第二夜『凶児と呼ばれた豪傑、戦火の凶兆に大義を示す』
英雄百傑外伝 ―英傑達の休息―
第二夜『凶児と呼ばれた豪傑、戦火の凶兆に大義を示す』
信帝国暦181年。
関州は京東郡、文興の街。
「オギャーオギャーッ!」
雲の陰りのない明けた青空の中、瓦葺きの小屋の中で、絹を裂くような女の一声と供に、一人の赤子が大きな産声をあげる。日輪を透くような小麦の色肌を持つ男の子、その赤子の名はスワト。
後に監獄破り、賊兵3百人斬りなどを行い、天下希代の豪傑と言われるまでになる信帝国官軍ミレム軍の中核を成す人物である。
「これは…奇児じゃあ!人に在らざる異形じゃ!」
赤子を取り出した途端、思わず仰天して転びそうになる産婆。
両親が産婆の声に驚いて自分達の赤子を見ると、そこには異形の赤子が居た。生まれたばかりの赤子は普通の赤子と違い、人間の腹から出てきたとは思えないほど手足が異常に長く発達し、体の肉付きも赤子の物とは思えないほど肥大だった。
特に驚くべき点は、後頭部が大人の物のように大きく育ち、すでに頭髪が生え揃いつつあったことだ。
「な、なんという奇児じゃ!ご両親、この赤子は凶児じゃ!今の内に捨てるか、殺したほうが良い!そうしなければ後に災いをお二人に投げかけましょう!」
老婆はズッシリと重い感覚を腕に感じながら産声をあげ続ける赤子を抱え、両親の前に突き出した。赤子の両親は凶児という言葉に驚いた。
スワトは、いわゆる赤子の中でも特に成長の早い特殊な過熟児の類であった。
だが太古の昔、この信帝国の治める時代では、こういう体つきが普通ではない赤子を、後々に両親に受けた恩を仇で返し、様々な災いを振り掛けると言う『凶児』と呼び、たとえ無事に生まれたとしても、その場で殺害されたり、人目の付かない場所に置き去りにされる習慣があり、法治国家であるはずの信帝国にも『帰して災いをもたらす凶児、生かすべからず』という法令があるほどだった。
産婆の出て行った後、両親は話し合った。
最初は両親も、凶児という言葉に生まれたばかりの我が子を殺害する意思を固めていた。
しかし、竹細工のゆりかごの中で、穏やかな風に包まれながらスヤスヤと眠る赤子の寝顔が決心を鈍らせた。たとえ凶児と言われても、腹を痛め、身を削って生まれた実の子。決して裕福ではない家計ではあったが、普通の子どもであれば満足に育てる事も、その成長を見守ることも出来た。両親は互いに悩んだ。
そして、凶児と呼ばれた赤子の処置に悩みぬいた三日三晩の後。
両親は殺すのは忍びないと、近くにある小高い山地、人目につかない我牛山に住む、子どもの居ない叔父に預ける事にした。両親はその日の内に、竹細工のゆりかごに一枚の書を挟み、山を登って赤子を叔父シュクラの家へと預けた。
――――――――――――――
時は経ち、スワトはシュクラの家に迎えられて4年目を迎えた。
「わーい!わーい!高い!高い!」
「これスワト!そのように屋根の上をドタドタと走って、この家を壊すつもりか!静かにせんか、この阿呆め!」
「あっはははー!」
スワトは、3歳児とは思えぬほどの巨体に成長していた。
すでに身長は4尺(130cm強)を数え、その体の節々には、すでに子どもの柔らかな肌は存在せず、硬くしなやかな大人の筋肉が付き始めていた。
「むう…」
育て親であるシュクラは困った。
長い山暮らしで、妻も子も居ないという寂しさを紛らわすために凶児を預かったのはいいが、実際に育ててみると、なかなか厄介な代物だったからだ。
まず朝晩の飯は、麦や米などを人の三倍食べる。食べる量に並行して成長も人の三倍。となれば、すぐに着るものが小さくなり、3ヶ月に一つ新しい着物をこしらえてやらねばならないほどだった。シュクラの家は酒造を営んでいたが、それほど裕福では無かったため、金銭面での負担は厳しいものがあった。
それに加えて好奇心旺盛な子どもの心を持つスワトの力は大人顔負け。
家の支柱に掴まってぶらさがれば支柱が折れかかり、家を走れば廊下がミシミシと悲鳴をあげ、屋根に上れば梁がギシギシと震える。シュクラは、いつ自分の家が、この凶児に壊されてしまうのではないかと気が気ではなかった。
