第二次MO作戦へ
第二次MO作戦、ポートモレスビー攻略作戦実施予定は12月初旬であった。それまで帝国陸海軍では戦力の回復を急ぐこととなった。幸いこの世界ではガダルカナルを巡る消耗戦は起きていない。そのため艦艇数にはまだ余裕があった。
一方陸軍も戦力はそれなりに揃えられていた。新型の空母型強襲上陸艦「あきつ丸」、「にぎつ丸」が実戦配備され、さらに新型の2式小銃も最優先で配備されつつあった。
陸軍が戦力や装備に余裕があるのも、中国戦線での泥沼を回避できていたからだ。
1937年7月7日に起こった盧溝橋事件は、翌日日本陸軍と中華民国軍の共同声明で「犯人は共産党軍である。」と発表されて解決した。
この後、中国では国民党軍と共産党軍の内戦が激化した。当初は近代装備を持ち、支配領域も広い蒋介石率いる国民党軍が勝利すると思われたが、政治腐敗を大きく抱えていた国民党政府は質量ともに劣る共産党軍に連戦連敗した。特に、ソ連がモンゴル経由で戦車や飛行機を本格的に送り込み始めるとそれは確定的となった。
そのため、昭和14年2月についに国民党は分裂。汪兆銘を主席とする北京政府が樹立され、日本は蒋介石の支援を中止し、この北京政府を正統な中華民国政府とした。
この後、蒋介石率いる中華民国南京政府は蒋介石の妻である宋美齢のつてによって米国からの支援を取り付けたが、内部腐敗という根本的な問題を解決しないことにはどうにもならず、結局敗退と撤退を繰り返す事となり、昭和16年初頭には、蒋介石軍は海南島とビルマ国境を結ぶ線にまで追い込まれた。
一方、日本の支援を受けた中華民国北京政府は満州国と日本を後ろ盾に、蒋介石軍撤退後に共産党軍が占領した地域を次々と占領し、最終的に石家荘、洛陽、武漢、アモイを結ぶ線までを支配領域に置いたが、それ以上の進撃は国力の上で無理であった。汪兆銘国家主席は国力の増強を図るために、荒廃したインフラや工業の再建を急ぐ事となった。
結局、昭和17年現在中国は3つ(満州を含めれば4つ)に分裂したまま膠着していた。日本は中国大陸では租界警備と北京政府を支援するための4個師団を送り込んだ以外は、武器その他の輸出のみに留めた。このお陰で日本は旧式兵器の在庫整理を完了させ、さらに中国への輸出品特需で経済の建て直しに成功した。
また英国も得意の二重舌外交を展開し、日本との開戦までは2つの国民党政府と貿易を続けた。特に北京政府へは工業用機械や陳腐化していた武器を多数輸出し、その見返りとしてバーダー取引で多量の農産物を輸入している。
そして1人大損をしたのはアメリカで、多額の借款や軍需援助をしたにも関わらず、蒋介石軍は再起不能なところまで追い込まれてしまい、その見返りを回収することは事実上不可能になってしまった。
これが対日参戦の一つの理由になったとも言われている。とにかく、そう言うわけで日本の国力と予備兵力は史実よりかなり余裕があった。
一方で、帝国海軍はこの時期新設したインド方面艦隊を使って、オーストラリアからインドを結ぶ航路を攻撃していた。蒋介石軍の敗北は明らかだったものの、米国としては日本が敗北し北京政府が瓦解すれば逆転のチャンスはあるとして、支援を続けていた。
その俗に援蒋ルートと呼ばれる輸送路を日本海軍は攻撃していた。インド洋方面艦隊は旧式軽巡と旧式駆逐艦のいわば寄せ集め艦隊であったが、わずかな護衛をつけただけの輸送船団を狩るだけならこれで充分だった。
インド洋方面艦隊は昭和17年10月に設立されたが、その2ヵ月後には駆逐艦2隻沈没という被害で、撃沈輸送船11、艦艇5、撃破輸送船7、艦艇3、捕獲輸送船10、艦艇1という大戦果を上げたのであった。しかも艦艇や輸送船は全てアメリカとオーストラリア籍だった。これは両国政府と海運業界に大ショックを与え、結局この援蒋輸送はしばらく中止されることとなる。
そのため蒋介石軍はさらに困窮する事となったが、幸いにも共産党軍も北京政府軍も積極的な進撃を控えていたため蒋介石軍が明日にも滅びるというような事態は避けられた。
ちなみに、本来インド洋の制海権を守るはずの英海軍は、マダガスカルを占領し、中東へと向かう枢軸軍との戦い、さらにセイロン島の防衛に忙しく、とても手を回せなかった。
こうした情勢下、日本はポート・モレスビーへの攻撃を行わんとしていた。
昭和17年11月20日。訓練中だった独立艦隊と特試航空隊に出撃準備命令が発動されたため、訓練は急遽中止され、物資の積載が始められた。燃料・弾薬・食料・飲料水の積載が開始された。
そしてそれら作業が終了した11月22日、艦隊はブルネイを出港してトラック島へと向かった。
今回発動される第二次MO作戦では、第一機動艦隊と基地航空隊、そして独立艦隊が戦力として充当される予定になっていた。一方それに対する米艦隊は正規空母が「エンタープライズ」のみで、後は竣工を繰り上げた軽空母の「プリンストン」と「インディペンデンス」のみというお寒い状況だった。いかに国力が日本の30倍でも、戦時体制への移行はそう簡単ではないのだ。
そうなると、敵は主に基地航空隊となるだろう。そのため、日本陸海軍も基地航空隊を大幅に拡充していた。海軍はラバウルを中心に戦闘機200、陸攻100機をかき集めていた。また陸軍も各種戦闘機150、爆撃機120機を終結させていた。この600機近い空中戦力を一箇所に集中投入するのは、日本のポート・モレスビー占領への意気込みを象徴するものだった。
そして昭和17年12月4日、第一機動艦隊出撃に遅れること丸1日、補給を済ませた独立艦隊はトラック島を出撃し、一路珊瑚海を目指した。一方、米艦隊もエスピリット・サントを出撃し、これを邀撃せんとしていた。そして、ポート・モレスビーの陸上航空隊も、日本基地航空隊との激闘に備えつつ、日本艦隊への攻撃の機会も窺っていた。
今、珊瑚海に鉄の暴風雨が吹き荒れようとしていた。
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