「S級天使ディストラート。
堕天を脱走せしめた罪により、その地位を剥奪する」
朗々と無情に響き渡るのは、聖なる鐘の声音。
大天使ラファエルは宣告を終えると、静かに俺を見据えていた。
「貴様には天界追放令が下った。下界にてその罪を悔いるがよい!」
ラファエルの側に控えた天使のひとりが、そう続ける。声を合図に、俺の足元には黒い円が描かれた。
「わ……ッ!?」
ず、と重力に足が引きずられる感覚。
床が抜け、俺の身体はそのまま――真っ逆さまに落下していった。
下界――人間や動物の住まう世界。
箱形の建造物で遮られた狭い空を仰ぎ、俺は肩を落とした。
「下界って……こんな窮屈だったか?」
俺――そう、ディストラート。『元』・S級天使職、現・死神。
堕天と呼ばれる天界の敵を捕らえ、或いは滅するのが俺の仕事だった。
しかし。情けないことだが、護送中に俺は堕天から牢の鍵を奪われ、まんまと逃げられてしまったという始末である。
「女の堕天にころっと騙されたんですって?
天界きっての凄腕も、所詮は男ってとこかしら。だらしないわねぇ」
と、このように言われてはぐうの音も出ない。
「うっ……だ、だってよ。足枷がきつすぎて痛いっていうから――」
……………………って、あれ。俺、誰に弁解してるんだ?
「――いきなり誰だお前ッッ!?」
ばっと振り向くと、いつの間にかひとりの女が立っている。
女は悪びれた様子もなく、はぁい、と手を振ってきた。
「俺のことを知っている――ってことは、」
天使か、それとも……
「A級天使、能天使所属のメティスよ。
しばらくの間、あなたの身柄はあたしが預かることになったから、宜しくね」
メティスと名乗った彼女は、にっこりと笑みを浮かべる。外見は人間でいえば十七、八歳程度、女性らしいプロポーションの持ち主だった。頬はふんわりと赤みを帯び、アーモンド形の大きな瞳が愛らしい。
「能天使……で下界にいるってことは、下界に逃げてきた堕天や悪魔の粛正係か。
それで、俺の身柄を預かるってーのは?」
保護観察処分という話は聞いていない。俺は首を傾げ、メティスの返事を待った。
「恩赦よ。お・ん・しゃ。
あなたは私に協力して、堕天を滅する。その働き如何によっては、天界に戻れるってわけ。ね、シンプルでしょ?」
「あ……ああ。しっかし、そんなに天界は人手不足なのか?
追放令の下った俺まで使うなんてよ」
渋い顔をする俺に、彼女はち・ち・ち、と人差し指を振ってみせる。
「あなたがいくらドジで女に弱いへタレ天使でも、その実力は天界も認めている――ってことよ。
とはいっても、このことは極秘事項だけどね」
「どうせラファエルの奴が手を回したんだろ?あいつの考えそうなこった」
下界でこのまま職探しでもする羽目になるかと思ったが、手間が省けたようだ。
「あんたの仕事を手伝えばいいんだな?」
言って、顔を上げる。メティスは満足げに頷いた。
「交渉成立ね。顔の割に物分りがよくて助かったわ」
……顔は余計だ。
こうして、俺はメティスの助手として彼女の管理下に入る。
それをしんそこ後悔するまでに、一日とかからなかった。
「ディス。喉かわいた、コーヒーちょうだい」
「はぁっ!?さっき紅茶が欲しいっつって、淹れたばっかりだろうが!」
メティスの机には、ティーカップがひとつ。まだ紅茶が半分ほど入ったままである。
「もう冷めちゃったじゃない。それに、コーヒーが飲みたくなったの。
つべこべ言わず用意しなさいよ」
……滅茶苦茶だ、この女。
思わず表情をひきつらせる俺に、彼女はなおも畳みかける。
「天界管理区宛の『報告書』、なんて書こうかなぁ……。
天界に戻りたくないなら、あたしは別に構わないんだけどぉ」
「ぐ。てめ、ヒトの足元見やがって……!」
閻魔帳――天界への報告書をちらつかせるメティス。
悔しいが、俺は脅しに屈するよりなかった。
「くそっ……コーヒー作りゃいいんだろ!わかったよ!」
「あ、アメリカンでよろしくー♪」
立ち上がり、彼女の言葉を聞き終わる前に扉を閉める。ばたんと強い衝撃、次いでカーテンが驚いたように揺れた。
「ちくしょう、可愛い顔して……あれじゃ天使っていうよか悪魔じゃねぇか!」
苛立ちをぶつけるよう、俺はどたどたと廊下を踏みしめる。
黙々とコーヒーを淹れると、マグカップに注いだ。白い湯気が立ち昇り、芳醇な香りが辺りを満たす。
「ディス、まだぁ?」
……この女。ちったあ待てんのか。
俺はばたんと扉を開けると、机にマグカップをどすんと置いた。深い琥珀色の液体が、中で波立つ。
マグカップを掬い、こくんと傾けるメティス。満足したようで、こくんと頷いてみせた。
「はー、美味しいっ。コーヒー淹れるの上手じゃない!