「そうじゃ。凶児をただ生かすのは勿体無い。あれだけの力を持つ子じゃ。わしの手伝いをさせてみよう。だが、ただでは納得せまい。どれ昔取った杵柄じゃ、あの方法でいくか」
シュクラは一計を案じた。
シュクラは今でこそ山暮らしに身をやつしているが、元は地方役人を取り仕切る長であり、武家の習いなどに詳しく、頭が良くまわる人物であった。この時、シュクラの案じた一計とは、武家の習いにかこつけて、スワトを自分の手足として、こき使おうという寸法であった。
その日の夕方、シュクラはスワトを呼びだすと、横長の木製の机に一巻の書を広げて、会話を始めた。
「スワト。そこへ座るのじゃ」
「はい」
「黙っていたが、お前の先祖は武門の家系じゃ」
「ぶ、ぶもん?武門とはなんですか」
「武門というのは、この大陸を占める信帝国に仕える武士の一族の事じゃ。帝をお守りし、この国の平和を守る、帝国が家だとすれば、言わばそこに住む番犬のようなものじゃ」
「信帝国?帝…?」
「やはり、今のお前には難しかったか。じゃあ難しい事は辞めじゃ。痩せても枯れてもお前は武士だということを言いたかった」
「?」
「武士には武士の習いがある。日ごろから腕白なお前が成長して、武家の一員となった時、恥ずかしい思いをせぬように、今から武士の節義というものを教えてやろう。良いな、この書を毎朝毎晩読み返し、武士の習いを心に刻み込むのだ」
「は、はい」
不思議がるスワトを前に、シュクラは一巻の書の文字を最初から最後まで読んでいった。
中に書いてあったのは、武士としての気構え、礼節、作法、自尊、帝への忠義など、およそ三百に及ぶ訓示と回訓が書いてあった。まだ幼いスワトは、シュクラの言っていることが理解できるはずもなく、ただ退屈そうに言葉を聞いていた。
そしてシュクラが全てを読み終わる頃には、あたりは夜になっていた。
シュクラのお経のような言葉の連続に、スワトはすっかり眠くなり、こくりこくりと目蓋と首を、下へ下へと落としていた。
「こらスワト!ちゃんと聞いておったのか!」
「わわわ!すいません!」
シュクラの突然の怒声に驚くスワト。
スワトは何もわからないまま、反射的にその場所で両手をついて平伏した。
「出来ておるではないか。うむ。それでよい」
「え?」
「非礼の詫びは礼によって行う。形は悪いが、それは土下座という最上の謝り方じゃ。お前は武家として、まず礼儀を学ばねばならん」
「は、はい」
「まずワシのことは叔父上と呼べ。そして口調も丁寧に武家の言葉に直せ。次は恩義じゃ」
「お、恩義?」
「誰かに親切にしてもらったことを恩義というのじゃ。それはいつか親切で返さねばならん。だからお前は恩義をわしに返さねばならん」
「どういうことですか?」
「お前の両親に代わってお前を育てているのだ。その受けた恩義は恩義で返さねばならんのだ」
「叔父上に恩義を返す・・・?自分は何をすればよいのでしょうか…」
「お前は明日から、わしの指示する雑用の全てをやるのじゃ。辛く苦しくても、それは今まで与えた恩義への恩義返し。決して不平不満を口にしてはならぬ。なぜならお前は武門の生まれ。守らねばならぬことは、どのようなことがあっても守らねばならぬのじゃ。強くなるのじゃ、お前は。武家の一人として」
叔父シュクラの言葉に、スワトは再び平伏して答えた。
「ははっ。おまかせくだされ!」
こうしてシュクラの思惑通り、次の日からスワトの過酷な雑務の時間が始まった。
――――――――――――――
「わっはっはっ!どんなもんじゃーいっ!それっ!次だ!」
我牛山に住む叔父、酒造を営むシュクラの家に預けられてから12年後。
スワトは若干12歳にして、もう大人と見間違えるような体格になっていた。
切り株の上で、重い鉄製の斧を軽々と振り下ろして、膨大な量の薪を割るスワト。長い山暮らしの中で友人は殆ど居なかったが、根が明るく豪胆な性格のスワトは、そんなことを気にも留めなかった。
「スワト、今日も精が出るのう」
「はっはっは!叔父上には、育ててもらった恩がござりまするからな!このくらいのこと朝飯前でござるよ!これが終わったら、それがしは野ウサギでも捕まえて参りましょう。今日は叔父上の好きなウサギ鍋でも作るでござるよ」
