れいこちゃん
「ねえ、マスター」
二杯目のビールを飲みながら、ゆうこさんが話しかけてきた。
「怪談、とまではいかないけど、不思議な話があるの」
店の常連客であるゆうこさんは、笑顔の似合う物静かな人だ。女性には珍しく、ワイワイ騒ぎながら飲むよりも、一人で静かにのんびりと酒を楽しむほうが好き、というタイプの人である。
そんな彼女が自分から話すなど珍しい。私は興味を引かれ、聞いた。
「この季節にぴったりですね。どんな話ですか?」
フフ、と彼女は笑みを浮かべ、壁際に目をやった。趣味で飾ってある絵が傾いている。
「ああ、すみません。すぐ直しますね」
「いえ、いいのよ」
ゆうこさんは気にした風もなく、コロコロと笑った。
「信じるか信じないかは、自由ですけれどね」
幽霊の話ですから……。そう彼女は言い置いて話しはじめた。
小さな頃から私は、この世のものではないものをみることが出来るんです。詳しい人に言わせればそれは、そう……霊感、とでもいうのでしょうね。とにかく昔から、そんな力がつよかったんです。
え? いいえ、当時は怖いと思ったことはあまり……。子供ってホラ、物怖じしないじゃありませんか。ただ、変な子だって思われるのが嫌で、隠してましたけど。
前置きが長くなりましたけど、ここからが本題です。断っておきますが、私が体験した話じゃありません。私の娘が出会った、不思議なものの話です。
娘が……そう、八つの頃でした。その頃私は飲み屋で働いていましてね、周りの人たちも優しかったし、それに甘えるような形で、いつも娘を独りで留守番させていたんです。考えてみれば、おおらかな時代だったんですね。あの時代は……。今ならとてもさせないでしょうねえ。あら、私ったら……すみません。話をそらせてしまいましたわね。とにかく、毎日、毎日ひとりで留守番させてしまって申し訳ない気持ちがありましてね。あるとき娘に、こう聞いたんです。
「毎日ひとりで寂しい思いさせてごめんね。つらくない?」って。
そうしたらね、娘は首をふって言ったんです。
「ううん。寂しくない。れいこちゃんがいるもん」
最初は、学校の友達かと思いましたわ。だけど、近所の人に聞いても、『アユミちゃんはいつもひとりで帰って来るし、どこかに遊びに行く様子もない』って言うんです。ああ、アユミというのが、娘の名前です。担任の先生に聞いても、れいこちゃんという子はいないという返事でしてね。
……え? 娘の好きなアニメや漫画のキャラクターの名前じゃないかって。あら、自分がそうだったんですか。フフ、マスターも子供の頃夢中になった漫画があるんですね。当然、それも考えました。だけどね、そうじゃなかった。
ゆうこさんは言葉を切り、もうとっくにぬるくなっているに違いないビールを、ゆっくりと口に運んだ。
「『れいこちゃん』は、人間ではなかったんですよ」
最初は幽霊だなんて思いませんでした。だって私には何も見えなかったし、感じなかったわけですから。小さな子供特有の、自分の中だけにいる友達……イマジナリー・フレンドっていうんですか、そんなものを想像していたんです。娘が『れいこちゃん』の姿かたちを教えてくれるまではね。
「れいこちゃんはね、ピンク色したオタマジャクシみたいなの」
って。
イマジナリー・フレンドっていうのは必ずしも同年代の子供というわけじゃありません。空想上の友達ですからね。犬や猫みたいな動物だったり、妖精だったりします。でも、ピンク色のオタマジャクシなんてのは子供の想像の斜め上をいってるでしょう?
「壁にペタッと張り付いてたり、お部屋のすみでクルクル回ったりするの。たいてい天井近くにいるよ」
あとで聞いてみたら、ずっと前から時々現れていたそうです。最初は怖かったらしいけど、特に何をするわけでもなかったから、もう平気だ、と言ってましたっけ。れいこちゃんという名前も娘がつけたんです。
「ゆうれいのれいこちゃんよ。だって、おばけでも一緒の家にいるんだもん。名前くらいなくちゃ」
っていうのが、その理由でした。
れいこちゃんは、よっぽど娘のことを好いていたみたいで、悪さをしかけてくるようなことはありませんでした。……まあ、私には見えないから何とも言いようがないんですけどね。
あるとき、ふと呟いたことがあるんです。娘にばかり姿を見せて、私の前にはちっとも出てきてくれないから、ほんの冗談、ヤキモチのつもりでした。
「あなた、アユミと仲がいいけど、あの子をそっちの世界に連れて行くつもりじゃないでしょうね」
その途端に、声が聞こえたんです。はっきりした声じゃなくて、そう、ちょうど猫が威嚇するときに喉の奥で唸るでしょう? あんな声というか、音が聞こえたんです。れいこちゃんが私の前に来たのは、それが最初で最後でした。
え? その後何も無かったかって。ええ。何もありませんでした。先に言ったとおり、私は人でないものを見ることができるし、それが悪意があるものならすぐにわかります。私が聞いた声は、私に対する威嚇こそあれど悪意というものは感じませんでした。多分、
『そんなことしないよ』
って、すねたんでしょうね。あのあと、娘に睨まれましたから。
「母さん、れいこちゃんが泣いてる。いったい何したの!」って。ヤキモチのしっぺ返しをきっちりと受けましたよ。しばらく口をきいてもらえませんでしたから。
私の話はこれでお終い。オチも何もなくって、怪談話としても中途半端でしたけどね。
「今でも、見えないままですか? その『れいこちゃん』は」
ゆうこさんは静かに首をふった。
「れいこちゃんは……もう、いません。この世のものと、あの世のもののあいだにも相性というのがあるのでしょうね……オレンジブロッサムをいただけるかしら」
カクテルを作るあいだずっと、ゆうこさんは黙っていた。私もなんだか、喋ってはいけないような気がした。
色鮮やかなカクテルに口をつけ、
「先日、娘がね、嫁いでいきました。れいこちゃんは多分、娘についていったんでしょうね。とても慕ってましたから」
ゆうこさんはそう言って、ほんの少しだけ寂しそうに笑った。
「おめでとう……ございます」
少々間抜けた返答だと、言ってしまって気がつき、照れ隠しに、壁に目をやった。あの傾いた絵を直さなければ。
「あれ?」
壁の絵は、ちゃんとまっすぐに掛かっている。さっきのは見間違いだったのだろうか。
「変ですね。さっきは傾いていたと思ったけど」
「ああ……。マスターには見えてないんですね。いますよ。あの壁際に」
目をこらしてみるが、やはり私には見えない。
「幽霊、ですか? どんな感じです?」
「ふふふ、それは言わないことにしましょう。相性が良ければ見ることができるかもしれませんね。どうやら、マスターのことを好いているみたいですよ」
「なら、名前をつけてあげたほうがいいでしょうね」
壁に飾った絵が、パタパタと弾んだ音を立てた。