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恋の悩みを知る君は 作者:来栖ゆき

3章 恋は野の鳥

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◆5◆

 小さな打ち合わせ室に入って先に口を開いたのは優花さんだった。
「ミヤマアゲハさん――でしたっけ? ぷっ、それ本名ですか? ふふふっ……」
 優花さんは可愛らしい仕草でクスクスと笑い出した。口元は笑っているものの、目には(あざけ)りの色が見えてあたしは少し気分を害した。
 初対面の人に名前を名乗ると、大抵二言目(ふたことめ)には「それ本名?」という質問が返ってくる。驚かれる事は多々あるが嘲笑(ちょうしょう)される事はあまりない。
「一応本名ですけど……」
 高校でも大学でも、後者の人とは仲良くなれない事が多かったから、優花さんもそうなのかなと思ったらちょっと切なくなった。ちなみに社会に出てからはうまく本性を隠す大人が多いからか、そういう事は少なくなっていたけれど。
 ベルが選んだからといって、聖母のような女性とは限らないってこと……?
「で、わざわざ手紙を持って来てくれたとか、伺いましたけど?」
 受付で掻い摘んで説明したので優花さんも多少は話を聞いていたのだろう。
 ならば話は早い。
「えっと……これです」
 あたしは鞄から取り出した手紙を差し出した。彼女は手紙を一瞥するとそのまま無言で裏返す。気のせいだろうか、裏に書かれた送り主の名前を見る優花さんの瞳は心なしか冷ややかだ。
「そう……わざわざ持ってきてくれて、ご苦労様」
 話は終わり、と言わんばかりの言葉にあたしは焦った。まだ説明しなければならない事は沢山あるのだ。
「あの、それで実は……ベルナルドさんが日本に来ていて……」
「やだ、嘘っ! ほんとに来たの?」
 彼女は目を見開いて左手で口元を押さえた。
「まさか、今もまだいるって事?」
「はい、いますけど……」
 優花さんの棘のある言い方にあたしも驚いた。そして左手の薬指――。
「指輪?」
 じっと左手を凝視するあたしの目の前で優花さんは手を振ると笑顔で言う。
「ああ、私来月結婚するの」
 これは婚約指輪、と自慢げに話す彼女の細い薬指にはダイヤモンドのリングが威風堂々と輝いていた。
「ど、どうして?」
「どうしてって……私が結婚したらいけない?」
 あなたに言われる筋合いないわ、という顔をされた。
 でもあたしは怯まない。ベルがいるのに結婚ってどういうことよ!?
「だってベル……ナルドさんはあなたにプロポーズするために日本に来たんですよ?」
「へえ、そこまで知ってるの? この手紙が開封されていないって事は……ベルナルド本人から聞いたってわけ?」
 優花さんはひらひらと手紙を(もてあそ)びながらくすりと笑った。
「まあ、そうですけど……と、とにかくベルナルドさんは――」
「悪いけど、ベルナルドのプロポーズは受けないことに決めたの」
「……え?」
 な、なんで!?
「私、いまこの事務所の社長と一緒に暮らしているのよ」
 彼女は左手に輝く指輪を恍惚(こうこつ)とした表情で見つめている。事務所の社長が結婚相手という事なのだろう。
「でも……ベルと優花さんは結婚の約束までしていたんでしょう?」
「ねえミヤマアゲハさん、どこまで話を聞いたのか知らないけど、他人のくせにどうこう言わないでくれない? っていうか、先に約束を破ったのはベルナルドの方だわ。お互い成功したら結婚するっていう約束だったのに」
 あたしの名前を笑ったあの表情で、優花さんは非情にも事実を突き付けた。その言葉は鋭いナイフのようにあたしの心に突き刺さる。
「でもね、社長が私を音楽の世界でもっともっと有名にしてくれるの。私はこうしてオペラ歌手としての地位と名声を手に入れた、でもベルナルドは愚かにも私と歩む未来を諦めたの」
「じゃあ、ベルからのプロポーズを受けるって言ったのは――嘘、だったんですか?」
「違うわ、あの時はね……ベルナルドの顔は好みだったしイタリア人だから、結婚すれば音楽の中心地であるイタリア国籍を得られて、活動の場が広がるって思ったけどねぇ」
 そのあとに事務所の社長にプロポーズされたのだと教えてくれた。優花さんはプロポーズを受けることで、オペラ歌手として有名になるための近道を選んだのだろう。
「こ、こんなの……ひどすぎます」
 この人は本当に話に聞いた想い人の真田優花さん?
「私を悪者みたく言わないでくれない? 彼が音楽を――私を捨てたのよ。いいこと? 私はオペラと共に生きて行くの。私の人生に、音楽を捨てた人間は――ベルナルドは、もう必要ないの」
 頭の悪い人に言い聞かせるように、優花さんは一語一語はっきりと、ゆっくりと言い放った。
「彼、日本にいるんでしょう? あなたは会えるの?」
「会えます、けど……」
「じゃあいいわ、返事を書くから渡してくれる?」
 そう言うと優花さんは小さなポーチからスワロフスキークリスタルがデコレーションされた、いかにも使いにくそうなペンを取り出し、ベルの手紙の空白部分に何かを書き始めた。
「え、待って、それはベルが優花さんに宛てた手紙ですから……」
「このまま返すわ。あたしは開封しないし、受け取らないから」
 彼女は手の動きを止めずに言う。
「だったら……せめて、自分で渡して下さい。理由がわからなければ彼も納得しないと思うんです」
「やだ、やめてよ。イタリアから日本に来るくらい執念深いのよ? 会ってストーカされたら嫌じゃない!」
 それに、と優花さんは含み笑いをすると、あたしに顔を寄せて囁いた。
「ミヤマアゲハさん、あなたベルナルドの事が好きなんでしょ?」
「なっ……」
「ベルって呼んでるんだ? あ、私が気づかないとでも思った? ねえ、傷ついた彼をやさしく慰めてあげれば結構ポイント稼げるんじゃないかしら?」
「はい――?」
「ってことで、よろしくね!」
 優花さんは手紙をあたしの手に無理矢理押し込むと、今度こそ話は終わりと席を立った。
「ちょっと待って下さい!」
 追いかけるようにあたしも廊下に出たけれど、優花さんはカツンカツンとヒールの音を響かせて関係者以外立ち入り禁止と書かれた通路の奥へと消えていった。
 あたしの手には、封が開けられていないベルからの手紙と、それに記された優花さんからのむき出しのメッセージ。書かれた文体は、ベルに初めて会った時、嬉しそうに見せてくれた優花さんのものと同じだった。