「そうか、それは良い。うむ。お前も立派な男になったのう」
「わっはっは!なあに、叔父上の教えを守っているだけのこと!受けた恩義は恩義を以って返す!それだけの事でござるよ」
酒造に使う大きな木製の研ぎ棒を持ちながら、斧を振り下ろし薪を割り、汗を流すスワトを笑顔で見つめる初老を迎えたシュクラ。
「ふふふ。あの凶児がのう…。いや、凶児などではなかったのかもしれないのう。むしろ、今思えば、あれは天の落とし子かもしれん。そう、麒麟児じゃ。あのように子どもとは思えぬ精悍な顔立ちに、真面目で、らしからぬ怪力の数々。老いたわしには、勿体無いほどじゃて」
シュクラは、顎に蓄えた白ヒゲを指で触りながら、感慨深そうにウンウンと頷いた。そして一生懸命に薪を割り続けるスワトを見ながら酒造りへと戻っていった。
今でこそ温厚になった老シュクラではあったが、武家の手習いを教えた日からのスワトへの扱いは酷いものであった。大小すべからく面倒を押し付け、泣いてわめいても強制的に働かせて、家を逃げ出すまで扱き使う。毎日休む間もなく長時間に渡って、子どもだろうと辛く苦しい下働きをやらせて、他人の子だからと思って邪険に扱った。
だが、スワトはそれに対して、文句一つ言わなかった。
むしろ喜んで下働きをやっていた。スワトは誇り高き武家の一員として、両親の変わりに育ててくれているという叔父シュクラの恩義を恩義で返そうと、歯を食いしばって頑張っていた。
熊の様に粗暴そうな見た目と違い、義に厚い孝行者で、率先して叔父シュクラの酒造の仕事を手伝い、ワガママの一つも言いたいだろうとシュクラが思う時も、スワトは一切不平不満を口にしなかった。ただ生かしてもらっているという恩義に対して、付き従うように真面目で一本気な気風は、子どもの居ない叔父シュクラを大いに喜ばせた。
献身的とも思えるスワトとの生活は、次第に老シュクラの父性を目覚めさせていった。その内にシュクラは、スワトに対して『叔父と甥』という関係以上の特別な感情を抱いていた。長い間山に篭り、独り身であった孤独な生活は今、長い人生の中で喜ぶべき至高のものへと変わっていったのだ。
「さあて、そろそろ良いでござるかな。わっはっは、それにしても今日は気持ちが良いほど天気でござるなぁ!山の生き物も、さぞ元気でござろう!」
スワトは薪を縛り上げると、道具を持って山へと駆けた。
葉が色づき始めた秋の山道は、落ちた木の実を求めて歩く動物も多く、木々の隙間から流れ込む、肌をくすぐる風は、労働に汗を流したスワトの火照った体を冷やし爽快にさせた。山道を駆ける足を速めれば、落ちた枯れ葉布団がズムッズムッと沈む小気味の良い音と供に、肩口から流れるような強い風がなびく。澄んだ山の空気を吸いながら風を受けて走る。スワトは、この瞬間が何より好きだった。
「おい!待て!そこのウサギ!それがしのために今晩のおかずになるでござるよ!わっはっは、逃げるか!だが鬼ごっこで、それがしは負けんぞ!そのように素早しっこく逃げるても無駄でござる!おとなしくせい!わははははっ!」
山を駆け回るスワトの顔は、同世代の少年のように笑顔に満ち溢れていた。
長い山暮らしで過ぎてゆく、穏やかな毎日が心から楽しかった。
ある時は燃料の薪を割り、ある時は年老いた叔父の身の回りの世話をし、またある時には山を一日中駆けまわって遊びながら食材を探した。記憶の中にぼんやりと浮かぶ、顔も見たことのない両親の事など忘れて。ただ一人と思う、肉親である叔父シュクラとの充実した毎日を送っていた。
――――――――――――――――
ある頃になると、スワトはシュクラから算術と文字を教わり、老シュクラに連れられて山を降り、酒を問屋に卸すために山から何度も街に出るようになった。
ガヤガヤ…ザワザワ…
山とは違う文化の匂い、その目新しい物の数々にスワトは興奮を覚えた。
そして何度も登山と下山を繰り返すたびに、様々な人と出会った。
