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幽明の織 作者:時嵩いちか
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4-7. 帰還

「しまったぁ……」

 越谷に戻り、『久々留』のアパートに戻ってから。オレは額に手をやった。

「子猫の食うもんがねぇわ」

 猫のエサだけでも持ってくりゃ良かった。でも、どっちにしろ重てぇしな。

 仕方ない。コンビニでも行って、買ってくるか。猫のトイレは……今夜だけは、洗面器でも使うか。コンビニによっては砂も売っていて、こういうときは助かる。
 いきなり環境変わっちまって、子猫には悪いことしたなぁ。

「どっちにしろ、名前付けなきゃな」

 ケージから出された子猫は、どこだここはと言わんばかりに、ひたすらフローリングの匂いを嗅いでいる。コイツ、オレのことどう思ってんだろ。知らん女とか思ってんのかな。それとも、ちゃんとオレだって分かってんのかな。

 『入居者募集! ペット可』と書いてあるノボリがアパートの前に立ててあったのを見て、心底安心した。なんつーか、オレが住んでたアパートに比べて全体的におしゃれっていうのかな。駐車場の車止めブロックの手前に猫の足跡がペイントしてあったり、そもそもアパートの名前が『フォルテッツァ』だったりする。

 その、おしゃれっぽい名前が刻まれた看板の真下に花壇があって、春になったら花が咲きますと主張していた。
 いかにも女の子が好きそうだ。

 かと思えば、隣の住人はおっさんだった。このアパートの扉の前でも、鍵でもたもたしてたら、おっさんがスッと背後を通り過ぎて隣の部屋に入っていったのだ。「どうもね~」とか言ってたけど、面食らって何も言えなかった。手に競馬新聞っぽいのを握り締めてた。

「コンビニ行くか。ついでに食い物買ってこよう」

 どうでもいい記憶はさておき、再び外出する。振り向くと、子猫が恨みがましい目でじっと見ていた。

「ごめんな、ちょっと留守番してろよ」

 扉を閉めながら。一瞬だけ、背筋が寒くなった。
 全く同じ言葉を、今日。出かける前にも言った気がする。
 また帰ってこれなくなったらどうしようか――と、そんなことを考えてしまったのだ。
 いや、オレは帰ってきたんだ。思い直して首を振る。こんなことは思い出すくせに、肝心の死んだ前後の記憶だけ戻ってこない。そういうものなんだろうか。

「……ほんとにすぐに、帰ってくるからな」

 そういい残して、オレは部屋を出て行った。



 時計を見ると、もう日付が変わっていた。オレのイブは終わった。

「眠ィ……疲れた……」

 『久々留』の明日のスケジュールは知らないが、確認するのも疲れた。知らん、オレはもう寝る。

 コンビニで買ってきたカップラーメンをかっこんで、子猫にもエサをやって、洗面器に猫用のトイレ砂を入れて。

 ぐだぐだになりながらも、歯だけは磨いた。服は着替えなかった。

 ――そういやツバメ、ずっと黙ってたな。オレが感傷に浸ってたからかな。

 ベッドに仰向けで倒れこむと、柔軟剤の匂いがした。オレの部屋とはエライ違いだ。女の子だなぁ。そのまま転がると、消臭・除菌のスプレーみたいなやつがベッドの脇に置いてあって『生花の匂い』とか書いてあった。なんか生き物が違うわコレ。

 そういやさっき、はじめて『久々留』の顔を見た。洗面台で。

 顔面は思いのほか太ってはいなかった。目が死んでいるのは、そういう顔立ちなのか、今のオレがそういう精神状態なのか分からない。
 やっぱりそれよりも不健康そうなのが気になった。何だろう、この妙な感じは。顔の色も白くて、髪の毛も細い。
 ひとつ結びにされた長い黒髪は、疲れきって髪ゴムから飛び出してる。全体的に栄養が行き届いてなさそうなのに、太ってる。今、疲れているだけではなく、やはり血のめぐりが悪いようだった。

()せるかぁ……」

 オレは元々、中肉中背といった平均的な身体をしていた。もーちょっと筋肉欲しいなぁ、とか考えてた。ダイエットなんてしたことない。

 ――アンコまみれなんだっけ。

 アンコってなんだよなぁ。アンコの重さなんじゃねぇの? 七十キロって。

 天井を仰ぎ見ると、まるで知らない人の部屋に泊まりにきたみたいだ。
 ここは、どこなんだろう。そんな声が、時折思い出したように頭をよぎる。

「うぐっ」

 急に、子猫がオレの腹の上に跳び乗ってきた。まだ小さいとはいえ、いきなり来られるとビックリする。

 ――少しだけ、泣いてしまった。

 そのまま、オレは沈み込むように眠りについた。『おやすみなさい』と、ツバメの声がしたような気がした。
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