どんな奴にもひとつくらいは役に立つ特技があるっていう、いい例ね」
「……誉めるのかけなすのかどっちかにしろ」
あら、誉めてるのよ――と彼女は言って、にっこりと微笑む。どうやら余程コーヒーがお気に召したらしい。
(こうして見ると……可愛い……んだけど、なぁ)
「ディス?どうかしたの?」
声にはっとして我に還る。頬がぼっと火照るのを感じ、俺は慌ててしまった。
「べ、別になんでも……で、整理する資料ってどれだっ?」
気取られぬよう、強引に話題を逸らす。
確かに、女に弱いのは認めよう。今回の失敗の理由もそれだ。……しかし。それを差し引いても、メティスは……可愛い。悔しいが。
「一番上の棚に入ってるのが全部そうよ。今日じゅうによろしくね」
「はぁ!?きょうじゅ……って、先に言え先にっ!!」
マッハで書類に取りかかる俺。
しかし何とはなしに、隣で作業するメティスをちらと盗み見てしまった。
大きな瞳を覆う睫は長く、かたちのよい唇は珊瑚色に艶めいていた。肩まで伸びた艶やかな髪は、微風が吹くたびに羽根のよう揺れる。その羽根がおちるのは華奢な肩、そして――
「……で、どこ見てるのよ。このスケベ」
机から身を乗り出すようにして、メティスがじと目で睨んでくる。しまった、と思うが時既に遅し。俺は言葉もなく、俯いてしまう。
「あ、や、その……俺はべつにッ、」
後ろめたさに目を合わせられずにいると、彼女は椅子から降り、俺の前へ歩いてくる。視界に白い脚が映った。
「……ねぇ。ディス?」
たん、と。壁に手をつくメティス。背中に壁のひんやりとした感触を覚え、俺は口の端を引き攣らせた。
「な、……なんだよ」
メティスは何を思ったか、ずいと顔を寄せてきた。吐息がかかるほどに……距離が、近い。
「メ、ティス……」
心臓が早鐘を打ち、身体が熱くなるのを感じる。メティスはくす、と悪戯っぽく微笑んだ。
天使の殆どは、かつて人間だった者達である。大抵は生前と同じ容姿を持ち、婚姻も存在する。下界に住む人間の多くはその辺りを勘違いしているようで、性別を持たないとか、恋愛感情や性欲、食欲を持たないとか言われているが、そんなことはない。人間と何ら変わらないのだ。
要するに、何が言いたいかというと。……その。俺も一般的な男と何ら変わらないというか。うん。
「ねぇ……何考えてるの?ディス……」
いやに艶っぽい声で、耳元に囁きかけるメティス。身体を痺れが奔り抜け、麻痺したように動けなくなる。
「そ、それ……は……」
知らず、喉がごくりと啼く。
こんな近くに唇を寄せられて、考えることといったら……。
(――って、言えるかそんなこと!)