汗水たらして農産物を運ぶ百姓、杖をつきながら行商を続ける旅人、鎧をつけて剣を携え見回りをする役人、町人の生計をたてながら物を売る商人、キャッキャッと笑う子ども達、その子ども達の面倒を見る大人。親子という関係の薄いスワトには、理解しがたい光景であった。だが、スワトの心に一番に残ったのは、はにかみながら高い声で笑い街を歩く、同じくらいの年頃の娘達であった。
「お、叔父上、それがし何か胸が苦しいでござる」
「何?熱でもあるのか。丈夫なお前が珍しい。何か悪いものでも食べたか」
「い、いえ。なんというか。あの。街の娘達のことを思い出すと、なんとなく胸が、こう。締め付けられるように苦しくなるでござる。これは病気でござろうか?」
顔を真っ赤にして苦しそうなスワトの発言に、シュクラは白い眉をなぞりながら、こぼれる笑みを隠そうとして照れくさそうに、こう答えた。
「そうかスワト。それは大変な病気にかかったな」
「な、なんですと!叔父上!本当の事でござりましょうか!」
「そうじゃのう。その病は命に別状はないが、惜しい事に不治の病じゃ」
「おおお…なんということでござろうか…それがしが…」
「大丈夫じゃ。わしも若い頃は、良くその病にかかったもの。生きとし生ける者ならば誰でもかかる病じゃ。病名は恋というらしいぞ。なかなか直らぬ事で有名な病じゃ」
「こ、恋!むむむ…恐ろしい病気にかかってしまいました…」
「わっはっは。そう落ち込むこともなかろうスワト」
「し、しかして叔父上は、どのようにしてこの病気を治したのでござるか?それがしは毎晩、この締め付けと戦っておりますが、まるで直る見込みがありませぬ…娘達がこちらを見て笑うだけで、それがしの喉からは生唾が絶えず、頭がカーッとして、クラクラしまする。何か直すコツのようなものがあるでござろうか…」
「ぶわっはっはっはっ!」
スワトの真面目すぎる言葉の数々に、老シュクラは大きなスワトの頭に手をポンポンと数度置いて、腹の底から笑った。
「良いのじゃ。それで良いのじゃスワト。そうでなければ男でない。お主も大人になったのう。そうじゃ。わしも老いたので疲れるから。今度から週に一度の街に行っての酒の売買はお前がやれ。わしの手を離れ、他の者と触れ合って色々と学ぶのじゃ。今日は祝いじゃ。お主が大人になった祝いじゃ」
その日から、スワトは街へ一人で出かける事が多くなった。
山暮らしの中では味わえなかった、叔父以外の人間との会話は、スワトの好奇心を誘った。だが相変わらず娘子との会話には、胸を締め付けられるような感覚を覚えた。
スワトが15になる頃には、街で評判の者になっていた。
時には賊に怯えるお得意様の商家へ用心棒を買って出たり、時には山に入って行き倒れた行商人を助け、時には虎や熊に襲われそうになった旅人を救った。叔父シュクラとの生活で教えてもらった『義』と『仁愛』の心は、彼を色々な意味で成長させた。義に厚く、困っている人を見ると助けずには居られない彼の性格は、街の人に歓迎された。
――――――――――――――
雄々しく腕白に成長するスワトと供に、年月はゆっくりと重ねられていった。
だが、天命というのは、時に残酷に、時に無碍に思えるほど、人の命を脆くも奪うものである。スワトが17歳になる頃、ついに叔父シュクラは二度と直らぬ重い病にかかった。
「スワトよ。わしはもう駄目じゃ。見よ、もう伏せた床から動くのも適わぬ…」
「何を言うでござるか!叔父上!気弱になってはいかんでござる!」
「もう良い。死は誰にでもある。たとえわしが、どんなにお前と居たいと思っても、それは逃れられぬ。天命なのじゃ。最初は煩わしくも思えた、お前との18年間、実に楽しかったぞ…」
「叔父上!!」
スワトの瞳から、一筋、二筋と、あふれ出す涙の行列。
シュクラは、閉じ行く目に薄らと見えたスワトの涙を見ながら、強くスワトにこう言った。
「泣くなスワト。男たるもの人前で簡単に泣くものではない。なに。わしの死は、お前を成長させる、切欠のようなもの。お前は十分にわしに尽した。わしの死を乗り越えて、体だけではなく心も強くなれスワト。強く。そして天下に正しい事を成し、お前の中の仁愛と義を信じて、雄々しくなれ。お前に十分な施しも出来なかったわしだが、この言葉、わしの最後の言葉として、どうか聞いておくれ…」
