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ニューキーツ 作者:奈備 光

1章 海は知っている

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9 海は知っている

 サリの失踪をさかのぼること、一年。

 宇宙船の外壁のかすかな隙間に、わずかコンマ一ミリほどの小さなシリコンカプセルが挟まっていた。
 地球の大気圏に突入し、灼熱に晒されても、そのカプセルは燃え尽きることなく宇宙船に貼り付いていた。

 太平洋に着水したとき、カプセルは静かに宇宙船を離れた。
 宇宙船の乗組員もそれを出迎える船の乗組員も、そして上空を飛ぶ監視衛星も、カプセルが静かに海に沈んでいったことに気づくものはいなかった。

 しかし、カプセルが深い海底まで到達することはなかった。
 海水に触れてものの二分もしないうちに、カプセルは変態を開始したのである。
 水を含んで、瞬く間に一千倍ほどの大きさまで成長した。
 と同時に、尾やヒレが生え、目ができ口ができていった。五分も経った頃には、既にイルカのような姿になり、自由に泳ぎ始めたのである。
 このイルカのような生命体は、迷うことなく一直線に西北に向かっていった。

 地球の豊かな海。
 数百年経った今も、変わることはない。
 その青さも、塩辛さも。波はうねり、潮流が微生物を押し流していく。それを追う魚や海生哺乳類の群れ。
 しかし、それが感傷に浸ったのは、脳の組織が作られたそのときだけだった。

 高度な思考能力を持つ一体の生命体。
 名はある。本人は覚えている。しかし本名は二十一桁の記号と数字を組み合わせたID番号だ。JP01と呼ばれていた。
 JP01は海の異変にすぐに気がついた。
 かつてのように、海は大小様々な生物で溢れていた。
 しかし、JP01には聞こえたのだ。
 無数の声が。

 声だけではない。
 地球上のありとあらゆるシーンの断片が水に溶け込んでいた。
 はるか昔の活気のあった中国の街並み、農民が手にする米の一粒、シャワーを浴びる時の爽快感に至るまで、地球上の出来事のすべてがここにあった。

 遠い過去のことだけではない。
 地球という星に生きるものすべてが失われるかとも思われたあの大戦争も、その後の細々とした人類の記憶も。そして自分たちが巡礼の旅に出るため、宇宙空間に飛び立ったたときの様子も。

 シーンだけではない。
 意識、感覚、感情をもった特定の個人の記憶が漂っていたのだ。

 目には見えないが、あたかもスライドショーを見るように、様々なシーンがJP01の脳裏を次々と掠めては消えていった。
 断片的な意味のある言葉が聞こえることもあった。
 言葉と共に、幸福感が心に広がることもあったし、悲しみが落ちてくることもあった。

 過去から現在に至る数百年に渡る何百億人もの人類の、すべての人々の一人ひとりの記憶……。
 それらがすべて、海という大きな器に盛られているのだということに気がつくまで、多くの時間は必要ではなかった。


 JP01は、泳ぎ始めて数日後、日本列島が見えてくる頃になって、巨大な記憶装置としての海の機能の成り立ちを理解し始めた。
 無限ともいえる膨大な記憶が、微細なデータの断片となって、海水を組成する粒子の粒に載せられていることに気づいたのだ。
 そしてそれらが何らかの法則によって瞬時に並べ替えることができ、まとまりのある記憶となって連なっていくことにも気づいた。
 JP01は泳ぐことをやめ、その法則を見つけ、自分のものにしようとした。


 そしてついに、かつての自分の意識に触れた。


 それは、ある思い出。
 今の自分の心の中にあるものではなく、海に溶け込んでいた記憶データとしての思い出の方を。

 初めてその思い出をイルカのような肉体が感じ取ったときは、コンマ一秒も留まることなく、電光のように流れ去っていった。しかし数日後、次に自分の声が聞こえたときには、ほんの少しの間だけその記憶を弄ぶことができた。
 そしてまた数日後、自分が始めて人を愛したときの感覚に触れたときには、その感覚を楽しむことができた。

 やがて、JP01は海に溶け込んだ自分の記憶を自由に手繰り寄せることができるようになり、他の特定の人物の記憶をも手元に呼び寄せることができるようになった。


 宇宙船の着水から約一ヶ月が経過していた。
 JP01は急いでいた。
 時間がない。
 準備がまだ整っていない。
 JP01は当初の予定を変更し、回れ右をした。ホーン岬を回り込み、大西洋に出よう。
 たが、目指すカリブ海はまだ遠かった。 

