異次元世界大戦 独立艦隊海戦記(47/67)PDFで表示縦書き表示RDF


異次元世界大戦 独立艦隊海戦記
作:山口多聞



復仇の翼


 太平洋を挟んで戦火を交える大日本帝国とアメリカ合衆国。この両国の差は人口でほぼ1対2、工業力で1対30というほど開きがあった。日本側が満州や中華民国北京政府を取り込んで工業力を上げても、1対20にするのが精一杯であった。つまり日本は様々な面でアメリカよりも節約をする必要に強いられた。それは人材面でも同様だった。

 日露、第一次大戦において、日本は先進国たる欧州の目を常に気にしていた。そのため、捕虜に関する扱いも非常に高い物だった。これはその後も有名な話である。

 しかし昭和に入るとその色は薄れ、逆に捕虜を蔑視する傾向が生まれた。

 この傾向は年を追うごとに大きくなっていったが、ある事件を境にして大きな見直しを迫られることとなる。

 ことの発端は日本が盧溝橋事件のしばらくの後、中国南京政府を支援して派遣した海軍陸攻隊が、共産党軍の拠点である成都を爆撃した時の事である。

 この時出撃した陸攻12機が全機未帰還になるという事態が起きた。原因は護衛戦闘機なしでの爆撃を強行したためであった。96陸攻は共産党空軍の保有すイ15、ならびにイ16戦闘機の迎撃を受けて全滅したのであった。世に言う「成都陸攻全滅事件」である。

 本来日本はこの戦争とは無関係であった。それなのに、1回の攻撃で手塩を掛けて育てた飛行兵80名以上を失ってしまったのである。これでは、中国に対する派遣軍の総撤退という意見が出かねない。しかし日本軍上層部としては、新兵器のテスト地としての中国からの撤退はしたくなかった。

 そこで日本軍上層部は、未帰還機の乗員84名全員を戦死認定の上、全軍に異国のために散った有志として喧伝し、逆に戦意高揚を図った。

 84人が勇敢に戦って死んだという美談は、新聞やラジオなどの情報メディアによって日本全国津々浦々にまで浸透した。

 ところが、全滅から2ヶ月たって。1機の乗員7名全員が中国軍によって保護されるという、それまたショッキングな事件が起きた。

 その後の取調べで判明したのは、この7名は他の機体が全機空中で撃墜される中で、敵機の攻撃を受けて飛行不能となったものの不時着し、全員捕虜となった。しかし収容所の警備がザルで、隙を突いて脱出したのであった。

 海軍はこの7名の扱いに迷った。戦死として全軍に布告したのを、今さら取り消すのも考えものである。さらに彼らは短期間とはいえ捕虜となり、しかも敵軍に自軍の情報を渡していたことが判明したのである。

 捕虜になった上に、敵への利敵行為をしたのであるから大問題である。一時期秘密裏に7名を処分するという案まで出たほどであった。

 しかしさらに問題をややこしくしたのは、中国軍が敵中を突破し味方前線に辿り着いたこの7名を褒め称える声明を発表した事であった。これによって7名の存在が公になってしまった。

 戦死したと思っていた7名が生きていた。しかも捕虜になって。この事態に国民は驚愕し、日本全国で議論を巻き起こした。

「なぜ潔く自決しなかったのか?」

「敵中脱出を誉めるべきではないのか?」

「敵軍に我が軍の情報を渡したとはどういうことか?」

 賛否両論の意見が飛び交った。その中でも知識人たちが話題にしたのが、どうして敵軍に情報を渡してしまったのかということであった。

 通常、捕虜には黙秘権が与えられている。そのため、自分の官姓名以外は喋る必要はない。これは国際的な常識でありルールであった。

 この疑問に対し、捕虜になり敵に情報を流してしまった7名の答えは簡潔であった。ちなみにこの時点で、7名は原隊に復帰し、取材に来る新聞記者の質問にも答えられる状況にあった。そのほとんどは上からの命令か質問を無視したが、ついに1人が高額の報酬につられ、匿名で質問に答えたのであった。

「そのような物があるのを知らなかった。」

 この1人の飛行兵が話した言葉によって、日本軍における捕虜になった場合の対処法が全く教育されていない事実が判明したのである。

さらに、中国政府が彼らを英雄として発表したことも議論の対象となった。

「捕虜になるのは卑怯なのに、なぜ中国政府は彼らを英雄視するのか?」

「そもそも捕虜になるとは法的にどういうことなのだ?」

 ここに至って、ようやく日本人は万策尽きて捕虜になるのは断じて卑怯な行為ではなく、国際的にも認められた正しい行為であると言うことを再認識することとなったのである。そしてまた、捕虜になるのは卑怯ということが、全く法的にも根拠がなく、日本独特の概念であるのも知ることとなった。

 さらにこの問題に対して、外国の一部新聞社が「狂った概念」と評した事も、捕虜蔑視論を見直す要因となった。

 そして昭和14年にこの事件を受けて発行された、軍人の戦場におけるマニュアルと言うべき「戦陣訓(初版)」には、捕虜になった場合の対処法や、敵の捕虜に対する扱いなどが明記される事となった。

 この「戦陣訓」の発行は、対外的な視線を意識したという意見があり、事実そうであった。

 「戦陣訓」の発行以後日本軍内部では、それまで強まっていた捕虜蔑視論は急速に弱まり、逆に例え捕虜になっても戦線への復帰を目指すように努力し続けるべしという風潮が高まった。

 そして、「成都陸攻事件」を生き抜き日本の捕虜に関する概念を変えた7人の男達は、その後厄介者扱いされ、全員が独立艦隊配属となった。



「いいねえ、この「米山」は。96陸攻とはえらい違いだよ。」

 ラバウル飛行場へ向かって飛ぶ「米山」重爆の中で、機長の竹下大尉が満足げに言う。彼こそが、あのたった1機不時着した陸攻の機長だった人間である。

 「米山」ことB17の乗員は約10名であるが、この内7名はあの時の搭乗員たちで固められている。

「ええ。この機ならあの時みたいに敵戦闘機に滅多打ちにされて、名誉の戦死にならなくても済みそうです。」

 竹下の隣で操縦桿を握る副操縦士の吉田少尉が頷きながら言った。

 あの時の記憶は、彼らにとって忌々しい物でしかなかった。目の前で仲間は全滅し、捕虜になりながらも復仇の念を抱いて収容所を脱出して、命からがら味方に戻ってみれば、卑怯者というバッシングの嵐であった。

(敵に一糸報いたいと思って命を掛けて帰ったのに、この扱いは何だ!!)

 彼らは、日本に広がっていた捕虜になるのはマズイことであるという意識が、如何に危険な物であったか認識したのであった。

「まあ今度は捕虜になっても、卑怯者なんて言われることはないだろうがな。」

「自分は嫌ですよ。戦果を上げて、俺たちが生きていたおかげで大戦果を上げる事が出来たということを、上層部のアホどもに見せてやりたいです。」

「確かに・・・そうだな・・・」

 竹下はどこか寂しげな表情でそう言った。

「そうなると、今回の新兵器がちゃんと働いてくれるのを祈るだけだな・・・」

 その小さな呟きを聞いた者は誰もいなかった。

 この数時間後、他の独立艦隊将兵たちよりも数日早く、彼らはラバウルの土を踏むのであった。そしてそこで、彼らは予想通り、新兵器による敵艦隊攻撃を命じられるのであった。


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