貴方はきっと初恋の人
その人は常に皆の輪の中心にいた。
弥生がこのオンラインゲームを始めてすぐに入ったギルド。そこでその人――プレイヤーネーム“紅葉”に出会った。
紅葉は所謂廃人プレイヤーというもので、レベルも高く、金運にも職にも友人にも恵まれ、その穏やかな日向のような性格から、人に嫌われることはほぼなかった。ギルドマスター以上に頼られるその人を、ゲームを始めたばかりでペーペーだった弥生は盲目に慕った。
紅葉さん、紅葉さん、紅葉さん。
駆け寄る弥生に嫌な顔一つせず、紅葉はいつも話を聞いてくれた。弥生が懐けば懐くだけ、紅葉は弥生をかまってくれた。返ってくる「どした」という文字が、弥生は一等好きだった。
ギルドの重鎮として、若いメンバーの面倒を見る苦労を厭わない人だったのだろう。たまり場に集まった時、紅葉はいつも弥生の面倒を見てくれた。装備は揃ったのか、狩場は今どこに行っているのか、誰と組めるようになったか、どんなスタイルで狩っているか――。弥生はその一つ一つに、足りない知識の中で、必死に言葉を集めて答えた。
ログインしてすぐにギルドメンバー表を確認する。紅葉がいると、心が跳ねた。
その内、紅葉の隣に人がいることに胸が疼くようになった。自分よりレベルが低いものを相手にしていれば嫉妬をして、自分よりレベルが高いものと遊びに出かけていれば、また嫉妬した。
子犬のようにじゃれつく弥生に、紅葉は常に優しかった。それはもちろん、弥生に限ったことではなかったが、それでもよかった。初心者の自分が、すぐに埋まるレベル差じゃないことはわかりきっていた。追いつけなくていい、追いつくつもりもない。ただこのまま、紅葉の「どした」が届く場所にいたかった。
「ごめん、リアル事情でしばらくインできなくなった」
唖然とする弥生の前で、マスターは冷静だった。今思えば、ギルドメンバーに言うよりも先に、マスターに話を通していて当たり前だったのに。弥生はそんなことに頭も気も回らないほどゲームに不慣れだった。「何々、リア充始めんの~」と茶化すマスターに「そんなわけが」と笑って答える紅葉。そんな和やかな場面を映し出すディスプレイを、ぼんやりと弥生は見つめていた。
そしてその日、明け方まで遊んだ紅葉は――二度と弥生の前に姿を現すことは無かった。
【 貴方はきっと初恋の人 】
「堺、サカシタから応援に来ることになった本郷くん。よろしくしてやって」
「本郷と申します。短い間ですが、よろしくお願いします」
眼鏡をかけた痩身の男は頭を下げると名刺を差し出した。弥生は癖でキーボードのCtrlとSキーを素早く押すと、椅子を鳴らさないように静かに立ち上がった。本郷の差し出した名刺を両手で受け取ると、自分のものも差し出す。
「堺と申します。サカシタさんからの応援だなんて心強いです。どうぞよろしくお願いしますね」
弥生の笑みに本郷も笑みを浮かべる。お互いにお愛想だとわかっている仮面が崩れたのは、部長の大きな笑い声だった。
「本郷くん、楓さんと言うんだと。女性みたいで綺麗な名前だよなぁ」
「部長、それセクハラですよ」
「えっ、そうなの? やだ。そういうつもりじゃないからね?」
本郷楓は人の良さそうな顔に、それに負けず劣らずの笑みを浮かべると、穏やかに頷く。
「よく言われるのでお気になさらないでください」
「ほらみろ堺。本郷くんの穏やかな返事を」
「社交辞令ですよ、部長」
「いえいえ、本当にお気になさらずに」
にべもない弥生の言葉に、楓は笑いながら告げた。その柔らかな気性に感心しながら、部長がうんうんと頷く。
「きっと紅葉の綺麗な日に生まれたんだろうね」
「はい。地元が蘇芳市の方で……他所から嫁いできた母が、初めて見た時に感動したのだと言ってました」
「あぁ、蘇芳か。いいね、秋はいつも家族で見に行くよ。自然薯蕎麦も美味しいよねぇ」
