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英雄百傑外伝 ―英傑達の休息―
作:馬路キレ子



第一夜『野望の恐将、龍となり天下を望む』


英雄百傑外伝―英傑達の休息―
第一夜『野望の恐将、龍となり天下を望む』

 その日、大陸全土を覆うような長い黒雲を浮かべた夜空は、天が破けたような悪天候であった。幾度と無く続く稲光と雷鳴は大地に向かって恐々と鳴り響き、貫くような大きな雨粒が、家に野に強く降り注いでいた。

「………」

信帝国東国、関州京東郡太守のキレツは居城の門の上に立つ天守閣から、酒を飲み瓦屋根の雨樋から流れる水の流れを眺めて、ふと物思いに耽っていた。雷鳴と雨音の絶えない夜空、そこへ一人の急使が駆け込む。キレツの臣の一人エスディである。

「御太守!太守は何れにあるか!吉報にございます!キレツ様!」
「夜更けに何事か。うん?エスディではないか。ずぶ濡れでどうした」
「お喜びくだされ!ご子息が…キレツ様のご子息がお生まれなされましたぞ」
「まっ、まことかエスディ!お、おおお…ついに、わしにも息子が!」

その夜、一人の赤ん坊が産声を上げた。

「我が子…本当に我が子なのか…?これが赤子か…ほほっ…小さい…小さいのう…だがなんと神々しいことだろう…うぅ…うぅ…神々しい…実に神々しい…のう!」
「…はい…私も…お役目が果たせて喜ばしい限り…」

小さな、そのあまりにも小さな…生まれたばかりの小さな命、我が子との対面を果たしたキレツは、胸にこみ上げる感動の余り重臣達の目もはばからず思わず泣いた。泣き震え、妻の手を強く握り、満面の歓喜に笑うキレツの顔は、すでに父親のそれであった。キレツとの間に三度の流産を経験した妻は、気の遠くなるような出産の痛みが残っていたが、目の前で喜び崩れるキレツを優しくなだめた。

 赤ん坊の名はキレイ。
産湯につかり、両親がその命の誕生の喜びを一晩中かみ締めていたその間もずっと、大きく泣き叫んでいた赤子が疲れて泣き止む頃には、夜空の雲はすっかり晴れ、外から聞こえる激しい雷鳴は止んでいた。

―――――――――

「あっ、兄上ー!あにうえー!すこしは手綱を緩めてくだされー!」
「はっはっはっ!遅いぞキイ!もっとしっかり馬の手綱を握らねば振り落とされるぞ!それに私の秘密の場所を見たいと言ったのは、お主ではないか!」
「まっ、まさか城の外に出るとは聞いてませんでしたからー!そっ、それに、わっ、私は馬に乗るのは、にっニ度目…とっ、とても兄上のようにはいきません!」
「ふっふっふっ!俺の弟なら泣き言を言うな!それに、そのような馬の走らせ方では、いざ戦に出るときに何かと困るぞ!それっ!置いていくぞ!」
「ま、ままっ、まってくだされあにうえー!置いていかないでー!」

 あの破天の夜から八年後。
小さな赤ん坊は成長し、少年となった。たなびく赤い肩掛けに包んだ身は、赤子の頃の貧弱さとは見違えるほど強く、しなやかな肢体に恵まれ、太く力強く跳ねキリッと整った切れ長の眉の下に映る眼は、まだ(けが)れを知らぬ澄んだ黒に染まっていた。黒い眼で草原の先を見ながら手綱を握るキレイは、弟キイと供に黙って城を抜け出して馬を走らせ、広い草原を駆け抜けた。少しするとキレイ達は大草原の中にある小高い丘にたどり着く。

「はぁ…はぁ…やっと追いついた…」
「フッ、我が弟ながらそのように馬によたってバテるとは情けないぞ…。それ、ここだ。草原の先を…あの地平線に落ちる陽に燃えるように輝く夕焼けの草原を見よ。どうだ、ここが私の気に入りの場所だ」
「はぁはぁ…ここが…あ、兄上の!」

