上空から、この世にあるものとは考えられぬほどの形相の異形鳥が、迫ってきた。
俺は咄嗟に、持っていた長刀を抜いた――…
その昔、人と魑魅魍魎、窮鬼らが共存していた頃。
人は異形に食われ、苦境の悲劇に浸っていた。
その最中だからこそ、菩薩神は迷った。
人が為に異形らを全て退ずるかと。
しかし、異形にも“命”がある。その上、総ての異形が悪行に走る訳ではない。
ならば、人を襲った異形だけを退じればいい。
しかし、自分だけでは到底人手が足りない。それに他の職も抱えている。
それならば、異形の退治を仕事とする神を作ろう、菩薩様はそうお考えになった―――…
「おい。何処だよここ……」
真っ暗闇のその異空間で、少年は一人忽然と存在した。
しかしもっと不思議なのは、自分が誰かさえもわからない事だった。
「…………」
取り敢えず、まだ闇に慣れぬ目を無理に働かして、自分の姿を見ようと、視線を下に流した。
背に垂らす艶を浴びた長髪に、上品そうな手触りの着物。
そして何故か、彼の腕にはどこかの家紋らしき紅黒い円の刺青が施されていた。
腰に指した刀を見ると、どうやら自分は何処かの浪人侍らしい。
しかし、どの時代から来たかは全く覚えていない。
それでも、少年にはこうしている間も、暗闇に対する不安より、苛立ちの方が強かった。
これがもとの自分の気性なのだろうか。
つい舌打ちが出てしまう。
「ちっ……。何処なんだよ、いったい……」
「……だいぶ血迷うてで御座いますね。まあ、無理もありませんが」
驚いて後ろを振り向くと、其処には先程まで見掛けなかった青年が姿を現した。
東洋異国の衣を纏い、首には大きな数珠、うっすら蒼い長髪を紐状の物で緩く結っている。
先程から常に笑みを見せ、柔らかな表情であった。突然現れた青年に、呆気をとられていた少年に向かって、青年はその口を開いた。
「……まず、大まかに説明を致します。貴方は先刻、亡くなりました」
「………は…?」
この男は、いったい何を言っているのだろう。
再び彼の口が開かれる。
「貴方の生前の記憶は、定めにより消させて頂きました。
無駄な感情を持たない方が仕事をしやすいですからね。
……そうそう。貴方に新しい名を与えなければなりませんでした。そうですね……」
「あんたはいったい……?」
黙っていた少年が、ようやく言葉を発した。
「ああ。それは今からわかりましょう。……ただ、我が主からの命で、貴方を此処に連れて来た者、とでも言いましょうか。渚奉とお呼び下さい」
少年は青年のその言葉に、ただ頷くしかなかった。
すると今度は、渚奉がパチンと手を叩き、何かひらめいたような表情をした。
「そうだ!!貴方の新しい名前は、琥珀にしましょう」
「……琥珀…?」
「そうです。貴方は珍しい、琥珀の瞳を持っておられる。だから、琥珀」
少年―――否、琥珀は男が何をしたいのか検討もつかず、ただ呆然と突っ立っていた。
「琥珀。早速ですが、貴方にはこれから、一人の神となって頂きます」
「……は?」
いったい今日で何回目を丸くしたことだろうか。
数えてもきりが無い。
「これも、かの崇拝すべき、偉大なる菩薩神様のお考えなのですから……」
――そして、菩薩様はお考えになった。
この日の国の四方に、闘神を四人置いて、各地の異形が人を襲えば、彼らにそれを退治て貰うようにしようと。
菩薩神は、その四人の神々の名を、天誅闘四神と称した。
彼らの主な武力となるのは、特殊能力添付の長刀や、札や印などだ。
琥珀はそのうち一本の長刀を与えられた。
しかしその使用法は、渚奉に聞いても、いずれ使えばわかると一言言われただけだ。
また、四神とは四方を司る神だ。
うち、琥珀は東を位置する青龍の力を象徴するよう、菩薩様は考えられた。
その青龍が琥珀とどう関わるかは、またいずれわかることであろう。
