異次元世界大戦 独立艦隊海戦記(44/67)PDFで表示縦書き表示RDF


異次元世界大戦 独立艦隊海戦記
作:山口多聞



日豪講和


 昭和18年2月。ガダルカナル島奪回、ポート・モレスビー陥落によって一段と厳しくなった帝国陸海軍の豪州封鎖作戦に、ついにオーストラリアは根を上げた。

 2月10日。オーストラリア政府は日本政府との単独和平交渉に入る事を世界に向けて公表し、帝国陸海軍との戦闘を中止した。

 これと前後して、アメリカとイギリスは必死に連合国陣営に留まるよう説得したが、クックタウンやケアンズと言った国内都市への爆撃がポート・モレスビーから始まり、加えて英国と米国からの援助も途絶えがちになっていたため、これ以上の戦闘継続は不可能という結論に至ったのであった。

 オーストラリアには、米国からP39戦闘機やP40戦闘機が援助されていたが、日本軍がガダルカナル島を中心に潜水艦と航空機による通商破壊戦を始めると、援助物資を積んだ輸送船団は次々と沈められていった。

 オーストラリアもブーメラン戦闘機やセンチネル戦車等、兵器の国産は行なってはいたが、その性能は日本製の兵器に比べて劣っている物が多かった。また数も全土を防衛するには不足だった。だから援助物資は必要不可欠だったのだ。

 米海軍には商船を守り、潜水艦を駆る護衛空母や護衛駆逐艦が多数存在していたが、それらは大西洋海域に配備されていたため、太平洋の輸送船団を守る艦艇の数は不足気味だった。その結果がこれだった。

 米太平洋艦隊司令官であるニミッツ大将は、「もし4隻の護衛空母と20隻の駆逐艦があれば、オーストラリアの離反を防げた。」と語った。

 もっとも、これは無理な相談だった。この時期ドイツ海軍はフランス海軍と図って積極的に動いており、太平洋へ回す戦力の余裕はなかった。もっとも、これはワシントンの日本とドイツに対する戦力分析の失敗であった。そのせいか、珊瑚海、ソロモン海での敗北とオーストラリアの脱落という失態にも関わらず、二ミッツは解任されずに済んでいる。

 もっとも、オーストラリアを失った連合国からしてみれば、アメリカ太平洋艦隊司令官の首がつながったことなど大した問題ではない。

 結局日本代表団との交渉の末、2月28日にオーストラリアは日本と正式な講和条約を結んだ。この条約では、オーストラリアの中立化と日本との貿易即時再開が盛り込まれていた。ちなみに、中立化は枢軸国全てに対してであった。そのため、ヨーロッパや中東でドイツ軍と戦っている部隊も即刻戦闘中止をしなければいけなかった。またオーストラリア国内で反攻の機会を窺っていたマッカーサー元帥率いる陸軍部隊と、同国内に展開していた航空部隊や海軍艦艇も即時撤収をせねばならなかった。

 このオーストラリア国内にいた米軍の撤退はオーストラリア軍とアメリカ軍が全力で行なったため、4月までには終了している。また航続距離の不足などで飛行が不可能だった航空機については、全てオーストラリアへ譲渡されている。

 これによって、オーストラリアはこの後英国本土やその他の連邦構成国から、裏切り者として盛大なバッシングを受けることとなり、それがオーストラリアが大英帝国連邦から脱退することへと繋がる。

 一方、日本もこの講和条約では譲歩してポート・モレスビーの即時返還を行なっている。また、ラエをはじめとするニューギニア東岸地域からの撤退も同時に行なわれた。

 オーストラリアとの講和は日本にとって無視できないプラスの効果をもたらした。特に高温多湿で伝染病の危険性が高いニューギニア戦線から兵力を下げられたことと、オーストラリアとの貿易再開で、多量の小麦を輸入できるメリットは大きかった。