「ち、ちちちちょっと待てメティスっっ!!」
ばっ!!!
俺は彼女の肩を両手で掴み、引き離す。
「ひ、ひとをからかうのも大概にしろっ!何かあったらどうすんだ!」
……自分が間違いを犯さないと言い切れない辺り、何とも情けない。
「えー?だってぇ。
てっきり、こういう展開を期待してるのかと思って」
意地悪く笑うメティスに、思わず言葉を詰まらせる。
「……お、お前がそんな胸の大きく開いた服なんか着てるからだっ!スカートももっと長いのにしろ!」
「親父かあんたは!」
混乱ぎみに捲し立てる俺に、メティスの軽快な突込みが飛んだ。
「あたしが何着ようがあたしの勝手じゃない。まあ、あんたが変な気起こすのも勝手だけどさ」
「……やかましい」
黙っとけそこは。それが優しさというものだ。……たぶん。いや、きっと。おそらく。
メティスは満足そうに首を深く縦に振ると、腕を組み席へ戻っていく。
「ま、いいわ。今日はこの辺でやめといたげる。あー面白かった♪」
「待て、今日はって何だ今日はって!というか面白がるな!」
気がつけば俺は肩で息をしていた。全く……なんつー女だ。
しかし下手なことを言ってまた妙な真似をされてもたまらないし、報告書に書かれても困る。大人しく作業に戻るが賢明と俺は判断し、釈然としないながらも書類との格闘を再会した。
そうして、一週間が過ぎた。
俺はメティスの指示のもと、指名手配中の堕天や悪魔の調査、目撃情報の整理、彼女のお茶汲みや肩揉み、買い物の荷物持ちに至るまで多種多様な仕事を――って、ちょっと待て。
「ディス。お茶」
ことん、と俺の眼前に空になった湯飲みが置かれる。
「……。なあ、メティス。聞いてもいいか?」
「やだ」
……俺が悪うございました。もう二度と確認なんぞとりません。
「ああそうかよ。んじゃ勝手に聞くぞ。
俺のやらされてる仕事って、『助手』ってーのとは何か違わないか?」
助手というよりどちらかというと……いや、言うまい。
「そお。じゃあ『奴隷』と『下僕』どっちがいい?」
このアマ――と口をついて出そうになるのをぐっと飲み込み、極力穏便に尋ねる。
「俺の仕事は、あんたの『助手』、だよな……?」
若干、棒読みかつ口元が引き攣っていた感は否めないが。
「ええ、そうよ。同義語でしょ?」
「同義語なのかよ!!!」
諦めの境地に一歩一歩近づいているのを、確かに俺は感じていた。俺は盛大な溜め息を吐くと、湯飲みを手に台所へ向かうのだった。
茶葉の入った急須へ湯を注ぎ、湯飲みを流しで洗う。急須で丁度よく蒸らした緑茶を湯飲みへ移すと、若草色の水面には茶柱が浮かんでいた。
「お。茶柱」
これまで日々『天界の敵』を相手に戦ってきたことを思えば、俺も庶民的になったものだ。慣れというのはつくづく恐ろしい。メティスは相変わらず人使いが荒いものの、機嫌を損ねないよう仕事をこなせば、それ以上文句を言われることもない。
「天使の休息、……って奴か」
大天使ラファエル殿も、粋なことをしてくれる。そんな感慨に浸っていた俺の思考を、何かが中断した。
「ディス、大変よ!!お茶なんか啜ってる場合じゃないわ!」
けたたましい音を立て、扉が開く。見ればメティスが血相を変え、窓の外を指差していた。
「何だよ、一体!?……って、あれは――!」
ビル街の一角だけがドーム上の黒い膜に覆われている。ちらちらと火が上がっているのが遠目にも確認できた。
「……まさか、」
『臨時ニュースです。六本木ビルズにて大規模な火災が起こり、消火器を取りに行った従業員が死亡、およそ五七人が重軽傷を負いました。火災の原因は不明、警視庁はテロの可能性もあると見て周辺に厳重警戒を……』