「生活習慣や睡眠容量も生前となんら変わりありません。わたしや菩薩様から要請があるまで、下界で適当に過ごしていてください。
必要になればわたしが現場に飛ばします。
まあ、そんなに休んではいられませんよ。
なんせ、妖魅は日に休みなく殺生を重ねますからね。それに異形を一体倒すのも、そんなに容易な事ではありません。ですがもし異形に敗れても、貴方は不死身ですから、それ相当の痛みを伴うだけで、どんなに痛くても、死する事はありません」
「……渚奉。色々問いただしたいが、どうやら従うしかないらしいな。ならばせめて二つ聞きたい。
一つ。俺はどうしてその四神の一人として選ばれたんだ?」
唸るように尋ねると、相手は今尚その笑みを絶やさずに答えた。
「それは、菩薩様が、貴方が一番この任に合うと見られたからです。なんといいましょうか。菩薩様は、先を見られたのです。直感、と言ってもよいでしょう。わたしは誘導役として召されただけですから」
「そうか。なら二つ目。
俺は死なないとお前は言ったな。ならば、年を重ね老うと、俺は死ぬのか?」
そう問うと、渚奉は少し哀しそうな目をした。
それはまるで、目の前のものを哀れむかのように。
ゆっくりと首を横に振る。
「いいえ。貴方はこれから暫く、年を取る事が出来ません。
その体の方が一番異形を退治しやすいでしょうから。
それに貴方は、この国の魑魅魍魎を五百年退治しなければ、残念ながら極楽浄土へは逝けません」
「………」
琥珀はいかにも怪訝そうに眉を顰めた。
「すみません。本来ならば、貴方は生前の行いにより、地獄に堕ちなければなりませんでした。
しかし。貴方の生涯はあまりにも酷過ぎる。信じていた方に殺されそうになり、逆に殺してしまった。
勿論貴方はそれを悔やみ、殺生の償いに頭を丸めようとしました。
しかし、貴方はそれを成す前に亡くなってしまった。
こうして貴方は恵まれないまま、十七年しか下界に残れませんでした。
これでは貴方がこのまま地獄に堕ちるのは、普通の地獄人に比べ、些か不公平というものです。
菩薩様は、貴方が邪心の欠片も持ち合わせていない事をご存知でいらっしゃいます。
すべての人を極楽へと望む菩薩様は、閻魔様に交渉して、貴方が“善”成す事を条件に、貴方が地獄を逃れる事を可としたのです。
ご理解頂けましたか」
「……成るほど。どうせ俺に拒否権はない訳だろ。なら、抵抗しないほうが得だろ」
「それでは、四神になって頂けますね?」
「……まあな」
「ほう……。決心が早いですね。さすが、菩薩様が当てたお方だ」
そう言って笑う彼の笑みは、いつかの昔に見たような、菩薩仏像の笑みに似ているような気がした。
「さて、長話も済みました。
これから貴方を、貴方が倒すべき最初の異形の所へ飛ばします。
貴方を飛ばすのは、青龍の置かれる東方が主です。
倒した後の行動は、自由にとってもらって結構です。時代は貴方が生前いた時代ですので、あまり不便はありません。
では……」
“健闘を祈ります”、そう最後に聞こえた気がした。
次に目を開けたとき、広がったのは、生い茂った樹木の数々と、僅かに聞こえる鳥の囀りであった。他に人は見られない。
それを目にすると、今まで見てきた事が、まるで夢のように感じられた。
しかし、残念なことに彼の腰には、渚奉より譲り受けた細い長刀がしっかりと差されていた。
「……本当に異形などいるのか?」
たしかに、見回す限りは生い茂る樹木のみ。上空では鳥が思うがままに戯れている。
刹那、琥珀の遥か頭上から、森全体が影を帯びた。
驚愕して上を見上げると、そこには大きく羽を伸ばし、鋭い嘴に爪、ぎょろりとしたまるで瞳孔が開いたかのような目の、紅い妖鳥が姿を見せていた。
妖鳥が奇声を一声鳴いた。
そして、呆然と立ち尽くす琥珀と目が合う。
「これか、あいつが言っていたの異形ってのは」
ぽつりと溢した言葉が聞こえたのか、妖鳥は快速で此方に向かって来た。
