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First...?

作者: 間宮 榛



 現在の時刻、午後八時五十七分。

 場所は、和食(という名の焼き鳥)推しの大衆居酒屋。

 一緒に長いテーブルを囲んでいるのは、同じサークルの先輩たち。

 で、目の前にいるのが、あたしの好きな人。

 彼は、自他共に認める、キス魔だ。





 カシスオレンジに口をつけながら、焼き鳥やら大根サラダやらが雑多に載ったテーブルを挟んだ向こう側にいる、あたしの思い人を盗み見る。

 彼は今、ビールをお冷用のコップに一杯飲んだ後、みんなが頼んだカクテルを一口ずつもらい、大層上機嫌になっている。お酒に弱いということは知っていたけれど、ここまで弱いのかと感心するくらい弱い。でもコップ一杯って。たかがコップ一杯でこの状態ってどうなの。彼はそんな風に思ってるあたしがじぃ~っと見つめているのにも気づかないで、隣に座った渡貫わたぬきしげる先輩を背もたれのようにして座っている。

葉奈はな、楽しんでる?」

 いつの間にか背後に来ていた金田かねだ優香ゆうか先輩が、熱燗と御猪口を持ってあたしの隣に腰をおろした。アジアンビューティーと言いたくなるような女の人が、片足を立てて御猪口に口をつける様は少し不思議だけど、変に媚を売っていなくて格好良かった。

「おかげさまで。今日は特にフリーダムですね」

 ちら、と目で、渡貫先輩たちの方を示し見る。優香先輩はあたしの視線をたどって、ああ、と合点がいったようだった。渡貫先輩にもたれかかるようにして絡んでいるのは、ほろ酔い……いや、どちらかというとべろんべろんに酔っぱらった、といった言葉の方が正しい、好きな人。アルコールで頬をりんご色に染めて、何もしていないはずなのに楽しそうに笑っている。

「シゲ、佐伯さえきの酒、そろそろ没収しときな?」

 呆れたように笑った優香先輩が、テーブルの上にあったアルコール入りのグラスを佐伯先輩から遠ざける。あたしも手伝って、放置されていた汗っかきのビール瓶を、自分の空きスペースに移動させる。

「無茶言うなよ。佐伯がどかねーとできん」

 下戸だからと一切アルコール類を口にしようとしない渡貫先輩が、烏龍茶の入ったグラスを傾けながら苦笑した。渡貫先輩の右半身を占領した佐伯先輩が、とろんとした瞳で見上げる。

「シゲぇ、俺のこときらいなぁん?」

 むー、とも、んー、とも言い難い声をあげながら、佐伯先輩が腕を伸ばして渡貫先輩の首に抱きつく。いつもサークルの飲み会で世話をしている渡貫先輩は慣れたもので、

「あーはいはい。スキだぞー、ダイスキだからなー」

 と、なだめるように背中をポンポンとしながら、棒読みで応えている。

「俺もすきぃ~」

 あ、また。

 あたしがそう思った時には、すでに佐伯先輩は渡貫先輩の頬に唇を寄せていた。笑んだ形の唇が、渡貫先輩の頬に触れるのは本日三回目。最初の頃は周囲にお構いなしの行為に驚いて、好きになってからはキスされる人に嫉妬して、今はもう諦めている。渡貫先輩も心得たもので、頬くらいならば抵抗する様子も見せない。前に唇にキスされているのを何度か見たが、渡貫先輩はされるがままだった。半眼は既になにかを悟っているかのように静か……もとい呆れを宿していた。そのあとに佐伯先輩が調子に乗って舌を差し入れようとしたら、さすがの渡貫先輩もキレたけど。

 ちなみに、ディープキスされかけた、と渡貫先輩がキレた状態で優香先輩に訴えたら、優香先輩はカラカラと豪快に笑っていた。それを見て、仮にも二人は恋人同士なのに、これでいいんだろうかと本気で思ったのは、すでに懐かしい思い出となっている。