テレビの番組が突然切り替わり、若いニュースキャスターの声が台所にも届く。
俺とメティスは目を見合わせる。それが人間の仕業でないことは明白だった。
「させるもんですかッ!」
彼女は窓を開け、桟に足をかけると外へ飛び出す。部屋はマンションの六階――普通ならば落下し、即死だろう。しかし。
ふわり、彼女の足が地を離れた瞬間。背中に白いヒカリがきらきらと収束し、三対の羽根となる。髪は亜麻色から淡い金髪へみるみるうちに変わっていき、肩からしゅるんと伸び、背中を覆う長さとなった。額には銀色のサークレット。
「おい、ちょ……待てよメティス!」
黒いドーム目指し羽根をはためかせるメティスを追って、俺も窓の外へ身を投げた。生まれた翼は、彼女のような清浄な純白ではなかったが。
「黒い翼、ねぇ。――嫌いじゃねぇな」
嘲るよう呟く。神に背いた堕天であれ、悪逆非道な悪魔であれ、切り裂き、屠る――それだけを役割として与えられた俺に、そもそも白い翼なんて必要ない。返り血で染まる身には、総てを呑み込む漆黒こそがお似合いだ。
「……メティス?どうした?」
黒いドームの中心で微動だにしないメティス。彼女はただ一点を注視し、歯を軋ませていた。視線の先を追うと、俺と同じ黒い翼に、浅黒い肌と真紅の髪。俺は、その相手に見覚えがあった。
「へぇ。見ない顔の堕天かと思ったら……あのときのオニーサンじゃない。
ディストラート、っていったっけ?あのときは逃がしてくれて、ア・リ・ガ・ト。助かっちゃった」
忘れるはずもない。
……俺が、一週間前に捕り逃がした堕天だった。
「――礼には及ばねぇよ」
きゃはは、甲高い声で笑う堕天に、俺はあくまで冷淡に返す。それより、黙ったままのメティスが気になった。
「あれー?そっちの天使のオネーサンはどうしたのかなぁ?あたいのこと、捕まえに来たんじゃないのぉ?」
堕天の女は大袈裟に首を傾げ、メティスの顔を覗き込む。そこに、
びゅんっ!!!
女の腹に銀の円盤が炸裂する。しかし血が吹き出ることはなく、女の輪郭は霧散した。
「――ピーチクパーチク、煩いのよ……」
地を這うような声でそれだけ告げると、メティスは顔を上げる。そこに、表情はなかった。
「なあにー?ヒステリックなオンナー。きゃはははっ」
金属音に似たその声は、今度は俺達の後ろから聞こえた。
「おい、メティス。……顔が真っ青だぞ。どうした?」
「堕天リリアン――やっと見つけたわ!」
俺の問いには答えず、ぎっと堕天――リリアンを睨めつけるメティス。弓を引き絞り、振り向きざまに無数の矢を放った。
ぱぁん、と威勢のよい音が耳を抜けていくが、矢は的を外し、白く掻き消える。
「残念!はっずれー。
その格好はA級天使だっけ?その割にはオネーサン、ノーコンねぇ」
「……ほざけ!」
声を荒げ、メティスは再び矢を放つ。しかし、その軌道がリリアンを貫くことはなかった。
「あっはは。ばーかばーか!」
挑発的な態度でくるくると回転するリリアン。再び矢を番えようとするメティスの肩を掴み、俺は首を横に振った。
「おい。落ち着け、メティス!」
「放して!!!
こいつは、……この堕天は、あのひとの仇なの!」
あのひと、というくだりに刹那、俺の心臓が息苦しい感覚を覚えたが――そんなことはどうだっていい。
どうやらこのリリアンという堕天は、メティスにとっても因縁ある相手のようだ。口ぶりからして、リリアンは彼女の大切な者を奪ったのだろう。家族、親友、或いは――
「キールを殺した堕天……。絶対に許さない!