部長と楓の会話が、川を滑る紅葉のようにのんびりと流れていく。雑談なら私のデスクから離れてしてくれないかな~~~と思えど、言えるはずもない。弥生は鍛え上げた笑みを張り付け、相槌を打つ。
「じゃあ、今夜飲みに行こう。応援祝いに奢るよ」
部長は楓を気に入ったようで、他所の会社からの大事な人質――もとい応援だというのに、容赦なく誘った。弥生は部長のこういうざっくばらんなところを好いていたが、他所の人はそれに限らないだろう。どう上手く有耶無耶にしようか弥生が考えを巡らせた時に、楓が口を開く。
「今夜ですか?」
「おや、忙しかった? 金曜日だもんね、いい人でもいるかな?」
だから部長、またセクハラ……と慌てて止めに入ろうとする弥生の隣で、楓が穏やかに応える。
「いえいえ、そんなわけが。ご相伴にあずかってもよろしいんですか?」
弥生は、あれ。と息を詰めた。何か、懐かしい記憶がせり上がってくるようだった。
――何々、リア充始めんの~
――そんなわけが
「堺ちゃんはどうする? 部長としては若い女の子ににこにこってお酌してほしいんだけど~……あ、これもセクハラ?」
「そうですね」
「言うねぇ本郷くんも」
はっはっは、と笑った部長が胸を張る。ビール腹がドーンと突き出された。いつもなら「叔母が急病で」とか、「叔父も急病で」とか「甥が出産で」とか。何かと理由を付けて断る弥生だったが、今日は笑顔で小首を傾げた。
「部長。私、青木の焼き肉が食べたいですぅ」
「お、堺ちゃんも色男がいれば釣れるんだなぁ。けど青木は駄目。あっこ高すぎ」
***
早々に出来上がった部長は自腹で弥生と楓に青木で焼肉を奢ると、携帯電話にかかってきた愛娘からの呼び出しに応じ、嬉々としてタクシーに乗り込んだ。青木の看板の下でポツンと残された弥生と楓の間に、気まずい沈黙が流れる。
「えーと、もう一台拾いますか?」
安直に告げられるお開きの言葉に、弥生は小さく首を横に振った。
「本郷さんさえよろしければ……こちらの都合ばかりで申し訳ないんですけど、もう一軒いかがです?」
弥生の言葉に楓は少し目を見開く。少しの間逡巡すると、では、と伏せ目がちに弥生の提案に乗った。
二件目にしけこんだ店は、初対面でも気兼ねなく入れるカフェにした。程よく回っていたアルコールは、夜風に当たり既に飛んでいる。
「個人的な話でもかまいませんか?」
弥生の言葉に、楓のフォークがとまった。ガトーショコラに刺そうとしていたフォークは、何も掴まないまま元の位置に戻される。
焼肉店では、主に部長が喋るのを肉を食みながら接待しているだけだった。彼の家族の素晴らしさに賛美を送り、年頃のお嬢さんとの摩擦削減に努め、最後には「僕は部長としてまだまだだから」と泣きだす部長の背を撫でる。数少ない彼との飲みは、始終こんなもんだった。
そんなことだから、楓と弥生は焼き肉店でほとんど会話を交えていない。部長もいなくなり、職場仲間となったとは言え日は浅い――浅いどころか浅すぎる――弥生と、二人きりで飲むのは、中々楓にとって勇気が必要なことだった。そこに加えて、先ほどの発言。親睦を深める意味だとは思っていても、楓は弥生の意味深な言葉に時を止めたのだ。楓は、こういう空気に慣れていなかった。
「もちろんです」
「ご趣味は何ですか?」
あれ、これ見合いだっけ。だとすれば仲人さっき帰っちゃったんだけど――。楓はガトーショコラにフォークを刺した。ぽろぽろ、と壁が崩れて皿に落ちる。
「そうですね、趣味――ゲームとかでしょうか」
きたっ。と小さく呟いた弥生はテーブルの影で握り拳を作った。楓は俯いたままガトーショコラをつついているので、弥生の喜色が満ちた表情は見ていない。
いかにもモテなさそうな目の前の男は、いかにもそう言う趣味を持っていそうだった。一言でいえば、おたくっぽい。社会人の必須アイテムスーツで諸々隠されているが、同類の鼻はきく。弥生はそう直感していた。
「私もゲーム好きなんです。どんなのやるんですか?」