小高い丘を見下ろす二人の前には、たどり着けないほど遠くに続く、空と地を隔てる地平線、沈む夕日に照らされて彩られた草原が風に揺らめき、見事な夕焼けの様相を表していた。純真な眼はその美しい風景に奪われ、しばらくの間、互いに言葉をかわさず、ただ目の前に広がる自然の雄大さを体に感じていた。

「あ、兄上…す、すごい…これは…本当に…凄い!」
「ふふふ、父上には内緒だぞ?キイ。お前と私との絶対の秘密だぞ」
「は、はい!兄上!ぜっ、ぜったいに!ぜ、絶対に言いません!」
「はっはっはっ、そんなに喜んでもらうと、なんだか私も鼻が高いな。お前には特に見せたかったのだ。たった一人、天の下に生まれた同じ兄弟として…この雄大な大陸に見える自然の奇跡を…」

 キレイは微笑みながら恥ずかしそうに弟にそう言うと、暗くなり始めたあたりを見て、再び城へと戻っていった。父であり、城の主でもあるキレツは帰ってきた二人を見て猛烈に怒った。城を無断で護衛もつけずに出た我が子の無謀さに、怒りに怒り、声を荒げてついには癇癪の発作を起こした。キレイは庇うように弟キイを下がらせると、父親の怒りの弁舌に何も答えることなく耐え、ただ黙って下を向きながら震え、怖くて流れる涙を父親に見せまいとした。

「兄上ぇ…」

庇われたキイは、涙を流しながらも耐える兄の姿と、怒り狂う父親の姿を扉の後ろに息を潜んで隠れて、ただ眺める事しか出来なかった。自分の願いから城外に出た事を言えば、兄は救われるが自分が怒られる…。少年キイには、その恐怖を打ち消す兄のような勇気がなかった。


―――――――


「えっ…えぐっ…母上ぇ…母上ぇっ…父上がぁ…父上がぁ…」
「よしよし…。キレイ、弟を庇って父上のあの癇癪に耐えて涙を堪えて…そう…よく頑張りましたね」
「キレイは…キレイはッ…頑張りました…キイを…キイを助けたくて…でも父上は…わかってくれなくて…うっ…うぐ…うわあああん!」
「よしよし…いい子。でも、いつまでも泣き虫ではいけませんよ。お前ももう八歳。泣くのは止めなさい」
「えぐっ…わっ、わかっています…わかっています…ですが…うう」

何度も鼻をすすり、涙を拭い、黒く眼を赤く腫れさせたキレイは、母親の寝所へと逃げるように駆け込んだ。キレイの母は父親キレツとは違い、非常に温厚な女性であった。悔しさを吐き出すキレイは不条理に泣かされる度、キイや衛兵に人知れず寝所を抜け出し、夜な夜な母の下へと向かった。普段は強気で、平気な顔をして大小さまざまな悪戯をし、何にでも動じないと立ち振る舞っていたキレイ。だが泣きじゃくる顔には、まだあどけない少年の心が住んでいた。こういった風に母親に全てを告白し、優しく頭をなでられながら慰められると、キレイは赤子のように泣き疲れて、寝所へ帰り良く眠る。そして翌朝から再び好奇心の渦中へと飛び込んでいく。

「…コホッ…あの子が成人する時まで…私は生きていられるでしょうか…」

母は戸を閉じるキレイの後姿を見ながら、小さく咳をして呟いた。


―――――――――――――


 穏やかな雪の降る中、新年と伴に十歳を迎えた少年キレイは、相変わらず無謀な事ばかりやって両親を困らせていた。岩壁に馬を駆けて滑り落ちてみたり、雨が降って水量の増した河川に飛び込んで溺れかかったり、城の天守閣の屋根の上に登って余りの高さに降りられなくなったり、時には賊の根城に出かけて日が落ちるまで狩りをしたり…唯一の理解者である弟のキイでさえ、兄の突拍子もないその行動に幼心ながら不安を覚えていた。

