異国の翼
日本の航空機開発技術は、太平洋戦争開戦前に全金属製単葉の96式艦戦、97艦攻、99艦爆、96陸攻の採用によって大きく前進し、一気に欧米と肩を並べるまでになった。これら機体やその後継機が緒戦で連合国の機体を相次いで撃破したことは、欧米列強諸国に大きな衝撃を与えたことで有名である。
実際には無線や方位探知器といった電装品、さらにプロペラやエンジンの接合部のパッキンなど細かい部品や補助的な部品の精度が低いなどの問題を抱えていたが、それでも飛行性能についていえばとにもかくにも日本は欧米に追いついたのだ。
しかし、それは主に単発機や双発機という分野に限っての話だった。その重防御や爆弾等裁量から日本軍やドイツ軍を悩ましたB17やB24、アブロ・ランカスターといった英米のような4発爆撃機の開発は、日本においてはほとんど進んでいなかった。
日本で造られた4発機は飛行艇を除くと、陸軍の92式重爆撃機と海軍の「深山」爆撃機くらいしかなかった。
前者は92という数字から見てもわかるように、採用年度が昭和7年と古く、太平洋戦争時にはとても前線で使えるような機体ではなかった。しかも独逸のユンカース旅客機の改造機だった。後者もアメリカ製の失敗旅客機を改設計したに過ぎず、国産と呼べる機体ではなかった。おまけに性能が低く、やむなく輸送機として使っている始末だった。
そもそも貧乏国日本では多発機というのは資材を多量に使うので嫌われるようだ。それが原因かは定かではないが、1式陸攻の設計段階で設計者側が、海軍の提示した無謀ともいえる要求値を見て機体の4発化を提案した時、当時の航空本部長だった和田少将が激怒して双発に戻させたという逸話がある。
もっとも4発機の開発が進まなかった背景には、日本の陸海軍の航空機使いに戦略爆撃を理解している人間がいなかったということもあった。日本では海軍の爆撃機は敵艦攻撃に使えることが前提であったし、陸軍も戦術爆撃の使用しか頭になかった。そんな状況で4発機が造れる筈がない。
しかし広大な太平洋での戦争が始まると、どうしても距離の離れた敵基地攻撃が可能な航続距離の長い、しかも落されにくい機体の開発が急務となった。
だが早々にそれらが出来るわけではない。4発機の開発にはノウハウと設備が必要だった。ノウハウは中島飛行機や川西が「深山」、飛行艇の設計で蓄えているからまだ良い。しかし生産設備を整えるのには時間がかかる。何せ日本国内の工場で造られた多くの飛行機は、大きくても双発機だったのだ。それよりも一回り大きな機体を造ろうとするなら、どうしても施設の改良が必要だった。
そんなわけで、日本で初の実用的4発爆撃機となる「連山」がお目見えするのは、昭和19年1月まで待たなければならなかった。
ところが、3月初旬のこの日海軍高雄基地に現れたのは、まぎれもなく日の丸を描いた4発爆撃機だった。
「あれが特試航空隊の「米山」か!!さすがにB17だけあってでかいな!!」
着陸してくる4発爆撃機を見て、1人の整備兵が感嘆の声を上げた。
「本当だ。さすがにアメリカだけあるな。あんなでっけえ機体を造っちまうんだからな。」
側にいた整備兵も頷きながらそう言った。
「けど、それに日の丸つけてアメリカ軍に爆弾を落とすっていうのは、なんか変な話だな。」
「バカ!捕獲兵器を使用することは万国共通だ。こないだの新聞にも、イギリスのマチルダ戦車で戦うアフリカのドイツ軍の記事が載ったじゃないか。」
「そうだな。」
2人の整備兵はお喋りしながら、自分たちの仕事をするために歩いていった。
その間に、本土からはるばる飛来した4発爆撃機は18機全機が着陸を終え、エプロンまで滑走してきた。
この18機の爆撃こそ、特試航空隊へ新たに配備された3式陸爆「米山」だった。そして先ほどの整備兵たちの会話どおり、その正体はアメリカ製のB17爆撃機だった。
先日行なわれたポート・モレスビー攻略作戦の際、日本軍は飛行場を無傷で奪取するべく空挺部隊の投入を行なった。その結果、飛行場と共に多くの機体や機材が日本側の手に落ちた。その中には24機のB17や30機のB24の姿もあった。
B24の捕獲は初めてであったが、B17は既に前年のフィリピン攻略作戦において4機ほど捕獲していた。そのため研究資料用の1機以外は全て実戦使用されることが決定した。ちなみにB24は陸海軍で折半している。
ところが、前述したとおり日本では4発爆撃機を製造したことがない。だから使った部隊もない。つまり日本側には陸海軍共に4発爆撃機を使える部隊はなかった。そこでお鉢が回ってきたのが、拿捕したアメリカ製航空機を使いこなしている海軍の特試航空隊だった。
特試航空隊は4発機の運用こそしたことはなかったが、B25「ミッチェル」やA20「ハボック」といったアメリカ製爆撃機を使用していた。
そこで日本へのフェリー飛行を完了した2月中旬から、陸軍の立川飛行場を借りて搭乗員の慣熟飛行を行っていた。最初こそ4発エンジンの出力調整や、巨体に戸惑っていた搭乗員たちであったが、2週間もすると大分慣れた。
そして塗装を日本式の濃い緑色に塗りなおされ、3式陸上爆撃機「米山」と命名されると、さらなる訓練を行なうために、燃料が潤沢な南方へと向かったのであった。
ちなみに特試航空隊に配備された機体はこれだけではなかった。ポート・モレスビーで捕獲した機体はその他にも沢山あった。そうした機体も数多く配備された。
数十機単位で捕獲されたB25やA20と言った機体は特試航空隊で以前から使用している機体であったが、これまでの戦闘や訓練で失われた機体も多く、稼動機は減少していた。それが今回の配備で払拭された。
現在B25爆撃機は予備機含めて24機、A20爆撃機は予備機含めて30機が配備されていた。
また戦闘機についてもこれまではフィリピンやマレー半島で捕獲したF2A「バッファロー」やP40「ウォーホーク」しかなく、これらはもはや性能的には2線級機であった。
そこへ捕獲された60機のP38「ライトニング」の内の30機あまりが配備され、こちらも一気に戦力を増加させることが出来た。
P38には3式陸上戦闘機「剣風」、P40には2式陸上戦闘機「雷風」、B25には2式陸攻「豪山」、A20には2式陸爆「双山」という愛称が付けられた。F2Aは退役して練習戦闘機となったために愛称はつけられなかった。
ところで、これは戦後数十年経って公にされることになるのだが、これら機体の中にはポート・モレスビーで捕獲された機体だけではなく、なんとオーストラリアに駐留していた米軍が使っていた機体もあった。
米軍がオーストラリアを撤退する際、修理の終わってない機体や航続距離の関係で後方に撤退できない機体はそのままオーストラリアに譲渡された。しかしオーストラリア軍としては使い道に困った機体もあった。それらはそのままスクラップ扱いされ、そして第三国経由で日本へと持ち込まれたのだ。
もっとも、搭乗員たちにはそんなことは一切関係ないことであった。彼らは命令されたままに、高雄飛行場で簡単な整備と補給を済ませると、再び目的地であるブルネイ目指して飛んでいった。
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