 対する米国は、東南アジアへの反攻ルートの拠点を失い、前線をエスピリットサント島へと下げている。また援蒋ルートは完全に分断され、これ以後蒋介石はより苦しい立場に追い込まれることとなる。

 そして何より革新的だったのは枢軸国を除く白人国で、オーストラリアは最初にアジアの各独立国を承認した事であった。これは後々のアジア各国の独立承認に、優位に働く事となる。

 さて、そんな状況下で日本が次に取り掛かったのはセイロン島攻略作戦であった。

 これまで太平洋、ソロモン地域での作戦を重視してきた日本軍が、いきなりインド洋方面へ戦力を傾注したのは、政治による物だった。

 この前年、独逸軍はスエズを抜いて紅海を一気に南下、フランス領であったマダガスカル島をイタリア軍、ヴィシーフランス政府軍と協力して奪取している。

 その後、ドイツは中東の油田地帯を目指して進撃していたが、この頃にはさすがに欧州、アフリカ、ロシアという3面作戦を行なった余波で、戦力の余裕はなくなっており、しかも中東の英軍はケープタウンからインドへノンストップで走る航路を使うことで、物資を陸揚げしていった。

 またインドの南に浮かぶセイロン島も、インドや中東への物資輸送路の中継点になっていた。

 日本海軍はセイロン島からインド東部の港を結ぶ輸送路の輸送船団こそ攻撃していたが、セイロンから西側の攻撃はほとんど行っていなかった。

 ドイツとしては、なんとしてもインド西部への輸送路を分断したかった。そうすれば中東の英軍は根を上げるであろうし、カスピ海方面から渡っているソ連への援助物資も止まると見積もっていた。

 そのためには最低でもセイロン島を占領し、そこに航空部隊や仮装巡洋艦を配備させる必要があった。

 しかし、ドイツ軍には先ほども述べたように戦力の余力は無く、またイタリア軍やフランス海軍もインド洋へ派遣した戦力は、中東との輸送路や占領地を確保するギリギリの戦力しかなかった。

 そこで、日本軍に協力を求めてきたのである。

 オーストラリア・ソロモン方面での戦いが一段落し、ようやく息をつけると思っていた日本陸海軍にとって、セイロン島攻略は気の進まない作戦であった。しかし大事な同盟国からのお願いであるし、これまでに、兵器や技術の供与や、マダガスカルに強制移住させられたユダヤ人の中から、優秀な技術者や医者の日本への渡航を斡旋されるなど、様々な恩を受けてきたのだ。とても断れる物ではない。さらにドイツは音響追尾魚雷などの技術さえも譲渡してよいと言ってきた。

 そういうわけで、結局日本陸海軍は急遽、4月を目処にセイロン島攻略作戦を行なう事となった。ただし、この頃にはインド洋に敵有力艦隊はなく、空軍力も相次ぐ引き抜きで弱体化していたので、作戦に充当されたのは空母「隼鷹」、「龍嬢」、「龍鳳」、「瑞鳳」、「祥鳳」からなる第二航空艦隊であった。(これに攻略部隊護衛として、商船改造空母3隻と陸軍空母1隻が随伴。)

 そのため、独立艦隊その他の艦隊はセイロン島攻略を彼らに任せて、本土での改装や修理、南方での訓練に勤しむこととなった。

 セイロン島攻略作戦が始まるまでの4ヶ月間、独立艦隊には拿捕した軽巡2隻の配備やそれに伴う艦艇の異動など、若干の動きがあったが、より大きな動きがあったのは、その地上基地航空隊である特試航空隊の方であった。


 御意見・御感想お待ちしています。











ケータイ表示 | 小説情報 | 小説評価/感想 | 縦書き表示 | TXTファイル | トラックバック(0) | 作者紹介ページ


小説の責任/著作権は特に記載のない場合は作者にあります。
作者の許可なく小説を無断転載することは法律で堅く禁じられています。




BACK | TOP | NEXT


小説家になろう