変革
昭和17年3月。新たに空母「翠鶴」と巡洋艦「普賢」を組み込んだ実験艦隊であったが、同時に2つの大きな変革があった。
1つは、艦隊名の変更である。これまでの実験艦隊という名称から新たに独立機動艦隊という名称に切り替えられた。これは艦隊の任務が、新兵器や実験段階兵器のテストや標的任務などから、実際に戦闘に出る場面が多くなるという、軍令部の予想にたっての物だった。実際、乗員と航空隊の習熟が済み次第、彼らはインド洋での任務に就く予定となっていた。
ちなみに、独立というのは連合艦隊指揮下にはないということを示していた。
そしてもう一つは、かなり大きな変革だった。恐らく大日本帝国海軍史上でかなり画期的なことであった。女子義勇兵の採用である。字のごとく、女子が兵隊として艦に乗り込むことを指す。
この女子兵採用の発端は、日中戦争が始まって1年目の昭和12年に遡る。その歳、日本の大衆向け雑誌に中国戦線で捕虜となった中国の女兵の写真が載った。あくまで中国戦線の様子を載せた戦意高揚用の写真であったが、これが日本国内の軍国少女の心に火をつけた。
「中国の少女が国のために戦っているのだから、私たち日本の大和撫子も御国のために銃を持って戦わなければいけない!」
日本では、明治以降女性は家庭内で働く存在という風潮が強かった。職業婦人という言葉があったが、これは女性が働いているのが珍しいということを象徴している言葉といえた。さらに、「家」制度が強いために女性の地位は低い。
そんな世の中であるから、この声も日本の女子の国に対する忠誠心の高さを示すという宣伝にこそ使われたが、実際に省みられることなどなかった。
その状況が一変したのが、第二次世界大戦が始まった直後だった。ヨーロッパの戦争の状況を伝える雑誌に、男性顔負けで国土防衛の任に就くイギリスの女性士官や、後方で補助任務につくドイツの女性兵士の写真が載ったのである。
これによって、一度下火になった女子の軍志願運動が再発した。結局軍もついに折れ、女子義勇兵志願制度が誕生した。この制度では志願した女子は、平時は本土基地での後方任務のみ。戦時でも前線での補助任務にしか就かないことになっていた。加えて、義勇兵という正規兵とは一戦を画す存在という扱いだった。だから、階級には特殊という単語がついていた。
そのため、開設当時の昭和14年当初に養成が開始された兵種は無線、主計、航空機整備等に限られていた。
ところが、当初から志願者が募集人数の十数倍となった。これは貧しい小作農出身の女子が集中したのが原因だった。昭和恐慌の爪あとから日本が未だ脱出しきっていない証拠だった。
また、日中戦争の長引きと対米緊張のために、日本では陸海軍共に深刻な兵員不足を来たしつつあった。そのため、2年目の昭和15年からは兵種が歩兵やパイロットと言った前線任務の兵士にまで拡大された。
そして、今回訓練を終えた女子兵第一期生が独立機動艦隊に乗り込むこととなったのである。その内訳は、無線6名、パイロット12名、整備12名、電探担当3名であった。
3月3日。空母「天城」艦上で、司令官の桑名中将が着任した女子義勇兵の前で訓示を行なった。この時入った女子兵の中で最上級なのは、戦闘機パイロットの宇都宮栄子特殊一飛曹だった。
そして彼女らを新たに加えた艦隊は、ボルネオ島のブルネイ泊地へと移動した。これは、燃料事情の悪い日本本土よりも、燃料が豊富な南方で習熟訓練を行なうためであった。
3月21日、艦隊は伊豆軍港を出港し、一路南下した。この時期既にマレー半島、シンガポール、南方資源地帯などは敵の低い士気や、劣悪な装備に助けられて短期間のうちに占領されており、当初日本軍が求めていた南方の戦略資源はほぼ手中に治められていた。
日本軍上層部は当初予定していた戦略が、あっさりと終わってしまっうという予想外の事態に、次の戦略目標をどうするのか迷っていた。
陸軍はとにかく中国での内戦を早期に終わらせる意味から、唯一残る援蒋ルートのビルマルートを潰す事を当座の目標とした。
彼らにしてみれば、中国などの大陸こそ本命の戦線であり、太平洋はオマケに過ぎなかった。しかし、海軍は仮想敵がアメリカであるから、対米戦重視であった。そのため、次なる攻略目標はオーストラリア方面であった。
この戦略目標と仮想敵の不一致が後々大きく影響を及ぼす事となる。
4月2日、艦隊はブルネイ泊地に到着、早速訓練を開始した。伊豆よりも燃料事情が良いので、艦隊も飛行隊も思う存分とまではいかないが、以前より長時間かつ実戦的な訓練を行なえるようになった。
ただし、良いことずくめでなかったことを一応書き記しておく。それは桑名と近江参謀長の間で話し合われた次の会話でわかるだろう。
「いやあ、それにしても熱いですね。」
「本当にそうだよ。南方が熱いとは聞いていたが、甘かった。」
「既に熱中症患者が20人も出ています。いずれも新兵を中心に出ています。それに、最近食事に対する不平不満も大きくなっています。」
「うーむ。訓練は出来るようになったが、まさかそんな問題が発生するとは思わなかったよ。まあワシもビルマ米やタイ米より日本の米を食いたいと言う兵の気持ちはわからんでもないがね。」
こういう具合であった。ただし、彼らはまだ恵まれていた。なぜなら彼らの使用している艦艇の多くは外国製や、比較的余裕を持って造られた民間造船所の船ばかりであったからだ。
こうした艦艇の多くは、兵1人1人にスチール製のベッドが装備され、便所や浴室の数も日本製の軍艦よりも多かった。さらにアメリカ製の「翠鶴」や「普賢」には食堂にアイスクリーム製造装置が備えられていた。
こうした福利厚生面での設備が忠実しているおかげで、兵たちの不満は他の艦艇に比べて最低限度で抑えられていた。
ブルネイでの訓練はおよそ半月ほど行なわれた。
独立機動艦隊艦隊編成 1942年4月
第一独立航空戦隊 空母「天城」(1式艦戦×30 1式艦爆×27 97式艦攻×24)
空母「翠鶴」(96式艦戦改×30 S式艦爆×30 「明星」×21)
第一独立打撃戦隊 打撃艦「背振」
打撃艦「多良」
第二独立打撃戦隊 巡洋艦「普賢」「筑後」
第一独立水雷戦隊 巡洋艦「佐保」「梅」型駆逐艦×4
第二独立水雷戦隊 巡洋艦「明日香」平型駆逐艦×4
第一独立護衛戦隊 「松」型駆逐艦×4
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