5.幸せを、願っただけ
お妃様は曲がった腰を庇いながら、たった今開いた戸口に立つ娘を見つめました。
久しぶりに会った白雪姫は、またさらに美しくなったように思えました。静かに微笑む彼女は、女神のようで。対照的に醜い老婆と成り果てたお妃様は、自由のきかない体を杖で支えて立っていて。けれどももう美しさへの執着心も、白雪姫への嫉妬や対抗心もありませんでした。素直に娘の成長を喜ぶ事が出来ました。
白雪姫を失う怖さに気づき、彼女を愛していた事を知ったのです。
白雪姫はとても落ち着いた気持ちで、戸口に立つ老婆を見つめました。
久しぶりに会った義母は、白雪姫が知っている彼女の面影は無く、まるで別人でした。ならばなぜ、お妃様だと思い込んでしまったのか。なぜ一言、お母様ですかと聞かなかったのか。そうすればそこで終わったかもしれなかったのに。
全ては王子の言葉を信じていたからに他なりません。今の白雪姫にとっては、たった一つの拠り所だったのですから。
『よし、ではこうしましょう。もし仮にあなたのお母様がここへ来たとします。あなたが無視しても追い返しても、何度でもやって来るかもしれない』
「林檎を売りにいらしたんですって?」
白雪姫は優しくそう言いました。
『ならばいっそ家に迎えいれなさい。そうして彼女が持ってきた林檎を受け取りなさい』
「私、林檎大好きなの。美味しい林檎なら是非頂きたいわ」
老婆は喜んでカゴから林檎を差し出しました。
『但し気をつけて。林檎には毒が入れられているそうですから。――えぇ、これも先ほどと同様、友達が教えてくれたんです』
「まぁ、赤々として美味しそう。おひとつ下さいな」
『だから林檎をかじるふりだけするのです。倒れたように見せかければ、お母様は満足して帰って行くでしょう』
――私の王子様。あなたの言う通りにします。そして二人で幸せになりましょう。
嬉しそうに林檎を受け取った白雪姫を見て、お妃様は言いました。
「これはね。願いが叶う林檎なんだよ。一番叶えたい事を想いながら食べると、それが本当になるんだよ」
白雪姫はきっと父や国を恋しがっているだろうと、お妃様は思いました。ですから、彼女の願いは勿論、家に帰りたい、だと思ったのです。
白雪姫が願い林檎を口にした時、お妃様はローブの中にある解毒剤――つまりは元の姿に戻る薬を飲み、正体を明かし彼女に謝り、一緒に城へ帰る。それがお妃様の考えでした。
――いいえ、それが鏡がお妃様に提案した、完璧なる計画でした。
「私の願い……」
林檎を大切そうに両手で包み込み、白雪姫は目を閉じました。その耳には、徐々に近づいてきている小人達の足音と歌声が聞こえていました。
そして小さく呟くのです。
「私の、幸せを邪魔する者を…、消して下さい」
白雪姫は林檎を一口かじりました。
その声は小さくかすれていたので、老婆の遠くなった耳には届かず、ただ白雪姫が倒れた時の低く鈍い音だけが、部屋中に響きました。
「し、白雪姫……?」
突然の事にお妃様はびっくりして白雪姫に近づきました。彼女に触れようとしたちょうどその時、開け放したままだった入り口の向こうから、小人達が帰ってきました。
「誰だ!」
小人の一人が叫びます。
「白雪姫!?」
別な一人が倒れている白雪姫を見つけ、全員で駆け寄りました。
「お前…何をした!」
更に一人に大声をあげ睨みつけられたので、怖くなったお妃様は訳も分からないまま家を飛び出しました。
どうして白雪姫が倒れたのか分からず、お妃様は混乱していました。必死に走りますが、後ろからは小人達が追ってくる音がします。老いた体は言うことを聞かず、解毒剤を飲む暇すら与えられません。
◇◇◇
お妃様と小人達がいなくなった後、白雪姫は起き上がると、口に含んでいた林檎の欠片を吐き出しました。そして念のために口をゆすぎに行こうと方向を変えましたが、驚いて足を止めました。