 大小の怪我、悪戯、その天然自然の破天荒さは父キレツだけでなく、城の重臣たちをも唖然とさせる根っからの悪餓鬼であった。ほとほと困り果てたキレツは重臣たちと話し合い、キレイの外出を禁じるために京東郡一の武術と学問の老師リョウボウの庵にいれた。リョウボウの庵で開かれている塾は大変厳しい事で有名で、一度入塾させれば、たとえ親や子どもがその厳しさに泣き喚こうと、向う三年間は脱出する事の出来ない寄宿制の庵であった。

「それでは行ってまいります父上。しばしの別れになりますが、母上にもよろしくとお伝えください」
「おう、キレイ。少しはその鼻っ柱を鍛えなおされてこい」
「兄上、お気をつけて…」

 父や弟に見守られながらキレイは城を出て庵へと出立した。
その見送りに母の姿は無かった。キレイは少し寂しく感じた心を見送る二人に見透かされまいと、音をたてる勇み足で庵へと向かった。持っているのは旅立ちのための少々の路銀と、少々の食料だけであった。

「母上、どうかご無事で…」

遠くなっていく城を見守りながら、遠くに落ちていく夕日を見てキレイは呟いた。あの日、馬を駆けて弟キイと見た地平線に映る夕焼けには遠く及ばないほど、その夕日は何処か寂しげに暗く沈んでいた。

――――――

 こうしてキレイの庵での生活は始まった。
リョウボウの塾門を叩くと、寄宿舎で年齢の違う何人もの見知らぬ学徒と一緒に共同生活を始めた。嫌々入れられた者。脛に傷を持つ者。頭を剃った坊主志願の者。学問を志し学者になりたい者。政治や法律を知り官吏になりたい者。武術を極めて将軍になりたい者。大小様々な人間と伴にキレイは、リョウボウの厳しい庵に入塾した。

 異常なほどの学問方法は、まず朝から始まる。
鶏の鳴く朝よりも早く起き、身の回りの整理をしながら机を並べ、夜が白み始めた明かりで兵法、政治、法律書の暗唱を始める。暗唱に一度失敗すれば足を叩かれ、二度失敗すれば手を叩かれ、三度失敗すれば背中を叩かれ、四度失敗すれば頬を叩かれる。数えて幾許も無い幼い子ども達は、叩かれる痛みに怯え必死に勉学をした。毎朝が体の痛みと予習復習の連続であった。

 暗唱が終わると朝の食事の時間である。しかし食事の時間も気が抜けない。
終始にわたる食事の礼儀、作法の学習。私語は基本的に許されていたが、一度でも言葉遣いを誤ると食事を抜かれる。次第に私語をする者も少なくなっていった。

 食事が終わる頃には武術の鍛錬が始まる。
学徒たちは庵の外に出ると、大小さまざまな木製の棒に数枚の布をつけ、手足には甲冑の代わりに砂の入った重り袋をくくりつける。そしてリョウボウの指揮の下、打ち筋、間合い、打ち込み方、多勢に囲まれた時の対処法など、ありとあらゆる技術を休み無くみっちりと教えられる。

武術鍛錬の時間の最後の締めくくりには、学徒たちの息抜きと称して、学徒同士の木刀、木槍による対戦があった。だが、息抜きと格好つけてはいるが、学徒たちの誰もが暗い表情でこの時間を迎える。なぜなら、これが武術鍛錬で一番恐ろしい課目であったからだ。この対戦試合、学徒の数にもよるのだが、疲れ果てた体で、年齢も体格も違う最低40人程度の学徒と休み無く打ち合わねばならない。しかも、この中で最も負け越した数の多い十名は居残り、庵の周囲を百周しなければならない決まりであった。そのため学徒たちは皆本気で打ち合いをする。対戦の時には必ず防具をつけて参加が義務付けられていたが、これは本気の打ち合いで怪我をする学徒が多くなるからだ。

 日が沈み鴉の泣く声が遠くに聞こえる頃、武術の鍛錬は終わり夜の食事の時間である。学徒たちは私語をするのもやめて、疲れと空腹から黙々と食べる。そして食事が終わると皆黒布で目隠しをする。最後の訓練、度胸の時間である。リョウボウの庵の庭には池があり、そこには手すりの無い数本の細長い丸太橋が架けられており、学徒たちは目隠しをしながらそれを渡るというものであった。

