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美しい鼻血
作:子々



第2章 名前のない公園


 名前すらない小さな公園がある。僕が幼稚園生のときはよくその公園で遊んでいたが、今では人ひとりとしていなかった。近くにあるもう一つの公園に子どもたちは流れ込んでいた。

 その公園にはL字型の土管があり、砂場の上に置いてあった。横穴から入ると一メートルほど先に、砂が敷き詰められた円状の空間がある。そこの真上にもう一つの穴がある。昔はそこに赤い塗装を施されたハシゴが空へとのびていたが、ハシゴから落ちて怪我をした子がいたらしく、撤去されてしまった。

 哀子とはその公園で何度も会った。哀子は決まってその土管の中にぐったりと横たわっている。僕は学校からの帰り道にその公園に寄り、哀子の様子を覗いて、給食の残りを置いてから帰った。哀子と言葉を交わす日は滅多になかった。僕は親睦を深めて仲良しになることに執着がある方ではないし、哀子はみる限り人付き合いが得意ではないだろう。僕が声をかけるのは決まって哀子が血溜まりの中で寝転がっているときぐらいだった。でも、決して心配して声をかけているわけではない。死なれたら困るからというわけでもない。自分でもそれがどういった感情からなのかはよく理解できないけれど、多分、稀な性質なのだと思う。それでも、僕が「大丈夫?」と声をかけているのは、偽善者ぶりたいからなのかもしれない。決まって哀子は、そんな僕の内心を察しているのか、返事はしない。

 その日もいつも通り、給食の残りを持って公園に寄った。雨がばさばさ降る日だった。パンを土管の中に置いて、立ち去ろうとしたとき、哀子に呼び止められた。僕は所々欠けた土管の中に入り、なに? と尋ねた。

「この公園、取り壊されるらしいの」

 そう言う哀子の声は冷静だった。

「ああ、そこの張り紙のこと? 僕も見たよ。残念だね。哀子のお気に入りの場所だったの
に」

 張り紙によると、この公園は二ヵ月後に解体作業が行われるそうだ。それでも誰も名残惜しそうに遊びには来ない。

 哀子は寝転んだまま、荒れた唇をひたすら弄くっていた。僕は膝を抱えた体勢のまま、外の風景を眺めた。雨は勢いを増して、降り続けている。

「この場所が壊されたら、私どうすればいいのかなぁ……」
「家があるじゃん」
「家って落ち着かないでしょう」
「まぁ、落ち着きはしないね」

 哀子はビニール袋の結び目を解き、中からパンを取り出して、口にくわえた。それでも、哀子は寝転んだままだった。

「学校は?」
「途中から行ってない」
「友だちや先生、心配してるだろうね」

 僕がそう言うと、哀子はパンを食べるのを止めて、器用に体を捻って僕を一瞥した。そして、体をゆっくりと起こして、またパンを食べ始めた。

「生徒はみんな私を消しゴムのカスを見るような目で見るし、先生は汚物を触るような顔をするから、大丈夫だと思う。親だって、私みたいに汚いとみっともないから行かなくて言いよって言ってくれているし、私は出来る限り人の前に現われちゃいけないの」

 それはセリフとは似つかない、今にも笑い出しそうな声色だった。

「典型的な不幸の形が君のところに集まっているんだね」

 そう言うと、哀子はついに声を上げて、短く笑った。すると、哀子の荒れた唇の皮が破け、ぷちりと血が溢れた。

「そう。……そうかもしれない」

 そこで会話は途絶え、沈黙になった。

 雨は止みそうにない。哀子の家庭事情にそれほど興味はないけれど、きっと物凄く過酷で、僕の両親よりも酷い親がいるのだろう。そう考えると、あの日傷つけた人差し指がとても空っぽの無意味なものに思えた。僕があの日、本当に小さな傷ではあるけれど、人差し指を自分で切った。僕がそうならば、哀子は首でも切らないといけない気がする。

 そう、だからこそ、首を切ってしまわないために、その重荷を捨てることが出来ればいい。

「ねぇ、提案なんだけどさ、ちょっとした遊びをしない? きっとすっごくスッキリして楽しいと思うんだけど」
「遊び……?」

 哀子は少し表情を曇らせて言った。

「遊びながら、復讐するんだ。君が不幸をそんなに背負うはめになったのを、全て他人のせいにするんだよ」
「どうやって……?」

 僕は近くにあった石をとり、ガリガリと土管の壁に削り書いた。

「本当に?」
「本当に。“無差別連続通り魔事件”って新聞やニュースで報道されると、立派な復讐遊びになると思うんだ。もちろん、怯えるのはこの近辺の人たちだけだと思うけど、それに便乗して各地で起こったら……」