ディスは手を出さないで。あたしひとりで決着をつける!」
俺の制止を振り切って、前方へ飛び出すメティス。俺は心から頭を抱えた。
「んなワケにいくかよっ!ったく……」
リリアンは、激昂する彼女の様子を愉しんでいるようですらあった。
「キールぅ?あー、そんな天使いたかもー。
弱っちいクセにあたいのすることにケチつけるから、殺っちゃった。なあに、そのキールってオネーサンの……コレ?」
指を立て、きしし、と湿った笑みを浮かべるリリアン。そんな態度は、メティスの心を破壊するのに充分だった。
「…………ッ!
許さない……殺してやる、殺してやるころしてやるころしてやるころしてやるコロシテヤルコロシテヤルッッ!!!」
金切り声で叫び、矢を乱射するメティス。既に正気でないことは明らかだ。
降り注ぐ矢の雨をすいすいと避けながら、リリアンはけたけたと笑い転げている。
「くそっ……!」
忌々しげに吐き捨て、俺はその中へ飛び込んでいった。
「あんたたち天使なんか、だいっ嫌い。堕天だ悪魔だって、ナニサマのつもりさ?
あんたたちのしてることと――」
リリアンが人差し指を立てる。長く黒い爪が、下――ドームに覆われた六本木の街を指し示す。
振動が街にはじけ、ビルのひとつが爆発する。自動車のいくつかが止まろうとして、玉突き事故を起こすのが見てとれた。
「今、あたいのしてることと。何が違うわけ――?」
リリアンは笑っていた。しかし何故かその表情に違和感を感じ、俺は眉を潜める。
「……狙いは、人間じゃなく天使ってわけかい」
俺は身の丈を超える大きさの鎌を携え、リリアンを見据えた。
「だったらこんなみみっちいことしねーで、天界に喧嘩でも売ったらどうだ?」
「べっつにー?下界の人間が何人死んだって、天上にお住まいの天使サマにはどうでもいいことでしょ?オニーサンも、そのオネーサンもさぁ」
違和感は、じわりじわりと俺に何かを訴える。この物言いは、むしろ――
「リリアン。お前、まさか――」
俺の台詞を遮って、きらめく軌道が放物線を描く。リリアンの心臓を狙った矢は、その黒い翼にはたき落とされた。
「馬鹿な神様の言いなりが、生意気なのよっ!」
リリアンの肘から黒い刀が生え、メティス目掛け振りかぶる!
「く――、」
凄まじい速さで接近され、矢を放ったばかりのメティスは成す術を持たなかった。
ばしゅばしゅばしゅんっ!!!
いくつか、鈍い音。温度を持った紅い液体が、ごぽ、と闇色の刃を伝う。
「……ごほっ、」
俺はよろめきながらも、何とかそこに立って――もとい、飛んでいた。
そう。咄嗟に、メティスの前に躍り出た俺の脇腹には、黒い刀がざっくりと刺さっている。
「ディス!?
手を出すなって言ったでしょ!この堕天はあたしが……!」
「――好い加減にしろッッ!!!!」
気がつけば、俺は叫んでいた。しん、と場が静まり返る。
「メティス。お前も能天使なら、任務に私情を挟むな」
後ろにいるメティスに振り向くことはなく、いつもより低い声音が告げる。
振り向けなかった。……泣き顔など見せられたら、きっと俺は何も言えなくなってしまうから。
能天使。彼等の使命は、天界に仇なし、人間を狙う連中の殲滅。チカラを持たない人間は、それら脅威に対抗する手段を満足に持たない。だからこそ、能天使の任務はとても重要なのだ。
つい、と俺は顔を上げる。脇腹の痛みはいつしか、気にならなくなっていた。
「――お前等の我儘に、下界の人間巻き込んでんじゃねぇ!!」
お前『等』、というくだりに反応したのか、ふたりは一瞬、目を丸くする。
「ディス……?どういうことなの?」
普段扱き使っていた男の見慣れない姿に狼狽しているのか、メティスは俯きながら問いかける。
「さっきから傷ひとつ与えられてないってのが、いい証拠だろうが。