真っ暗な夜に足元の微妙な平衡感覚と、音だけで進む。運悪く池に落ちればもう一度やり直し。水の温かくなる夏は良かったが、冷たくなる冬の時期に池に落ちると悲惨であった。学徒たちは手に足に汗を滲ませながら、一歩一歩丸太の上を歩いた。

 夜、就寝前の一時だけが学徒たちの安心の出来る時間である。
厳しい学問と修行に泣く者。横暴な習得方法に怒る者。隠し持っていた食料を分け合う者。宿舎を抜け出す相談をする者。自殺を図ろうとする者を止める者。そんな、さまざまな声が寄宿舎に細々と聞こえる中、キレイはただ一人蝋に火を灯し史書、兵法書を読み漁っていた。城に残してきた弟と母の事を思い、ジッと耐える生活を送ったのだ。だがキレイは、その真面目さと裏腹に学徒の中で友と呼べる者が居なかった。度胸や才覚はあったが、少々狭量で傲慢な所があり、他人を見下す態度をチラホラと見せるところなどは悪い評判の最たるところであった。

 庵での毎日の荒行がニ年ほど続いた頃。
十二歳になったキレイは塾内でめきめきとその頭角を表していた。学問においては史書兵法書を軽々とそらんじ、武術においても一等級。なにより他の者と比べ物にならなかったのは度胸であった。二年間に及ぶ庵の荒行に耐え、まだその才を伸ばそうとする奇才は、塾長である老師リョウボウを始め、その門下の年上の学徒たちまで一目置く存在となっていた。しかしキレイは内心、学問漬けの生活に嫌気がさしていた。才能の余りに特別視する周りの人間の言葉を鵜呑みにし、頭の良さを鼻にかけて、人を見下すようになった。

――――――

 そんなある日、キレイは老師リュウボウに呼び止められる。
老師リュウボウはキレイに言った。

「わしは、お主を本当の神童だと思っている。それゆえにこのように目をかけている。だが最近、お主は学問も武術も怠けているように見える。それはどうしてなのじゃ?」

キレイは答えた。

「老師。いくら読んでも政治書や兵法書などは所詮、実戦の結果を踏まえて誰かが書いた死んだ書です。体験の前においてはまさに机上の空論。他の能無しの学徒ならまだしも、全ての兵書をそらんじられる私が、なぜこのような生活を続けなければならないのですか?それを頑なに守る老師の教えはすでに白骨。私は死んだものを学ぶほど愚かではありません。時が…時が惜しい…惜しいのです。私には、この無駄な時間が惜しいのです。老師が懸命に教えていると思っている、この無駄な時間に、実戦や政治を体験出来ないことが惜しいのです」

少年キレイの言葉の数々に老師は唖然とし内なる怒りに身を震わせた。若さゆえの傲慢とはいえ、このような少年が自分の師に向かって、その学問の学び方を否定する。学問を教える立場として、この言葉の数々は老体の心に深く響き、それは堰を切った様な怒りとなってキレイにぶつけられた。

「うぬぬ、この青二才めが!少々おだてられたからといって自惚れおって!師に向かってなんという言葉の聞き方をするのじゃ!わしの教える学問が白骨じゃと!死んでいるじゃと!おのれキレイ…!」
「はははっ。老体がそのようにお怒りになるところを見ると図星ですかな」
「なにっ!?」
「薄々死んでいる学問だということをご自分で認めていたという事でしょう?」
「お、おのれ…無礼な!出てゆけ!貴様など破門じゃ!破門!二度とわしの下へ現れるな!」
「そうですか。それではお暇を頂きます。ご老体に鞭打ち、二年もの間ありがとうございました。せいぜいその老体がご無事であるよう、このキレイ心から願っておりまする。では!」