「世代ですから、ポケモンとかスマブラとか鉄拳とか……。わからないかな? あ、CMでよくやってるモンハンもやりますよ」
そんなお上品な回答求めてんじゃねえんだよ。
弥生はホットワインをシナモンスティックでくるくるとかき混ぜた。
合コンでパンピー相手に返すような、上司の娘さんと見合いしたときに用意していたような、そんな答えはほしくなかった。弥生は、ほろほろと崩れるガトーショコラを見ながら言った。
「ポケモン、私もやってましたよ。……オンラインゲームとかは?」
「オンラインですか……対戦はやりますけど、最近はしてませんねぇ」
弥生のあまりの眼力に、食べます? と楓が皿を差し出してきた。弥生は慌てて、ふふふと微笑む。
最近はしていない。その言葉に弥生は勢いづいた。
「そうなんですねぇ……世代、同じぐらいそうですよね。本郷さんっておいくつなんですか?」
「28ですよ」
「私、26なんです。近いですね」
「そうですね」
弥生の微笑みに、本郷も微笑みを返す。眼鏡を上げる指が、酔いも手伝いとてもセクシーに感じた。
満足いってグラスを大きく傾ける。口の中に広がる葡萄とスパイスの香りに、乾杯! と、弥生はグラスを仰ぎたくなった。
共通点は微々たるものだろう。それでも、彼が、本郷楓が――紅葉だと。弥生はそう思った。
趣味はゲーム。楓と紅葉。10年前に18歳ということは、大学受験なり就職活動なりをしただろう。大きな身辺の変化もあったはずだ。長年続けたオンラインゲームを、引退するほどの――。
弥生は高揚していた。とうの昔の話だ。あの頃弥生はまだ16歳で、恋に恋する年頃だった。ゲームが上手くて、優しくて、頼りになる。そんな紅葉に、憧れ以上のものを抱いていたことはきっと弥生よりもずっと、周りの人間の方が知っていただろう。
――そう、紅葉は。
弥生の憧れで、きっと。初恋だった。
「先ほどからすみません。唐突に」
「いいんですよ。僕も急に応援の代打に決まって心細い思いをしていましたから、こうして仲良くしていただけるのは――」
「はい、仲良くしたいんです」
熱っぽい弥生の言葉に、楓がむせた。喉にガトーショコラが引っかかったというには、無理がある。彼のフォークには、今きりとられたばかりのガトーショコラがくっついているのだから。
「私――本郷さんと仲良くしたいんです」
楓は一度あんぐりと口を開けた後に、ぱくりとガトーショコラを放り込んで蓋をした。
***
それから、楓と弥生は携帯のアドレスを交換し、たびたび飲みに出かけるようになった。敬語も最初だけで、今は形ばかりも残っていない。
楓も、弥生の気持ちをどこかで感じているのだろう。二人は職場以外で目が合う回数が増え、メールの回数も比例して増えていった。
「楓君はこういうの好きでしょう?」
4度目の居酒屋で、弥生が本を楓に差し入れた。それから、こういうことが続いている。
楓はありがとうと言って本を受け取った。今日は「男子のための手抜き菓子」という名前の本だった。
「ありがとう、家に帰ってじっくり見させてもらうよ」
「うん」
弥生はクールな顔で、今にも尻尾を振りそうなほど喜んでいる。飼い主に褒めてもらいたい犬のような顔で見つめる弥生を見る度に、楓は笑みを深くした。
「楓君」
「どした」
なんてことない一言に、弥生は喜んだ。普段の淡白な顔は、唇を湿らせた酒に彩られている。
「もうすぐ応援終わって帰っちゃうんだよね」
「うん。セールも終わるしね、だいぶ売らせてもらったよ」
「すごいよね、あんなにアラブの商人みたいに絨毯売る人、初めて見た」
「そう? 嬉しいな、ありがとう」
「今日はね、ちょっと大事な話、したくって」
楓がお猪口を持っていた手が一瞬震えた。「なに」と吐息のような声で尋ねる。
掘りごたつから抜け出し、膝をついて弥生が楓に近づく。楓の隣にぴたりとくっつくと、しどけなく凭れかかった。体温を分け合うように、しばらくの間二人は動かなかった。
それから少しして。楓の服を掴んだ弥生が、そっと上目づかいに見上げてきた。