錯乱して、平静を失った状態で……仕留め損なってる間に、また大勢ひとが死んだ。違うか?」
「…………っ!それは、」
「それでも、お前は仇討ちに固執して、任務に集中しようとはしなかった。だから止めた。
八つ当たりなら俺にしろ。後でいくらでも相手する」
そこまで言えば、聡明な彼女のこと。理解しただろう。俺は次いで、リリアンに向き直る。
「お前もだ、リリアン。
本当はお前、何やらかして堕とされたんだ?堕天っていうからには、元は天使だろ」
恨めしげに俺を睨んでいたリリアンだったが、やがて下を向くと、ぽつ、とこう漏らす。
「……人間に、パンをあげただけよ」
「パン……?」
その単語だけを拾う俺。彼女は頬を膨らませながらも、語り始めた。
「飢えて、死にそうだったのよ。人間が。
だから可哀想だと思ってパンを出現させて、食べさせたの。そしたらこの通りよ」
堕天、悪魔などといった『外界の脅威』を除き、天使は人間に関わることを禁じられている。リリアンの行いは、天界にすれば大罪だったのだろう。
「そ、か。そいつ――喜んでたか?」
「えっ!?……う、うん。涙を流して喜んでくれた」
俺の問いは、リリアンにとって意外なものだったようだ。彼女は極まり悪そうにこくんと頷く。
「だったら、もうやめときな。人間や、別の天使に八つ当たりすんのは筋違いだろ?
もっかい言うぞ。ふたりとも――八つ当たりなら、俺がいくらでも受けてやる」
どんなに腹を立ててもどうしようもないこともあるし、それに無力な人間を巻き込むのはフェアじゃない。だったら、俺に平手でもビンタでも好きなだけ打ち込めばいい。
……そこ、勘違いしないように。別に殴られて喜ぶ趣味はない。断じて。
ふわり。
そんなリリアンの掌に、忽然と水晶の欠片が姿を現す。そこには幼い赤ん坊が映し出されていた。リリアンは驚き、それを渡した人物――メティスを凝視した。
「オネーサン?……なんのつもりさ?」
「あんたがパンをあげた男の子は、あんたが捕まったあと、結局飢えて亡くなったわ。
でも数日前、裕福な老夫婦の子として再び下界に生まれた。もう飢えることもないでしょうね」
早口で一息に喋ると、メティスはぷいと顔を背ける。……こちらもこちらで、極まりが悪いらしい。
暫く水晶に映った赤子を眺めていたリリアンだったが、やがて手を足元へ翳す。ぱしゅ、と風船が割れるような音がしたかと思えば、街を覆っていた黒いドームは消えていた。
「――なんか、あたい馬鹿馬鹿しくなっちゃった」
戦意を失ったリリアンの腕から、黒い刀が消える。
「天使……っていうか元天使だっけ?にも、変な奴がいるのね。いいわよ、あの子のこと教えてくれたから、今回は大人しく捕まってあ・げ・る」
「……変な奴で悪かったな」
そもそもギブアンドテイクが成立していない気もするが、話がこじれるので黙っておくことにした。
メティスがリリアンの手足に枷をつけようと進み出るが、
「うーん、必要ないわよね。たぶん」
そう言って虚空の中に枷を仕舞う。それから事件の後処理に思いを馳せたのか、げんなりと肩を沈ませた。
「……あー……。この件の転生処理って、あたしがやらされるのよね……きっと」
「……それって、厳密には俺がやらされるんじゃないのか」
ひしひしと激務の予感を感じ、俺も肩の荷が重くなるのを感じた。
……うん、なんというか。一仕事終えたら普通、軽くなるもんじゃないだろーか。ここは。
忙殺される俺達のもとに、天界から一通の報せが届いた。
護送されたリリアンは天界での記憶を抹消され、改めて下界へ送られたという。刑期が終わるまで問題を起こさなければ、その後は自由の身になれるとのことだった。
刑期は――人間としての一生。
彼女が救った男の子の妹として、同じ家に生まれることが決まったという。
