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戦国小町苦労譚 作者:夾竹桃

元亀三年 決戦、三方ヶ原の戦い

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千五百七十二年 七月下旬

スクリュー船には課題が残るものの、スターリングエンジン、高炉及び付随する施設の全てにおいて大きなトラブルもなく、無事に試運転を完了した。
そのことに静子はホッと胸をなでおろす。
重大案件が一段落したことで少し心に余裕が出たためか、先送りにしていたある施設の視察時期が迫っていることを思い出す。
こちらは既に本格稼働しているため是が非でも視察せねばならないというものではないのだが、組織の長と言う立場上放置するわけにもいかず、静子は慶次たちを伴って工場へと向かう。

「ひゅー、こっちも大きいねぇ」

高炉の施設は巨大だったが、今回視察する施設——織田家が設立した『製糸工場』——は広大な敷地を持つ別の意味で巨大な施設だった。
工場の敷地は四つの区画で構成されている。
従業員が住む居住区画、学校に病院、保育所、商店、飲食店などが並ぶ商業区とも呼ばれる支援区画、蚕の飼育から繭の乾燥までの工程を担う蚕生産区画、外部から持ち込まれる麻や木綿の繊維、乾燥済みの繭から糸を紡ぎ出す繰糸区画だ。

「ガラスと違って、量産が絶対要件だったから年単位で時間が掛かったけど……今じゃ尾張屈指の大規模施設として織田家内では有名な場所よ」

そんな事を話しながら静子一行は工場の正門をくぐる。
もはや一つの街と言っても過言ではない規模の工場だが、他者の出入り前提である街とは異なり関係者以外は立ち入りを許されない。
中でも正門を利用できるのは信長や静子など工場運営に関わっている者のみである。
施設内で暮らす従業員たちや、物資の搬出入なども裏門や脇門を使って出入りするのである。

「まずは蚕室から見せて貰いましょう」

静子がそう告げると、工場の責任者たる工場長自らが蚕室のあるエリアに案内する。
信長を創業者兼社長とするならば静子は営業統括本部長にも匹敵する立場にあるため、工場においては最終責任者である工場長もおっとり刀で駆け付け案内役を務めているという訳だ。

蚕室は合計で十四棟ある。
十棟が通常の蚕を飼育する棟、二棟が蚕卵を孵化させて2(れい)になるまで飼育する棟、一棟が人工飼料や品種改良の研究を行う研究棟、そして最後の一棟が特別な蚕の品種「小石丸(こいしまる)」を飼育する棟だ。
蚕は発育の程度を示す言葉として「蚕齢(さんれい)」というものがある。

卵から孵った蚕は全身に毛を纏っており毛蚕(けご)や黒く蟻のように見えることから蟻蚕(ぎさん)とも呼ばれる状態を1齢と数え、最初の脱皮を終えたものを2齢、以後脱皮を繰り返す度に3齢、4齢と呼び、繭を作る段階まで成熟した個体を5齢と呼ぶ。

1棟あたりの飼育数は二から三万にも及ぶ。五月から十一月という限られた期間で一年分の絹糸を確保するには、それほど多くの繭を用意する必要があるためだ。
蚕の餌と言えば桑の葉だが、ここでは試験的に人工飼料も用いている。
人工飼料は乾燥させた桑の葉を粉末にしたものを主材料に、とうもろこしのデンプンや油を搾った後の脱脂大豆を粉末にしたもの、ビタミン類を補うためとして蕎麦の粉末、柚子の皮を乾燥粉砕した粉末などを混合している。
新鮮な桑の葉が得られる現状では必要性が低いが、万が一に備えて研究を行っているのだ。
粉末状になっているため長期保存にも耐え、貯蔵場所も大きくは取らない利点がある。
人工飼料での飼育と並行して、蚕の生態についても詳しく研究されている。生産性向上や品種改良のためには外すことの出来ない研究だ。

そして通常品種とは別枠で飼育されている小石丸とは、奈良時代から飼育され始めた蚕の品種であり、現在ある品種の祖先とも言える存在だ。
日本古来の在来種である小石丸は、非常に細いながらも上質の糸を紡ぎ出す。その糸は力強い弾力と比類なき光沢を合わせ持ち、現代でも最高級の絹糸とされている。
反面、通常の蚕よりも繭一つあたりから採取できる糸が短く、通常品種であれば平均して1300から1500メートルほどになるのに対して、小石丸は長くても500メートルほどにしかならない。
更に産卵数も少なく、病気にも弱いため他の蚕とは環境を分けて飼育せねばならないため、大量生産には向かない品種でもある。
こういうとデメリットばかり目立つ小石丸だが、その絹糸で織られた織物は他とは一線を画す光沢としなやかさを持つため、最高級の物として常に需要が絶えることがない。

