第二次ミッドウェイ海戦
昭和17年5月時点で、日本は予定していた南方資源地帯の確保に成功。さらにインド洋の英東洋艦隊に壊滅的打撃を与え、マダガスカルまで後退させていた。ウェーク島攻略作戦や、小規模な海戦でこそ敗北したが、それ以外は連戦連勝。連日大本営は景気の良いニュースを流していた。2月にシンガポールが陥落した時は、記念として民間に対して臨時の砂糖や石油などのこの時期手に入らない物資の特別配給が行なわれた。
国民や、また戦局全体を理解できる立場にない軍人達は、戦争は早期に終わると思い始めていた。しかし、それはあまりにも楽観的な予測だった。
この時点で、アメリカ太平洋艦隊は主力戦艦群と空母「レキシントン」、「ヨークタウン」、「ワスプ」を失っていた。空母の後者2隻は先日行なわれた珊瑚海海戦で失われた艦である。一方、日本側は戦艦の損失はなく、空母にしても軽空母「祥鳳」を失ったのみだった。
これだけ見れば、日本側が大いに有利に見えるが、国力の差を考えれば5分5分だった。この時点で米軍は戦艦8隻、正規空母33隻を建造中であり、その内の何隻かは竣工を前倒しして今年の末にはお目見えする予定だった。
対する日本は正規空母は拿捕した英空母の「インドミダブル」こと「剛龍」の改装と装甲空母「大鳳」の建造が進めらているのみで、あとは軽空母ばかりだった。戦艦にしても竣工直前の「武蔵」と、資材の目処がついた「信濃」、「飛騨」の3隻のみであった。
もし長期戦と成れば、日本に勝ち目はいい所1分しかなかった。だからこそ、山本連合艦隊司令長官は早期終戦を提唱していた。
しかし、勝ちに勝ち続けてきた日本軍内部で停戦を口にすることは弱腰として御法度であった。最低でも、アメリカから講和を言い出させなければとてもそれは望めなかった。
そこで山本長官は、早期終戦を目指すためにも年内を目処に米機動艦隊の壊滅とハワイ方面への再攻撃の必要性を考えていた。彼が立案したミッドウェイにおける敵機動部隊の撃滅作戦もその1つだった。
しかし、大本営海軍部や海軍省、陸軍それぞれが全く違う戦略を描いていたために、この計画は承認されにくい物だった。
大本営海軍部や海軍省は、ソロモン・サモア方面での侵攻による米豪遮断作戦を提唱していた。一方、陸軍はニューギニアを確保する事での米豪遮断作戦を行ないつつ、太平洋戦線を切り上げ、インド・ビルマ方面での攻勢を強めたい考えだった。
これら作戦はいずれも長期戦を念頭に入れていたもので、山本の考えと相反する物だった。しかしながら、前線部隊の長である山本の指揮権には自ずと制限があった。
そして軍令部の要請で行なわれたポート・モレスビー攻略作戦は敵機動部隊を壊滅させたが、日本艦隊も航空部隊に大打撃を被ったために後退し失敗した。
これは連合艦隊にとっての初黒星であった。
そんな中、米軍による本土への空襲が行なわれ、敵機動部隊の壊滅と北太平洋方面における制海権を確固たる物にする必要が出てきた。
ミッドウェイ攻略はこの意図を持つ作戦であり、強行される事となった。ただし、山本の思い描いていた(実際は黒島作戦参謀の立案)通りにはならなかった。
まず燃料のストックの関係から、当初予定していた連合艦隊全艦での作戦実施が不可能となってしまった。そのため、開戦以来百戦錬磨を誇る南雲機動部隊以外に参加するのは、主力戦艦部隊の半分となってしまった。
さらに第二機動艦隊によるアリューシャン列島への陽動攻撃計画も、効果が薄いという理由から却下された。そのため、第二機動艦隊は改編が行なわれ、主力艦隊と共に行動した。
そして行なわれたミッドウェイ海戦は、日本海軍に高くついた作戦となった。米海軍は暗号を解読し待ち伏せを行なっていた。日本本土空襲より帰還した「ホーネット」、「エンタープライズ」、そして潜水艦の雷撃を受けドック入りしていたのを突貫で直した「サラトガ」であった。
島と機動部隊の2つを相手にしなければならなかった日本側は動きに大きな制限を受けて、その隙を米軍側に付け込まれてしまった。
結果、空母「赤城」、「加賀」沈没、「蒼龍」大破という開戦以来始めての大打撃を被った。特に「赤城」は艦橋に被弾したため南雲中将が戦死している。もし主力部隊と行動を共にしていた第二機動部隊の軽空母2隻の艦載機が支援に駆けつけていなかったら、残る2隻も危なかった。
対し米軍は航空攻撃と潜水艦による攻撃で空母「サラトガ」、「ホーネット」を失い、「エンタープライズ」も3ヶ月のドック入りとなった。これによって太平洋方面の稼動空母が一時的にゼロになるという、米軍にとっては有り得ない状況となった。幸運だったのは、日本軍も相応の打撃を被り、しばらく行動不能になったことであった。
ミッドウェイ島攻略こそ成功させた日本軍であったが、空母2隻の損失と1隻の長期戦線離脱は、しばらくの間攻勢に出ることが出来ない事を意味していた。ここに、山本長官の描く早期講和は潰えてしまった。
連合艦隊の戦略が破綻したために、逆に脚光を浴びたのが大本営海軍部と陸軍の戦略であった。早期終戦が不可能である以上、長期戦に向けての足場を組む必要があった。
そこで大本営海軍部こと軍令部は直属の独立艦隊へトラック島への進出を命じると共に、ソロモン、サモア方面での攻勢計画であるFS作戦の準備に取り掛かった。
軍令部の発案した作戦では、7月下旬をもってエスピリットサント島への攻撃を連合艦隊より抽出した第二機動艦隊とともに実施し、同島を早期占領。そのまま一気にサモアへ向けての進撃を行なう予定であった。加えて、同時に停滞していた海路よりのポート・モレスビーへの攻略作戦を行なう予定であった。
日本にとって、オーストラリア、ニュージーランドとの停戦だけでも大いなる価値があった。
ところが、これに異を唱えたのが独立艦隊司令官の桑名であった。
「現状ではエスピリットサント方面の敵情が不明である。そこで潜水艦ならびに長距離偵察機による偵察を入念に実施したい。」
結局、軍令部はこの意見に折れ、偵察期間とするして2週間作戦を延期した。ところが、これが日本側にとって僥倖となった。
その報告は作戦実施予定の数日前、ソロモン東方を哨戒中の伊号潜よりもたらされた。8月5日早朝の事だった。
「敵空母、輸送艦、巡洋艦を多数含む有力なる艦隊。ソロモン海を西進中。」
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