「あ、あんな人が優花さんだなんて……嘘でしょ?」
 あたしは初対面で優花さんの事が大嫌いになった。滅多に人を嫌わないあたしにしては珍しい事だ。
 言いたいことはわかる、理由だって矛盾していない。先に裏切ったのは誰? と聞かれてベルだと言う、それだって不条理でも何でもない。
「そもそもご苦労様って言葉は、目上の人が下の人に使う言葉よ! あたしのどこが下だっていうのよ!」
 しかもあたしの方が1つ年上だぞ! 来月結婚するからって独身女性を見下すなっ!
「気づいたら敬語も使ってないし、本当に失礼だわっ!」
 ふつふつと沸きあがる怒りに身を任せて大股で歩くあたしを、受付の女性は不思議な顔をして見ていたけど、あえて無視した。
 駅に近づくにつれて歩幅はいつものペースに戻りそして立ち止まる。手紙を握りしめていた事に気付いたのはその時だった。

 ――おんがくをすてた あなたと おなじみちは あゆまない あなたがさきに わたしをすてたのよ――

 優花さんの辛辣な言葉に心がざわめく。
 ――ユーカは……夢を諦めたこんな僕でも受け入れてくれたから――
 ベルのやわらかい笑顔が脳裏に蘇り、ツキン、と胸に痛みが走った。
 この手紙は……捨てた方がいいのかもしれない。
 本当の優花さんを知るよりも、行方不明のままでいた方が――。


 ビゼーのオペラ「カルメン」に登場するジプシーのカルメンは、自由で奔放で美しい女性だ。恋に自由で、何より自分の欲望に忠実――まさに優花さんそのものだ。
 あのオペラの最後はどうなるんだっけ?
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