し、行動に至らせるまでにそう時間はかからなかった。


 家庭教師の男は、彼女の身も心も醜い欲望で引き裂いた。


 すぐに警察を呼び、男は逮捕された。成人していたので罪は比較的重いものを与えられ、今も刑期をこなしている最中だという。

 だが、彼女が受けた傷はそれでは塞がらなかった。

 深く引き裂かれた傷口は癒しの膜さえ生むこともできず、ずっと膿を孕んで熱を持ったままだ。


 今でも彼女は他人の侵入を拒み、近付き、触れられることを避け、無敵の防御壁を造り上げた。

 ガラスの部屋と【ふう】の存在は、微力ではあるが彼女の心を安定に導いた。


 医者のくせに白衣を纏わないのはなぜですか、と看護婦に揶揄われた事がある。

 なぜかと問われれば、あまり好きじゃないからだ。
 自分が診察を受ける立場であることに好印象は湧かず、つまりは病院が嫌いだったのだが、なぜかいつも白衣には高圧的で尊大な態度が含まれている気がした。

 医者の格好をしている姿を鏡で見る度に違和感を感じたものだ。


 今朝は香水の匂いが酷かった。シャワーを浴びる時間がなく、昨夜風呂に浸かったからいいかと服を着て車を走らせた。

 隣には原口さんが居たが、口数は少なかった。あそこで恋人のようなふるまいをされても困るだけではあったが。


 ロッカーにかけたままの白衣を羽織った。甘ったるい匂いが少しでも軽減されればいい。

「中川先生」

 女性から看護師になった原口さんが内線で呼びかけてくる。

「風見さんが来ています」
「……そうですか」


 昨日の取り乱し方は今までの診察と大きく違っていた。病院へ来る回数に変化があってもおかしくはないだろう。


 彼女の診察は、午前中の最後になった。

「せんせい」

 潮子ちゃんははにかみながら、目の前の椅子に腰掛けた。
 瞳は多少柔らかい。何か彼女に変化が起きたのかもしれない。


「外にでたら、いる」
「ん?」
「おともだち、いるかなあ」

 彼女は昨日の私の言葉を覚えていてくれた。だから今日またここまで来てくれたのだ。

 彼女は少しずつではあるが、外界への扉を開き始めている。

「いるよ。きっと、君の友達が」
「おそと、こわいよ」
「どうしてだい」
「汚れたくないよ」

 段々と彼女は苦渋を舐めたように眉を寄せ始め、膝下まであるフレアスカートを両手でぎゅっと握り締めていた。


 彼女らしさを保ちながらも素直で直球な感想が出たうちに、なんとしてもその恐怖の概念を取り除かなければならない。

 どうしたら潮子ちゃんは安心してくれるのか。私は慎重に言葉を選んだ。


「汚れないよ、潮子ちゃん」

 長い髪がふわりと風に乗る。

「君が思っているよりもずっと、外は綺麗な景色でいっぱいだ」


 まず私は、この子より先に自分を騙す事に集中した。

 世界が美しいだなんて、到底真実とは思えない。
 人間は、汚い。本当は彼女の言う通りなのだ。

 薄汚れて黒く染まった欲望が渦巻き、それに自由を奪われた人間は叶えるために自己を優先する。

 昨日の一夜の関係だって、それを顕著に表しているじゃないか。私と寝たいがために強引な手段に出た原口さんを、私も肉体的欲望を満たすために利用した。


 お互いの目的は達成されているとはいえ、決して綺麗な関係とはいえない。まず自分自身が汚れている。

 だが、そんなことをいちいち気に留めていたら、私には誰にも救えないじゃないか。

 私は彼女を救うために、この町にやってきたのだから。


「ふうみたいに真っ白な子はいないよ」

 潮子ちゃんは思案投げ首にぼやいた。これは肯定すべきだ。
 そうだねと言い掛けたところで、彼女の口から驚くべき言葉が投げられた。


「でも、せんせいはきれい」


 その時確かに、私の世界は真っ白になった。

「せんせのお肌、しろいの」

 彼女の瞳が近付いてくる。その目は私を見ているようで、その実は違う。通り越した先に何かを見ている。

 上へ弧を描いた唇は私の記憶を漁る。


 頬に華奢な指先を感じたとき、脳裏に蘇る光景がすべての時間を狂わせた。


 酷い雨が街中を濡らし、窓を濡らし、傘を持たない人の頬を濡らした。
 いっそ私もその中に飛び込めたらどんなに良かったか。

 中学三年生だった私はその日は夏休みで、朝から降りしきる雨のせいで一歩も外から出れず、部屋で勉強をするほか時間の過ごし方が見つからなかった。

 こんな日にまで出かけなくてはならない兄には同情する。
 もちろん兄も大学生、本来なら休暇中なのだが、春から始めたアルバイトに励んでいたため今日も例週通りそこへ向かっていた。