「ほんと、佐伯ってお構いなしだよな」

「確かに。目に入ればとにかくちゅー、だしね」

 渡貫先輩と優香先輩からコンビネーションパンチを食らっても、佐伯先輩はふにゃっと笑ってどこ吹く風といった様子だ。馬に念仏を聞かせる坊主の気分とやらは、こんなかんじなのかもしれない。串に残っていたつくねを口に運びながら、そんなことを考えた。

「でも、相手は選んでるんだよね、佐伯って」

「え?」

 選んでいる、という意味を聞こうとしたところで、渡貫先輩のよく通る声に遮られた。

「さーて、もうそろそろお開きにして、二次会組と帰宅組に分けるか」

 飲み放題の時間も終わったしな、と渡貫先輩は他の先輩に指示を出す。こういうとき、しっかりした渡貫先輩がとっても頼りになる。どの先輩も何かしらアルコールを口にしていて、ザルの優香先輩以外、大体いい気分になってふわふわしている。

「葉奈、佐伯頼んでいいか?」

「あ、はい」

 相変わらずべったりとくっついたままの佐伯先輩を指さして、渡貫先輩が苦笑する。立ち上がったところで少し世界が揺らいだけれど、これくらいの酔いならまだまだ平気だ。なるべくしっかりと畳を足でつかむようにして歩いて、二人のところへ移動する。

「わりぃな」

「大丈夫です」

 首に絡みつく腕を解き、佐伯先輩を壁にもたれさせる。抵抗もなくされるがままの佐伯先輩は、渡貫先輩の様子を見てそろそろお開きだということをなんとなく悟ったらしい。

「もぉ、しまい?」

「おしまいです」

 あーそっかー、なんて間延びした声で、額に手を当てている。あたしは一番近くの、誰が口をつけたかわからないお冷を佐伯先輩に差し出す。あたしがこのサークルに入ってから一年と九ヶ月、なぜかこの役を務めている。

「さんきゅー、助かる」

 体を起こしながら受け取ってくれた。もうぬるくなっているだろうお冷を頬に当て、熱を冷ます佐伯先輩は、無防備だった。周りは勘定をしたり、壁に掛けたハンガーからコートを渡したりと忙しい中、いつもあたしと佐伯先輩だけは最後まで座り込んでいる。みんなが出てからじゃないと、危なっかしくて立たせられないのも原因の一つだ。

 ふぅ、と息を吐いて、佐伯先輩がお冷に口をつける。そこから一息に、ごくごくと音が聞こえるくらい豪快に、水が吸い込まれていく。顔を上げ、伸びきった喉を、喉仏が上下する。あたしにはないそのでっぱりに、異常に触れたくなる。……やっぱり、自分が思ってる以上に酔っぱらってるのかもしれない。

「佐伯先輩、もうお酒無理に飲むの、やめましょうよ」

 あたしがカクテル三杯飲んでも平気なのに、あなたは弱すぎます。危険です。

「えー、やだよ」

 間延びが、少しとれたようだった。まだ油膜が張ったように熱っぽい瞳をとろけさせたまま、妖しく笑む。その表情に、あたしにまっすぐに向けられた視線に、アルコール以外のなにかが頬を熱くさせる。

「お酒はさー、言うじゃん、潤滑油って。こーいう人間関係をさー、円滑にするにはさー、やっぱどーしても必要なんだよねー。葉奈ちゃん、わかる?」

「そうなんですけど……」

 佐伯先輩が他の誰かにキスしてる姿を見たくないんです、なんて、口が裂けても言えない。そもそも好きだなんて言ってないし、なるべく気取られないようにしてきた。……それでもばれてるんじゃないだろうか、という不安はぬぐえないけれど。

 言い淀んだあたしを見て、ふふふと小さく佐伯先輩が含み笑いをする。

「葉奈ちゃんは心配性だなー。俺のおかんみたい」

「おっ、おかん……!?」

 予想外の言葉に、固まってしまう。おかん……佐伯先輩のお母様……。あたし、そんなに口うるさかっただろうか。そんなことはないと信じたいけど、でも、おかんって。おかんって! あたし佐伯先輩より年下だからこんな大きな子ども産んだ覚えないし!