「昼時ですから誰もいませんね」

蚕は2齢になれば朝と夕方の2回、餌の交換と飼育箱の掃除を行う。
蚕の飼育箱は蓋の無い木箱の底に蚕籠(こかご)を置き、蚕網(かいこあみ)を被せ、その上に餌となる桑の葉を敷き詰め、最後に蚕を乗せている。
蚕の飼育方法は蚕齢によって区別され、1から3齢の蚕には桑の葉を1センチ角に切って与える。
掃除の仕方も簡単であり、蚕の上に新しい桑の葉を乗せた蚕網を被せる。その状態で三十分ほど待つと、蚕は新しい餌のある蚕網に移動する。
この新しい蚕網を別の蚕籠の上に被せて、移動していなかった蚕を移した後、古くなった桑の葉や脱皮した抜け殻、糞が積もった蚕籠を掃除して次の移動に備えれば良い。

4齢からは条桑育(じょうそういく)という方法を採用している。桑を枝ごと切り、その状態のまま蚕に餌として与える飼育法だ。
餌やりと掃除は朝夕2回と変わらないが、4から5齢にかけて体長が一気に大きくなるため過密を避けて飼育箱を2個使い飼育を継続する。
掃除の仕方は2齢から変わらないが食べる餌の量が増えるため、昼に餌の量をチェックする必要がある。

通常の養蚕農家ともなれば朝夕は蚕の世話をし、日中も桑の木に掛かり切りとなり閑散期以外は一日中仕事で忙殺される。
しかし桑畑を外部に持ち、毎日新鮮な桑の葉が運びこまれるここは違う。
朝夕は変わらず忙しいが、昼時は餌の残り具合を確認し、少なければ補充する程度で殆どやる事がない。
5齢ともなれば営繭(えいけん)(繭作り)に向けて盛大な食欲を発揮するため、頻繁に餌を補充してやり営繭を始めようとしている蚕がいないかもチェックする必要がある。
現在静子達が視察している場所は4齢の蚕が飼育されているエリアだ。そして一見した限りでは夕方までに十分な餌が飼育箱には用意されていた。
特に問題がない状況だが、工場長は嫌な汗をかいていた。

「あ、あはは。何分、急な話でしたので……はい」

工場長が脂汗を拭いながら言い訳をする。彼が恐縮するのも無理はない。
何しろ静子の視察前に抜き打ちで工場を視察していた信長が、工場内に漂う弛緩した空気に不快感を示したからだ。
お陰で工場長以下数名の責任者は、信長から直々に説教を頂き、もっと緊張感をもって従事するようお叱りを受けたばかりだった。
静子が定めた服務規程に、一定の品質と生産数を維持していれば勤務態度は不問と言う条文が無ければ、何人かの首が物理的に飛んでいた可能性すらあった。

「別に気にしてはいないですよ。生産量を維持していれば、の話ですが」

安堵した工場長に釘を刺しつつも、静子は次の飼育工程へと進む。
蚕は孵化してから約三週間後に、営繭をはじめる時期に達する。
その頃の蚕を熟蚕(じゅくさん)と呼び、餌を全く食べなくなる。身体は体内の絹糸腺に溜まった絹物質が体表を透かして暗黄色に見え、その際、僅かながら身体が縮む。
そうなった個体は桑の葉ごと移動させた後、上から網を被せる。そうすると狭苦しい空間から逃げようと蚕が網の目を通って上に移動する。
程よく移動したところで網ごとすくうと、蚕の排泄物と桑の葉、そして網に絡んだ蚕が分離できる。