 彼ほど頭が良いと、勉学は仕事にはならない。まして教える内容は小学生の問題だ。家庭教師とはなんて割りの良いバイトだろう。
 私も学生の余裕が出たら始めようと密かに考えていた。

 その日の夕暮れである。


 いつもより早く開かれた玄関からは、何やら騒々しい物音が聞こえた。傘立てを倒したり、扉にもつれこむような音が響く。

「兄さん? おかえり」

 階下で見たのは、ずぶ濡れで息を切らしている兄の姿だった。

「どうしたの。傘は?」
「……ああ」

 髪も、服も、教材の入った鞄も、濡れていない部分を探す方が酷なほど雨に打たれていた。私はすぐにタオルを取りに行ったが、兄は
「風呂に入るからいい」とそれを制止した。

「何があったんだい」
「何もないさ」

 とてもそうは思えない表情で、私の肩を叩いて通り抜ける。

 その時、私は不穏な匂いを察知した。

 雨のせいかとも思ったが、不天候では覆いきれない、危険な匂いだ。
 私も男だからよく知っている。それは例えるなら、獣のような――。


 いつもより早く開かれた玄関からは、何やら騒々しい物音が聞こえた。傘立てを倒したり、扉にもつれこむような音が響く。

「兄さん? おかえり」

 階下で見たのは、ずぶ濡れで息を切らしている兄の姿だった。

「どうしたの。傘は?」
「……ああ」

 髪も、服も、教材の入った鞄も、濡れていない部分を探す方が酷なほど雨に打たれていた。私はすぐにタオルを取りに行ったが、兄は
「風呂に入るからいい」とそれを制止した。

「何があったんだい」
「何もないさ」

 とてもそうは思えない表情で、私の肩を叩いて通り抜ける。

 その時、私は不穏な匂いを察知した。

 雨のせいかとも思ったが、不天候では覆いきれない、危険な匂いだ。
 私も男だからよく知っている。それは例えるなら、獣のような――。


「中川さん。中川さんっ」

 けたたましい音で玄関の扉が叩かれた。肩を揺らす私の後ろで、兄は身動きひとつしなかった。

「中川さん、開けてもらえませんかね。ご近所にも迷惑なんで」

 そろそろと近付き、緩慢な動作で履物に足を入れた。頭の中ではさっきから、うるさいぐらいの警笛が鳴り響いていた。

 扉をゆっくりと開いた。屈強そうな制服の男が数人、身分証明をこちらに見せていた。

「警察です。中川裕さんを十三歳以下に対する合意のない姦淫――強姦罪の容疑で逮捕します」

 一瞬の単語しか理解できなかった。

 強姦。誰が。
 中川裕……兄が。


「そんな……嘘でしょう」
「上がらせてもらいます」
「嘘だ!」


 警察は水滴の落ちた廊下を辿り、脱衣所に立ち尽くす兄の姿を発見した。

「あなたが中川裕さんですか」

 兄は背中を向けたまま、静かに頷いた。
 警察は前に回り素早く手錠をかける。

 目の前の信じがたい光景に、私は力の限り叫んでいた。


「やめろぉ! 兄さん! 嘘だろ、兄さん!」

 二人がかりで動きを封じられ、玄関に向かって廊下を歩かされる兄。
 ただそれを見つめることしか出来なかった。

 兄は家を出る直前に、私の方を振り向いた。

「兄さん!」


 歪につり上がった口角を見て、僅かな希望はひとつ残らず打ち砕かれた。



 頬を、髪を、首筋を、細い指があどけない手つきでぺたぺたと触る。
 美しい人は、美しい瞳で、ただ過去の純白に縋り付いていた。

「……せんせい、いつもと違うね」
「……そうかい」
「だって、お肌も、これも」

 潮子ちゃんの右手が私の白衣をなぞる。

「お顔も、白いよ」


 表情を覗き込まれ、私は困惑した。

 きっと自分は酷い顔をしているだろう。

 兄も、彼女にこんな気持ちを覚えたのだろうか。


「……ふう?」

 彼女の滑るような指の動きが、その名前を呼びながら止まった。


「……ふう、こんなところに」

 君には見えていないのか?

 私の獣のような、どす黒く汚れきった瞳が。

 今に君の部屋は、【ふう】が居ないせいで【ばいきん】塗れになってしまうよ。
 私の兄にそうされたように。



 潮子ちゃん。風見潮子さん。

 私の兄の刑期はもうすぐ終わる。

 君は本当なら、進学なり就職なりして、幸せな結婚生活を送っていてもいい歳なんだ。


 なのに何故、一切の成長を拒む。

 どうして幻の友達を探し続ける。


「潮子ちゃん」
「ふう、ふう」
「結婚しようか」
「どこに行ってたの、ふう」
「ごめんね」
「大好きだよふう」
「私もだよ」


 白い肌が好きだというなら、その中に溺れてしまえばいい。

 ずっと、永遠を重なり合って。

 狭い世界を泳ぎまわろう。

 君が作った水槽で。


【完】















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