こうしてキレイは神童と謳われながらも、半ば破門という形で老師リュウボウの庵を去り、キレツの城へと戻った。帰ってきたキレイの姿を見て弟のキイは嬉顔で涙を流して出迎えたが、父キレツや城の重臣たちは事情を聞くなり口をあんぐりとあけて、ただ呆然としていた。

「母上、母上…!キレイが帰りましたぞ!」

キレイは父親や重臣たちへの挨拶も程ほどに城を駆けると、母の影を追った。


―――――――――――

 キレイは秋の残り香の風が吹く中、城中を真っ直ぐに駆けた。
自分を待つ母の下へ。暖かく、優しく、自分を理解をしてくれる母の待つ場所へ。
庵での苦行の二年間、幼心の心中はもっと言葉を交わすべき友人を、くつわを並べて夢を語る仲間を作りたかった。だがキレイは出来なかった。その余りある才能と、若さゆえの傲慢さが彼に孤独を味わせた。余りに辛い苦行に逃げたい時もあった。誰も居ない星空の夜に声を殺して泣く事もあった。兵書を読みながら灯火に揺らぐ影を見て、何度母の顔を思い出したことだろう。歩みを速め、石の廊下に音を立てて歩く彼の心は、孤独に耐え達観し強く生きてきた二年間の強い縛めを解き、いつの間にか泣き虫と言われたあの日の夜のように、童心に返っていた。

「母上!母上っ!キレイ、ただいまこのように無事に戻りました!母上!」

 キレイは笑っていた、整った顔が崩れるような満面の笑みで。…庵での苦行の間、目一つ、眉一つ動かさず、決して感情的に物を言うことのなかった少年が、母の部屋で母の姿を必死に追いながら、周囲に聞こえる恥ずかしさなどとうに忘れ、声を大きくした。若干十二歳の小さな、小さな少年の心は、郷愁と安堵に沸き立つその心の(ほとばし)りを抑えきれなかったのだ。

「ふうむ、これだけ城を探しても母上がおられぬとは。…それに母上の部屋のこの雑然とした様はどういうことだ?」
「兄上ぇ……」
「うっ、そのように暗い顔を浮かべてどうしたのだキイ?」
「母上は……」

いつの間にかキイは兄の後ろに下を向いて立っていた。目を泳がせ落ち着かず、体を震わせながら、キイは何度も唇に強く指を這わせて喋ろうとした。キレイは、何か喋ろうと必死になる弟の姿を見ると、察したように弟に向けてこう言った。

「はっはっは、そうか思い出したぞ、お前の癖を。そのように指を唇に這わせて震える癖。そういう時は決まって何か隠し事をしているのをな。長い間が経っているとはいえ、この兄がその癖を忘れるとでも思っていたか?」
「い、いえ…違うのです兄上!母上は…」
「ははん、さては母上め。この私を驚かせようと城の何処かに隠れているのだな。私が帰ってくるのを知って、このように慌てて部屋を片付けさせて、我が子の喜び勇む顔をどこかで見て笑っていらっしゃるのだな。母上も素直でないお方だ。それならば私も本気になって探すしかあるまい!」
「兄上!違うのです兄上ぇ…!」

キイの叫ぶ声は、勇み足で城の探索を始める兄には届かなかった。

――――――

 辺りはすっかり夜になっていた。夜空には反り返った三日月や、輝く星たちが煌く光を放ち、静まり返った夜の街には少し吹き始めた寒い風と、蟋蟀(こおろぎ)の鳴く声が聞こえていた。

「月夜の晩に虫の声と寒い風…このように伸び伸びと聞けるのは何年ぶりだろうな。おっと、いかんいかん。情緒に浸っている場合ではなかった。しかし、いったい母上は何処へ行ってしまったのだ。私がこれほど探しても見つからないとは、なかなか隠れる才能が御ありだ。もしかしたら城に帰っているのかもしれん。一度戻るか!」

呟きながら、キレイは再び勇み足で城へと帰っていった。
衛兵に城の門を開かせ、官庁である御殿をかけると、自分の部屋へと向かった。そして、いそいそと夕食(ゆうげ)を済ませると、また母の姿を探しに母の部屋へ行った。しかし、そこへ待っていたのはいつものように酒を飲む父キレツと、泣きはらしたように目を赤くして下をうつむく弟のキイであった。

