5.1. 半死者ヘル、世界蛇に乞われ九世界創生のお伽噺をすること
「昔々、ヴィー、ヴェリ、オーディンという3人がいた。3人は霜の巨人ユミルに育てられていたんだけど、あるとき彼女を殺してしまった」
臭かった。臭いの発生元としては周囲の鬱蒼とした樹々やその中で蠢く種々様々なのだろうが、平時からこうというわけではないだろう。
何せ、臭いだけではなく、暑かった。〈半死者〉の体機能はその腐った下半身と対応するかのように半ば止まっていたが、寒暖の差はしっかりと感じられていた。先の戦いで鎧の上部は破壊されていたため、いまは上は中に着ていた薄いシャツ一枚だけだが、それさえもが汗でぴったりと肌に貼りついてしまって、不快だ。
であれば、森の中の獣道を歩きながら幼い頃に聞いたお伽噺を思い出しながら話してやるというのは、暑さを忘れる良い頭の体操になった。
肩に乗っていた蛇がちらちらと舌を出しながら、金色の瞳を瞬かせて少年のような高い声で問いかけてきた。「なんで?」
「なんでだろうね。それはお話では聞かなかったな。でも、そのあとヴィーたち3人は〈霜の巨人〉の身体に世界樹ユグドラシルを植えたんだって。〈世界樹〉はもともとは老獣アウドムラの身体に生えていたんだけど、それを抜き出してユミルの身体に植えたんだね。それで――それで、〈霜の巨人〉の身体から世界を創った。それがこの九世界だっていうお話」
「ふぅん………」
黄金の瞳を瞬かせ、しばらく考えるような間を置いてから、蛇はまた尋ねてくる。
「それって、本当の話?」
「お伽噺だよ。わかる、お伽噺って?」
「んー、子どもに大人が話すお話。作り話のこともあるけど、教育的な内容が含むやつ」
「だいたいそうだね。だからこれはお伽噺だけど、何か意味があるお話なのかも」
「ヴィーだとか、ヴェリだとか、ユミルだとか……その巨人たちは、この九世界ができあがるまえはどこに住んでいたの?」
「よくわからないよね」とヘルは笑ってやった。「なんだろうね、もっと上の世界があるのかな。この九世界より大きい世界が」
「そうかもね」
と肩の上の蛇は空を見上げた。ヘルもつられて見上げる。深い森の中でも、曇り空でなければ第一平面アースガルドは見失わないはずだった。だがいまや、第二平面ミッドガルドから見上げればいつもそこに存在するアースガルドの大地は砕け、罅割れ――燃え盛っていた。
「あと、オーディンって出てきたけど……アース神族の首長のこと?」
「それは――」
違うと思う、とヘルが言い切るまえに、木樹の中から狼が顔を突き出した。といっても、人神をひと呑みにできるほど馬鹿げて巨大ではない、成犬ほどの大きさの狼だ。
「ヘル、ヨルムンガンド、綺麗な湖があったぞ。もうすぐ暗くなるから、そこで野営しようってブリュンヒルドとイドゥンが言ってる」
少年の声で口を利く狼に、ヘルは頷いてやった。「わかった。案内してよ」
ぷりぷりと振られる尻と尾のあとをついてほとんど道とはいえないような獣道を進んでいくと、確かに狼の言うとおり、開けた場所に木樹に囲われた湖があった。水は澄んだ色で、近づいてみると魚が泳いでいた。
「やっと塩っぱいのを洗い流せるぞっ!」
と叫び、狼はじゃらじゃらと後ろ足に鎖と錘を付けたままで湖に突進していき、飛び込む。一度水の中に潜り、浮き上がると、犬掻きで湖に先にいた先客――腰布一枚だけで裸身を見せているふたりの乙女のほうへと進もうとする。その後ろ足の鎖をヘルは掴んだ。
「おい、待て」
「なに?」と狼は首を傾げる。
「あっちへ近づくな。身体を洗いたいならこのへんで洗え」
「なんで?」と、逆方向に傾げる。
「なんでって……向こうは服を着ていないだろうが」
「おれも着てないよ」
「おまえは犬だろう」
「狼だよ」
狼が膨れ面を作っていると、湖の奥のほうにいた乙女のひとりーー亜麻色の髪の小柄なほうが、裸身を隠そうともせずに飛び跳ね、こちらに向けて手を振ってきた。
「フェンリル、ヘル、ヨルムンガンド! このへん深さがちょうど良いよ、おいで!」
ヘルが彼女に気を取られている間に、狼――〈魔狼〉は手を振り払い、また犬掻きで女たちのほうまで行ってしまう。まぁ、いい。彼女らがそれで構わないのなら。
「ヘル、これは海の水とは違うんだよね? 大きい水溜りなんだよね?」
とヘルの肩の小さな蛇――〈世界蛇〉が首を傾げて問いかけてきた。
「そうだよ。入る?」
「うん。ヘルも一緒にあっちに行こうよ」
頷いて、ヘルは腰ほどの深さの水の中を歩き始めた。肩に乗っていたヨルムンガンドは、それまでいた海とは違う、淡水の湖に興味があるのか、肩から右腕を伝って湖面に顔を近づけ、赤い舌で湖の水を舐めた。「ほんとだ」という可愛らしい呟きが聞こえた。
「暖かいと水浴びが気持ち良いね」
と亜麻色の髪の小柄な乙女――〈黄金の林檎〉が状況にそぐわない、脳天気な笑顔で言った。羞恥がないのか、フェンリルを男だとは思っていないのか、薄い胸や毛のない股のことは気にも留めず、犬掻きをする狼に抱きついた。
「やっと髪のごわごわが取れる。海には落ちるもんじゃないな」
ともうひとりの裸身の乙女――銀髪のブリュンヒルドが髪を洗い流しながら言った。こちらもフェンリルがいることは特に気にしていないのか、褐色の豊かな胸を揺らし、その上の桃色の突起を隠したりはしない。水で捲れる腰布の下の茂みは、髪と同じ銀色だった。
「ヘル? 身体洗わなくていいの?」
「あの男は?」
とヘルが問うと、ブリュンヒルドは首を傾げ、しばらくしてから手を打った。「ああ、シグルドは顔だけ洗ったあと、どこか行っちゃったよ。たぶん狩りに行ったんじゃないかな」
あいつ、身体とか髪洗うのがいいかげんだから臭いんだよな、などと言っているブリュンヒルドの後半の言葉は無視して、ヘルは安堵して湖岸で上半身の鎧を脱いだ。鎧の下に着ていたのは袖のない薄いシャツ1枚だけだ。そのまま湖の中に戻る。イドゥンやブリュンヒルドのように、裸身を曝すほど羞恥心がないわけではない。それに、長い期間を《殻鎧フヴェルゲルミル》を纏って生きてきたヘルにとっては、上半身に鎧を着ていないだけで十分に恥ずかしいのだ。