営繭する蚕とゴミを分離し終えると、次は上蔟じょうぞく)を行う。わらなどで編んだ(まぶし)と呼ばれる網に蚕を移す作業だ。
数十程度なら一匹一匹手作業で移しても問題ないが、数万匹を上蔟する場合は膨大な労力を要する。これを省力化する方法が回転蔟かいてんまぶしだ。
回転蔟には特殊な蔟を用いる。
外枠と内枠という大きさが僅かに違う2つの木枠を金具で十字に交差するように止め、そこに障子のように格子状に編まれた蔟を何段も設置して金具で固定する。
この格子一つ一つに蚕が入って繭を作ることになる。
回転蔟の肝は、蔟を吊り下げて蚕自身に格子枠へと移動して貰うことにある。原理は単純で、まず回転蔟に一定数の蚕を乗せて吊す。
蚕は安全な営繭場所を求めて蔟内のマス目に一匹ずつ入り込む。
マス目に入れなかった蚕は落ち着く場所を求めて上へと移動し、蚕が一点に集まり過ぎると蚕自身の重みで重心が移動し、やがて回転蔟自身が外枠と内枠を止めている金具兼回転軸を中心にグルリと半回転する。
すると上にいたはずの蚕は自身が下に移動していることに気付き、再び上を目指して上る過程でマス目を見つけて営繭を始める。この繰り返しで全ての蚕が均等にマス目へと収まる。
無論回転の勢いで落下する蚕も居るのだが、回転蔟の下には少し離して布が張られており、落下しても再び人が回転蔟に移してやれば問題なく営繭をしてくれると言う構造になっている。

落下した蚕を補助する以外は放置でも問題ないように見える作業だが、この時の温度と湿度管理が非常に難しい。
繭の品質は上蔟後の3日から4日で決定するため、この作業がもっとも神経を使う。
上蔟する季節で適切な気温と湿度が変わるため注意する必要はあるものの、およそ七日から八日で収繭(しゅうけん)と呼ばれる蔟から蚕の繭を外す作業を行う。
繭を作るのが遅い蚕もいるため、工場では蚕が繭を作り始めてから十日後に収繭を行う決まりとなっている。

繭を外す作業は毛羽(けば)取り機と呼ばれる機械を使う。これは蔟から繭を外し、繭についている毛羽をとる機械だ。
繭の毛羽とは、蚕が蔟に繭を作るとき、足がかりに吐いた糸やゴミなどを指す。これを残しておくと繭同士が絡んだりするため、取り除く必要がある。
史実でも機械が存在しない時代は、繭掻(まゆか)き棒と呼ばれる道具で蔟から繭を外し、繭についている羽毛を手回しの毛羽取り器で取り外した。
この工場でも手動ではあるが繭掻き棒と毛羽取り器を用意し、繭の回収と蔟についている毛羽を取り除く工程を一度に行えるため、効率は飛躍的に上がっている。
取り除かれた毛羽は煮洗いした後、布団の中綿などに使われる。

「現在は丁度繭が作られている時期ですね。稼働具合を確認しようと思いましたが、仕方ありません。最後の乾燥室へ向かいましょう」

蔟に蚕を乗せた日付を確認すると、まだ収繭する日ではなかった。設定された日は数日後ゆえ、今から見せろという訳にもいかない。
上がってくる絹糸の品質に問題は出ていなかったので、特別問題はないだろうと判断し、静子は最後の作業である乾燥室へ向かう。

「は、はっ!」

工場長が冷や汗を流しながら返事をする。

棟から出ると、静子は棟の近くにある煙突を持つ建物へ入る。
繭はそのままにしておくと中の蛹から成虫が繭に穴を開けて出てきてしまう。これを防ぐ為におよそ100度近い熱風に6時間ほど当て、乾燥させる必要がある。
これにより繭の中の蚕が死に、繭のまま長期保管する事が可能となる。なお、熱風を当てる設備がない場合は、数日冷凍して蚕を死なせてから天日干しをする方法もある。

「ふむふむ、ここで乾燥させたものを袋詰めし、最後に低温で湿気の少ない蔵で保管されるのですね」

「は、はい。その手順になっております、はい」

乾燥を終えた繭は一旦蔵に保管される。養蚕は五月から十一月までの間しか行えないため、この間に一年を通して絹糸が生産出来るよう一年分の繭がストックされる。
ゆえに蚕を育てるだけなら、工場以外でも行っている。
生産拠点を増やさず集中型の工場にした理由は、完全に閉じた環境で一貫した生産が可能であり、そして生産過程で発生する色々なものを循環させることが出来るからだ。

循環型工場では生産物に副産物、廃棄物に至るまで全てを余すことなく再利用する。特に蚕は「お蚕様」と呼ばれるほど無駄がない。
通常なら廃棄される餌の食い残しや糞、脱皮殻、収穫した時の桑のくずなどは、乾燥させて混ぜると肥料や家畜の飼料になる。
特に蚕の糞を乾燥させたものは蚕沙(さんしゃ)と呼ばれる漢方薬にもなる。現代のアイスクリームやグリーンガムの緑色素は、蚕沙から葉緑素を取り出して利用している。