「楓君はもうきっと、気付いてると思うけど」
「うん」
楓はお猪口に口を付けた。味のない水が、スッと喉を通る。
「――紅葉さん、だよね?」
見上げる弥生の瞳は、期待に揺れている。
そっと見下ろすと、楓は眉根を下げて笑った。
「それが、弥生ちゃんの好きな人の名前?」
え。と、マスカラで縁どられている弥生の目が薄く見開かれた。
「毎日たくさん話しかけてきてくれて、可愛い格好してきてくれて。土産まで持って来たのは、全部。僕の向こうに見ていた『紅葉さん』のため?」
まぁ、名前は似てるもんね。そう言ってお猪口をテーブルに楓が置いた。弥生は楓の腕から身を離すと、信じられないものを見る目で楓を見つめていた。
「気づいてたよ。君の視線も、言葉も、プレゼントも。全部僕をすり抜けてることぐらい」
弥生は最初から積極的だった。
楓は元々、あまり女性に縁のある方ではない。平均的な見た目に、内向的な性格。女性という蝶を追うのには、楓の根は深すぎた。
こんな風に初対面からアプローチを受ける事など、今までの人生で一度もなかった。疑ってかかって、当然だろう。恋に浮かれる学生の頃ならまだしも、もう三十路も手前。いい年だ。
何かの間違いなのか、他社のものだから後腐れがないと思ったのか、遊び慣れていない自分を面白がっているのか。疑う自分と、可愛らしい女性にアプローチされて喜んでいる自分がいた。
疑ってかかっていた。浮かれていないつもりだった。けれどどうしようもない程に、浮かれていた。
次第に、その全てが。自分の邪推であればいいと、感じるようになっていた。
この視線も、言葉も、プレゼントも。
すべて君が僕のために施してくれたものだと。そう思いたがっている自分に、楓は気づいていた。
しかし、感じる違和感はどうしても留まらなかった。弥生はあまりにも、唐突だった。最初から、楓のことが好きで堪らないと、全身で表現していた。色恋沙汰に疎い楓にさえも、好意の塊が見えるほどだった。部長には気が早いことに「月下氷人しようか?」と言われるほど。
それはあまりにも、唐突で、心を伴っていなくて。
残念ながら楓には、女性をそれほど虜にできると自負できるものを持っていなかった。だからだろう。冷静に彼女を見極めようとすることが出来た。そして気付いた。彼女が自分を通して――誰かの面影を重ねていることを。
見開いた目が真っ直ぐに楓を見つめている。こんな時ですら、彼女は逃げようとは思わないのだ。すでに体が震えそうなほどの勇気を振り絞っている楓は、弥生の美しさにくしゃりと笑った。
「けれど僕だって。こんなに可愛い人からこれだけ好意を向けられていて。何にも感じないわけじゃないんだよ」
弥生が視線を外して、身を捩る。手を伸ばせば触れられる距離にいるのに、楓は身じろぎ一つ出来そうになかった。
弥生から受け取った製菓の本を横目で見た。食べることは好きだが、作ることにそんなに魅力は感じなかった。 あれは『紅葉さん』の趣味のものだろう。楓は弥生からプレゼントをもらうたびに、いつも気が重くなった。
「ここまできたんだ。白黒つけよう」
楓の言葉に、びくりと弥生の肩が震えた。先ほどまであれほどとろけた顔をしていたくせに、今では顔を蒼白させている。
楓が自分の重ねた相手じゃないとわかった途端に、何という手の平返しだろう。まるで悪鬼を見るような顔をする弥生に、楓は薄く笑って視線を逸らした。
「このまま、この本を持って帰るか。それとも――大人らしく責任を取るか。君が好きに選んでいいよ」
思考が追い付かないのか、弥生がポツリと呟く。
「責任、って?」
「さぁ、何だと思う?」
「……ホテル行く?」
楓は笑いたくなった。なんてことだ。『紅葉さん』じゃない自分には、そこまで価値がないのか。強く目を瞑り、まだ中身が残っているお猪口をテーブルに置いた。もう、何一つ口にする気にはなれなかった。