 心中が顔に出てしまっていたのかもしれない。佐伯先輩は笑いのスイッチを押された人形のように、どんどん雪だるま式に大きくなっていくおかしさを止められなかったようだ。アルコールが手助けして理性のタガを外したのか、せっかく起こした体をずりずりと倒しながら、息ができないほど笑い続けている。

「佐伯ー、葉奈が困ってるからやめてよー?」

 渡貫先輩の隣でみんなからお金を徴収していた優香先輩が、あまりにも大声で笑い続ける佐伯先輩をたしなめる。確かに、このままじゃ他のお客さんの迷惑になってしまいそうだ。

「先ぱ」

「葉奈ちゃん」

「ぅあっ、はい」

 止めようとしたら、不意に真剣な表情になった佐伯先輩が、こちらを向いた。それに呼応するように、居住まいを正してしまった。熱っぽい、けれど真剣な瞳に、心臓が大きく脈を打つ。心臓に、落ち着け、と言い聞かせる。正座はちょっと堅苦しすぎるかも。足を崩そうか崩すまいか、逡巡した時だった。

「ちゅー、していい?」

 先輩の言葉に、周囲の騒音が、遠ざかる。


 ちゅー、していい。

 ちゅー、して、いい?

 ちゅー、って。

 ちゅー。


 それって、とどのつまりが、キス、ですよね?


 フリーズした頭がそこまでたどり着いたところで、体中の血液が、韋駄天も顔負けのスピードで、顔面に集まるのを感じた。ぶわあっ、という音が聞こえたかのように、急激に熱くなるのを感じた。アルコールなんてちゃちな言い訳じゃ誤魔化せないくらい、熱い。きっとりんごもびっくりするくらい赤いはずだ。

「……え、あ、あの、それはっ」

 返事に窮して出てきた声は、上ずっていた。体が正直者すぎて、泣けてくる。その声に、先輩が相好を崩す。いつものやわらかい笑みが、顔を彩る。

「俺ねー、ちゅーするときは、許可貰ってんだ。シゲにもー、優香にも」

 再び体を起こしてお冷をテーブルに置き、佐伯先輩があたしを見つめる。その瞳からは先ほどの熱っぽさは消え、代わりに真剣な気配を奥底に感じた。やわらかい笑顔は崩さないまま、先輩は言葉を続ける。

「ちゅーって、大事な人にしか、したくないからさ。簡単で、深い、スキンシップ」

 だからさ、と、呟いて、佐伯先輩は放心状態のあたしの手を握る。少し骨ばった、あたたかい手が、あたしの指に絡みつく。抵抗、できない。振り解けない。

「俺ね、葉奈ちゃんに、ちゅーしたいなって思って」

 あたしの手は、そのまま、佐伯先輩の口元に寄せられる。両手で包みこまれた手を、動かすことも、ましてや自分の元に戻すこともできない。操り人形のように、いいなりだった。指先が先輩の少し薄めの唇、本当に身じろぎしたら触れるんじゃないか、というところに固定される。静かに、先輩から出た息が指先にかかって、背筋がぞくりとした。

 飲み込まれそうだ。

「ファーストキス、していい?」

 上目づかいで、射抜かれる。

 体が固まってしまい、動けない。動かない。

 動かし方も、わからなくなるくらい、頭の中は目の前の映像でいっぱいだった。

 あたしが硬直したのを了承と受け取ったのか、佐伯先輩はそのまま指先に口づけた。騒音の中、どうしてか、先輩のリップ音が、いやにはっきりと聞こえてきた。

 あたしが動かないことをいいことに、先輩は指先、指、手のひら、とだんだん唇をおろしてきた。指先も、指も、手のひらにされた時も、背筋を波が通るように、肌が泡立つ。唇が触れた部分から、麻酔が広がっていくようだった。目は、先輩から、離れない。催眠術をかけられたように、離せなかった。