再利用するのは何も蚕や桑だけではない。人の排泄物や食材の余り物も再利用する。基本的には肥料として再利用する。絹糸を取った後に出る蚕の蛹は鯉の餌に利用する。
肥料は工場外にある田畑に利用したり、または他所の村へ低価格で販売したりしている。

工場は他にも蚕の繭や木綿、麻から製糸するエリアや、機械織りなどで布を編むエリアもあるが今回は養蚕エリアだけの視察にした。
静子は書類が保管されている工場長たちの工場長館へ移動する。そこで作業報告書や日誌、台帳、問題が起きたときの原因と対策を纏めたものなど、様々な書類を確認する。

「工場内の清掃具合などの職場環境、道具の手入れ、書類の記録を確認する限り、特に問題はありません」

その瞬間、工場長以下幹部たちはホッと胸をなで下ろした。中には盛大に息を吐いて安堵する者もいた。
前回の信長の視察がよほど怖かったのだろうか、と静子は内心思ったが口にして尋ねると彼らが困るため、疑問を飲み込んだ。

「今回は養蚕区画のみにし、他の区画は後日視察する事にします」

「は、はい。お待ちしております」

「そうそう。現時点での見本帳を出して下さい。お館様に文様や柄の設計を見て頂きます」

だが安堵したのもつかの間、再び彼らは緊張状態に追い込まれる。
見本帳とは工場で生産される絹糸や木綿、麻などから作られる生地を小さく切り取って台紙に貼り付けた帳面である。
現代のカラー印刷されたカタログやリーフレットと異なり、本物の生地が貼り付けてあるため色合いや触り心地、素材の質感を直に確認できる利点がある。
どれほど高品質な素材を用いて着物を作ろうとも、売れないのでは意味がない。しかし見本とは言え着物一着となると膨大な量の糸を消費する。
そこで色合いや質感、図柄などを確認できる最小単位の小片を幾つも用意し、見本帳として示した上でデザインを確認してから注文を受けるのである。
こうすることで顧客は思い通りの着物が得られ、制作側は無駄な消費が無く双方に利がある仕組みと言える。
それゆえ見本帳は着物ひいては素材である糸の売り上げを左右する重要な資料とされ、一年に最低一回は更新される。
見本帳にないデザインの着物も作られてはいるが、注文を受けた職人が一から仕上げるため納品されるまでに長い時間が掛かるという欠点があった。

「こちらが見本帳になります」

「ありがと」

工場長から見本帳を受け取った静子は、軽く中を確認する。既にデザインのパターンは200種類を超えている。
実際にどれだけ売れているかは別の話だが、少なくともそれだけの数のデザインを書き起こせる能力がある事を証明している。

「それでは今日の視察はこれで終了とします」

見本帳を抱えると、かしこまっている工場長たちに向かって静子はそう言った。






邸宅に帰宅した静子は見本帳の内容を確認する。模様は勿論だが染色の見本帳でもある。
これは人によって「濃い色」や「薄い色」に対するイメージが違うのが原因だ。白生地と色見本帳を使うと、どうしても出来上がりが「思い描いたものと違う」という「色のミスマッチ」が起こる。
これを避けるために、色見本帳は染めた布を貼り付けている。だが、これでも色のミスマッチは発生してしまう。

布の染め方には様々な手法があり、それによって色合いが微妙に変わるため、思い描いた色と違う色合いに見えてしまう。
また人の目は、同じ色でも布きれを見た後に反物を見ると、濃淡が違うと感じてしまう。
こうした事が重なり出来上がった反物に対して、購買者は思い描いたものと違うと感じてしまうのだ。
現在、白生地と色見本帳ではなく、完成された反物を購買者に選んで貰う理由は、仕上がりものに対して違う色合いだと購買者が極力感じないようにするための対策だ。

「まー、この時代だと違う色合いだなんだ、なんて言っていられないけどね」

色のミスマッチと言ったが、言い換えれば購買者には「僅かな色の違い」を見分ける繊細さがあるとも言える。
今の所、静子の顧客にそれほど繊細な人物はいないが、今後出てこないとは断言出来ない。

「そう言えば、この間出来た着物、着心地を確認していなかったかな」

着物、正確には和服の元となった小袖の着心地を静子は確認する。着替えてから暫く唸った後、羽織を着てから更に状態を確認する。

「おーい、静子。暇じゃ、暇潰しに付き合え」

姿見(すがたみ)を前に着物の出来具合を確認していると、お市が無遠慮に入り口を開ける。
静子に対する配慮も何もあったものではなかったが、指摘したところで改善されるはずもない。何しろお市の自由奔放さは信長も諦めている事なのだから。