「叔父上!スワトこの心に刻みました!ですから死なないでくだされ!」
「馬鹿者。そのように女々しく泣いては、わしの死の意味が薄くなろう。耐えよ。お前のように雄々しき者が泣いては、わしも浮かばれぬ…」
「ぐぐ…」
スワトは、眼をとじて喋るシュクラの言葉に従って、顔面に力を入れて涙を我慢した。
だが我慢できなかった。出来るはずがない。17年間、顔も知らぬ両親に代わって付き従ってきた、ただ一人の肉親。早とちりや失敗で罵倒されることもあったが、互いに助け合って親子以上の絆を築きあげた、目の前に横たわる小さな老人との別れ。
「叔父上ぇ!それがしは男でござりますればッ!泣いてなどおりませぬッ!泣いてなどおりませぬゆえッ!安心してくだされ…!」
「そうか…。それでよいのじゃ…」
言葉とは裏腹に、我慢すれど、我慢すれど、スワトの目は涙を流さずには居られなかった。
溢れる水滴が床にポツポツと落ちる音を出さないために、自分の両手で涙を受け止めながら、必死にシュクラの安らかな死を看取ろうとした。
「スワトよ…。わしが死んだら机の書を読むのじゃ…。必ず読め…。そこに、おぬしの生きる道が書いてあろう…」
「ははっ…」
「…スワトよ。最後に頼みがある…」
「ははっ…」
シュクラは言った。
「…わ、わしを叔父ではなく、父と呼んでくれないか…」
シュクラの震える最後の声に、顔面に広がる涙の海を拭い去って、スワトは涙に濡れた手で叔父の手を握り、強く、大きな声で、家屋に響く叫びに似た声をあげた。
「ち…父上ぇ。父上ぇぇぇっ…!!」
薄れ行く意識の中で、スワトの声と、ヌルリと涙に濡れた手に握られた感覚を覚えたシュクラは、どこか安堵に満ちた声でスワトに最後の声を投げかけた。
「…ふ、ふふ。我慢したなど…最後の最後に嘘をついたな。だが優しい嘘じゃ…。その心を忘れるな…。ふ…ふふ…本当に楽しかったぞ。…子の居ないわしが、お前のような者に会えて本当に…よかっ……」
スッ…
「叔父上ぇぇぇぇーーーーーッ!!!」
春の終わりと夏の息吹が織り交ざる風が吹く中、シュクラは息を引き取った。
最後の安堵に満ちた表情は、成長した我が子を見る父のように誇らしくあり、また実に満足気なものであった。
―――――――――
「…!」
シュクラの死の後。
丁重にシュクラを葬ったスワトは、その死に際に言っていた書を取って見て驚いた。
凶児ということで、赤子の自分を捨てたのも同じと考えていた両親が残した、その筆跡には、スワトの大よその家計図と、代々受け継がれてきた、その役目が書いてあった。
スワトは知った。
己が成すべき役目と、己がこれから進むべき道を。
およそ100年前。
時の宰相ゴーロギーン達の専横から皇帝を救った時の英雄ガムダにつき従う、歴戦の豪傑スオウの血を引くスワト一族に課された役目。それは、もし天下の乱れが見えたとき、どのような事があっても自ら立ち上がって、大儀の下に信帝国とその一族を助けるという大役であった。
書の巻末には、義を重んじるスワト一族の系譜と、その誇るべき死に様が詳細に書いてあった。多勢に囲まれながらも諦めず、英雄に付き従って、武運拙く散って行った一族の者たちの末路の数々。
忠義、役人でもない一平民の一族達が残した、その呆れるほど強い愛国心の現れは武人としてのスワトの心を打った。見ず知らぬの皇帝や民のため、信帝国の治世の平和のために戦い、死んでいった一族の名前を見て、スワトは目頭が熱くなるのを感じた。
「おおお…!それがしが豪傑の系譜の末裔…!叔父上…お任せくだされ!それがしが、この国を平和にしてみせまする!」
スワトは、思わず書を握りつぶすほど力強く腕を震わせた。
そしてスワトは、シュクラの残した家財を金に替えて、大陸にはびこる悪を退治しに旅に出た。
今、信帝国に抗う全ての悪に対して、スワトは裸一貫、腕一つで立ち向かっていった。
役人も手こずる100人の山賊を相手を一晩で捕らえたり、河を根城に暴れまわる軍隊崩れの江賊団を小船一つで壊滅させたり、街の者に嫌がらせをする役人をこらしめたり、旅人や百姓を襲う盗賊たちを、その類まれなる腕力と身体能力の数々で次々と伸していった。