けれどいきなり立ち上がった白雪姫に、そこにいた人物の方が驚き目を丸くしていました。そしていぶかしげに白雪姫を見つめると、いつもの無愛想で低い声で言いました。
「どういう事だ?」
白雪姫は動じる事なく、自分を睨むグランピーを初めて睨み返しました。
白雪姫は入り口へと向かいました。
「あなたには関係無いでしょう。放って置いて下さい」
白雪姫は冷たく言いました。
「でもあいつら心配してる」
グランピーの言葉にも耳を貸さず、見向きすらせず、家を飛び出しました。
◇◇◇
どこをどう走ったのか、いつの間にやら追手の気配は無くなっており、お妃様は小高くなった崖の行き止まりまで来ていました。息も絶えだえ、足はガクガクと震え体は限界に達していました。
「お婆様」
突然の背後からの声に、お妃様はびくりと体を震わせました。小人達に追いつかれたと思ったのです。
けれど振り向いた先にいたのが白雪姫であると分かった時、どれほど安心した事でしょう。
「あぁ…白雪姫。いきなり倒れたからどうしたのかと心配したわ」
白雪姫はただ微笑むばかりでした。
「あのね…私あなたに酷い事をしたわ。だから謝りにきたの」
お妃様は薄汚れたローブ中を探ります。
「私はあなたの本当の母親になれるかしら」
そして小瓶を取り出し蓋を開けました。
「一緒に家へ帰りましょう」
確かにお妃様は罪を犯しましたが、その過ちはそれほどまでに、責められなければならないものではないでしょう。
けれど白雪姫は深く傷つきました。悲しみは彼女を惑わせ、善悪の判断を鈍らせ、そして憎しみへと変えてしまいました。
薬を飲んだ老婆は、元の美しいお妃様に戻りました。真っ赤な林檎を白雪姫に差し出し、微笑みます。
「あなたを愛しているわ」
白雪姫はお妃様のもとへと近づいてゆきます。その瞳はじっと林檎を見つめていました。
崖の下にあるはずの深い森は、陽の落ちた今となっては、ただ暗い闇が無限に広がっているばかりでした。それは、落ちてしまえば永久にこの世界から消えてしまいそうな、そんな不気味な黒さでした。時折、お妃様の足元からいくつかの小石が崖下へと転がっていきますが、それらが地にたどり着く音は一度も聞こえては来ませんでした。
林檎を受け取った白雪姫は、その林檎に向かって呟きます。
「願いを叶えて下さるのよね」
家に帰っても、もうお父様はいない。そしてそれは私がいなくなったせい。そして…それはお母様のせい。
「幸せになるためですものね」
その為に私の幸せを邪魔する元凶は消してしまわねば…。大丈夫。私は間違っていないわ。王子様も言っていた。
「あのね、お母様」
元凶は誰?
「さようなら」
とん、と軽く。白雪姫は前に手を押し出しました。その先にいるお妃様をめがけて。
◇◇◇
何が起こっているのか、分かりませんでした。
体が宙に浮いた気がして、白雪姫が上へと離れてゆく気がして、籠から林檎がこぼれ落ちた気がして。
そしてお妃様は、悲しみの表情の白雪姫の背後に、岩陰に隠れて男が一人立っているのを見ました。あれは確かに。その場に崩れ落ちた白雪姫に駆け寄って行ったあの男は確かに、
――まぁ、あそこは今民衆の暴動でひどく荒れているそうじゃない
ここにも何度か来たわ お金を貸してくれって――
森一つ向こうの国の王の一人息子でした。
お妃様は小さくなっていく二人を見つめながら、祈りました。
大切な白雪姫。あなたが選んだ先が、光り輝く道でありますよう。あなたが選んだ人が、優しく誠実でありますよう。私はいつでもあなたを見守っています。自分のしたことに後悔してはだめよ、白雪姫。どうか自分を責めないで。
あなたはただ、
幸せを、願っただけなのだから――。
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