「なんじゃ、その珍妙な格好は」

地味な矢羽根(やばね)文様(矢絣(やがすり)とも言う)小袖、その上に紺色に桜の花びらをあしらった金刺繍の羽織を着ている静子を見て、お市が不思議そうな顔をする。
金刺繍と言っても鮮やかな輝きはなく、悪く言えばくすんだ色合いをしている。良く言えば落ち着いた色合いをしていた。

「珍妙とは失礼ですね。世の流行を先取る服装ですよ」

「そうか。じゃが今は流行っておらぬのだろう。だから珍妙な格好と言えるな」

「ぐっ、痛いところを。で、何のようですか?」

冷静な突っ込みに反論出来なかった静子は、頭をかきながら話題を逸らす。
お市もそこまで気にしていなかったようで、用事を尋ねられると思い出したような表情で両手を打ち合わせる。

「おお、そうじゃった。暇じゃから暇潰しに付き合え」

「忙しいのでお断りします。これから文の確認をしなければなりませんし」

「なんじゃ、つまらん。たまには仕事を忘れて遊ぶのも大事じゃぞ」

「単に自分が遊びたいだけですよね? ともかく、仕事を片付けないと彩ちゃんに怒られますので、遊び相手は別の人を探して下さい」

「駄目じゃ、妾は暇なのじゃ」

この自分本位を支える絶対的な自信はどこから来るのだろうか、頭が痛くなった静子だった。
だが押し問答をしてもお市が諦めるとはとうてい思えない。それは1年近く付き合っている静子にも十分察せられる。

「そもそも暇ならお子様の相手をして上げて下さい」

「何も心配いらん、乳母に任せておる」

「ああ……そうですか」

何を言っても無理だと悟った静子は、諦めてお市の暇潰しに付き合う事にした。






七月十日、静子はある用事で京へ向かった。信忠(奇妙丸)の具足始ぐそくはじめの儀が十九日に決定したので、その合間にある取引を片付けておこうと思ったからだ。
それは真珠の取引だ。真珠の質と生産量を計算した結果、翌年から安定した供給が可能であると静子は判断した。
今までは商人に売り払い、その後寺社や武家相手に販売されていた。しかし、今回静子が手に入れたい販路は海外、つまりヨーロッパ諸国だ。

真珠は人類が最初に出会った宝石と言われている。世界最古の真珠は「トリハマ・パール」と呼ばれるおよそ5500年前の縄文時代にまで遡る。
魏志倭人伝、古事記、日本書紀、万葉集などにも真珠の記述は見られ、奈良時代の宝物として正倉院に保存状態の良い真珠が4000個以上も収められている。

世界でもっとも有名な真珠はペルシャ湾や紅海、スリランカ周辺で採れる天然真珠のオリエンタルパールである。
こちらも紀元前から歴史があり、20世紀に養殖真珠が台頭するまで真珠の一大産地だった。
他にもアメリカ大陸ではカリフォルニア半島から南米ペルー、ヨーロッパではスコットランドやドイツの川で採取できる淡水真珠が有名だ。採取された真珠は王侯貴族や教会に供給された。

つまり、静子の商談相手は教会、細かく言えばイエズス会だ。理由はキリスト教は真珠を宗教的な装飾に多く利用するからだ。
またキリスト教には、イエスキリストと真珠を同一視する思想が古くからある。キリスト教の異端であるグノーシス派も、真珠はもっとも理想的な完成形の象徴としていた。
真珠を尊ぶのはキリスト教だけではない。イスラム教や仏教においても、真珠は貴重な宝物として扱われている。
また宗教だけではない。ヨーロッパ諸国における中世・ルネサンス時代の王侯貴族は、真珠をもっとも希少な宝石と考え、権力の象徴として利用していた。
宗教や権力者の権威付けだけではない。真珠には世界中で長寿の薬と考えられ、様々な効能があると信じられている。
厳密には鉱石ではないが、人類が最初に出会った宝石であり、古代から人々を魅了し続けたものだ。

「この丸っこい玉なんぞに、南蛮人が高い金を出す価値があるとは思えないのだがな」

解熱剤代わりに持っている真珠を、長可は眺めながら呟く。無理もない。日本でも真珠はもてはやされているが、ヨーロッパのように装飾品として使った事が殆どない。
ゆえに長可が高く売れる物と思わないのも当然のことだ。そして静子が大小あわせて多くの真珠を生産している関係で、どうしても値打ちものに見えなかった。

