新装備
実験艦隊が拿捕した「レキシントン」と「ペンサコラ」はそれぞれ横須賀と横浜の海軍工廠と民間造船所で調査、修理、改装を受けていた。
調査は主に艦内の儀装や搭載武装に対して行なわれた。特に「レキシントン」は甲板上の飛行機こそ撃破されていたが、格納庫内のF4F「ワイルドキャット」、にSBD「ドーントレス」、TBD「デバステーター」、そしてSB2C「ヴィンディケーター」は無事であった。
これらは日本に着くと早速「レキシントン」から降ろされ、海軍の横須賀基地や陸軍の立川飛行場で試験飛行と性能テストが行なわれた。しかし、これらアメリカ軍機の性能に対して、多くのパイロットは冷ややかな評価をつけた。
この時点において、日本軍の機体の多くは、極限までの重量軽減を行なう事で得られた高い旋回性能を武器にしていた。それに対してアメリカ軍機は防弾版を装備して重量が重くなっていた。それを強力なエンジンで強引に引っ張る仕組みであった。
そのため、アメリカ軍機の多くは重いために翼面荷重が大きく、旋回性能は低かった。もっとも、それは日本機と比較した場合であって、地中海戦線ではF4FもMe109と旋回戦闘を行なっていることを忘れてはいけない。
ようは、日本軍機の旋回性能がずば抜けて高かったのだが、それが日本パイロットにとっては普通であったのだ。
結局、こうした考えを持つ日本パイロットたちの評価によって、日本軍全体が米軍機は軒並み性能が低いというレッテルを貼り付けてしまった。これによって、戦闘前から敵を見下し油断したところを撃墜されるパイロットが増加される事となった。
もっとも、悪い事ばかりではなく日本航空業界には大いに自信を持たせるきっかけとなり、また陸海軍がメーカーに出す性能要求も緩和される切っ掛けとなる。
さらに、飛行性能の劣悪さにばかり着目したパイロットもいたが、儀装能力の高さや整備性の容易さ、頑丈さ、そして詰まれている無線機や機銃の能力の高さをしっかりと見ていたパイロットも少数ながらいた。彼らの貴重なレポートによって、無線機の改良や新型機関銃の開発も進められる事となる。
ちなみに、これら調査された機体の内SBD「ドーントレス」だけは、占領した蘭印の飛行場でで陸上機バージョンのA24が拿捕されたことと、レキシントン内で無事残っていた機体の中で比較的数が多かった事から、短期間で調査を終え、実用評価試験の名のもと実験艦隊航空隊に引き渡されて正式装備となっている。
この捕獲「ドーントレス」にはS型艦上爆撃機という名前がつけられ、予備部品が尽きる事になる昭和17年末まで運用された。なお、元々が敵機であるから味方の誤射を受ける可能性があった。そのため無線用の支柱の位置や風防の形が変えられるなどの小規模改造を受けている。
一方、「レキシントン」と「ペンサコラ」の2艦では、搭載されていた射撃指揮装置や40mm対空機関砲などが注目を集めた。この2つは日本で開発が遅れている分野の物であったからだ。
2艦は米国製の武器は予備がある小口径銃を除いて降ろし、全て日本製の兵器に載せ代えている。それと同時に改名された。まさか日本の軍艦として「レキシントン」や「ペンサコラ」という名前で使うわけにはいかなかったからだ。
ちなみに、日本海軍の軍艦の命名は空母、戦艦の場合がまず海軍大臣が2つの候補を決め、それを天皇に上奏し最終的な名を決定するという方法を取っていた。それ以外の船は命名基準に従って海軍大臣が名前を付けていた。
改名後は「レキシントン」が「翠鶴」、「ペンサコラ」が「普賢」となった。
「翠鶴」は基本的に外観などは「レキシントン」時代のままだったが、20cm砲や5インチの対空砲が装備されていた場所には日本製の89式12,7cm連装高角砲が装備された。機銃はボフォース40mm、日本製の96式25mm、エリコン20mmの混載であった。
艦載機は以前なら90機あまり詰めたが、アメリカ製の機体と違って日本製の機体は翼の折り畳み幅が小さく、さらに天井から吊り下げる機械にあっていない為に、81機に抑えられた。
一方、「ペンサコラ」こと「普賢」はアメリカ時代が20cm連装、3連装砲2基ずつという主砲配置だったのが、今回の改装で連装4基にされている。これは3連装砲が日本海軍には存在せず、開発している余裕もなかったからだ。その代わりに61cm4連装魚雷発射管が2基装備され、さらに対空用機関銃も増備されている。
2艦は改装と修理を終えると、数日間の試験運転をしたのち、海軍に引き渡され、即日実験艦隊所属となっている。
この2隻の配属として前後して、実験艦隊の各艦もドッグ入りして補修や簡単な改装を行なっている。特に駆逐艦にはまだ試験段階の物であったが新型の小型電探とソナーが装備されている。
また、拿捕した艦とは別に新たな艦艇も配備されている。それが軽巡洋艦「筑後」である。この艦は新造艦ではなく、購入艦であった。
こんな世界中が戦争中に艦艇を売ってくれる国などがあるのかというと、あったのである。それはフランスであった。
フランスはドイツに降伏後、ヴィシー政権と自由フランス政府にわかれてしまったが、後にベトナムになる仏印はヴィシー政権側についた。
この政権は事実上ナチの傀儡政権であったから、日本はかなり高圧的に仏印総督府に接し、その結果仏印進駐が可能となったのである。それとともに、仏印駐留の極東艦隊も武装解除されてしまった。
そして始まった太平洋戦争で、艦艇不足の日本海軍は繋がれたままになっていたこの巡洋艦に着目した。武装解除されているため、再武装する必要があったが、それでも新造するより安い。
そういうわけで、この巡洋艦「ラモット・ピケ」は日本海軍に安値で買い叩かれ(実際5500t級ほどではないが旧式だった)、日本の呉へと回航された。昭和16年11月の事である。
その後4ヶ月間で改装工事を終え、竣工し「筑後」と名づけられたのであった。ただし、同型艦がないなどの理由で実験艦隊への配属となった。
もちろん、軍艦は人が動かすから新たに大勢の隊員が実験艦隊に加わっている。やはり訳ありの人間が多かったが、今回の場合は素行不良の者は少なく、大半が戦死公報が回った後に生きていると判明した英霊であった。彼らの多くは、戦果を上げて自分たちを蔑んだ人間どもを見返すという意気に燃え上がっていた。
こうして、実験艦隊はよりパワーアップして再び戦場へと向かう事となる。
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