第3章 復讐開始
次の日の夜中に、僕と哀子は土管の中で落ち合った。
土管の中に置いておいたパーカーとニット帽を哀子はすでに身に着けていた。土管の隅に放置された哀子の制服からは異様な臭いが漂っていた。僕はニット帽を出来るだけ深く被るように言い、サングラスと口元まで隠れるネックウォーマーを渡した。哀子は暑苦しそうに顔を歪めたが、僕は見ないふりをした。
「走りには自信ある?」
哀子に訊くと、
「もう何年も走ってないから」
と返事が返ってきた。
「うん、そうだとは思った。僕も走りにはそれほど自信のある方じゃないんだ。だから、これを使おうかと思って。あ、でも哀子はこれ履いたことある?」
僕は紙袋の中から紺色のローラーブレードを引っ張り出した。頷いてくれることを期待しつつ、僕は哀子にローラーブレードを渡した。
「うん、あるよ。小学生のころに」
「そう、よかった」
哀子はパチンパチンと手際よくベルトを止め、小さな公園をグルグルと何週か回って遊んでいた。そのときの哀子の表情は嬉しそうだった。
僕も久しぶりに履くローラーブレードの感覚を思い出しながら、小型ナイフの調子を確かめた。月明かりを受けて光沢を放つナイフは、宝石なんかよりも数倍綺麗だと思った。
公園から出て、僕たちは住宅と住宅に挟まれた、車一台分が通れるほどの道へ行った。ローラーブレードの音が出来るだけ響かないように、僕たちは慎重に夜道を進んだ。
しばらく行くと、前方にサラリーマンがおぼつかない足取りで、歩いているのを見つけた。僕はローラーブレードを止めて、
「あの人にしよう。酔っ払っているみたいだし、最初はああいう人の方がいい」
「……どっちがやるの?」
「僕がやる」
哀子は何度か頷いた。僕と哀子の周りを漂う空気だけがピアノ線を張ったように張りつめていた。
僕はローラーブレードを走らせた。アスファルトを擦るローラーの音が颯爽と響き渡る。僕が男との距離を縮め、残り数メートルとなったとき、男は後ろを振り返った。でも、もう遅い。
僕はナイフを低い位置で構え、膝を少し折り曲げた。男は状況が把握出来ていないらしく、間抜けな声を上げている。僕は構わず、ナイフを男の太ももの上をスッと滑らせた。男は呻き声を上げながら、切られた太ももを必死に押さえ、血が溢れないように必死だった。
僕は加速したローラーブレードを方向転換させ、急ブレーキをかける。ナイフを握る手が汗ばみ、今にも手から滑り落ちてしまいそうだった。男はその場に転がり、ひたすら声を上げて叫び散らしていた。なんて無様な姿なんだろうか。僕は血の付いたナイフを見て、少し気分が悪くなった。なんて汚い血なんだろうと思った。男は僕を憎くて堪らないといった目で見ながら、豚のようにフゥフゥ言っていた。やっぱり気分が悪い。僕の額に汗が滲んだ。
後ろから流れ込む、ローラーブレードの音に気付かないほど、僕の脳裏は全ての機能を停止させ、手に持つナイフにだけ神経を集中させていた。
骨を何か固い物で殴ったような鈍い音で僕は我に返った。先ほどまで痛みで暴れまわっていた男は静かになった。どうやら、気絶してしまったようだ。
「大丈夫? 固まっちゃって」
哀子は右手に傘を持っていた。
「それ……」
僕が呟くと、哀子はフフッと笑い声を上げ、
「昨日忘れて帰ったでしょ」
と、笑いの含んだ口調ではっきりとそう言った後、僕の手からナイフを取り上げ、月光に当て、じっくりと観察した。そして、変な方向に折れ曲がった傘を男の上に放り捨てた。
一通り観察し終えると、哀子はナイフを僕に返した。動揺から僕の手はぶるぶる震えている。哀子はそのことには触れなかったが、異常なほど僕の指先から腕までが左右へ、まさに今地面が揺れている最中のように、落ち着かなかった。
僕がナイフをポケットに入れたのを見計らい、哀子は僕の手首を掴み、ローラーブレードを加速した。僕は体勢を崩したが、何とか立て直し、哀子に引っ張られながら、スピードを上げる。
哀子の小さな背中と徐々に小さくなる男を交互に見た後、何故だか叫びたい衝動に駆られた。僕の心臓はバクバクと跳ね上がり続け、餓えた狼のように早く獲物を食い殺したいと騒いでいるようだった。それと同時に、仲間から見捨てられ嘆く、哀調の帯びた遠吠えのようでもあった。
次の日、昨日のことが出ていないか確かめるため、僕は新聞とニュースをチェックした。ニュースでは報道されていなかったが、新聞の隅には小さく載っていた。こんな小さくては意味がないのだ。全ての大人に恐怖を与えなくては復讐とはいえない。
僕は学校の授業中、どうすれば大人たちがもっと騒ぎ立てるか考えた。
僕は学校帰りに土管へ立ち寄り、哀子と相談した。すると哀子は苦い顔をして、顎に手を添えて考える真似事をした。そしてしばらく何かを思考した後、ギョロリと鯉のような目を僕に向けて、
「まだ一度目だから仕方ないわ。あと何回かすれば、きっと大人たちはもっと騒ぎ立てるようになる」
にっこりと笑んで言う哀子に、僕はガムを与えた。
きっと哀子の言う通りだ、と僕は思った。神様が僕の補助をしてくれているのだ。そう、だから哀子がいる。それが何よりの証拠だ。
「今日はよしておこう。明後日の午後十時にまたここで」
哀子は相槌を打ち、ガムを土管のコンクリートに貼り付けた。
「そういえば、哀子の両親には哀子が深夜に家を出て行くこと知られていないよね?」
僕が訊くと、哀子はガムを貼り付ける手を止めた。先程のぎょろりとした眼は一気に虚ろになり、ぼんやりと紫色のガムを見つめている。
「さぁ、微妙なところね」
ポツリと出た呟きと共にガムがぽとりと落ちた。
僕は、気付いていないといいね、と他人事のような、自分さえもゾッとするような声色で呟き、嘲けりに似た短い笑いが漏れた。
三日後、僕らの復讐は「少年リッパー」という名をうけて、ニュースで報じられた。
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