 哀子は目を大きく見開いて、僕を凝視した。

「標的は大人だけで。どう? やってみない? どうせ、失うものなんてないだろ?」

 哀子は頭を掻き毟り、眉根に縦皺を寄せた。フケが舞う。前から思っていたけど、哀子の髪の毛はフケはもちろんのこと、砂や埃、脂がべっとりと付着している。よく頭皮を掻いているし、痒いのだろう。

 僕はポケットからガムを引っ張り出し、哀子に与えた。哀子はそれを珍しそうに眺め、口に含んで嬉しそうに笑顔を作った。食べ物の力は凄い。特に哀子に関しては、更にその力は増すようだ。哀子は、僕の意見に賛同した。

 僕の考えた復讐遊びは「通り魔」からなる。大人だけを狙い、後ろから近寄り、忍ばせていたナイフで切りつけて颯爽と逃げるのだ。もちろん、相手が死なない程度に。より多くの大人に復讐をするのなら、殺していては無理だ。だから、軽く傷つける程度でいい。

「でも、一つだけ言っておくけど。私はあなたとは違って、失いたくないものがある。どうせあなたは自分が死んでしまってもいいと思っているんだろうけど、私はそんな馬鹿なことは思っていないから」

 淡々と冷静な口調で哀子は言った。

 口が開かれる度に、ブルーベリーの甘酸っぱい匂いが漂ってきた。ガムを噛む音が土管に反響し、空気中を振動する。僕もポケットからブルーベリー味のガムを取り出し、丁寧に折り曲げてから口の中に入れた。口の中一杯にブルーベリーの味が広がり、しばらく僕と哀子のガムを噛む音色だけが存在していた。僕たちはぼんやりとひたすらガムを噛み続け、数分が経ったとき、哀子が口を開いた。

「今の私はまだ死んじゃ駄目なの。今はまだ、私が死んで哀しんでくれる人がいないから……」

 第一声は、上手く音になっていなかった。

「僕が哀しんであげるよ」
「……冗談言わないで」

 僕の空虚な言葉を、哀子は空虚な笑顔で簡単に返した。

 僕は自分がいつ死んでしまっても構わないと思っているけれど、僕が死んで哀しむ人間は少なくとも一人はいるだろうと思う。それが友だちか、先生か、両親かは分からないが。それでも僕は死んでもいいと思っていて、哀しむ人間がいない哀子は死ぬのを拒んでいる。生きる意味が哀子にはあるのだ。

 僕は少し、哀子が羨ましく感じた。

 羨ましさが、嫉妬心や羞恥心に変わり、ぼくの身体中をグルグルと廻る。すごく気分が悪かった。僕は無性に哀子を殴りたくなった。思わず片手を挙げ、哀子の頭上に構えていた。よく分からない衝動だった。

 哀子は目を真丸く見開き、眉間に皺を寄せた。短い悲鳴を上げ、僕から逃げるように距離をとる。ぽかりと空いたもう一つの出口のある空間へ行くと、哀子は一気に雨に撃たれた。それも気にならないほど、哀子は僕の存在を怯え、まるで、殺人鬼を目の前にしているように真っ青になっていた。そして、哀子は頭を抱え、出来る限り身を縮め、ひたすら僕に悲鳴のような声を上げて謝り続けた。僕は掲げた手を下げた。

「ご、ごめん……」

 僕は手を下ろし、自身の腹に押し付け、条件反射のように謝ったが、哀子は両手で顔を覆い、赤ん坊のように泣いていた。呻き声とすすり泣く声が混じり、手と手の間から覗く唇からガムが転がり落ち、砂の中に呑まれる。哀子の服が泥に汚れ、雨に濡れ、泣き声と雨音に包まれて、別世界のように感じさせた。

 土管から外を見ると、古く錆付いた時計台は、八時五分前を指していた。雨は十分後に止んだ。哀子も、抜け殻のようにぼんやりと土管から空を見上げていた。雨雲の去った後の空に月が照っていた。



お時間を割いて、お読みくださりありがとうございます!

よければ次回もお願いします。


2007.10.13. 子々











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