「真珠は古来から月と関係付けられ、水のシンボル扱いだからね。伴天連の聖書に何度も真珠は出てくるし、霊的に完成された代物とみているんだよ。だから断る事はないと思うよ」

長可の疑問に静子が答える。しかし、霊的だ水のシンボルだと言われても、長可にはぴんとこない。その内、面倒になったのか真珠を腰袋に突っ込んで考えることを放棄した。

京についた翌日に、静子はいつもの男装に着替える。着替え終えると同時に、オルガンティノを筆頭に、フロイスや修道士など多くのイエズス会メンバーが静子の邸宅を訪れた。
無理もない。商談の挨拶代わりに特八甲の真珠を30粒ほど送ったのだ。聡明なオルガンティノなら、それだけで何の話か理解したのだろう。

「急な来訪にもかかわらず、謁見の機会を設けて頂き誠にありがとうございます」

オルガンティノが代表して頭を下げる。流石はオルガンティノ、と静子は感心した。内心では商談の話をしたいのに、それを顔に一切出さない。いつもの柔和な雰囲気をしていた。

「面を上げて下さい。今回は堅苦しいお話ではないのですよ。ですが商売のお話なので、少々厳しい面が出るかもしれません」

「ははっ、それは存じております」

「さて、雑談も良いですがお待たせし過ぎるのも問題ですね。まずは我々の商品をご覧下さい」

両手を叩いて合図をすると、小姓たちがお膳を片手に部屋へ入ってきた。
お膳には真珠が数粒のせられており、小姓たちはそれをオルガンティノたちの前に置くと、一礼して部屋を後にする。

「存分にご覧下さい。我が国で生産された(・・・・・)真珠です」

生産という言葉に一瞬反応したオルガンティノだが、質問を口にせずお膳に置かれた真珠を下に敷かれた布ごと手に取る。色や艶は今まで見た事がないほど完璧だと彼は思った。
また形も真円に近く、布で包んで一粒持ち上げると布の上でコロコロと転がった。今まで見てきた真珠は形が歪で、丸いものは滅多に見た事がない。

「素晴らしい出来の真珠です」

真珠の質は、装飾品に疎いオルガンティノでも唸るほどの出来映えだった。ただし、疎いといえども真珠を良く見るオルガンティノはある事に気付いた。

「しかし、これは私の知るものと違うようです。そして見事なまでの真円、一つなら奇跡と言えましょう。ですが、これだけの数を集めるには、何かしら人の手が入ってなければ出来ません」

ヨーロッパは淡水産真珠を使用しているため、海水産真珠と色合いや艶が違う。それだけではなく、形が殆ど均一な所に、彼は違和感を覚えた。
通常なら少しは形が違うのが混ざっても不思議ではない真珠において、不気味なほど形や色が統一されていた。その違和感と静子の行動から、人工的に作られた真珠だと推測した。

「ご慧眼恐れ入ります。隣国より真珠の技術を取得し、ようやく我が国での真珠生産が可能となりました」

「恐縮です。しかし、残念ながら人の手が入っているものを、我らが主に捧げる訳には参りません」

オルガンティノの反応は当然だと静子は理解していた。崇める対象に天然ものではなく養殖ものを捧げるのは、例え中身が一緒と理解していても抵抗感があるのだろう。
だからこそ、静子は真珠をイエズス会ではなく、彼らの後ろにいる人たちに供給すると狙いを定めた。

「それは理解しております。そして使え、と我らが強要するのは無礼だという事も。しかし、王侯貴族たちは如何でしょうか?」

その一言でオルガンティノは静子が言いたい事を大体察した。

「恐れ入りました。頭巾宰相殿は我々にではなく、我々を支援している王侯貴族に売ろうとお考えなのですか」

「失礼と存じますが、我が国を訪れる異国の商人たちで本国にいる王侯貴族たちの信頼を獲得している者はどれほどおられるでしょうか。ゆえに我々はあなた方へ真珠を売ろうと考えました」

「なるほど、事情は理解しました。キメが細かく、他の真珠にはない透明感のある照りは美しい、と私個人は良い真珠と思います。ですが、売買となればお話は別です。そしてこの真珠が王侯貴族たちに受け入れられるかも別問題であります」

「勿論です。いかに良い出来と我々が力説しても、あなた方から見れば素性の知れぬ真珠に似た何か、と考えるのは当然のことです。売買のお話、と申しましたがこの場はいわば事前の取引です」