方々で噂される、その力を聞いて、役人や賊を問わず用心棒にと誘われたが、スワトはその全てを断った。彼の先祖、英雄に付き従ったスオウもそうであったように、あくまで平民として、人の成し得ぬ悪を退治する生活を送った。
帝国という太陽の影に増え続ける賊退治の旅は、3年にも及んだ。
――――――――――
そして、帝国暦201年、冬。
スワトは旅人や商人達から、天下にはびこり始めた頂天教という邪教の者たちの噂を聞き、事前にその事を知らせようと、南郡の太守へと直訴に向かった。血気盛んな彼は、今帝国内がどうなっているのかも知らず、後先の事も考えずに、ただ駆けた。
スワトは、少ない情報を基に昼夜を問わず走り、大よそまともな武器も持たず、素手で南郡の治安の悪い都市を駆け抜けた。だが流石に各地の賊退治をしながら、武器も馬も無く走るのは、脅威の身体能力を持つスワトでも難しかった。
その間に南郡は頂天教の魔の手が忍び寄り、言葉巧みに太守と結託した頂天教軍が、今や今かと帝国に叛旗を翻そうと居城を取り巻いていた。
そんなことも知らずにスワトは駆け抜け、ついに南郡の太守の住む居城へと付いた。
そして、城から太守が出てくるのを見計らうため、城の近くの森へ住み着いた。一度、太守の居城の衛兵に掛け合ったが、まるで相手にされなかったため、太守が外へ出かけるのを見計らって、直談判をしようと思ったからである。
三日三晩の後、待ちに待ったスワトに絶好の機会が訪れる。
硬く閉ざされた城門から、太守を乗せた馬車の一団が出るのが見えたのである。
木々の影から見えた馬車の一団を追って路上を走りながら、その一団に飛び込んだスワトは、両膝を大地につけて屈み、手を大きく広げて馬車を止めた。
「頼もう!馬車をお止めくだされ!かかる無礼はご容赦くだされ!」
「う、何だ貴様は!全車とまれー!」
馬車の一団は、進路を遮るように入ってきたスワトを前に足を止めると、馬の手綱を握っていた鎧をつけた衛兵達が、いきなり鉄色に輝く剣を抜くと、およそ20人ほどの兵士がスワトを囲む。
「その衣服、賊か!物乞いか!それとも人間の言葉を話す物の怪の類か!いずれにしても、太守様のお乗りになる馬車の一団を止めて、ただですむと思うなよ!」
「なんと?!それがしが賊でござると申すか!」
兵士が思うのも無理は無い。
三日三晩着込んで汚れた衣服を着けて、熊のような風体の大男のスワトを見れば、どう考えても賊に連なる不審者以外の何者でもなかった。ジリジリとスワトとの間合いをつめていく衛兵達の後ろ、最後列に止まった馬車からは、白と黄の二色に分かれた冠をかぶった南郡の太守の顔がチラチラと見え隠れし、何か何かと覗き込んでいた。
スワトは、太守の顔と、囲う兵士達を見て一度平伏すると、こう言った。
「それがしは信帝国への忠義を忘れぬ者!京東郡のスワトにござる!物の怪や賊の類などでは決してござらぬ!太守殿に良い情報を持ってまいったでござる!是非とも馬車をお降りになり、それがしの話をお聞きなされ!」
「黙れ!太守様の馬車を止めて何をするかと思えば、貴様のような下賎の平民が良い情報だと!?そんなことに太守様が耳をお貸しになるはずが…」
スワトの顔の横で剣をちらつかせながら喋る兵士の後ろで、野太い声が聞こえる。
「ほっほっほ、よいよい。この馬車の一団に一人で飛び込むとは余程の覚悟。それにその身なりは、どこぞで待っていた証ではないか。どれ、話を聞こう。スワトとやら」
兵士を割って入ってくる、小太りの太守の姿。
スワトは太守に、南郡に迫る頂天教軍の危機を伝えようと、自分なりの言葉で精一杯に説明した。街の噂程度の話から、行商人、旅人に教えてもらった話、役人から聞いた確たる情報筋、近年起こり始めた天変地異の類を利用して、即位したばかりの新帝を倒そうと目論む頂天教軍の事まで。
「…という次第でござりまする…」
スワトは剣をちらつかせる兵士の横で、悠々と太守に語りかけた。
「ううむむむむ…そ、そそ、それは、うむ…うむ…まことに、うむ。良い情報じゃ、うむ」