立ち上がる楓に、弥生の体が大きく震える。君の一晩の相手を務めることはないのだから、それほど怯えなくてもいいのに。しかし弥生にかける言葉も思い浮かばなかった楓は、乱暴に鞄と背広をひったくった。
紅葉へと贈られた本は置いて行こう。楓は背広に手を通して、まだほとんど何も書かれていない伝票を掴むと、弥生を見下ろす。
「好きに出るといい。もうメールは送ってこないで」
恨み言は、これで精一杯だった。弥生は俯いていて、こちらをちらりとも見上げることは無い。楓は彼女に見切りをつけて、個室から出ようと踵を返す――が。最後にもう一目。もう一目、見ておこうと楓は弥生をもう一度振り返る。
毎朝目が覚めるよりも先に携帯を覗き、声を聞けば心を躍らせた人だ。そう簡単に、心から切り離すことは出来なかった。
弥生の長い髪が、さらりと流れる。覗いたうなじを見て、楓は息を飲む。
どれほど酒に酔っても、顔色一つ変えなかった弥生の肌が、首まで真っ赤だったのだ。
「弥生ちゃん?」
楓が一番に考えたことは、体調を崩したのではないかということだった。急激な心への負担が、彼女の体に酒を回したのではないかと思ったのだ。慌ててしゃがんだ楓は、弥生の肩を掴んで上を向かせた。驚きに息を飲んだ弥生と楓の目が、かっちりと合う。
弥生の目は、潤んでいた。顔は真っ赤で、化粧が浮いている。
「辛い? 病院行く?」
「ま、待って、なん、で急に」
顔を隠そうとする弥生の腕を楓が掴む。
「暴れちゃ駄目だよ」
「暴れたくってこうしてるわけじゃ……!」
「辛いんじゃないの? 吐きたい?」
「はっ……吐きたくないっ」
「恥ずかしいかもしれないけど、トイレ、ついてってあげるから」
「いいっ、いいっ、ちが、これは、ちがって。お酒のせいじゃ、ないから!」
私がお酒じゃ赤くならないの、知ってるでしょ! やけっぱちでそう叫ぶ弥生に、楓はほっとして腕を離した。意識はしっかりしているようだし、これだけ元気があるなら大丈夫だろう。そう思って、はたと気づく。
――お酒のせいじゃないから。
では、なんのせいだと?
楓に思い当たる節はない。直前までどんな会話をしていたのか、楓は遡った。
――……ホテル行く?
まさか、あのたった一言が。いかにも言い慣れていそうな、さらりと零した一言が。
どれだけ酒を飲んでも顔色一つ変えなかった弥生を、首まで真っ赤に染めていると、そう言うのか。
「楓相手でも、赤くなれるんだ。それぐらいは好かれてた、って思ってもいいのかな」
自嘲する楓に、弥生は怖々と目線を上げた。
「……怒ってる?」
「怒ってるよ」
楓の言葉に、弥生は再び目線を下げた。
「でも、僕は君にいいように弄ばれたから、怒ってるわけじゃないよ」
弄ばれてる、楓は自分で言って自分で笑ってしまった。しかし、その言葉が一番しっくりときた。
「君が僕に誰かを重ねてることなんて百も承知で、僕は君の終わらない恋に付き合っていた。君の古い恋が終わるのを、ずっと待っていたよ。新しい恋を始める瞬間が、目の前に僕がいる時であるようにと。そう思って」
弥生が目を見開く。これ以上赤くならないと思っていた顔を、更に赤くさせた。
「けれど君は、そんな僕の純情を見事に裏切ったね。僕の告白に、君が返したのは股を開くこと。これだけだった」
「あ、あれは。楓君が、失礼なことした私に、怒ってるんだと思って――」
「そうであっても、股を開けば気が済む男だと思ってたんだろ? それで話が終わるとも」
「ち、ちがっ」
「へぇ? じゃあ、ベッドから二人のこれからを始めようとしたのかな? 感心しないな」
「わ、私、初めてだからっ!」
楓は仰け反った。
「初めてだから、それで、責任を、取ろうと」
尻すぼみになった弥生の顔は、今や赤を通り越してどす黒かった。
「失礼なことしちゃったし、他の人と勘違いしちゃったまま過ごすなんて、謝ってすむ事じゃないかもだし、謝って、済ませたくなかったから……だから、ちゃんと話し合いたくて、ここじゃだめなら、ホテルで、そんで、もらってくれるなら、私のバ、バ、バージ」