今でこそ世界でもっとも一般的なアコヤ真珠だが、戦国時代はアコヤ真珠の取引など皆無に等しい。ヨーロッパの王侯貴族たちが忌避する可能性も十分ある。
しかし、静子には勝算があった。中世や近世ヨーロッパは真珠貝を乱獲し過ぎて、真珠の流通量が極端に減っている事、コロンブスが日本の真珠に熱心だったという二点だ。
ゆえにイエズス会が教会の装飾品として使わなくても、王侯貴族たちは真珠を尊ぶ可能性はあると静子は判断した。

「そこまでお考えになられているのなら、次に私が何を言うかもご理解頂けるでしょう」

静子を試すようにオルガンティノは言う。にこやかな雰囲気は崩していないが、それが腹の底で何を考えているか推測すらさせなかった。
彼が何を言いたいか察した静子は、入り口にいる小姓に合図してあるものを持ってこさせる。少しして幾つかの桐箱が乗ったお膳がオルガンティノの前に置かれた。

「王侯貴族たちに見せる為の真珠と、その真珠を使った装飾品をお譲りします。存分に彼らに見せつけて下さい」

静子の言葉を聞いたオルガンティノは笑みを浮かべた。彼女の回答はオルガンティノにとって完璧と言えた。
幾ら良いと言われても、日本にいるオルガンティノに大金を動かすほどの力はない。また、仮に真珠を購入しても真珠の良さは、装飾品にしなければ善し悪しを判断出来ない。
真珠と真珠を使った装飾品、二つがあればヨーロッパの王侯貴族たちが、どの様な反応を示すか分かる。無論、個人的な趣味で好悪が分かれるが、そこは仕方ないと諦めるほかない。

「流石は聡明な頭巾宰相殿です。それではこれらを用いて、王侯貴族たちの反応を窺いましょう。もし、彼らが気に入ったのなら、改めて商談のお話をさせて頂きます。ですが、本国はここより遙かに離れた場所、時間がかかるのはご承知頂きたい」

「承知しております」

その会話のやり取りを最後に、静子とオルガンティノの商談は終わった。商談後、少し会話を交わした後、オルガンティノたちは教会の用事を片付けるため、静子の邸宅を後にする。
彼らが去って半刻ほどしてから、静子は男装をやめて普段着に着替えた。

「っあ〜、疲れた。がっつり食い込んでくるかと思ったけど、割と慎重な態度を見せてきたねぇ」

背伸びをして静子は身体をほぐす。男装は身体のあちこちを固定する関係で、身体が固まってしまう。終わった後、身体をほぐしておかなければ翌日悲惨な事になる。

「伴天連は商売を嫌っているとの噂だったが、割と話に食いついてきたな」

長可も背伸びをして身体をほぐす。硬い話が苦手な彼は、商談話ですら肩がこる。肩を揉んでいたが、その視線は常に周囲を警戒していた。
才蔵はいつでも静子を庇える位置に身を置き、全身の力のみを抜いた脱力状態だった。慶次は一見隙だらけに見えるが、片手が常に刀を握っていた。
この状態で静子に襲いかかっても良くて三人の内の誰かが負傷させられる程度、運が悪ければ逆に襲いかかった人間が斬られるのが落ちだ。

彼らが周囲を警戒しているのには理由がある。商談が終わった頃から、三人は間者がいると認識していた。
だが相手からは殺意も敵意も感じられず、ただぼんやりした霧のような気配だけしか感じられなかった。敵地に入り込んでいながら、これほど存在を消せる腕前に三人は舌を巻いた。
三人は警戒しつつも相手の居場所を探るが特定出来なかった。それも仕方ない、相手は鳶加藤なのだから。
三人が無用な警戒を抱いていると知った鳶加藤は、そのまま消えるように静子の邸宅から立ち退いた。間者が立ち去った事を理解すると三人は小さく息を吐いた。

「さて、もう一つの仕事を片付けましょうか」

何も知らない静子は、手紙を出しながら三人に話しかけた。






一方、オルガンティノは教会に戻ると、同じ派閥の人間を集めた。イエズス会は一枚岩に見えてハト派とタカ派の二種類が存在する。
イエズス会の悲願は中国でのキリスト教布教だが、基本的に「郷に入りては郷に従え」が活動の基本指針だ。だがその意見に賛同しない人物もおり、日本布教は常に意見が割れていた。