「くぉーら、佐伯!」

 ごぃん、と鈍い音がして、同時に唇が離れる。

 その音で我に返って、げんこつを落とした主を見上げる。般若のような顔をした優香先輩が、黒いオーラを全身にまとって、仁王立ちしていた。

「あんた葉奈に何してんのよ!? あたしのだいっじな葉奈に!」

 実は角が生えてるんじゃないだろうか、という勢いで、優香先輩が怒りをあらわにする。今まで見たことがないくらいの勢いに、たじろいでしまった。

 当の本人である佐伯先輩は涙目で、げんこつの直撃したあたりをなでている。あの音から察するに、相当痛かっただろう。そうして恨みがましく、非難するような目つきで優香先輩を見上げた。

「いってーなー……そんな怒んなくってもいーだろ?」

「怒るに決まってんでしょ! 純真無垢な葉奈になんってことしてんのよあんたはっ!」

 幻覚、だろうか。優香先輩の目から、背後から、灼熱の炎が、出ている気がする。

 怒られていないあたしが冷や汗を出すほどの迫力なのに、佐伯先輩は慣れているのかどこ吹く風といった体で、涼しい顔をしている。

「いーじゃん、ちゅーしてただけだし。減るもんじゃないんだから」

「減るわよ!」

「なにが」

「葉奈の純潔が!」

「葉奈ちゃんは俺がちゅーしても純潔ですー」

「はぁ!?」

「優香、落ち着け」

 火と油の不毛な戦いに、渡貫先輩が割って入る。こんな状態でも落ち着いていられる渡貫先輩は、見慣れているのか、はたまた神経が太いのかはわからない。どうどう、と馬を落ち着けるように優香先輩をなだめるその様子は手慣れたもので、優香先輩も怒りは冷めないものの落ち着きを取り戻した。

「佐伯も。ところかまわずちゅーするの、やめろ」

「相手選んでるし。女の子は優香と葉奈ちゃんだけだから、いーじゃん」

「よくねーよ」

 人の彼女にすんなよ、と太い釘を刺される。ちぇー、と唇を尖らせて、不満げにした。

「でも葉奈ちゃんはいーじゃん。ねー葉奈ちゃん、いやじゃないよね?」

 にーっこり、とてもいい笑顔で、迫られる。

 確かに、嬉しい。すっごく嬉しい。大事な人って、思ってもらえるなんて。けど、渡貫先輩や優香先輩と同列、というのが、ちょっと複雑だった。

 もやもやして答えを出せずにいると、優香先輩が勝ち誇った笑顔で佐伯先輩を見下ろしていた。とっても素敵な笑顔だけど、優香先輩。その笑顔、とっても黒いです。とてもじゃないけどそう言えず、心の中にしまったままにする。

 答えをもらえなかった佐伯先輩は、花が萎むようにしょげてしまった。しゅん、と俯いてしまった佐伯先輩が見てられなくて、でもどう声をかけたらいいか困ってしまった。

「でも、葉奈ちゃんのファーストも、セカンドも、サードも済ませたから」

 ねっ? と、笑顔で顔をあげた佐伯先輩を、あたしは嫌いになれなかった。





【First...?】





 でも、佐伯先輩。

 口以外も、「ファーストキス」って、言うんですか?




課題文:「『ファーストキス』をしようか」



キスの意味については、以下の文を参考に。


Auf die Hande kust die Achtung,(手の上なら尊敬のキス。)

Freundschaft auf die offne Stirn,(額の上なら友情のキス。)

Auf die Wange Wohlgefallen,(頬の上なら満足感のキス。)

Sel'ge Liebe auf den Mund;(唇の上なら愛情のキス。)

Aufs geschlosne Aug' die Sehnsucht,(閉じた目の上なら憧憬のキス。)

In die hohle Hand Verlangen,(掌の上なら懇願のキス。)

Arm und Nacken die Begierde,(腕と首なら欲望のキス。)

Ubrall sonst die Raserei.(さてそのほかは、みな狂気の沙汰。)

――――フランツ・グリルパルツァー(Franz Grillparzer) 「接吻」(原題:"Kus")(1819)

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