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恋の悩みを知る君は 作者:来栖ゆき

6章 ある晴れた日に

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◆1◆

「きゃあああああああ!」
 日が落ちて数時間後、舞子ちゃんも帰って一人きりになった静かな営業部のフロアに、突如として絶叫が響いた――。

「ったく、鼓膜が破れた気がする……」
「気配なく背後に立つ方が悪いです!」
 吉野さんが帰ってきていたのは、正確にはあたしが絶叫する数分前だったらしい。
「もう、本当にびっくりしたんですからね!」
 静かで集中できる、と一人を満喫していた矢先の事だった。
 いつの間にか外回りから帰ってきていた吉野さんがあたしの背後に立っていて、それにまったく気づいていなかったあたしは、何かの拍子に振り返って――そして大声で叫んだのだ。
 耳鳴りがする、などとブツブツ文句をいう吉野さんに自業自得だと小声で言い返したら、即座にギロリと睨まれた。
 なによ、ちゃんと聞こえてるじゃないの!
 それに怒りたいのはこっちのほうだ。無言でぼうっと立つその姿がこの世のものとは思えないほど恐ろしかったのだから。
 心拍数が平常通りに戻ると、あたしは例の資料の件で質問があると切り出した。
「何でちょうちょちゃんがそれやってんの?」
「……あたしがやっちゃいけないんですか?」
 無愛想に言ってしまった事をすぐさま後悔した。
 増倍されたイヤミが矢のように降ってくることを覚悟したけれど、吉野さんは何か言いたげな視線を向けただけで「少し休憩させて」と一言残してどこかへ行った。きっと休憩スペースの自販機までコーヒーでも買いに行ったのだろう。
 ほっと息を吐いて、パソコンの右下にあるデジタル表示の時計に目を向ける。時刻は20時05分。
 集中するとこんな時間まで仕事が出来るのかと思うと驚きだ。数週間前の自分に教えてあげたいくらい。
「うん、あたし今日頑張った!」
 フロアに誰もいないのをいい事に、あたしはイスの背もたれに上半身を預けてぐーっと背伸びをした。
 何の気なしに携帯を開き、誰からもメールが来ていないことを確認してがっくりと肩を落とす。いつもは新着メール1件と表示されている画面には、黒いラブラドールレトリーバー、タローの画像。
 誰からもメールが来ていないのは、まあ、当然なんだけど……。
 あたしはいつものように受信メールから選択してメール作成画面を表示させた。
 ――ざんぎょうちゅう。きょうのゆうはんは、ぱすたにしようかな。――
 送信が完了すると、しばらくして画面が自動で切り替わり、馬鹿みたいに口を開けてボールを待つ犬の姿に戻った。
 当たり前だけど、いつまで待ったって返事は返ってこない。
「はぁ……」
 なんか、切なくなってきた。