そんなイエズス会の不幸は、タカ派にあたるカブラルが日本の布教総責任者だという事だ。このことにオルガンティノは、今後の布教が不安だと嘆いたとも言われている。
他にタカ派にあたる人物はガスパール・コエリョだ。彼は日本人をキリスト教に改宗させ、日本をキリスト教国家にし、隣国の中国へ攻める先兵にする計画まで立てた。
それゆえコエリョは特別悪い評価を受け、同じイエズス会からも「伴天連追放令が出たのは彼のせい」と言われるほどだった。

しかしフランシスコ会やドミニコ会から見れば、イエズス会は穏健派、悪く言えば腰抜けどもの集まり扱いで、コエリョが特殊な人という訳ではない。
むしろコエリョのような人物が大多数を占める修道会の方が多かった。もっとも、最初からドミニコ会の修道士が来た場合、日本でこれほど布教が広まる事はなかったであろう。

「頭巾宰相殿から真珠を頂きました。そして彼の言葉を借りれば、これは人の手で作りしもののようです」

集まったハト派の人間に、オルガンティノはアコヤ真珠を見せる。アコヤ真珠の輝きにみな感嘆の声を上げる。

「このようなものを作り出せるとは、頭巾宰相殿は神の英知を得し者ですか」

「カブラル殿が警戒して会わないのも納得です。今まであった日本人とまるで違う」

いくら人工物だと言われても、彼らは真珠の優美な輝きに魅了されていた。気の早い人間は、既にどの様な方法で静子から真珠を得ようか算段していた。

「人の手で作られたものゆえ神に捧げる事は出来ない、と私は彼に言いましたが、この真珠は魅力的な宝石です」

布越しに手のひらで真珠を弄びながらオルガンティノは語る。養殖真珠を教会で使用するのは躊躇う彼だが、ヨーロッパの王侯貴族たちに売る事に対しては忌避感を抱かなかった。
むしろ彼らから活動資金を得られるかもしれない、と現実を見て物事を考えていた。

「オルガンティノ殿の言うとおりです。我々の活動資金を得るためにも、この真珠は使えます」

「この国の権力者は清潔な人物でなければ会うことすら出来ぬ。だが身体を身綺麗に保ち、華やかな衣装を纏うにも資金がいる」

「悲しいかな、この国で布教をするには、多くの活動資金が必要だ。だがゴアにそれを申し出ても、中々納得して頂けない」

オルガンティノの言葉に修道士たちが口々に考えを言う。ボロを纏っての布教はキリスト教における正しい布教スタイルだが、日本ではたいてい門前払いだった。
様々な要因があるが大きいのは臭いだ。臭いは湿度で増幅されるため、乾燥している欧州では問題なくとも、高温多湿の日本では身体を清潔にしていなければ酷く臭う。
産湯以外、一度も風呂に入らなかった宮本武蔵は、100メートル以上離れていても臭いで居場所が知られていたと言われている。
対して欧州は風呂に入ると病気になりやすいと信じられていた。今は宣教師の彼らも元は上流階級の人間で、中には軍人や医者から宣教師になった者もいる。

「しかし、華美に過ぎる服装はカブラル殿の怒りを買う」

適応主義により入浴に対しての嫌悪感は薄くなったが、決してなくなった訳ではない。
そして日本布教のトップであるカブラルが適応主義に否定的で、宣教師が清潔な格好をするのを嫌悪している。

「布教するには現地の協力者が必要。権力者の庇護を得られなければ、布教もままならない。何故、カブラル殿はその事を知ろうとしない」

「左様。布教のためゆえ、様々な手を講じているのに、全てを否定されるのは我慢ならぬ」

布教のためなら例え嫌悪する事でも、神の試練と考えて乗り切る。その覚悟をもって事にあたっているが、カブラルは自分が気に入らない事は全て否定する。
そのため宣教師の間でも、カブラルに対する不満が溜まっていた。

「まぁまぁ、皆さん。人の陰口を叩くのは良くありません。息を整えて一旦落ち着きましょう」

「しかしオルガンティノ殿……」

「皆さまの不満も理解出来ます。しかし、主は仰いました。怒りを解き、憤りを捨てよ。憎き相手を許せ、と。カブラル殿は我々が気付かなかった所を気付かせてくれました。感謝こそすれ、憎しみを抱く方ではございません」

オルガンティノの言葉に全員が黙る。彼にそこまで言われては、これ以上の愚痴はただ怒りにまかせた言葉になるからだ。

「ひとまず真珠については保留にしましょう。幾つかをゴアへ送り、その返答を以て、再度扱いについて話し合う事にしましょう」

これ以上の話し合いは、カブラルへの不満を言う場になる。そう考えたオルガンティノは、いささか強引ではあったが、話し合いの場を終了させた。
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