「おうキレイ。…やはりここへ来たか。何も言わずこっちへ来い」
「兄上ぇ、兄上…グスッ…」

父キレツの顔は驚くほど紅潮しており、自棄(やけ)酒を食らうように、何度も杯を口に運び、その目はうな垂れ、とても機嫌が悪そうだった。まさか帰ってきて早々、母を捜して城や街中を彷徨っていたことを咎められるのかと思ったキレイは、怒られては母に慰められていた昔の自分を思い出し、強く緊張した面持ちでキレツの前へと歩いた。

「父上、何でございましょうか?」
「すまぬキレイ…お前に謝らなければならないことがある」
「えっ!?」

緊張は一瞬にして解かれた。過去、何度も逆鱗に触れて味わったあの怒涛の癇癪の嵐、一度怒れば誰もが手をつけられない程になる父キレツが、紅潮した顔で自分に謝ったのだ。キレツは手元にある空の杯に酒を注いでこう言った。

「お前の母は…母は死んだのだ。お前が庵へ旅立って間もなくして重病の発作が起こり、どんな大病も治せるという希代の名医が隣郡におってな。馬車を走らせて向かったが…。その途中…その辺を根城にする賊に馬車を襲われて、無残に死んだのだ」

キレイは言葉を疑った。

「は、はっは…。父上!いくら父上とはいえ冗談にも程がありますぞ!!」
「…キレイ…信じたくないのは分かるが本当なのだ、本当のことなのだ」
「父上ッ!!」
「わしも最初は信じられなかった。領外とはいえ…賊に襲われるなど…!」
「う、嘘だ!信じぬ!信じぬぞ!父上は嘘をもうしているのだ!」
「気をしっかり持てキレイ!お前の母、我が妻の死を認めるのだ…!」
「いやだ、いやだ…いやだ…ッ!母上ッ!何処におられるのですか!母上ぇ!」
「キレイ!聞き分けの無い子だ!いつまでもそのように女々しくして…」
「いやだ!いやだーーーーーーーーーーーッ!!!」

 キレイは父の言葉が聞こえなかった。いや、聞こえないようにしたかったのだ。声を荒げ泣き叫び、壷や屏風に手や足を伸ばし乱暴に当り散らす。そうする事で耳に入る父の非情な声を…音を…ただ塞ぎたかった。内心勘付き始めた、その事実を認めたくなかった。庵に入り才能を伸ばしながら孤独に耐え抜き、まだ未発達なキレイの幼心には余りにも辛い現実であった。

 キレイは泣いた。悲しみにうち震える本物の涙を流して。強く生きねばならぬと父に諭されながらも、余りにも身近すぎる人の命の儚さに泣いた。父キレツは目を瞑り酒を煽り、弟キイは再び泣きはらした顔に浮かぶ涙を浮かべながら、ただ黙って感情を荒げるキレイのその姿を眺めることしか出来なかった。

「死しても業の深い女よ…このように我が子らを泣きぬらすとは…」

キレツは目を瞑り、酒を煽りながら月夜に向けて呟いた。

――――――

 泣き疲れてキレイは、キイに負ぶさる様にとぼとぼと寝所へ向かっていた。
悲しみに暮れる兄を見てキイは、ふと肩にかかる兄の体の重みを感じていた。数年来会っていなかった兄のあのスラリとした肢体は、ゴワゴワと硬い筋肉で覆われ、張るような胸、骨太な腕や足、見違えるほど(たくま)しくなったその兄の体は、キイの思い出の中の彼と、まったく違っていた。

「兄上がこれほど強くなるためには…さぞ辛い苦行を耐えたのでしょうな…」
「母…上…ぇ…母…上ぇ…」
「ささ兄上、寝所に付きました。今日はどうかゆっくりお休みください」