その目には、明らかな殺気がはみ出している。
逃げられはしないだろう。
咄嗟に、刀を抜いた。自分でも何をしたかよく覚えていない。
また妖鳥が奇声を上げた。
琥珀は刀と両腕を振り上げ、大きく振り下ろした。
瞬間、銀の瞬風が吹く。否、稲妻だ。
妖鳥ではない、何かが咆哮を上げた。
咄嗟に背後を顧みると、深い蒼の大蛇を思わせる巨体。
そこには、いくら琥珀でも知っている、かの四大神獣が一つ、“青龍”が降臨されていた。
「なっ……!?」
ここまできて初めて、驚きのため冷や汗が頬を伝った。
すると今度は、再び妖鳥の奇声が耳を突き、妖鳥が後ろに退る。
否、あまりの風力に、退がざるをえなかった。
はっとして、自らの手に握られた刀を見ると、風の源はまさに琥珀の刀から流れ出、その風から青龍が姿を見せていた。
見ると、青龍の尾は風と化し、半ば消えかけている。
青龍、白髭の下に埋もれている口をゆっくりと動かした。
“我は汝に仕える者。汝が望むならば、我が力、喜んで捧げようぞ・・・・・・”
凛とした声。しかし、人の声では表せられない。
“思うがままに体を動かせ”
次に気づいたときには、琥珀はもう動いていた。
声の命じられるがままに、妖鳥の横の大木へと跳躍した。
続いて空中で刀を振り下ろす。
すると白い霧の如き大爆風が一帯を轟かせ、妖鳥は反撃する間もなく塵と化し、儚く消えていった。
「死霊に魅入られし狂鬼たちよ、我が命により、今こそ滅せよ―――…!!」
両手に握られた長刀に、切り裂く感触が走った。
息が荒い。安堵と共に大量の汗が流れ出る。
無理もない。
琥珀はこの世に性を受けて今、初めて異形を退治したのだ。
ふと気が付けば、握られていた刀からは、先程の青龍の姿は消えていた。
「今のは……」
「夢ではありませんよ?」
「………?」
肩越しに後ろを振り向くと、再び相変わらずの格好の渚奉が目に入った。
「初めての妖怪退治、ご苦労様です。ちゃんと青龍から気に入ってもらえたようですね」
感想なのか敬意なのか、彼はまた笑顔で言った。
「さっきのは、いったい何だったんだ?」
ゆっくりと体を後ろに向ける。
「ご存知の通り、日の国守護神、四大神獣が一つ、青龍です。
青龍が菩薩様以外の方の手中に入るなど、これまでなかったのですが……。
まさか、菩薩様と青龍、お二方から選ばれるとは、貴方にはなにか不思議な気迫があるのでしょうね」
「…………」
「ああ。そうそう。ちなみに、青龍は戦闘時にしか出ませんよ」
「へぇー…」
無関心に腰の刀を弄くる。
「まあ、何はともあれ、おめでとう御座います。
お疲れに御座いましょうから、本日はお休みください。
懐にある程度の賃金は入っております。それで自由にお過ごし下さい。
では、任務時にはお呼び致しますゆえ」
そう言って、渚奉は消えていった。
いつものことだ、琥珀もさして気にはしない。
懐を確かめると、いつの間にか、一月生活するには十分な量の金が入っていた。
それにしても、人場街まで運んでくれてもよいだろうに。
「はぁ……。歩くしかないか……」
琥珀は、とぼとぼと山道を下って行った。
「あー、くそ……、疲れた……」
いつもの凛々しさを感じさせないほど、深い嘆息交じりに息をつく。
琥珀は用意しておいた布団の中へと飛び込み、うつ伏せに倒れた。
そこでようやく、溜まっていた芯から芯という疲労が、一気に飛び出してきた。
纏った着物が皴を寄せようとも、彼は全く気にしない。いや、気付いていない。
「…………」
初の異形退治を終え、疲れきっていた琥珀は、床に入ってまだ数秒もしないうちに、深い眠りに意識を飛ばした。
これが、彼の四神が一人としての琥珀の出発点であった―――。
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