「大天使ラファエルさまさま、ってとこか。相変わらず女子供には甘いんだからなぁ」
茶化すように肩をすぼめる俺を、じと目で眺めるメティス。
「ラファエル様も、あんたにだけは言われたくないと思うわ」
「……珍しく気が合うな。俺もそう思う」
「そこで合ってどうすんのよ。
ほら、そっちの書類も明日までに仕上げてよね!」
へいへい、と俺は書類をひと束手に取る。ほんの一部なのに、ずっしりと重量感があった。
「結局俺がやんのかよ……。こりゃ、しばらくは徹夜だな」
髪の束にペンをすべらせる俺に、メティスは思い出したようにこう言った。
「あ、そうそう。あんたの処遇についてもラファエル様から通達が来てたわ。
――『S級天使ディストラート、今回の功績を評価し、階級剥奪及び天界追放令を撤回する』ですって!」
「なにぃ!?それを早く言えッッ!!!」
がたん、と思わず身を乗り出す俺。
「じゃあ何か、俺、天界に帰れるのか!?」
「そういうことになるわね。
半月間、お疲れさま。助かったわ」
微笑む彼女の顔を目の当たりにして、俺は、あ――とちいさく漏らす。
「メティス……」
「天界でも人手不足らしいから、忙しくなるんでしょうね。
……元気でね。ディス」
天界に戻れる。それは、下界で働く彼女との別れを意味していた。人使いが荒く我儘で、音を上げそうになったことも少なくないが、それでも――一抹の寂しさが胸にこみあげる。
「あ、……メティスも……な。元気で」
後ろ髪を引かれながらも、俺は空へと身を投げる。白い翼が背に生まれ、羽音を立てた。
――叶うなら、もう少しだけ、……
そんな心の呟きは振り切って、天使に戻った俺は天界へ羽ばたいていった。
一ヵ月後――
……願い事というのは、滅多やたらにするものではないことを、俺は痛感していた。
「S級天使ディストラート。
天界を守護せし至宝を破損した罪により、その地位を剥奪する」
既視感ではない。大天使ラファエルは宣告を終えると、生温い眼差しで俺を見下ろしていた。
「こんなに早く恩赦を撤回された天使は、私も初めて見たぞ……ディストラート……。
貴様には天界追放令が下った。下界にて主にその罪を詫びるがよい!」
ラファエルの側に控えた天使のひとりが、鎮痛そのものといった面持ちで語る。
……まあ、俺も同じ気持ちだ。ていうかお前等、あまり見るな。
天使の指が円を描くと、俺の足元には見覚えのある黒い円。やがて俺の身体は、下界へと放り投げられた。
そう。
世にも恐ろしい『あの女』のもとに――
「ディス。コーヒー飲みたい」
ごん、と読んでいた資料の上にマグカップが鎮座する。
「お前なぁっ!コーヒーくらい自分で――」
「だぁってぇ。ディスが淹れてくれたのが一番美味しいんだもん。
あんたがいない間自分で作ったけど、あんまし美味しくなくって」
…………う。
「……つ、作ればいいんだろ。作れば」
まあ、そういうわけで。
再会は一ヶ月という、えらく短期間のうちに果たされたのだった。
彼女は水を得た魚のように俺を扱き使い、俺は報告書を盾に取られ馬車馬のように働かされている。
しかしそれでも、この暮らしもやはりそう悪くはないかもしれないと――
「あ、お茶菓子欲しいな。
コディヴァのチョコレート買ってきて」
「はぁっ!?あと十五分で店閉まるだろーが!」
陽は既に落ち、空にはいくつか星が瞬いている。空を飛んだとしても、大都会では着地する場所がない。
「そこは……えーと、根性で何とかしなさいよ」
「根性で何とかなるかっ!
メティス、お前好い加減にしろよ!?」
「えー?このあたしに、そういう口叩いていいわけー?」
……前言撤回。まったくもってちっともこれっぽっちも、悪くなくなかった。
俺はメティスに叩き出され、黒い翼を最高速力で飛ばし、チョコレートを買う旅に出されたのであった。
願い事は計画的に。 |