 早く彼女に会わねば。

 そのこと自体は、JP01の計画のほんのスタートラインにすぎない。
 休むことも眠ることもせず、全速力で泳ぎ続けた。
 エネルギーの摂取は、意識せずともこの肉体自身が海水から自動的に取り込んでくれる。
 永い宇宙生活で得た肉体は、空気も光もない空間においてさえ活動できるほど、超高効率のエネルギーシステムを備えている。宇宙線であろうが熱であろうが、光であろうが、皮膚がエネルギーに変えてくれる。
 様々なものが溶け込み、プランクトンが豊富な海水なら、そこからエネルギーを取り出すことは容易なことだった。

 大気中を飛べば、格段に速く進むことができる。というより、ほんの数秒で目的地上空まで達することができるだろう。
 しかしそれでは、いくら技術革新が停滞している人類とはいえ、こちらの動きを地球政府に捕捉されてしまう恐れがあった。
 しかも、これからやろうとしていることに必要な情報が入手できない。大気中には人々の記憶は浮かんではいなかったからだ。


 泳ぎながら、彼女の次に会うことになる特定人物の記憶を次々に呼び出していった。
 まず知らねばならないのは、彼らが今どこで何をしているかだ。そして接触する方法は。

 JP01は、たとえば彼らが、今日をどう過ごそうと考えているかも知ることができた。
 過去の記憶だけではなく、今を生きている人間の思考も、海に溶け込んでいることを発見していたのだ。
 いわば過去の記憶は、現在の思考の連続した蓄積である。海のデータベースの仕組みを理解してしまえば、特定の個人の現時点の思考さえ読み取ることはたやすいことだったのだ。

 一方で、一抹の不安を抱かせる情報も入手していた。
 海中を疾駆しながら、自分と同じ波長の鼓動を発している生命体の存在を感知したからだ。
 数多くの同胞が、自分と同じように世界中の海に身を潜めているのだ。
 そしてこちらの準備が整わないうちに、別の計画が進み始めているということになる。
 地球人類との秘密裏の交渉は、上手く運ばなかったのだ。

 JP01は決断を迫られた。
 同胞の計画、あるいは作戦に同調するか否か。
 その場合は、自分自身の計画に制約が生まれるだろう。
 しかし、より良い結果に導くことも可能になる……。
 ただ、そのためには、自分の部下が今回の作戦に参加していることが必須となり、彼らと接触することが条件となる。

 逆に、元々の自分の計画を、あくまで一人で実施するべきだろうか。
 その達成点は、それだけでも非常に魅力的だが、その後のこととなると……。


 仲間を探そう。
 プロセスは変更だ。
 JP01は、決断した。


 やがて、カリブ海のフロリダ半島に近い、とある海岸にたどり着いた。
 海面に浮かび、待った。
 彼女が今日、海岸近くで特殊な植物を収穫する予定であることを知っていたのだ。しかも、予定が変わらなければひとりで来るはず。

 遠くで砂塵が舞った。
 閃光が光った。
 彼女は兵士ではないが、大陸をひとりで横断できるほどの戦闘能力を備えているはず……。

 みるみるうちに近づいてくる。
 肉眼でも人の姿が視認できる距離。
 彼女はひとりだ。
 まるで測ったかのように、ジャストポイントに自分は浮かんでいる。
 幸運だった。


 海中に浮かんでいるとはいえ、彼女のセンサーはすでにこちらの存在を感知しているだろう。
 こちらに関心を払わなければ、海の中に入ってくるはずだ。
 襲うのは簡単だ。
 邪魔だと判断すれば、攻撃を仕掛けてくるのは時間の問題だ。

 はたして、レーザー砲がこちらを向いた瞬間、閃光が発射された。
 その刹那、JP01は姿を消し去った。
 イルカのような肉体は、目に見えない微粒子の粉末となっていた。


 レーザー弾が派手な音を立てて、辺りの空気や岩や海水を切り裂いた。
 しかしそのときすでに、霧となったJP01は一気に五百メートルほど突き進んで、彼女の体を覆っていた。

 JP01はたちまちもう一人の自分自身の体内に進入し、彼女がどんな行動を取るより早く、ひとつの作業を終えた。
 そしてたちまち、再び霧状となって海に戻った。

 さあ、探そう。仲間を。
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