しかし、話を聞いた太守の様子はおかしかった。
髪を縛り、冠をかぶった額からはダラダラと汗が流れ、顔は不思議とキツい程の苦味を走らせていた。一直線に見つめるスワトの真面目な視線を太守が感じれば感じるほど、その顔の苦味は増していった。
「太守様、どうされました、その汗」
「い、いやなんでもない。なんでもないのじゃ」
剣をスワトの方に向けながら、いつもと違うおかしな態度と、太守の顔から流れる異常な量の汗を見て、さして暑くもない日だというのに何故?と思う周りの兵士達。太守は焦っていた。
そう、なぜならこの時すでに太守は、頂天教軍と密約を交わし、帝国に叛旗を翻す事を心に決めていたからだ。今日もその算段をしようと、郊外の砦へと出かける途中であった。
だが、警備をする兵士達はその時、太守の思惑を知らされていなかった。忠義に厚い信帝国の兵士ならば、謀反と知れば例え太守であろうと、帝国への反逆の罪で殺さねばならなかった。そうしなければ今度は法律によって自分達まで殺されてしまうからだ。
太守は、兵士達の顔色を伺いつつ、スワトにこう言った。
「の、のうスワトとやら。頂天教というのは聞いた事はないが。そなたが言うように、まさか帝国に弓引くような者ではあるまい。わしは決して彼らを庇うわけではないが、その、なんだ。不確定な知らせにわしが動くというのも、のう…」
「何を申すでござるか!遅くなってから動いても駄目でござる!」
「し、しかしのう。わしも帝国の一郡を預かる太守の身じゃ。攻められ、降伏し、その外的やらに懐柔されることもあるまい。そ、そうじゃ。急いて今すぐ滅ぼさずとも、危ないと判れば、その内に帝が軍をお使いになろう。なにより我が郡の兵とて、もとはと言えば帝の兵。易々とは動かせぬぞ」
「何を仰られるか太守殿!それがしは国を思う一存で言ってるでござる!死をいとわぬ烈士を前にしてそのような態度!無礼ではありませぬか!そのように日和見では…ま、まさか太守殿は、もうすでに頂天教軍に丸め込まれておるのではござるまいな!」
スワトの言葉に一瞬ビクッと震える太守。
にこやかに見せていた不自然な笑顔は、一瞬崩れて焦りの表情に変わった。
「ま!まっまま、まあまあ待たれい。そのように大声で言うでない…兵士に聞こえてしまうじゃろうが。そ、そうじゃこれをやろう」
太守は着物の懐に手を伸ばすと、その手に麻袋のような何かを握って、スワトの目の前に差し出した。
「なんでござるか、これは」
「ほっほっほ、ほれ、どうじゃ。金じゃぞ。見れば長旅の様子ではないか。これで美味い物でも食って英気を養われよ。だから今日ここであった事は黙っておいてくれ。ワシも何かと噂を立てられるのは嫌だからのう。さっ、ささっ、忘れよ忘れよ。そして受け取られよ」
「…ッ!?」
「ほれほれ遠慮するな。そなたとて嫌いではあるまい?ほれ金じゃ。金じゃ。金は天下の回り物。ここでもらっておいて損は無いぞ。それにこれは賄賂ではない。お主の情報をわしが買ったのじゃ。成功報酬じゃ。気にするでない」
「…太守!」
「よいよい。わしは心が広い。それにその金も平民を襲う賊から巻き上げたものじゃ。帝の金ではない。わしの金じゃ」
「ぐぬ…!!!!」
余りの無礼さにスワトは頭の先からつま先まで怒りに怒った。ズイズイとスワトの前に大量の金の入った麻袋を差し出して、ついにはポイと大地に投げ捨てる太守。手元から落ちた瞬間、ジャラジャラと金貨の当たる猥雑な音がスワトの耳を通っていく。スワトは、金の音と太守の態度に震え始めた全身を押さえることが出来なかった。
沸々と怒るスワトに対して、いそいそとその場から逃げるように太守は兵士達を下がらせて馬車に騎乗させると、ただその場に平伏するスワトをチラチラと眼で確認しながら、小さく呟いた。
「馬鹿めが。政治を知らぬ田舎者め。何が忠義じゃ。何が烈士じゃ。信帝国はもう終わりじゃ。わしの野望が、ああいう忠義ぶった奴に邪魔されるのは、実に迷惑なものじゃのう」
太守の放った言葉がスワトの耳に聞こえる瞬間。
ブンッ!!
「ぎやあああああ!」
スワトは平伏した態勢から一気に詰め寄り、太守の頬と腹に強烈な拳の一撃を放ったのだ!