「ごめん、わかった。ごめんね弥生ちゃん」
今にも泡を噴きそうな弥生を、楓は優しく抱きしめた。
「ごめん、悪かった。僕が全部、悪かった」
誰かを重ねて見ていたのは、楓も同じだった。弥生の振る舞いから、弥生は“そういう女性”なのだと信じて疑っていなかった。恋に積極的で、男性にアプローチを平然とかけ――気軽にホテルに誘うような。そんな女性だと。
しっかりと相手を見ていないのは、どちらだろうか。
弥生は、勇気を振り絞って。あんなに馬鹿みたいに下手くそに、楓を誘ってくれたのに。
「あ、謝らないでぇ、こ、これで、終わりは」
「うん。終わらない。ごめん」
もう帰らないから、という楓を、弥生は半信半疑の目で見上げた。先ほどまでの気持ちが嘘のように、楓は今、素直に弥生と向き合えていた。
楓は慌てて背広を脱ぐと隅に放り投げ、持っていた伝票をテーブルの上に置いた。
「ほら、帰らない」
「……」
楓がいつもの風体に戻ったため、少しばかり落ち着いたのか、弥生も呼吸を戻した。
「紅葉さんのことは……」
「その話は今はいいよ」
「聞いてほしいんだけど、駄目?」
「……他の男の話なんて、今は聞きたくないなぁ」
君の気が済むなら、でも、うーん。と頭を掻き毟る楓に、弥生は二度瞬きをした。
「紅葉さん、たぶんだけど、女性だよ」
「そうじょ……せいっ?!」
楓は思いっきり振り返った。
「正確には、リアルどっちかはわかんないんだけど……前に、聞いたオンラインゲームの女キャラの人で……」
「あぁ、言ってたね。けど僕、オンゲには手を出してないから、感覚がよく……」
「はっ!?」
「え?」
「してるって言ってたじゃん!」
「いや、ポケモンやスマブラのオンライン対戦はしてるけど……オンゲはしてないよ」
弥生は楓の言葉を噛み締めると、ぐぅと唸った。
「そう聞いてれば、私だって、こんな勘違い……」
「何か行き違いがあったようだけど……それはいい。で、女性って?」
「……いいじゃん。オンゲしてない人に語りたくない……もう黒歴史だよ……」
「いいから言って」
楓の言及に耐え切れず、弥生は口を開いた。
「オンラインゲームで知り合った、女キャラの紅葉さん。ずっと女だって思ってたけど、オンラインゲームって、リアルの性別関係なくキャラクター作れるから……。楓くんが紅葉さんだって思った時、実は男性だったんだーって……」
「ふうん?」
「ずっと憧れてて……女の人に、変なのって思うかもしれないけど、たぶん、初恋で……けどもう10年もたつし、全然思い出すことなくなってたはずなのに……楓君と、共通点が多くて、つい……」
「勘違いしたんだ」
「そうです……」
本当に、紅葉さんじゃないの? そう見上げる弥生に、楓は苦笑した。
「女性でもなんでも、初恋の人なら妬ける相手に変わりないな。成って変われるなら成り変わりたいけど、残念ながら、さっきも言ったとおり僕、家ゲー専門だから」
「……そっか。でも、紅葉さんだと思ってたことは、申し訳ないと思うけど、そ、それだけで、こんな毎日メールしたり、飲みに出たり、しないし……」
沈黙が続いた。お互いの気持ちは、これで知れた。
すぐそばで弥生が震えている。今なら、手を伸ばせるんじゃないかと、楓は体を動かした。
「やよ――」
「そろそろッ!」
スパンッッ、と音がして、襖が開いた。
「ご注文をお聞きしてもッ、よろしいでしょうかッ!」
店員の真っ赤な顔色が、二人の会話が終わるのを見計らっていたことを伝えていた。
二人は同じほど顔を赤くして、慌ててメニューを覗き込み――笑い合った。
おしまい
おまけ。
「えっ、あのオンラインゲーム始めたの? え? しかももう転職してるの? えっ、レベル、80……? ちょ、嘘でしょ。なんで私よりも強くなってるの?!」
「僕の好きなゲーム聞いて納得してたじゃない。ポケモン、スマブラ、格ゲー……どれもやり込み系だよ」