空母「天城」
実験艦隊旗艦である空母「天城」が海軍に編入されたのは昭和16年4月である。しかし、この艦を建造した記録は日本にある全ての造船所にはない。
そもそも本来の空母「天城」はワシントン条約で空母への改造が決定された巡洋戦艦で、建造中に関東大震災に遭遇して破損、そのまま解体された艦である。
今まさに司令官である桑名が乗り込もうとしている「天城」はそれとは全く別の船で、昭和16年2月に突如として九十九里浜沖合いで発見された謎の空母というのがその正体である。
その日貨物船が洋上を漂流している「天城」を発見し、その後通報を受けた駆逐艦で派遣された海軍の将兵が艦内をくまなく調査したが、人っ子一人いない状態だった。
その後、取りあえず横須賀まで曳航されてドック入りし、さらなる調査が行なわれた。その結果、わかったのは艦尾の艦名板から艦名が「天城」といい、艦首の三つ葉葵の御紋、さらに艦内に残されていた書類から、この船が徳川幕府の軍艦であるということであった。
この報告に誰もが最初冗談と思ったが、艦橋をはじめとして各部に見られる日本的な造りは明らかにこの艦が日本で造られていたことを示し、かつ今の日本にはない物をたくさん積んでいたのも事実だった。
その後1ヶ月ほど綿密な調査が行なわれ、積まれていた艦載機や電子機器、機関技術は現在の日本の物と比べて明らかに勝っている事がわかった。特に電探やカタパルトは凄まじいまでに高性能だった。
調査終了後はその高性能から連合艦隊への配属も考えられたが、同型艦がないことによる戦隊単位での使用が難しい事、ならびに機密を保つ観点から実験艦隊配備になった。
ちなみに将兵の間に流れた噂では、突然現れ誰もいなかった幽霊船状態だったことから気味悪がられたとも言われている。
とにかく、この「天城」が現在の実験艦隊旗艦だった。「天城」は配置以来乗員からの評判が高かった。
実はこの艦、居住性が非常に高い。帝国海軍の艦艇では水兵が寝る場所はハンモックが当然であり、またトイレや風呂等の施設も諸外国の水準から見れば非常に低かった。
ところがこの「天城」は水兵の居住区にいたるまで大きなベッドが用意されており、さらに艦内の装飾も華美なほどに付けられていた。漆塗りの装飾や、金箔が押された艦名板がそれである。
それ以外にも、図書室や食堂等の娯楽用の部屋なども整備されていた。一応実験艦隊配置前に一部は撤去されたが、それでも充分すぎるほどに華美で過ごしやすい空間であった。
桑名がこの艦を気に入っているのもそう言う理由からだった。
ランチが「天城」に着くと、桑名を先頭にして将兵たちが甲板へと上がる。
「お帰りなさい司令官。」
ラッタルの上で待っていた当直の兵士が敬礼する。もちろん、桑名も答礼をする。
「うむ。」
続いて近江参謀長や将兵たちがラッタルに上がってくる。将兵達はそのまま自分の持ち場へと散って行く。一方、桑名と近江の2人は艦橋へと上がった。
艦橋では、艦長の朝倉義巳大佐が戦務担当の士官と打ち合わせをしている所だった。彼は桑名と近江の姿を認めると、打ち合わせを急いで終わらせ、近づいてきた。
「やあ司令官。今日も本艦でお休みになるのですか?」
「ああ。「天城」の司令官室の方が司令部の方より居心地が良い物でね。ところで、戦務担当の士官が来ていたが、何かあったのかね?」
「ええ。また乗員同士の喧嘩です。一癖も二癖もある連中ばかりですから仕方ないと言えば仕方ないですが、規則に則って罰を与えなければいけません。」
その言葉に桑名は苦笑する。この艦隊には飲む・打つ・買う三拍子揃ったまたはどれかに当てはまる兵士が多い。そう言うわけで喧嘩も多い。日常茶飯事と言っても良い。
助かるのは士官たちが常に目を光らせてくれることと、兵士の3分の2は乙種、丙種合格者で占められているおかげで、件数自体はそんなに多くないことだ。
「それは仕方がないな。どんな理由があろうと規則違反は罰しなければいけないからね。ところで、兵達の練度はどうかね?」
「一応きな臭い空気は感じ取っているようですが、訓練不足もあってそこまで高いとは言えませんね。しかし、そんな事を言われるという事はいよいよですか?」
「ああ。今日軍令部から戦争の準備に入るよう命令が来たよ。ただ今の所はそれ以外に何の指示も来ていないから、取りあえず明日艦隊幹部を集めての会議を行なう。」
そう言うと、彼は窓に近づいて湾内に停泊している艦艇を見回した。
現在実験艦隊に配備されている艦艇は空母「天城」を始めとして、いずれも帝国海軍離れした艦艇ばかりで編成されている。
まず独特な船であるのが高速打撃艦の「背振」級だ。この船は八八艦隊計画の中止で余った40cm砲を有効利用するために建造された。ただし、設計経験を積ませるために設計を民間に委託したのだが、戦艦を設計したことのない民間造船所であったから普通の設計が出来なかった。
しかも、海軍から提示された予算は軽巡洋艦1隻分しかつけられていなかった。さすがに日中戦争が始まっても、廃物利用に潤沢な予算をつけられるほど帝国海軍の懐は温かくはなかった。
そのため、彼らが設計したのは英国のモニター艦をモデルにして、8000t級の高速商船の船体に40cm連装砲を1基のみ固定式で載せるという余りにも突飛な設計であった。
もちろん、そんな設計海軍としては許せる物でないし、第一、固定砲塔では対地砲撃能力も限定されてしまう。ましてや艦隊戦など不可能である。
しかしながら、船倉を弾庫として使用することや商船の船体流用は建造費を抑える点でも有効であった。もちろん防御力としては並の戦艦に劣るが、使用用途を空母護衛や対地砲撃のみに限定すれば充分役に立つ。
そこで、排水量を1万6千トンに倍増させ主砲を2基旋回式とし、平時は大型の鉱物運搬船。戦時は改装戦艦として使用する案が出された。
この結果生まれたのが「背振」と「多良」の2隻で、両艦とも今年の6月に改装を終えて配備されている。ただし、主砲こそ戦艦級であるが装甲版は巡洋艦程度の物しか積んでいないため、戦艦とは言い難い一面もある。さらに、機関もされているため速力は31ノットと高速である。
そこで、高速打撃艦(モニター艦)という新艦種となった。
この他の艦艇も個性豊かである。
|