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ニューキーツ 作者:奈備 光

1章 海は知っている

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5 記憶の初キス

「驚いた! 朝起きたら、おじさんが寝てるんだもの」
 生駒は、まだ夢うつつから抜け出せないでいたが、綾が唇を近づけてきた。
「おねえさんに叱られるけど」
「あっ」
 綾との始めてのキス。
「無事生還のお祝い」
 柔らかくて温かいキスだった。

「優も焼餅なんて焼かないさ」
「どうして?」
「どうしてって、僕らは家族だから」
「だよね!」

 ひと足先に大阪に帰った綾は、生駒の帰りを待ちわびる日々が続くことを覚悟していたと言う。
「でも、驚いた。わずか一日で帰ってくるとは思ってもみなかった。案外早く、おねえさんに会ったのね!」

 金沢市街のはずれの稜線で綾と別れて、翌々日の朝には生駒は大阪に帰ってきたことになる。
「ユウに会った……」
「聞かせて!」
 あの白い世界で、確かに優の声を聴いた。
 彼女の体が触れるのを感じた。
 まるで意識はなかったと同然の状態だったが、あの声は確かに……。
「よかった……」
 綾の目に涙が溢れ出した。
「ああ」
 生駒の目的は達成されたのだ。
 あの光の柱に優が住んでいる。
 それを確かめることができた。そして、会うことができた。

 綾の指摘が正しかったのだ。
「本当によかった……」
 優と会えて。
 居場所を知りたい。
 会いたい。
 ここ数十年、生駒の望みはそれだけだった。
 優を愛している。
 今までもその気持ちは揺るがなかったが、身近にいなくなるまで、こんなに胸を焦がしたことはなかった。

 生駒は目覚めた後も、金縛りにあったように動くことができなかった。
 綾が体を摩ってくれた。
「へえ! お姉さんも自由に動き回れるんだ」
 生駒はその時のことを綾に話して聞かせた。

「お姉さんがここまで送ってきてくれたんだね」
 表現が的確ではないことを綾も理解していただろうが、そういうより他の言い方がない。
「光の束が物質を輸送できるって聞いたことがあるけど、まさか人間を動かすことができるなんて」
 綾の手が体を撫でていく。
 頭部から胸へ腕へ。
 生駒は確かに、送っていくね、という優の声を聞いた。
 しかし、その後の記憶はない。もちろん列車に乗って返って来たという実感はまるでない。

「よく分らないけど、自然にここに帰ってきたんだ。というか、気がついたら、ここで寝ていた」
 生駒は綾と話しながら、体力が戻ってきたことを実感していた。
 綾が触れた部分の細胞が生き返るような感触。

 腕を少し動かしてみた。何の問題もない。
「無理しないで」
「うん」
 両腕を持ち上げてみた。
 軽々とした感覚。
「大丈夫?」
 それどころか、ここ十年ほど感じたことのないほど、腕の筋肉に力が溢れていることを感じた。
「ちょっとこれは、すごいかも」
「なにが?」
「若返ったかも」
「へえ! でも、無理しないで」
「じゃ、ちょっと手を貸して」
 明らかに生駒の体は若返っていた。
 青年の頃に戻ったとは言えないまでも、体中に力がみなぎっているように感じた。

「うーん、昔風の言い方をすれば、転送されたという感じかな」
 光の束が人間を移動することができるとしても、大阪の福島のこのマンションに光の束が降り注いだという事実はない。
 光が生駒を動かしたのではない。
 しかし生駒は現にここにいる。
「やっぱり、本当にお姉さんは神様になったのかも」
「何はともあれ、よかった」

 うれしさがこみ上げてきた。
 あの砂漠で、朦朧とした意識の中ではあれど、確かに優の声を聞けたこと。
 優が生きていて、居場所が分かったこと。
 そして何より、世に女神と呼ばれる存在となった今でも、生駒や綾をあの頃と同じように思ってくれていることが分かったこと。


 優が置手紙を残してこの部屋を出て行ってからの三十年間。

 生駒と綾は優が生きているとは信じつつも、どんなに心細く、ある時は自責の念にかられ、またある時は希望を失いかけつつ、すがるような思いで生きてきた。
 生駒は普通に仕事をし、綾は受験と就職を乗り越えた。
 ありふれた家族として。
 ちょっとした行楽に出かけ、学校での出来事を楽しく語らった。
 しかし、優がいなくなってから初めのころは、お互いに生きていくことに忙しかったこともあって、悲しみも小さくはなりはしないまでも、絶望にまでは至らなかった。
 ところが、生駒の年齢が七十を超え、綾が幸せな結婚生活に破れ四十歳になったころから、悲しみは深みにはまっていった。

 もう、あの声を聴くことはできないのではないか……。
 優の髪に、頬に、唇に触れることはできないのではないか。
 三人で、他愛のないことを喋りながら楽しい食卓を囲む夜は来ないのではないか。
 ああ、優には、もう二度と会えないのではないか……と。


 でも、優は生きていた!

 そして今、生駒と綾には、優を待つことには違いはないが、これからの日々は希望に満ちている。
 そう思えてきたのだった。
 西暦二千三十七年。第三次世界大戦が始まる前年。
 世界中にきな臭い臭いが立ち込めている年のことだった。


 生駒の意識は「英知の壺」を離れた。
 いつもと同じように、はるかかなたの過去の記憶をなぞって、希望が再び訪れたあの日々の匂いを嗅ぐと、生きてゆく勇気を奮い立たせた。

 優を待つこと、六百年。
 すでに綾はいない。

「優は生きている。いつか会える」
 もはや妄想となった思いだけを抱きしめて、生駒はまた地上に降り立った。
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