ドサッと重い音で倒れ、ただただ泣き崩れていくキレイの背中を見て、気を使ってキイは戸をゆっくり閉めると寝所を後にしようとした。しかし戸を閉める音を聞いて、キレイはとっさに静かな泣き声をあげた。

「…ま…待て…キイ!待ってくれ…キイ!」
「どうしました兄上…?」
「寂しい…一人は寂しい…。頼む…今日一晩でいい…!一緒に居てくれ…なっ?」
「…」
「キイ…私に残された家族は父上とお前だけ…孤独は恐い。恐いのだキイ」
「兄上…」

 キイは閉めた戸を開けると、黙ってキレイの寝所の近くにいった。暗い寝所にある四つの燈台に灯火をつけるとキイは、少年キレイの傍に椅子を置きスッと座った。キレイは左腕で泣き顔を隠しながら、キイにボソボソと二年間の庵での話しを話し始めた。キイはそれを黙って聞いた。キレイの右手を握り、まるで亡き母のように話のそれぞれに頷きながら、兄を優しく慰めた。キレイは弟に打ち明ける度に、心の曇りがだんだんと晴れていくような思いがした。

 長い時間がたった。暗闇の(とばり)の降りた夜も、その深みを増した頃。
キレイとキイは、兄弟水入らずの会話を続けていた。しかしキレイの顔を隠していた腕は解け、表情や口調はすっかり平静を取り戻していた。

「なあキイ。母上は賊に討たれたというが、それは本当なのか?」
「はい。兄上が出てすぐの事でした」
「その賊は、もう捕らえられたのか?」
「いいえ…それがまだ…隣郡の小高い丘を根城にしているとか…」
「そうか、ならば討たねばならんな…!」

キレイは起き上がると、スッと前へ手を伸ばした。

「兄上何を…!?」
「キイよ。賊が憎いか」
「はっ…?」
「母上を討った賊が憎いかと聞いておる」
「そ、それは勿論憎うございます!」
「そうか…」
「?」
「…キイよ。私は今、とんでもない事を考えたぞ!」

少年キレイはキイの顔を見ると、手を握り、その黒く沈んだ眼で夜空を見上げた。

「私はこの大陸に…信帝国に変わって新しい帝国を築く!天下をとるのだ!」
「えっ!」
「そのために協力しろキイ!お前が我が配下第一人目だ!」
「あ、兄上!まだ錯乱しておられるのですか!?」

キイは仰天した。元々傲慢で、突拍子もないことを言ったりする兄であったが、今や天下を七代に渡って統べる信帝国の代わりに、高々十二歳を数えた少年が自分の帝国を築きたいなどと宣言する、まさに狂ったとしか思えない言動であった。しかし、キレイは親兄弟の前で嘘などつく卑怯な男では無かった。それはたとえ何年離れていても、キイの脳裏に焼きついていた物だった。

「錯乱などしておらん!私は天下をとる!天下をとって帝国を作り、この世に賊の居ない真の秩序の国を造るのだ!誰一人として親兄弟を失って悲しむことない世にするためには優れた国家が必要だ!優れた国家にするためには、優れた王が必要だ!だから私がなるのだ!世が乱れぬことのない覇を唱える王に!」

 御歳十二歳の少年、キレイが野心を抱いたその瞬間であった。
キイは、灯火に揺らぎ映る兄の影と、その黒く沈む眼の輝きの強さに、兄キレイの心の中に天を駆ける龍を見た。大河に潜んだ龍が羽ばたいたのだ。傲慢な天才が孤独を知り、絶望の淵に気付いた夢。それは乱れ始めた世の流れに大望を抱き、この世を統べらんとする小さな、小さな英雄の影であった。

信帝国暦192年、冬。
ここから、弟キイと伴に始まった若きキレイの天下取りの野望が、純白の白紙に黒墨を撒くように天を滲ませ、野心が地を走らせ、彼は信帝国の中で確実に出世していった。人は悪に対して厳しすぎる彼の裁きを見て、畏怖と蔑視を込めて『天下の恐将』と呼んだ。天下を動かす恐将と、その余りに余る才気は、今まさに天下に放たれていくのであった。












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