「どれ、資料見せて」
 吉野さんが暖かい缶コーヒーを2本持って戻って来ると、その一本をあたしにくれた。
「それオゴリ。俺が勝手に買ってきただけだから」
 意図に気付いたらしい吉野さんに先手を打たれてしまい、あたしは財布に伸ばした手をおずおずと引っ込めた。
「ありがとうございます。いただきます」
 わお、吉野さんのオゴリ?
 そうやってたまに見せる優しさは――まさか、冗談じゃなくて本当にあたしの事が好きだから?
「えっと、このグラフは前年同月比なんですけど……」
 今朝の事を思い出せば急に恥ずかしさが込み上げてきて、ついついうわずった声になってしまった。
 どうか、吉野さんに気付かれていませんように。
「でも何でちょうちょちゃんがコレ作ってるの? 自分の仕事は?」
「ハイ、あたしの今日の仕事はもう終わりましたから。残業するなら7時に帰っても8時に帰ってもそんなに変わりませんし」
 それに、家に独りって結構寂しいんだよね。
 カシュ、と音を立ててコーヒーのプルタブを開けた。両手でその温かさを感じながらひと口。やっぱり残業中のコーヒーは甘い方が良い。
「そうか……今からこの資料をまとめようと思ってたから、正直助かった。ちょうちょちゃんも成長したね」
「あ、違います。これは部長が舞子ちゃんに頼んでて、舞子ちゃんが嫌がったからあたしが引き受けただけです。吉野さんの案件だって知らなかったですし――」
 あの吉野さんに褒められてあたしは少々面食らってしまった。遅いと激を飛ばされる事は多々あるが、褒められることは片手で数えられるくらいだったから。
「……そこは黙って自分の手柄にしておいたら?」
 フフっと笑いを零した吉野さんに言われて気づいた。
 しまった、その手があったか!
「まあいいや。で、今朝の事だけど、何も無かったようにしてるけどどうして?」
「え? あの、それは……吉野さんだってそうじゃないですか。だからてっきり冗談なのかと」
「あのね……」
 吉野さんは呆れた様子でため息混じりに呟くと、資料をデスクに置いてあたしに向き直る。
「皆の前で露骨なことするわけないだろ。それともして欲しかった? それを望んでた?」
「ち、違います!」
「ふうん……そうだ、いまならできるね」
 ずいと身を乗り出して近づいた吉野さんは、あたしの頬を人差し指でつつつ、と撫でた。
 初めて見る吉野さんの流し目に、大人の男性の魅力というものを感じて何故かドキッとしてしまう。
「言ったよね。俺、本気で落とすって――」
「あ、あの――」
 ああ、社内の女性が騒ぐ理由がわかった。コレか……。
 でもここで負けたらダメなんだ。
「あ、あたしも言いましたよね……今は恋愛する気分じゃないって」
 ここで誰かの――吉野さんの優しさにすがってしまったら、今は心が救われるかもしれないけれど、後で絶対後悔すると思うんだ。
 だから吉野さんの言う甘い蜜のような誘惑は断固拒否しなければ――。
「その……気持ちはすごく嬉しいんですけど、やっぱり……」
 じりじりとキャスター付きのイスを転がして、あたしは少しずつ吉野さんから離れた。
「失恋の傷は早いとこ完治させた方がいいだろ? 俺が舐めて治してあげよう」
 それに気づいた吉野さんは、逃がすものかとあたしのイスを掴んで縮めた距離以上を詰めた。
「ちょ、吉野さん! い、今は仕事の話をしましょう!」
 ヤバイ……話が通じていない。って言うか、あたし今、本気で口説かれているみたいだ。不意に二人きりを意識してあたしは焦った。この状況でこの話は絶対にマズイ……。
「今はダメ? じゃあ仕事終わればしていいの?」
 髪の毛をひと房掴み、そっと口づける。
「そういう意味じゃなくて! 本当にしばらくは……恋愛とか、そういうのしたくないんです!」
「俺が嫌い?」
「嫌いっていうか、むしろ怒られてばかりで苦手っていうか……」
 焦ったあたしはポロっと事実を口走ってしまい、途端に吉野さんの顔に怒りが見えた。
「――じゃなくって、仕事が出来るスゴイ‘先輩’だと思ってます」
「ふうん……」
 あたしの本気にやっと気づいてくれたのかそれとも諦めたのか、吉野さんはあたしから離れると、座っているイスの背もたれに寄りかかって天を仰いだ。
「……こんなことなら、どんな手を使ってでもちょうちょちゃんを落としとくんだった。ま、逃がすつもりはないけど。どうやら作戦を練り直さないといけないみたいだな」
 吉野さんはさらりと黒いことを言った。
「……本人を目の前にして何言ってるんですかっ!」
「営業部に配属されてから、ここまで俺好みに育ててきたのに……釣った魚に餌をやらなかった事が原因か?」
 あたし釣られてませんから!
「もう、吉野さん、真面目に聞いてください!」
 聞いてるよ、と言いながらも吉野さんはぶつぶつと何かを呟いている。
「ちょうちょちゃんは入社した頃から苛め甲斐があったんだ。俺が何か言えば食い下がるし、おかしいと思った事はすぐ意見してくれるし。それに仕事は――まあ、及第点ってところか。そうなるようにスパルタ教育したのは他ならぬ俺なんだけど」
「あのー、吉野さん……?」
 あたし本当に好かれてるの?
「取りあえず諦めないから、覚悟しといて」
 吉野さんはニヤリと意地悪そうな笑みを浮かべると、一気に距離を詰めてあたしの頬に唇を押し付けた。
「な、何するんですか!」
 彼は詫びれもせずあたしの苦情を無視すると、してやったりといった笑顔を向けた。
「資料の内容はまた明日教えてください! お疲れ様でした!」
 だからあたしは走ってその場から逃げ出した。


 残業自体はそこまで苦にならなかったのに、吉野さんのお陰でどっと疲れてしまった。
「まだ月曜日なんだっけ?」
 そうか、じゃあ明日は火曜日で明後日は水曜日で……あと4日間も吉野さんと顔を合わせなければならないようだ。
 ゴメンナサイをしたのに吉野さんは諦めないと言った。
 好意を向けられれば誰だって嬉しい。好きだと言われれば、意中の相手ではなくてもそれだけでドキッとしてしまう。
「だからって、どうしろっていうのよ……」
 苦しい想いを忘れるために吉野さんとお付き合いをしてもいいのかな、と考え、少しでもそう思ってしまった自分を呪いたくなった。
 こんな事一瞬でも考えるなんて最低だ。
 それに……吉野さんがあたしを好いているという事実だけでも驚きなのに、本気でよからぬ策略を考えていそうで怖くなった。
 願わくば、平穏な日常が戻りますように……。
 平穏な日常――?
 それはベルと会う前の? それとも……?
「ただいま……」
 玄関のドアを開けて呟いても、その言葉に返ってくるものは何もなく、静かで冷えたアパートは余計あたしの心を凍えさせた。
 コートを脱ぎながら電気とエアコンとテレビをつけて回った。
 明るく賑やかになった室内をぐるりと見回して様子を伺ってみるが、何故だか記憶にあるリビングはもう少し狭い気がした。
 何かが足りない気がする――ひょっとして泥棒が入った?
「あ、違う。スーツケースとバイオリンがないんだ……」
 記憶の中にある彼の荷物をあるべき場所に思い描けば、完成したパズルのようにしっくりきた。
 泥棒――だなんて。ホント、人の記憶なんて当てにならないものね。
 あたしはソファに座って鞄から携帯を取り出すと、ベルにただいま、とメールを打った。
 送信ボタンを押して一拍後、隣の寝室――クローゼット付近からアメージンググレースが聞こえてきた。
 目を瞑って曲が止まるまで聞いた。

 そう、結局あたしは失った過去に囚われたまま――。
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