賊退治に鍛えられた拳は、唸るような音をたてて空を裂き、小太りの太守の体を虚空に踊らす。放物線を描くように飛ぶ太守の体は、血が飛び、骨は折れ、壊れかけた人形のように大地へと落ちていった。
「ああ、太守様!」
「なんてことをするんだこの獣め!」
「おのれ!全員で奴をひっとらえろ!」
再び馬車を降りてきた兵士達に取り囲まれて、スワトは無抵抗にその場に跪くと、兵士たちの藁を油に浸して出来た丈夫な縄を首や胸、足に巻かれ、巨大なスワトの体の顔以外の部分は、何重もの太い縄で縛り上げられた。
「ひ、ひぃひぃ。いでで、いだいいだい!」
「太守様!大丈夫でございますか!」
太守は激痛に声をあげたが、すでに殴られた頬の部分は皮が破け、血が噴出し、唇は痛みに震えて、とても喋れる状況ではなかった。兵士を纏める兵士長は、太守の容態の余りの悪さに動転し、半数の兵士と供に太守を馬車に乗せると、城へと向かわせた。そして、太守を殴ったスワトに対して、剣をちらつかせながらこう言った。
「ええい、こやつめ!なぜあのように太守様を殴った!」
縄に縛られながら顔だけ出ていたスワトは、兵士長の質問に大声で答えた。
「あの太守には三つの罪がある!」
「なんだと!」
「今、天下が賊のために乱れようとしているときに、あの者はそれがしの言葉も聞かず!そればかりか口封じのために麻袋に金を包んで賄賂をよこしたでござる!武家の自尊に対して余りにも無礼ではないか!」
「む…」
「もう一つ!あの者は平民を襲う賊から奪った金だから賄賂ではないなどと言ったでござるが!元を正せば汗水を流した平民の金!平民の金を太守が巻き上げたのも同じこと!それで私腹を肥やすなど言語道断ではないか!」
「た、たしかに」
「そして最後の一つ!あの者は最後に忠義と信帝国を蔑んだ!帝国の禄を食みながら、そのように恩義を忘れたような態度!帝国に組せず、ただ大義のために動く平民のそれがしが一番許せぬのは、受けた恩義を仇で返すような、あの者の腐った心でござる!」
「む、む。なんという忠義の心じゃ」
兵士長は帝国に対する愛国心と忠義溢れるスワトの言葉の数々を聞いて、段々太守のほうが悪いように感じてきてしまった。今は兵士をやっている彼も平民出で、元々は賊に襲われる百姓の生まれであった。だからこそスワトの言葉が身近に感じられたのかもしれない。
「さあ斬られよ!それがしは義に生きる者!不義に生きるぐらいなら死を選ぶぞ!」
兵士長は迷った。
愛国心満ち溢れるこの者を今すぐ処刑する事も出来た。だが、帝国に仕えて幾数年。近年まれに見るこの忠義の者を殺すには忍びない人物でもあると感じていた。そして兵士長は考えると、他の兵士に向かってスワトを馬車の荷台に乗せさせ、こう言った。
「この者は罪を犯したが、太守も喋れず、我々が罪を裁くのも難しい。よって、こやつは京東郡の出身だと言うのだから、罪は京東で裁かれるのがよろしい!太守には後で知らせをしておく。我らは早速、京東に向けて出発するのじゃ!」
「ははーっ!」
荷台に乗せられたスワトは、ちらりと見える兵士長の穏やかな顔を見て、叫ぶようにこう言った。
「兵士長殿!命を救ってもらったこの恩義、それがしスワト、一生忘れませぬぞ!それがしの恩義をもって、いつかお返しするでござる!」
「黙れ大罪人が!忠義は忠義!罪は罪じゃ!お前のような罪人に、信帝国の兵である、わしが恩義など与えるものか!黙って牢に行くがよろしい!」
そう言う兵士長の表情は、罪人を憎む怒りに満ちたようで、どこか誇らしげであった。
スワトに投げかけられた兵士長の口ぶりは、まるで彼を育ててくれた亡き叔父シュクラの臨終の言葉にも似ているようにスワトには感じられた。
こうしてスワトは、大義の言葉に呼応した愛国心に溢れる兵士長のおかげで殺される事も無く、馬車の一団に連れられながら京東の牢に向かった。
――――――――
五日の後、牢に入れられたスワトは、汚く冷たい獄中に入れられると、一心不乱に眼をとじて瞑想し、沙汰を待ちながら硬い石畳の上で、何ヶ月も居座った。その間に体力が衰えぬように、牢の石壁を相手に体を動かしながら、スワトは脱獄の機会を狙っていた。
そんなある日、牢番たちの世間話を聞いたスワトは、その内容に思わず愕然とした。
南郡の数郡が結託し、大きな勢力を築き、頂天教軍教祖アカシラの下、その後ろ盾となって帝国に叛旗を翻した事。そしてその中で数百の郡兵を纏め上げて、立派に戦った兵士長が武運拙く殺された事を。
スワトは、寒さも明けた牢の外の夜の星空を見て一言呟いた。
「まだ死ねぬ。あの兵士長の恩義に答えるために。そして叔父上に言われたように、それがしは強く生きねばならぬ。この世に信帝国に逆らう悪がある限り、大義と忠義をもってして、この力を帝へ捧げるのだ!」
信帝国暦202年春。
今ここに凶児と呼ばれた希代の豪傑が、恩義を受けた者たちの忠義と大義を背負い、信帝国にかかる巨大な暗雲を前に、時を待ち、静かに立ち上がろうとしていた。
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